〜新司さんのお話〜 …1…
「パパっ!」 夕方の雑踏の中、いきなり背中にそんな声が飛んできた。…背中、ではない。正確には腰の辺り? 「パパっ! …ねええ、待ってよぉ〜っ!」 残念だが「パパ」と呼ばれる身分ではない。後ろで声を掛けられたからと言って、振り向いたら別人なのだから恥ずかしい。新司がそのままずんずんと歩き続けると、やがて、足にやわらかいものが巻き付いてきた。 「パパっ! 捕まえたっ!」 ……何? どういうことだっ!? 今にも泣き出しそうな夕空の下、少し記憶が曖昧になる。だが、違うものは違う。どうして、自分がパパになるんだっ! …み、身に覚えがないぞっ! 「あ、すみませんっ! ……申し訳ありませんっ!」 どうしようかと思って途方に暮れていると、しばらくして若い女性が小走りでやってきた。頼りない身体で人並みをかき分けているのでなかなかこちらまで辿り着かない。胸までまっすぐに伸びたやわらかそうな髪が、ぬるい空気に揺らいで舞い上がった。 「もう、美優(みゆう)。いけませんっ! ――すみませんでした、この子……」 彼女はそこまで言いかけると顔を上げて新司の方を見た。その瞬間、ハッとした表情になる。 「あれ? もしかして、新司……くん?」 ……え? いきなりファーストネームを呼ばれて、こちらも驚く。薄くメイクした清楚な顔に必死に何かを探し出そうとした。 「…都…ちゃん?」 雑踏の中、立ち止まる3人。思わぬ再会は、意外なかたちで訪れた。
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何となく女の子を真ん中にして歩きながら。彼女は気さくな口調で、かつてのクラスメイトに言った。 最後に会ったのは高校の卒業式の日だったか。その後、何度か有志で同窓会めいたモノをしたが、その席に彼女が顔を見せたことはなかった。すっかり垢抜けてしまった横顔がとてもまぶしい。 ……それにしても。そうか、もう結婚して子供がこんなに大きいんだ。新司は目の前の事実が信じられなくて、何だかとても不思議な気がした。 彼女――山倉都(やまくら・みやこ)は小学校から高校まで同じ学校で学んだ同級生だった。家は近所ではない。でも長い間一緒にいたので、気の置けない関係だった。お互いに大人しくて穏やかな性格だったため、それ以上に発展することはなかったが。 「新司くんは、駅前のデパートに就職したと聞いたけど。今もそうなの?」 しかし、新司の方は明らかにためらいの心が勝っていた。 「ああ、都ちゃんは? 里帰り?」 すると彼女は曖昧な微笑みになって、一瞬言葉を選ぶように呼吸を止めた。 「実はね」 「新司くんの勤務先の1階に薬局が入ってるでしょう? あそこで働くことになったの。この子が保育園に入れることになったし……」 「へえ……、ああ、そうか」 「パパ、抱っこ」 地下鉄の入り口まで来て、女の子が新司の前に両手を差し出した。……え? と固まっていると、都が助け船を出してくれる。 「駄目よ、美優。お兄ちゃん、困ってるでしょ? ママが抱っこしましょ」 しかし、女の子は新司の服を引っ張ったままいやいやと首を横に振る。階段の降り口でかなり通行の妨げになっているのは明らかだった。 「いいよ、それくらい」 「えへへへ……、パパ〜っ!」 きゅううっと首に腕を回されて、ちょっとばかり息苦しい。 「ごめんなさい……」 下を見られない姿勢で階段を下るのは思っていたよりずっと大変だった。こんな親子連れはよく見る光景だったが、見るのと実際にやるのでは大違いだ。しかし、少しでも困ったような顔をすれば、都が気にするだろう。新司は何ともない表情を守りながら、どうにか重要任務を乗り切った。 「でも、誰彼構わず『パパ』じゃ、ご主人は面白くないでしょう? こんな可愛いんだから、目に入れても痛くないって言ってるんじゃない?」 ふたりが目指すホームが違う。や〜んとむずかる女の子を自分から引きはがして都に渡しながら、新司は言った。全くの本心から出た言葉だった。 都をそのまま小さくしたような女の子。どこか彼女が小学校の頃の面影もある。ふんわりとやわらかいイメージで肌も白くて、髪の毛も茶色っぽい。ピンクのノースリーブのワンピースから出た腕や足も折れそうに細くて。父親が娘として描くイメージをそのまま映像化したような女の子だった。 その言葉を聞いて。 都は本当に驚いた顔になって、それから戸惑ったように首をすくめた。そして、小さな声でぽつんという。「……知らないんだ、新司くん。何にも」……と。 電光掲示板がぱらぱらと動く。それを目で追って、彼女はきびすを返した。 「じゃあ、急ぐから。またね、本当にありがとう……」 ……ちょっと待って、と言う暇もなかった。 人混みに消えていった都を見送ったあと、ふと手元を見ると、子供用の小さなショルダーバッグがあった。女の子のものを渡し忘れたらしい。住所か何か書いてないかとふたを開けてみると、そこには見覚えのある都の字で名前が書いてあった。 『つぼみぐみ・やまくらみゆう』
