〜新司さんのお話〜 …2…
「……どうしたの? ぼんやりして」 ハッとして、顔を上げる。だんだん高くなっていく日差し、降り注ぐ蝉の声。夏草の庭を眺めながら、物思いに耽っていたんだと気づく。そこに立っていたのは、兄嫁。……とは言っても、彼女は自分よりもひとつ年下だから、お義姉さんと呼ぶのも変なのだが。 「あ、掃除でもするのに邪魔だったかな?」 「ううん。……でも、良かったらちょっと、頼まれて欲しいなとか思うんだけど。いいですか?」 手渡されたメモには、隣町のドラッグストアでの買い物リストが書かれていた。
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天気もいいし、ごろごろしていても身体がなまってしまう。新司は散歩がてら、家を出た。車を使ってもいいのだが、今日は心地よい風が吹いているし、のんびり歩いていこうと思った。
――確か、この辺だったな。 数週間前に訪れた都の実家を思い出す。一度訪ねたきりだから、正確に記憶しているわけでもなかったが、大きな通りをひとつ入ったところだった。 彼女も今日は実家に戻っているのではないか、とふと考える。そしてすぐに思い直した。今更、何を考えているのだ。あんな風にすっぱりと線を引かれたのに。気が付くと、都のことばかり考えている自分がいる。どうしてなのか、よく分からない。でも……このままでいいのかと、問いかけてしまうのだ。 付き合っている人がいる、そしてその人はもうすぐ彼女の娘の新しい父親になる。その言葉を聞けば、分かるだろう。彼女にとって自分が不要のものだと言うことを。懐かしさから繋がりかけたふたりの関係が、ぶっつりと音を立てて切り離されようとしていた。今度こそ、確実に。 始まらなかった、だから終わらなかったふたり。気が付くと、傍にいた。そんな風に過ごした日々。小学校から高校まで。12年間の月日はいつかお互いを空気のようにしていた。いるのが当たり前だった。でもその存在が余りにも自然だったから、離れてしまってもそれほどしつこく残らない。 ――パパっ! あの日、美優の声で、止まっていた歯車が回り出した。そして、彼女のことをもう一度とても近く感じたのだ。人との距離にいつも悩んでいた自分が、緊張せずに自然に付き合えることの出来た貴重な存在を思い出していた。 いい人がいるから、と特定の女性を紹介される機会は何度かあった。向こうが乗り気なら、付き合いが始まることもある。だけど、いつでもふたりの関係を保つのに緊張している自分がいた。「大泉さんって、何を考えているのか分からない」――こちらには意味不明のひとことを残して、ある女性は去っていった。数ヶ月は付き合ったはずだが、思い出そうとしても顔が浮かばない。 ……もしかしたら、彼女だったのかも知れないと思う。自分が、ありのままでしっくりと寄り添える相手は。でも、気づくのが遅かった。もう時計は回らない。ふたりはお互いに、二度と噛み合わない時間軸を生きていくのだ。巡り会い紡ぎあうはずだった時間を、心の泉に落としたまま。永遠に。
眩しい日差し。どこかで水音がする。誘われるままにそちらに足を向けた。車止めの向こうに、小さな公園があった。 ひょうたん型の変形噴水。昼下がりの一番輝く太陽に向かって、吹き上げている水の柱。その周りで、小さな子供たちが水遊びをしていた。麦わら帽子を頭に被って、手や足を水に浸して歓声を上げる。細かいしぶきが霧になってあちらをぼんやりと煙らせていた。 「パパっ!」 思わず、背中が硬直する。でも振り向くのはやめようと思った。だって、それは自分に向けられた言葉じゃないんだ。もしも……と思うが、それでもいい。振り向いちゃ行けない、このまま立ち去るんだ。 「パパっ! ……パパっ!」 だけど。足取りは鉛を付けたように重くて。のろのろとした歩みに、小さな足音はすぐに追いついた。そのまま、あの日のように足にぎゅーっとしがみつく。その力が、小さな女の子とは思えないほど強かった。 ゆっくりと、振り向く。その視線の先には、困ったように微笑む都の姿があった。
