TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇十

 自らの手で手綱を握るのは、なかなかに楽しいことである。
  もちろん、周囲の者たちは皆口を揃えて「危ない」「もしもなにか間違いがあったら」と異を唱えるが、よほどのことがない限りは適当に聞き流していた。
  主が馬を駆ることになれば、その道の腕自慢たちが前後に同伴する。お目付役がいることには変わりないが、それでも馬上であれば、しばしひとりの時間に浸ることができた。せわしない毎日の中では、こんなささやかなことが格別の安らぎとなるのだ。
  幼き頃から数えきれぬほどの学術武術芸術に至るまでの習得に努めてきたが、その中でも馬術の稽古はとても待ち遠しかったことを覚えている。
  ――しかし、このように気楽な身分でいられるのも、あとわずかであるのだろう……
  地を駆る蹄の音が心地よく、流れゆく風景の中でぼんやりと物思いに耽る。
  東の祠の守人たちの話によれば、ここしばらくは穏やかな状態が続いているという。だが、これですべてが好転すると早合点する訳にはいかない。
  この数十年に及ぶ数々の災害、それに伴う疫病の蔓延は、大地を広く深く蝕み続けていた。この先は一刻の猶予も許されない、今すぐにでもしっかりとした立て直しを図らねばならないことは誰もがわかっている。
  重責を両肩に負わされたことについては、今更なにも思うことはない。先代の竜王であった祖父と両親を相次いで亡くし、他に兄弟のない身の上では民の期待をひとりで請け負うのも致し方のないことだ。自らの手でなにを生み出せるかもわからぬままに、それでも最後の希望としての我が身を奮い立たせるしかない。
  華宴が王族最後の直系としてひとり遺されたのは、まだ十にもならない頃であった。あまりにも急な出来事であり、当時のことはおぼろげにしか覚えていない。思い出そうとしても、記憶はさらに霞の向こうに迷い込んでしまうばかりだ。
  祖父は大きく、とても穏やかな御方であった。「竜王」というその地位にふさわしい能力や知性、そして教養を身に付けていたように思う。
  ただ、疫病の蔓延のためか、なかなか世継ぎに恵まれず、父以外の男子は華宴にとっては伯父である長子を含めてすべて夭折している。后も亡くし、最後はお寂しい余生だった。
  このことを竜王家にかけられた呪いであると噂する者もあったらしい。なんでも、華宴の曾祖父に当たる御方がそれまでの側女(そばめ)の制度を廃止したことがすべての始まりだと言うのだ。
  側女とは、竜王が正妃の他に妻を娶ることで、以前は各集落からたくさんの女子が送り込まれたと聞いている。竜王家に限らず、当時は一定以上の身分のある男子は複数の妻を娶ることが当然であった。
「それならば、華宴様には是非、多くの妻を迎えて欲しい」――周囲の者たちは今も、あれこれと画策して回っているらしいが、それも当の本人にとっては煩わしいばかりだ。
  華宴にとって、なによりも重要なのはこの国の民が一日も早く穏やかでなんの憂いもない生活を送ることができるようになること。そのためにはどんな試練も受けようとは思っているが、それとこれとは話が別だ。重臣たちの話を聞いていると、自分が子孫を増やすための種馬にでもなってしまったような気がしてくる。
  しかし、今一番の問題はそこではないことも確かだ。
  今の自分には「竜王」となるべき力が絶対的に不足している。このままでは譲位されたとしても、確実にその務めを果たすことはできないであろう。そのことが口惜しくてならない。
  前竜王の末弟である今の竜王はすでに御年七十を超えている。平均寿命が五十代のこの地では特殊な民族を除いてはその年まで生きながらえることは稀であり、それに加えての日々のお務めでは心身への影響はいかほどであろうか。
  しかも、もともとは即位する立場にはなかったのを、周囲の強い要請で無理矢理担ぎ上げられたのである。その決定に至るまでのいざこざは、端から見ていても決して好ましいものではなかった。
  そして、今の自らの立場もそれに同じである。