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ぎりぎりと金属音が耳を付く。新司の目の前に、横たわった白馬が足を蹴り上げた状態で置かれている。……もちろん作り物だが。小さな子供のはしゃぐ声があちこちから聞こえてくる。ここはデパートの屋上、週末は買い物ついでに立ち寄る親子連れの姿が多くて、普段よりもずっと混雑しているのだ。 自分の持ち場は4階で衣料関係のフロアだったが、今日はバイトも多くて人手は足りている。そんなとき屋上担当のチーフから呼び出されたのだ。コインを入れて動かす木馬の調子が悪いので見て欲しいという。業者は休日なので連絡付かないし、人気のある乗り物なのでお客様からの苦情が出ているそうなのだ。 「あ〜、ママ。おうまさんが、おねんねだ〜っ!」 ――違う。 今日は朝から何度そんなふうに思ったのだろう。知らないうちに探している、そんな自分がいた。最初は自分でも意識していなかった。だが、こんな風に何度も似たような場面に出会うと、嫌でも気づかされる。彼女は、今日何をしているのだろうか。
あの日。大きなクマの顔が付いている真っ赤な鞄を手に、しばらくは途方に暮れていた。でも、いつまでもそうしていても埒があかない。一度家まで戻って、それから卒業アルバムを探してみた。小学校から高校まで、山倉都の住所は変わってない。多分、ここにいるはずだ、そう判断する。翌日の定休を使って、直接訊ねてみた。 「あらあら……まああ、もしかして新司くんね? すっかり立派になっちゃって……見違えたわ」 都と昨日の夕方に偶然会ったことやその時にこの鞄を渡しそびれたことを説明する。すると、都の母親は申し訳なさそうに新司に告げた。 「まあ、わざわざごめんなさいね。実はあの子たちは今ここに住んでないのよ。萩町でアパートを借りているの」 それでも連絡すれば立ち寄るでしょうから、と預かってくれた。相手も何だか歯にモノが挟まったような歯切れの悪い話し方をする。だから、新司としてもそれ以上は聞けなくなった。多分、都の母親としてはこちらがどこまで知っているのか分からないから困っているのだろう。そんなものだ、広めたくない情報は口に出さない方がよい。 用件はそれだけだからと言って、早々においとました。電車でふたつ行ったところにあるアパートのことはあえて聞かないことにする。別に再会したからと言って、何が始まるわけでもない。こんな時に同性の友人だったら身の上話が出来るのかも知れないが、難しいところだ。 1階の薬局で働くことになった、と都は言った。だから、自分の職場の階下に彼女はいることになる。会う気になればすぐだろう。でも、そんな気にならない。もしも偶然すれ違ったら、とも思ったが、不思議なことにそんな機会もないものだ。 しかし。売り場にいれば余計なことを考えずに済んでも、こうして機械相手に格闘していると、どうしても思い出してしまう。何度もこなした調整だったので、手が勝手に動くのも良くない。悩みながらの作業だったら良かったのに。 「……知らないんだ、新司くん。何にも」 ――そうだ、自分は何も知らない。同じ中学から高校に進んだ仲間たちも今やそれぞれ散り散りになっている。顔を合わせることも稀だ。会ってもかつての友人の消息を伝え合うところまで行かないことが多い。新司は寡黙な方だし、うわさ話も好きではない。もしかすると普通の人間なら知っていて当然のことを分かっていないのかも知れない。 ……何かが、引っかかっている。心の隅っこに、何かが。それを釘抜きで引き抜くことも出来ずに、新司は油まみれになった手で黙々と作業を続けた。 「パパっ!」 付き合った女性がいなかったわけではなかったが、いつも何となく上手くいかなくなった。必死で追いかければ良かったのかも知れないが、そうするのも何となく嫌だったから。気が付くと、ひとり、またひとりと同級生が結婚していく。まだ自分がそんな年でもないと思っていたのに、突然ベビーカーを押している昔の仲間と遭遇したりして。 でも、都には驚いた。彼女は四大に行ったはずだ。しかし、この前連れていた女の子はどう見ても4つか5つになっている。計算が合わない。……あんなに似ているのだ、彼女の子供に間違いないのに。
「じゃ、……これからそっちに戻るから」 ――と。その時、ぱすっと足に覚えのある感触がまとわりついた。 「パパっ! いた〜っ! 探したよ〜っ」 「……都ちゃん」