「今日は……どうしたの?」 「お休みのことが、ばれちゃって。朝のんびりしていたら、子供ってすごく敏感なのよ。とうとう観念して、園をお休みさせちゃったわ」 「――明日、彼のご両親に正式に御挨拶に行くの。だから、今日はお休みを貰って美容院に行こうかなって。その間だけ、美優は実家の母に預けるの」 ああそうか、と思う。萩町にアパートがあるのに、こんなところを歩いているのがおかしいと言えばおかしい。母親に娘を預けて、近所の美容院にでも行く予定なんだろう。 「美優ーっ! そろそろ行きますよ?」 すべり台を降りたところにいた彼女がこちらを振り向く。そして、子犬のように一目散に駆け寄ってきた。でも、そのたどり着く場所は都ではなくて、新司のところ。 「やぁんっ! もっとパパと遊ぶ〜っ! まだいいでしょ? 美優はパパと遊ぶのっ!」 「駄目です、美優」 「お祖母ちゃんが待ってますよ? ママの予約の時間もあるんだから。もう、お兄ちゃんから離れなさい」 「やあっ! パパっ、パパっ……! パパがいいのっ! パパと遊ぶの〜〜っ!」 母子のやりとりの間に挟まれて、新司は途方に暮れてしまった。何が何だか分からない、でも、こんな風にすがられたらどうしても引きはがすことが出来ない。もう、それは無理な相談だった。 「美優っ――!」 都の細い腕が、空を切る。聞き分けのない娘を軽く威嚇するつもりだったのだろう。だが、その手のひらが少女の身体に届く前に、新司は小さな身体をふわりと抱き上げた。 「いいよ、別に。2時間くらいでしょう? だったら、この辺で遊んでるから。……行っておいでよ」 「でもぉ……」 昼下がりの公園。午後の一時をのんびりと過ごす人々で溢れていた。夏とはいっても今日はいつもよりも過ごしやすい。クーラーの冷気ばかりに当たっていては身体に触ると思うのだろう。彼らはどこから見ても当たり前の親子にしか見えない新司たちの様子を興味津々で眺めていたのだ。 「悪いわ、そんな。新司くんにそこまでしてもらう理由がないもの」 「別にいいじゃない」 「都ちゃんのためじゃないよ。俺はこの子と遊びたいんだ」 再会を喜んでいる、自分の身体の内側の細胞が湧き立つように。特に子供好きと言うわけでもなかった自分。父性とはある日突然、噴き出してくるものなのかも知れないとその時思った。
「パパっ! パパっ、こっちっ!」 子供の足なんてたかが知れてると思っていたのに。ちょこまかと動き回る美優の足取りは思いがけずにすばしっこくて、扱いに慣れていない新司はすぐに息が上がってしまった。 「パパぁ〜、……んもうっ!」 ぱすっと、くっついてきた身体をまた抱き上げる。首にしがみつかれるのももう慣れた。だんだん身体が彼女に似合ってくる。嬉しそうにすり寄られたら、心までほんのりしてしまう。 「パパぁ……会いたかったよ〜っ!」 「ママが、パパ駄目って言うのっ、でもっ……パパに会いたいのっ! ママが駄目って言っても、美優、パパに会いたいのっ……!」 気づくといつのまにか、しゃくり声を上げている。今まで大はしゃぎだったのに、よく分からない。小さな子は些細なことで情緒が不安定になると言うが、この子もそうなんだろうか。でも……違うだろ? だいたい、自分が「パパ」にならなくたって――。 「……大丈夫だよ、パパはどこにも行かないよ?」 こんなこと、真に受けちゃ行けないんだ。そう思うのに。新司は彼女の目をしっかりと見つめて、真面目な顔でそう言った。 「本当? ……ほんとの本当? パパ、どこにも行かない?」 「ああ」 我ながら、馬鹿だなと思う。小さな子供のことだ、一晩寝ればこんな約束は忘れてしまうんだろう。でも、自分の方はきっと、あり得ないこの誓いをこの先一生大切にしそうな気がする。腕の中の少女は嬉しそうにえへへと微笑むと、軽く身じろぎした。