TopNovelさかなシリーズ扉>噴水と虹・1



〜新司さんのお話〜
…1…

 

 

「パパっ!」

 夕方の雑踏の中、いきなり背中にそんな声が飛んできた。…背中、ではない。正確には腰の辺り?

「パパっ! …ねええ、待ってよぉ〜っ!」

 残念だが「パパ」と呼ばれる身分ではない。後ろで声を掛けられたからと言って、振り向いたら別人なのだから恥ずかしい。新司がそのままずんずんと歩き続けると、やがて、足にやわらかいものが巻き付いてきた。

「パパっ! 捕まえたっ!」
 片方の太股にしがみつかれたら歩けない。仕方なく立ち止まって振り返る。帰宅途中の人並みが迷惑顔で追い越していく。足に絡みついていたのは小さな女の子だった。必死で走ってきたのか、ほっぺを真っ赤にして息を切らしている。新司の顔を見上げても、嬉しそうににこにこしていた。

 ……何? どういうことだっ!?

 今にも泣き出しそうな夕空の下、少し記憶が曖昧になる。だが、違うものは違う。どうして、自分がパパになるんだっ! …み、身に覚えがないぞっ!

「あ、すみませんっ! ……申し訳ありませんっ!」

 どうしようかと思って途方に暮れていると、しばらくして若い女性が小走りでやってきた。頼りない身体で人並みをかき分けているのでなかなかこちらまで辿り着かない。胸までまっすぐに伸びたやわらかそうな髪が、ぬるい空気に揺らいで舞い上がった。

「もう、美優(みゆう)。いけませんっ! ――すみませんでした、この子……」

 彼女はそこまで言いかけると顔を上げて新司の方を見た。その瞬間、ハッとした表情になる。

「あれ? もしかして、新司……くん?」

 ……え? いきなりファーストネームを呼ばれて、こちらも驚く。薄くメイクした清楚な顔に必死に何かを探し出そうとした。

「…都…ちゃん?」

 雑踏の中、立ち止まる3人。思わぬ再会は、意外なかたちで訪れた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「ごめんなさいね。この子、男の人はみんな『パパ』になっちゃうの。本当に困っちゃう」

 何となく女の子を真ん中にして歩きながら。彼女は気さくな口調で、かつてのクラスメイトに言った。

 最後に会ったのは高校の卒業式の日だったか。その後、何度か有志で同窓会めいたモノをしたが、その席に彼女が顔を見せたことはなかった。すっかり垢抜けてしまった横顔がとてもまぶしい。

 ……それにしても。そうか、もう結婚して子供がこんなに大きいんだ。新司は目の前の事実が信じられなくて、何だかとても不思議な気がした。

 彼女――山倉都(やまくら・みやこ)は小学校から高校まで同じ学校で学んだ同級生だった。家は近所ではない。でも長い間一緒にいたので、気の置けない関係だった。お互いに大人しくて穏やかな性格だったため、それ以上に発展することはなかったが。
 地元の中学から進学校である母校の高校に進んだのは5人ほど。それだけに仲間の間には不思議な連帯感があり、電車などで乗り合わせれば、そのままおしゃべりに興じたりもした。

「新司くんは、駅前のデパートに就職したと聞いたけど。今もそうなの?」
 彼女は昔と少しも変わらない親しみを込めた笑顔で話しかけてくる。

 しかし、新司の方は明らかにためらいの心が勝っていた。

「ああ、都ちゃんは? 里帰り?」

 すると彼女は曖昧な微笑みになって、一瞬言葉を選ぶように呼吸を止めた。

「実はね」
 そこまで言葉を言いかけると、元のように滑らかに話し出す。

「新司くんの勤務先の1階に薬局が入ってるでしょう? あそこで働くことになったの。この子が保育園に入れることになったし……」

「へえ……、ああ、そうか」
 そう言えば、薬局の店長が薬剤師を探していると言っていた。都は薬科大に行ったのだから、卒業していれば、薬剤師の資格を持っているだろう。あの国家試験は8割合格だと聞いたことがあるし。

