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〜新司さんのお話〜
…終…

 

 

「お誕生日おめでとうっ!」

 丸いケーキの上に5本のろうそく。

 部屋の灯りを消して、ふんわりと浮かび上がった炎を美優が神妙な顔つきで吹き消した。一瞬、真っ暗になって、すぐに部屋の灯りを付ける。スイッチを入れたのは都。新司の方はすぐには動くことが出来なかったから。

「わ〜、ケーキだ、ケーキだ〜っ!」
 誕生日が嬉しいのか、イチゴのケーキが嬉しいのか微妙な感じだ。膝の上で弾んでいる美優は大はしゃぎで、いつもの小食が嘘のようにぱくぱくとお皿を空にしていった。

 あれから数ヶ月。木枯らしの吹き始めた晩秋。11月のおしまいの水曜日が美優の誕生日だった。

 いつもはふたりきりで食事をしているはずの小さなテーブルには、おこさまランチのようなごちそうがたくさん並んでいる。鶏の唐揚げやフライドポテト。マカロニサラダにプリンにチキンライス。自宅では大人ばかりの食卓なので、どちらかというと和食や酒の肴的なものが多くなる。パステルカラーの紙皿に乗せられたそれらは新司にとってとても新鮮な彩りだった。

「パパっ、おいしいよ〜ほら、あ〜んっ!」
 振り返った美優はフォークに刺したポテトをこちらに差し出してくる。相変わらず、一緒にいるときは新司のそばから離れない。母親である都がそれを認めていると分かった時から、彼女の行動には迷いがなくなった。新司の方も今ではすっかり膝の上にささやかな重みのある生活に慣れてしまっている。

「ごめんなさい、重いでしょう? ……ビール、もっと飲む?」
 傍らの都は申し訳なさそうに缶ビールを注いでくれる。一緒に食事をしたのはもう数え切れないほどになったから、いつの間にか好みの銘柄も覚えてくれたようだ。

 畳の部屋が二間あるアパート。南向きで日当たりは良さそうだ。荷物もそれほど多くない母子の暮らしに家具も小さなものばかり。白木やアイボリーの淡い色彩でまとめられたインテリアが都によく似合っていた。

 ……こんな風に暮らしていたんだな。

 実はこうして、ふたりの暮らす萩町のアパートに上がったのは初めてだ。自分でもようやくそれに気づいて意外な気がしている。何となくきっかけもつかめないまま、微妙な関係が続いていた。

 

「美優のお誕生日をお祝いしたいんだけど」

 そんな風に彼女が切り出したときも、ファミレスかどこかで食事をするのかなと考えていた。7時にアパートに来てねと言われて、その時は「うん」と何気なく返事をする。でも、あとから考えたらいつもは外側から見ているあの部屋に入る自分がとても不思議な気がしてきたのだ。

「新司くん、美優の『パパ』でいてくれるかな?」

 あの日の約束は、しっかりと守っている。つい最近まで他人だったのが嘘のように、いきなりの父親業が楽しくて仕方ない。今までは素通りをしていたおもちゃ売り場や子供服売り場ばかりに足が向く。美優の喜ぶ顔を想像すると、ついつい財布の紐も緩くなってしまうのだ。挙げ句に「特別の時以外は、やめてね。教育的に良くないから」なんて、都にたしなめられてしまう始末。

 すっぽりと幸せのポケットに入り込んだみたいに、面倒くさいことは全部忘れて過ごしていた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「ねえ、パパっ! 一緒にお風呂に入ろうっ!」

 食事が済んで、のんびりとしていると、美優が後ろから抱きついてきた。こちらは腰を下ろしているから、丁度負ぶさるようなかたちになっている。

 ……え? と思って、思わず都の方を見てしまう。自分は別に構わないが、彼女がそれを望んでないのならやめようかとも思う。お互いにお互いが何を思っているのかが分からないままだから、ぎこちない。いちいち確認しないと、行動に移せないまどろっこしさがある。