そっと地面に降ろしてやると、今度はしっかりと新司の手を握る。 「パパ、あっちっ……! 風船やさんっ……!」 公園の中央、噴水の向こうで。色とりどりの風船を両手に抱えた店員が客引きをしている。どこかの店の宣伝だろうか、風船と一緒にチラシを配っている。美優はためらいもなくそこに駆け寄っていった。もちろん、風船をひとつ、手渡された。 「お嬢ちゃん、パパと一緒にお店に来てね」 人の良さそうな店員が、美優の頭を撫でながらそう言う。彼女も嬉しそうに微笑み返しながら、明るい声で言った。 「ありがとう――おじちゃんっ!」 よろしくお願いします、とチラシを渡されて。その店員が次の客を探して立ち去ったあとも、新司はその場から一歩も動けなかった。 美優の持つ赤い風船が、風と遊ぶ。辺りをふわりと吹き抜けていくその流れに振り向いた。サラサラと枝を揺らす大きな樹の下。そこに、美容院に行くと言ったはずの人が、立っていた。
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彼女はすぐには返事をせずに、ゆっくりとした足取りで新司の立っているところまで歩いてきた。笑っているような、泣いているような、何とも形容のしがたい不思議な表情で。 「美容院の予約、断っちゃった」 「え……?」
そのまま新司を先導するように歩き始めて、やがて噴水のすぐ傍にあるベンチに腰掛ける。風向きによってはふわっと水しぶきが飛んでくる、一番水際に。彼女は赤い風船の行方を目で追いながら、ふうっと大きな溜息をついた。白い額に木漏れ日が落ちる。 「新司くんって、全然変わらないね」 「覚えてるかな、新司くんに東高を受けるのかって聞いたとき。あの時も、あっさりとした反応が返ってきたのよね。私、もうちょっと違う言葉を期待していたんだけどな」 いきなり話が過去に飛ぶ。目の前にいる彼女はどう見ても大人の女性なのに、いつの間にか中学の制服を着たもうひとつの姿がだぶっていく。新司も時折思い出すあのシーンが、彼女の中にもきちんと残っていたのだ。 「私ね、新司くんが東高を受けるって聞いてすごく嬉しかったの。正直、どうしようかって思っていたのよ、受かるか自信なかったし、先生に勧められてもやめようかなとか考えてた。でもね、新司くんと一緒ならいいかもなって」 「……」 ささくれかけた記憶の断片。そこから蘇ってくるいくつかの出来事。高校に入って、初めて髪を下ろした都を見た。制服が変わったこともあったが、突然大人びた姿にどきりとしたのを思い出す。一瞬の痛みはその後広がることもなく、いつか忘れていたが。 「たとえばさ……君と一緒で嬉しいとか、そんな風に言ってくれないかなって。自分でもあとから馬鹿だなあって思ったけど、すごく口惜しかったんだ」 どうしてこんな話をするんだろう、今更過去に戻ってどうなるのか。戸惑う新司を置き去りにして、都は話し続けた。 「高校に入ってからも。気づいてなかったよね? 私、新司くんと同じ電車になりたくて駅のホームで待ったりしたんだよ。どんな話をしようかなとか色々考えて。それなのに、全然気づいてくれないんだもん、嫌になっちゃう――だから、新司くんって、頑張っても無理な人なんだって思ってた」 彼女はゆっくりと立ち上がる。そして、細かいしぶきに手を伸ばした。白い腕にたくさんの水の粒が飛んでくる。 「新司くんと同じ職場になって、こんな偶然ってあるんだなって思った。悩んでいることとかあったから、聞いて欲しいなとか。でもまたさらりとかわされちゃうのかなって……悩んで悩んで、でも再会しても新司くんは変わってなかった。私の話、ああそうって。それだけなんだもんね」 くるんと後ろに向き直る。また赤い風船を目で追った。 「だから、諦めようって思ったの。始まる訳のない関係なんだから。諦めなくちゃって諦めなくちゃって思って、でも上手くいかなくて。気が付いたら新司くんのことばかり考えてた。