「パパ、抱っこ」

 地下鉄の入り口まで来て、女の子が新司の前に両手を差し出した。……え? と固まっていると、都が助け船を出してくれる。

「駄目よ、美優。お兄ちゃん、困ってるでしょ? ママが抱っこしましょ」

 しかし、女の子は新司の服を引っ張ったままいやいやと首を横に振る。階段の降り口でかなり通行の妨げになっているのは明らかだった。

「いいよ、それくらい」
 何となく気恥ずかしくはあったが、成り行きだ。身をかがめると腕を伸ばして女の子を抱き上げてみた。ふわっと思ったより軽い存在に驚く。甘くて砂糖菓子のようなほのかな香りがした。肩で支えるところまで持ち上げると、頬にやわらかい髪の毛が触れる。

「えへへへ……、パパ〜っ!」

 きゅううっと首に腕を回されて、ちょっとばかり息苦しい。

「ごめんなさい……」
 階段を下り始めると、都が本当に申し訳なさそうに後に続いた。

 下を見られない姿勢で階段を下るのは思っていたよりずっと大変だった。こんな親子連れはよく見る光景だったが、見るのと実際にやるのでは大違いだ。しかし、少しでも困ったような顔をすれば、都が気にするだろう。新司は何ともない表情を守りながら、どうにか重要任務を乗り切った。

「でも、誰彼構わず『パパ』じゃ、ご主人は面白くないでしょう? こんな可愛いんだから、目に入れても痛くないって言ってるんじゃない?」

 ふたりが目指すホームが違う。や〜んとむずかる女の子を自分から引きはがして都に渡しながら、新司は言った。全くの本心から出た言葉だった。

 都をそのまま小さくしたような女の子。どこか彼女が小学校の頃の面影もある。ふんわりとやわらかいイメージで肌も白くて、髪の毛も茶色っぽい。ピンクのノースリーブのワンピースから出た腕や足も折れそうに細くて。父親が娘として描くイメージをそのまま映像化したような女の子だった。

 その言葉を聞いて。

 都は本当に驚いた顔になって、それから戸惑ったように首をすくめた。そして、小さな声でぽつんという。「……知らないんだ、新司くん。何にも」……と。

 電光掲示板がぱらぱらと動く。それを目で追って、彼女はきびすを返した。

「じゃあ、急ぐから。またね、本当にありがとう……」

 ……ちょっと待って、と言う暇もなかった。

 人混みに消えていった都を見送ったあと、ふと手元を見ると、子供用の小さなショルダーバッグがあった。女の子のものを渡し忘れたらしい。住所か何か書いてないかとふたを開けてみると、そこには見覚えのある都の字で名前が書いてあった。

『つぼみぐみ・やまくらみゆう』

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 何も知らないんだとか言われて。何だかとても嫌な気分がした。他の仲間は知っているのだろうか?

 ぎりぎりと金属音が耳を付く。新司の目の前に、横たわった白馬が足を蹴り上げた状態で置かれている。……もちろん作り物だが。小さな子供のはしゃぐ声があちこちから聞こえてくる。ここはデパートの屋上、週末は買い物ついでに立ち寄る親子連れの姿が多くて、普段よりもずっと混雑しているのだ。

 自分の持ち場は4階で衣料関係のフロアだったが、今日はバイトも多くて人手は足りている。そんなとき屋上担当のチーフから呼び出されたのだ。コインを入れて動かす木馬の調子が悪いので見て欲しいという。業者は休日なので連絡付かないし、人気のある乗り物なのでお客様からの苦情が出ているそうなのだ。
 旧式の単純な造りなので、分解すればだいたい分かる。今回も結合部に油を差したらどうにかなりそうだ。もちろん専門家のメンテナンスは必要だろうが、当座はしのげるはず。

「あ〜、ママ。おうまさんが、おねんねだ〜っ!」
 小さな足音が駆け寄ってくる。近くを通る子供たちは、決まって大声で指摘してくるのだ。いつもはきちんと設置されている遊具が向きを変えていることが不思議で仕方ないのだろう。ちらっと顔を上げて会釈した。赤いスパッツの女の子は長い髪を上の方でふたつにしばって、大きなリボンを付けている。きょろんと大きな目をしていた。

 ――違う。

 今日は朝から何度そんなふうに思ったのだろう。知らないうちに探している、そんな自分がいた。最初は自分でも意識していなかった。だが、こんな風に何度も似たような場面に出会うと、嫌でも気づかされる。彼女は、今日何をしているのだろうか。

 

 あの日。大きなクマの顔が付いている真っ赤な鞄を手に、しばらくは途方に暮れていた。でも、いつまでもそうしていても埒があかない。一度家まで戻って、それから卒業アルバムを探してみた。小学校から高校まで、山倉都の住所は変わってない。多分、ここにいるはずだ、そう判断する。翌日の定休を使って、直接訊ねてみた。