「お風呂は出来てるから、……お願い出来る?」
 水道の蛇口を一度しめて、都は後ろ向きのままそう言った。

 

 彼女は自分の今までの成り行きを淡々と語っていたが、その言葉通りには簡単な出来事ではなかったらしい。それを新司は都本人からではなく、彼女の母親から聞いた。

 美優の父親はひとりっ子だった。だから、向こうの両親にとってはたったひとりの孫になる。息子が突然事故で死んでしまい、しばらくは途方に暮れていた彼らだったが、そのうちに美優を自分たちに渡すように要求してきたという。

「一度、籍を入れてしまったのが災いしたのよね……それが父親を特定させる助けになってしまったのだから」

 女手ひとつで子供を育てるのは大変だろう、この先いい人でも出来たらきっと邪魔になるに決まっている。経済的にも環境的にもこちらが引き取った方が子供にとっては幸せなのだ。あちらは裕福な家だったから、口達者な弁護士を付けてきた。もしも、都が同意しないのなら裁判沙汰にしてもいいと言い出す。でも、もちろん都に美優を手放す気などない。

 あれこれ思案したのちに――再婚を思い立ったのだ。自分たち母子を受け入れてくれる場が見つかれば、向こうの両親も何も言えなくなるだろう。特別養子縁組という制度も知った。子供が満6歳になるまでは戸籍上の実子とすることが簡単に手続きできるのだ。都自身には新しい家庭を築く気などなかったが、周りに説得されたかたちになった。

「私は……いいお話だから、まとまるといいなと思っていたのよ。美優が相手の方になかなか懐かないのは気がかりだったけど、そうならしばらくはこちらで引き受けてもいいかと。あちらにも年頃のお嬢さんがいらっしゃるし、いっぺんに親子になるのは難しいかも知れないわよね。だいたいね……こういうのはお互いに引け目があった方が上手く行くと思ったし」

 都によく似た、おっとりとした母親は、手にした湯飲みにふうっと溜息を落とした。ほとんどまとまりかけていた縁談が破談になったことで、一番がっかりしたのが彼女だったと聞く。旧知の仲だし、もう少し好意的に受け止めて貰えるかと期待していたのだが、それは逆だったのである。都には内緒で新司を呼び出し、お願いだから娘たちとは縁を切って欲しいと頭を下げてきた。

「あちらのご両親もこのまま引き下がってくれるとも思えないわ。……色々と面倒なことになるのよ、それでもいいの?」

 

 目の前には、すっかり泡の消えたビール。TVでは明日の天気予報が伝えられていたが、気象予報士の言葉も右から左に流れていってしまう。隣の部屋では美優がすでに深い夢の中に入っていた。新司がプレゼントしたばかりの大きなペンギンのぬいぐるみを嬉しそうに抱えて。満ち足りた幸せな寝顔にこちらまで癒されてしまう。

「ごめんなさいね、今日は疲れたでしょう?」

 ことんと音がして、振り向くと。そこには長袖のTシャツにトレーナーの素材で出来たジャンパースカートを着た都が立っていた。髪から雫がしたたり落ちている。部屋着のように見えるが、これが彼女の寝間着なのかも知れない。

「あ……いや、そんなことないよ。色々ごちそうさま」
 美優の声が消えて、ふたりっきりになるとぎこちなくなってしまうのはいつものことだ。新司は意識して視線を周囲に泳がせながら、答えた。

「……そう、なら良かった」
 そう言うと、新司の隣に腰を下ろす。髪の雫が、頬に飛んできてハッとした。そんな彼の驚いた表情を、都は少し寂しそう見つめている。静かに視線を畳の上に移した。

「どうにか、和解できそうなんだ。彼のご両親にきちんとお話をしてきたの……きっと、分かってくれると思う」

 新司は都の方に向き直った。でも、彼女は俯いたままだ。

「そう……なんだ」

 都の母親の話では、今まで彼女自身が直接あちらの両親と会うことはなかったという。最初に結婚を反対されたときのことが尾を引いていて、どうしても会いに行けないと言ったそうだ。ずっと……この5年間、彼女は頑なに自分の殻に閉じこもったまま、嵐が通り過ぎるのを待っていた。