今日も、ここに来るまで、ずっと考えてたの……ほんっと、馬鹿みたい」 記憶の中の都は、こんなにしゃべる子じゃなかった。 卒業からたくさんの月日が経ったのだから、変わっていても当然だ。だが、それだけじゃない気がする。新司はいつか自分の心のどこかで、彼女を勝手に位置づけていた。親しい幼なじみとして、でもそれだけの存在だと。あの心地よい時間を壊すのが怖かったんだ。一歩踏み出すことに躊躇した。 「美優にね、新司くんは駄目なんだよって何度も言いながら、いつの間にか自分に必死で言い聞かせていたんだと思う。そしたらどんどん不自由になっちゃって。もう始まることはないんだからって。黙って、彼のお嫁さんになって、新しい家庭を作ればそれでいいんだって。でもね、私はそう納得したいのに、美優は全然駄目なの。気が付くと、新司くんのことばかり話してる。そんなことしてもあとで傷つくだけなのにって、すごく口惜しかったよ……でも」 するっと、俯く。だから、素直に流れた髪の間から綺麗なうなじが見えた。ああ、そうだと思う。彼女がまだ三つ編みだった頃、あの白いラインにドキドキしていた。触ってみたいなと思ったこともあったけど、その理由が分からないままで。そのうちに忘れていた。 「新司くん、美優の言うことは聞くんだもん。あんな風に一生懸命お願いすれば、聞き入れてくれることもあるんだなって……知らなかったよ、本当に。私の中の新司くんは黙って後ろを向くだけだったのに」 「そんな……」
知らなかったことが多すぎる。当たり前に過ぎていった時間に、ふたりはたくさんの想いを置き去りにしてきた。過去に戻ってやり直すことは出来ない。回り始めた歯車は、もう触れ合うことはないんだ。 だけど、何なんだろう。この胸の痛みは。自分をこの前からずっと支配していた不思議な感情の理由を考える。これは……一体なんと形容すればいいんだろう……?
日差しが差し込む場所で、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。泣き出しそうな笑顔で。 「美優ね、本当に男の人はみんなパパって呼んでいたの。それは違うよって言うとね、じゃあ美優のパパはどれなのって。ああ、可哀想だなって……だから、いろいろあって再婚しようと決めたのね。これからあの子も大きくなるんだし、人並みの家庭があった方がいいかなって。 ほろんと、彼女の頬を雫が落ちる。その流れを新司はぼんやりと眺めていた。 「美優ね、新司くんと会ってから、他の男の人を普通に『おじちゃん』って呼べるようになったの。あなたのことが『パパ』だって、思っちゃったんだね。すごく不思議、だって、あなたたちは初めて会ったのに。まるで美優の中に私の気持ちが入っちゃったみたいだった」 「都ちゃん……」 なんて言ったらいいんだろう、どうしたらいいんだろう。いきなりの展開に気持ちが付いていかない。もう一度、あの夕暮れの教室から始めないと、そうしないと記憶が繋がらない。残してきた想いを、もう一度最初から拾い集めなければ。 「新司くん、美優の『パパ』でいてくれるかな?」 腕を伸ばしても、指先が触れ合わない距離。でも、彼女の中の何かに確かに届いた気がした。
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「あ〜、パパっ! 虹〜っ!」 ……え? と空を見上げた。でも、真っ青な雲ひとつないそこに掛かる七色の橋は見あたらない。きょろきょろとしていたら、都がくすくす笑って地面に膝をついて見せた。……美優の視線と同じ高さに。 「……あっ……!」 慌てて自分も腰を落として気づく。それは噴水のしぶきの中に生まれた、薄くて目をこらさなくては分からないような光の帯だった。 おしまい♪ (040222)
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