「あらあら……まああ、もしかして新司くんね? すっかり立派になっちゃって……見違えたわ」
 ほとんど10年ぶりに会う、都の母親。でも娘の幼なじみの顔を彼女はきちんと覚えていた。ああ、やはり直接来て良かったと思う。だって、電話だったら、いちいち名乗らなくてはならない。高校で一緒だった大泉、とか言っても分かって貰えるか心配だった。

 都と昨日の夕方に偶然会ったことやその時にこの鞄を渡しそびれたことを説明する。すると、都の母親は申し訳なさそうに新司に告げた。

「まあ、わざわざごめんなさいね。実はあの子たちは今ここに住んでないのよ。萩町でアパートを借りているの」

 それでも連絡すれば立ち寄るでしょうから、と預かってくれた。相手も何だか歯にモノが挟まったような歯切れの悪い話し方をする。だから、新司としてもそれ以上は聞けなくなった。多分、都の母親としてはこちらがどこまで知っているのか分からないから困っているのだろう。そんなものだ、広めたくない情報は口に出さない方がよい。

 用件はそれだけだからと言って、早々においとました。電車でふたつ行ったところにあるアパートのことはあえて聞かないことにする。別に再会したからと言って、何が始まるわけでもない。こんな時に同性の友人だったら身の上話が出来るのかも知れないが、難しいところだ。

 1階の薬局で働くことになった、と都は言った。だから、自分の職場の階下に彼女はいることになる。会う気になればすぐだろう。でも、そんな気にならない。もしも偶然すれ違ったら、とも思ったが、不思議なことにそんな機会もないものだ。
 あっという間に週末になる。デパートの仕事は単調なようであって、色々と入り組んでいる。フロアチーフに昇格した就職7年目の夏は、ひときわ慌ただしかった。

 しかし。売り場にいれば余計なことを考えずに済んでも、こうして機械相手に格闘していると、どうしても思い出してしまう。何度もこなした調整だったので、手が勝手に動くのも良くない。悩みながらの作業だったら良かったのに。

「……知らないんだ、新司くん。何にも」

 ――そうだ、自分は何も知らない。同じ中学から高校に進んだ仲間たちも今やそれぞれ散り散りになっている。顔を合わせることも稀だ。会ってもかつての友人の消息を伝え合うところまで行かないことが多い。新司は寡黙な方だし、うわさ話も好きではない。もしかすると普通の人間なら知っていて当然のことを分かっていないのかも知れない。

 ……何かが、引っかかっている。心の隅っこに、何かが。それを釘抜きで引き抜くことも出来ずに、新司は油まみれになった手で黙々と作業を続けた。

「パパっ!」
 小さな女の子の声というのは、どうしてみんな一緒に聞こえるのだろう。あれ以来、新司は耳に飛び込む声に辺りを見回す習慣が付いてしまっていた。もちろん、自分の名が呼ばれているはずはない。

 付き合った女性がいなかったわけではなかったが、いつも何となく上手くいかなくなった。必死で追いかければ良かったのかも知れないが、そうするのも何となく嫌だったから。気が付くと、ひとり、またひとりと同級生が結婚していく。まだ自分がそんな年でもないと思っていたのに、突然ベビーカーを押している昔の仲間と遭遇したりして。
 ……まあ、奥手だと信じていた自分の兄ですら、人並みに結婚して来春には父親になるとかいうのだ。人生なんてそんな風に流れていくものなのかもと思う。

 でも、都には驚いた。彼女は四大に行ったはずだ。しかし、この前連れていた女の子はどう見ても4つか5つになっている。計算が合わない。……あんなに似ているのだ、彼女の子供に間違いないのに。

 

「じゃ、……これからそっちに戻るから」
 商品の発注の件でトラブルが発生したらしい。丁度作業が終了して片づけをしているところで携帯が鳴った。手早く切り上げて、向き直る。