「美優は私が育てるけど、でも彼のご両親にとっては美優は血の繋がった孫なんだから、時々は顔を見せに行きますって。思ってたよりも、怖くなかった。……彼のお母さん、すごく小さく見えたよ」

「都ちゃん……」

 彼女はいつの間にか泣いていた。今までずっと堪えてきたものが噴き出したのだろうか。思わず細い肩に手を添えると、崩れるように新司の胸に寄りかかってきた。

「……ごめんね」
 背中をさすってやると、彼女は小さく呻いた。

 初めてしっかりと触れた髪は、想像通りにやわらかで、しっとりと手のひらに馴染む。新司が使ったのと同じシャンプーの香り。同じ石けんの香り。風呂上がりの脱衣所に、当たり前みたいに着替えが用意されているのを見たときに、彼女の想いを知った気がする。袋から開けたばかりの新品のパジャマ。まだ肌にごわついているそれが、ふたりの始まりを告げていた。

「待っていても、始まらないって分かっていたから。新司くんは、お願いしないと動いてくれないものね……だから、私も美優みたいにしてみようかなって。だって、あの子ってばずっと新司くんを独り占めしてるんだもん。ふたりの間に割り込む隙がなくて、とても口惜しいわ」

 すりすりっとすり寄る仕草が、やはり美優と似ている。でも、今それを告げたら彼女はまた機嫌を損ねてしまいそうだ。

「私で……いい?」

 やがて、顔を上げた彼女は、まだ少し怯えた目でそう訊ねてきた。それは新司の記憶の中にある、控えめな彼女の姿に重なっていく。いつでもこちらの出方を探るように、でもしっかりと見つめてくれていた。大切だ、と思ったらもう手放さなくても済むように。自分からもしっかりと踏み出さなくてはならないことを今は知っている。

「……嬉しいよ」
 くぐもった声でそう告げて、花の色に染まった唇を塞いだ。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 月明かりのが窓から差し込んでくる。その角度が自分の部屋とは少し違うなと思いつつ、とろとろとまどろんでいた。そのうちにふっと胸の辺りの重みが消える。

「んっ……?」
 重い瞼を開くと、上体を起こしかけた都が恥ずかしそうに頬を染めた。

「ちゃんと、服を着てないと。朝起きて、美優がびっくりしちゃうから……」

「ああ、……そうか」
 出来ればいつまでもこんな風にしていたいが、そうも行かないのか。子供がいる生活というのも難しいものだと改めて気づく。新司もけだるい身体をゆっくりと起こした。そして、脱ぎ散らかした服をかき集めている細い背中を抱き寄せる。これはほとんど反射的に。

「あんっ、……駄目よっ!」
 都は一瞬抵抗したが、すぐに大人しくなった。ゆっくりと後ろに体重を預けてくる。肌に残る汗の匂い。

「何か……恥ずかしいね。新司くんとこんな風にしてるなんて」

 そんな恥じらいを表現したように。ほんのりと色づいた耳たぶにキスした。ぴくんと、彼女の身体が揺れて、ぴったりと合わせた肌から戸惑いが伝わってくる。とうとう、新しい道に踏み出していく。そこには希望と同じくらいのもうひとつの感情が追いかけてくる。

 だけど、越えて行けそうな気がする。こんな風にふたりでいれば。頼りないぬくもりを分かち合えば、きっと信じた場所にたどり着く。

 

「お母さん……許してくれるかな?」

 ふと、彼女の口をついて出てきた言葉。月明かりに満たされた部屋に溶けていく。ためらいも、不安も、みんな。全て闇が受け止めてくれる。

「一生懸命お願いすれば、きっと大丈夫だよ」

 ――もう二度と離したくない。やわらかな存在をしっかりと腕に抱きしめて。新司は自分に言い聞かせるように、そう言った。

終わり (040223)


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