「……ごめんなさいね、この子がどうしても言うこと聞かなくて」 都の母が連絡してきて、鞄を受け取りに行って。もう新司がとっくに帰ったあとだと知って、美優は大泣きしたという。あまりにぐずるので、都の母親がついぽろっと言ってしまったらしい、新司がこのデパートで働いていることを。 「いいよ、別に。何か予定があるわけでもないし……」 小さな子供を囲んでいるときは、まるで本物の親子のようだった。でも、こうして静寂が戻ると、どちらからともなく会話が途切れる。空白の時間がふたりをぎこちなくした。卒業して……もう9年も経つのだと驚く。アパートまでの15分ほどの道のりを、夜風に吹かれながら歩いた。都の髪が柳の枝のようにしなやかに揺れる。 制服の昔。彼女と、どんな話をしていたのだろう。そんなことも思い出せない。きっと他愛のないことだったのだろう。将来の夢とか、希望とか。かたちに残らない未来を。 「……フロアチーフってすごく偉い人なのかと思ったのに、いきなり油まみれになってるんだもの、驚いたわ」 あの頃と同じ、控えめな声だった。涼やかな風が胸を通りすぎていくように、それは当たり前に新司の胸に辿り着く。あらかじめ認識している音色のように。自分の中に、都がずっと息づいていたのだと気づく。昔なじみとはこのようなものなのか。 「そうか、新司くん。本当は電子工学とかやりたいって言ってたもんね」 どこかに置き忘れた夢を、彼女が覚えている。それがとても心地よかった。そして同時にもの悲しかった。 「まあね、……そんなの、昔の話だけど」 両親をいっぺんに事故でなくしたのは、高校2年生の春。もちろん、進学には困らないだけのものを遺してはくれていたが、新司は迷うことなく地元の短大を進学先にした。自分の下にはまだ小さな弟たちがいる。自分の学力では、国公立は難しいだろう。ましてや、企業の研究室で新システムの開発に携わるなんて曖昧な夢が叶う身分じゃない気がした。 「そっかぁ……色々あるよね、みんな」 「美優の父親、死んじゃったの。まだその子がおなかにいるときにね」 まるで明日の天気の話をするように。少しのかげりもない笑顔が、月明かりの下で揺れていた。
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そう近く感じることはない、でも遠くもない。傍にいてもいなくても、季節は緩やかに流れていった。 「新司くん、東高を受けるんだって?」 「先生が言っていたよ。このクラスからは私と新司くんふたりだけなんだって」 へえ……そうなのか。とても不思議な気がした。東高はこの中学からはあまり進学する者がいない高校だ。普通に頭のいい生徒はすぐそばの西高に行く。電車に揺られて時間の掛かるそこに行くには、相応の頭と根性が必要だとされていた。 「頑張ろうね、新司くん」 夕焼けに染まった彼女の頬は茜色に染まっていた。真っ白な肌が、夕暮れの色に素直に色づく。長く伸びたふたりの影が、教室の壁を伝っていた。 「そう……だね」 ただのクラスメイト。そのあとはただの同じ中学出身の友人。他の生徒と比べたら、やっぱり親しみが湧いてくる。どこがどうというわけではないが、同じ街で生まれて育った者だけに分かるものがある。卒業後も何の気なしに思い出して、どうしてるかなと考えることもあった。だけど、そこまで。電話をしてみようとか、直接会ってみようとかそこまではいかない。ずっと思い出の住人だった。
彼女にとっての自分も、きっとそんな感じだったのだろう。あの夜のぎこちない会話が、離れていた知らない時間を持て余していることを告げていた。
仕方なく、ふたりで籍を入れた。でも、そのあと彼はすぐに事故で亡くなってしまったと言う。何の未練もなかったから、さっさと旧姓に戻ってひとりで子供を産んだ。1年休学して、大学に戻り卒業する。子供が小さい頃は病気がちだったこともあってフルでは働けなかったが、ようやくどうにかなりそうだ。 「きちんと、働かなくちゃね。私はその子の母親なんだから」 「ふうん、……そうなんだ」 またしばらく、沈黙が続く。空を見上げながらあるく都の背中に同じ歩幅で付いていった。やがて深夜までやっている大型スーパーの前で立ち止まった彼女は、ゆっくりとこちらに両腕を伸ばして来る。 「アパートは、この裏手なの。だから、ここでいいわ」 「ごめんね、迷惑かけて。もう……大丈夫だから」 確かに、拒絶を感じた。先ほどまでの親しみがすっかりと消えている。「幼なじみ」という言葉が縁取るふたりの関係にあっさりと幕を下ろそうとするように。新司が突然の言葉に驚いているうちに、都は娘を抱えたまま数歩後ずさりする。ふたりの間に腕の届かない距離が生まれた。 「この子には良く言って聞かせるから、もう新司くんには迷惑かけないわ。これきりにするから、安心してね」 瞬間、息を呑む。都が何を持ってこんな風に言い出したのかよく分からない。 「えっ……、別に俺は」 こちらが上手く言えないでいると、彼女は小さく頭を振る。何のために、そうするのか。新司に伝えるためか、それとも自分自身に伝えるためか。 別にいいのに、と思う。幼なじみと再会して、一緒に食事をするくらい何でもないことだ。美優だって可愛い。いきなり父親にされるのは、くすぐったくて妙な気分だったが、自分がそれをとてもすんなりと受け入れていることに驚いていた。 やがて、都はもう一度、まっすぐにこちらを見つめた。そして、一気に言う。 「私、今おつき合いをしている方がいるの。この子にはもうじき、新しい父親が出来るのよ」 最終の赤いランプを灯した路線バスが、彼女を照らしながら通り過ぎていった。
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