 ――と。その時、ぱすっと足に覚えのある感触がまとわりついた。

「パパっ! いた〜っ! 探したよ〜っ」
 すりすりすり。ほっぺをすり寄せている妙な感覚。この子は……そうだ、と思ったときに、後ろからまた控えめな足音がした。

「……都ちゃん」
 助かった、と思って振り返る。彼女は小さく会釈すると、この間はありがとう、と言った。


 結局あの場はどうにもならないのですぐに別れたが、仕事上がりに合流する。朝が早かったため、今日は5時15分で仕事が終わりだった。

「……ごめんなさいね、この子がどうしても言うこと聞かなくて」

 都の母が連絡してきて、鞄を受け取りに行って。もう新司がとっくに帰ったあとだと知って、美優は大泣きしたという。あまりにぐずるので、都の母親がついぽろっと言ってしまったらしい、新司がこのデパートで働いていることを。
「お兄ちゃんはお忙しいから」そう言ってやり過ごしていたが、とうとう週末の今日は堪忍袋の緒が切れたようで朝から大騒ぎ。だから「いないんだよ」と確認させるために子供の目で探させたんだという。広いデパート、すぐに飽きるかと思ったのに、彼女は小さな足で11階のフロア全てを駆け回った。

「いいよ、別に。何か予定があるわけでもないし……」
 腕の中の美優はぐっすりと寝入っていた。片時も新司から離れず、大はしゃぎで疲れたのだろう。最後に食べたバニラ・アイスクリームの香りがほんのり頬に残っている。

 小さな子供を囲んでいるときは、まるで本物の親子のようだった。でも、こうして静寂が戻ると、どちらからともなく会話が途切れる。空白の時間がふたりをぎこちなくした。卒業して……もう9年も経つのだと驚く。アパートまでの15分ほどの道のりを、夜風に吹かれながら歩いた。都の髪が柳の枝のようにしなやかに揺れる。

 制服の昔。彼女と、どんな話をしていたのだろう。そんなことも思い出せない。きっと他愛のないことだったのだろう。将来の夢とか、希望とか。かたちに残らない未来を。

「……フロアチーフってすごく偉い人なのかと思ったのに、いきなり油まみれになってるんだもの、驚いたわ」

 あの頃と同じ、控えめな声だった。涼やかな風が胸を通りすぎていくように、それは当たり前に新司の胸に辿り着く。あらかじめ認識している音色のように。自分の中に、都がずっと息づいていたのだと気づく。昔なじみとはこのようなものなのか。

「そうか、新司くん。本当は電子工学とかやりたいって言ってたもんね」

 どこかに置き忘れた夢を、彼女が覚えている。それがとても心地よかった。そして同時にもの悲しかった。

「まあね、……そんなの、昔の話だけど」
 頬のわずかな歪みを意識させないように、新司は視線をそらした。

 両親をいっぺんに事故でなくしたのは、高校2年生の春。もちろん、進学には困らないだけのものを遺してはくれていたが、新司は迷うことなく地元の短大を進学先にした。自分の下にはまだ小さな弟たちがいる。自分の学力では、国公立は難しいだろう。ましてや、企業の研究室で新システムの開発に携わるなんて曖昧な夢が叶う身分じゃない気がした。

「そっかぁ……色々あるよね、みんな」
 身軽な腕を後ろで組みながら、彼女は新司の前をどんどん歩いていった。たばこ屋の角に赤いポストが立っている。立ち止まってそれに寄りかかりながら、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「美優の父親、死んじゃったの。まだその子がおなかにいるときにね」

 まるで明日の天気の話をするように。少しのかげりもない笑顔が、月明かりの下で揺れていた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 小さい頃から都は、ほっそりと線の細いイメージだった。色も白くて、全体的に色素も少ない感じで。目立ってはしゃいだりするタイプでもなかったので、良く注意していないと忘れてしまいそうだった。
 気軽に男子たちと冗談を言い合っている明るい女の子の後ろで、都はいつも静かに微笑んでいた。大人しくても陰気な感じはなく、どんな場所にも違和感なく溶け込んでいた。

 そう近く感じることはない、でも遠くもない。傍にいてもいなくても、季節は緩やかに流れていった。

「新司くん、東高を受けるんだって?」
 中三の時は、同じクラスだった。放課後の教室掃除。いつの間にか後かたづけがふたりになっていた。掃除用具入れの中に箒やバケツをしまっていると、後ろから声がする。振り返ると彼女が笑顔で立っていた。制服姿の彼女は長い髪を校則の通りにふたつの三つ編みにしていた。

「先生が言っていたよ。このクラスからは私と新司くんふたりだけなんだって」

 へえ……そうなのか。とても不思議な気がした。東高はこの中学からはあまり進学する者がいない高校だ。普通に頭のいい生徒はすぐそばの西高に行く。電車に揺られて時間の掛かるそこに行くには、相応の頭と根性が必要だとされていた。
 新司の場合はただ成績がいいからであって、それも自分で意図したところではない。東高を受けるなんて、誰かに知られたらきっと驚かれる。そんなのは恥ずかしくて嫌だなあと思っていた。彼女ももしかしたら同じ気持ちだったのかも知れない。だから、こんな風に誰にも聞かれることのない時間を選んだのかも。

「頑張ろうね、新司くん」

 夕焼けに染まった彼女の頬は茜色に染まっていた。真っ白な肌が、夕暮れの色に素直に色づく。長く伸びたふたりの影が、教室の壁を伝っていた。

「そう……だね」
 彼女の影をすり抜けて、自分の席に戻る。そして、自分の鞄を手にした。もう部活も引退していたし、あとは下校するだけだ。都のそばを通り過ぎるとき、何だか今までに感じたことのなかった、不思議な心地がした。

 ただのクラスメイト。そのあとはただの同じ中学出身の友人。他の生徒と比べたら、やっぱり親しみが湧いてくる。どこがどうというわけではないが、同じ街で生まれて育った者だけに分かるものがある。卒業後も何の気なしに思い出して、どうしてるかなと考えることもあった。だけど、そこまで。電話をしてみようとか、直接会ってみようとかそこまではいかない。ずっと思い出の住人だった。

 

 彼女にとっての自分も、きっとそんな感じだったのだろう。あの夜のぎこちない会話が、離れていた知らない時間を持て余していることを告げていた。


「大学の3年生の時にね、ゼミで知り合った一年上の先輩だったの。妊娠して、でも彼の両親がなかなか認めてくれなくて……」

 仕方なく、ふたりで籍を入れた。でも、そのあと彼はすぐに事故で亡くなってしまったと言う。何の未練もなかったから、さっさと旧姓に戻ってひとりで子供を産んだ。1年休学して、大学に戻り卒業する。子供が小さい頃は病気がちだったこともあってフルでは働けなかったが、ようやくどうにかなりそうだ。

「きちんと、働かなくちゃね。私はその子の母親なんだから」
 都の笑顔は昔と少しも変わらなかった。まるであの中学校の教室で新司に向けたあの微笑みがそのまま時を越えて戻ってきたようだ。通り過ぎた季節を少しも感じさせないそのままの彼女。普通とは少し違う身の上話も、当たり前の会話のようにやり過ごしていく。

「ふうん、……そうなんだ」
 なんて言ったらいいんだろう、分からなかった。だから、自分も明日の天気の話をするように、さりげなく応えた。

 またしばらく、沈黙が続く。空を見上げながらあるく都の背中に同じ歩幅で付いていった。やがて深夜までやっている大型スーパーの前で立ち止まった彼女は、ゆっくりとこちらに両腕を伸ばして来る。

「アパートは、この裏手なの。だから、ここでいいわ」
 慣れた手つきで子供を受け取ると、彼女はまた微笑んだ。

「ごめんね、迷惑かけて。もう……大丈夫だから」

 確かに、拒絶を感じた。先ほどまでの親しみがすっかりと消えている。「幼なじみ」という言葉が縁取るふたりの関係にあっさりと幕を下ろそうとするように。新司が突然の言葉に驚いているうちに、都は娘を抱えたまま数歩後ずさりする。ふたりの間に腕の届かない距離が生まれた。

「この子には良く言って聞かせるから、もう新司くんには迷惑かけないわ。これきりにするから、安心してね」

 瞬間、息を呑む。都が何を持ってこんな風に言い出したのかよく分からない。

「えっ……、別に俺は」

 こちらが上手く言えないでいると、彼女は小さく頭を振る。何のために、そうするのか。新司に伝えるためか、それとも自分自身に伝えるためか。

 別にいいのに、と思う。幼なじみと再会して、一緒に食事をするくらい何でもないことだ。美優だって可愛い。いきなり父親にされるのは、くすぐったくて妙な気分だったが、自分がそれをとてもすんなりと受け入れていることに驚いていた。

 やがて、都はもう一度、まっすぐにこちらを見つめた。そして、一気に言う。

「私、今おつき合いをしている方がいるの。この子にはもうじき、新しい父親が出来るのよ」

 最終の赤いランプを灯した路線バスが、彼女を照らしながら通り過ぎていった。



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