  もしも他に適役がいるのならば自らの地位を明け渡すことも厭わないのだが、そのような朗報も聞かない。まったくもって八方ふさがりのままに、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。ようやく迎えた花の季節であるのに、華宴の眼に映るのはもの悲しい無彩色な風景ばかりだ。
  彼は孤独であった。そのことを本人すらも自覚しないままに。
  たくさんの助言も慰めも、そのすべてが右の耳から左の耳へと通り抜けるばかり。心はいつでも空っぽで、そのことを「辛い」と思うことも忘れていた。
  ――しかし、それでも民を見捨てることなどできない……
  幼き頃には、まだいくらかの希望があった。未だ開花していないものの、自分の中には竜王となるべき「気質」がしっかりと備わっている。ただ、その力が眠っているままであるために実力を発揮することができないのだと。
  しかし、二十をとうに過ぎた今となっては、それもただの思い過ごしでしかない気がしてくる。確かなものはなにもなく、この先も事態が好転することなどないのではないか。そんな絶望に心が覆われるとき、たとえようのない重みが胸に押し迫ってくる。
  だが、その憂う気持ちを何人にも悟られることはできない。皆を護る立場にある自分が苦悩の色など見せれば、たちどころに不安と絶望が広がってしまうだろう。だから、いつ何時も、我を忘れずにしっかりと両の足で立ち続けなければならない。
「――若様」
  不意に思考が遮られる。声を掛けてきたのは、同じく馬上にいる侍従のひとりであった。多賀(タガ)という名のその者は、古より竜王家に使えている「多の一族」の出身。北の集落の象徴である黒髪を後ろで高く結んでいる。彼は弓の名手であり、また雅楽にも長けていた。
  直系ではないが、華宴の乳母である鈴もこの一族に属するひとりである。
「少しばかり、先を急ぎすぎではありませんか。このあたりで一度休憩を取って、馬を休ませた方がよろしいのでは……?」
  控えめな声であったが、それなりに重みのある響きでもあった。華宴より二歳年長になるこの者は、幼き頃からずっと傍にいてくれるひとりである。
「そうか、私は普段と変わらぬと思っていたが……」
  彼にとっては「家路を急ぐ」という感覚も味わったことがない。幼き頃からの毎日は、すべて周囲の都合で決められた日程をこなしていくだけであった。予定が済めば都の館に戻ることになるが、それもただの習慣のようなものでしかない。だから今現在も、自分がいつもよりも急ぎ足になっていることをまったく自覚していなかった。
  だが、ふと見れば、遠い山並みに名残の朱が焼き付いている。後ろに束ねた髪が長くたなびいた。
「今日は先方でだいぶ手間取ってしまったではないか。早く戻らねば暗くなる、そうなればさらに走りにくくなるだろう」
  まだなにか言いたげな侍従の視線を振り切り、華宴は手綱を使ってさらに馬を急かした。 

 ようやく帰り着いた南の対は不思議なほどに静まりかえっていた。
  夕刻を過ぎると、宿直(とのい)となった者以外はそれぞれ自宅として割り当て足られた居室(いむろ)や寮へと引き上げていく。そうなれば昼間よりはひっそりするのも当然である。だが、この静けさの原因はそれだけではないような気がしていた。
  ここ数日、長い年月を慣れ親しんでいたこの対が不穏な空気に満ちている。そのことに、華宴もとうに気づいていた。その理由をわざわざ探るまでもない、すべてはあの「異分子」である娘のせいだ。
  館の者たちが、あの娘の扱いに手を焼いていることは知っている。なにしろ、その言動のすべてが周囲の者たちと異なっているのだ。皆、どのように接するべきか思いあぐねているのだろう。
「お帰りなさいませ、すぐに着替えをお持ちしますのでしばしお待ちを」
  東対の竜王様の御部屋に立ち寄ったため、裏手の渡りから中に入る。すぐに鈴が気づいて、駆け寄ってきた。
「……あの者はどうしている?」
  自らの手で狩衣の紐を解きながら、彼はぽつりと呟いた。
「沙弓様にございますか? いつもどおり、表の間にいらっしゃると思いますが」
  鈴は仕事の手を休めることなく答える。
「そうか」
「ご用がおありでしたら、こちらに呼んで参りましょうか」
  静かに訊ねられて、ハッと我に返る。
  しかし、そのような感情の動きなどはおくびにも出さず、彼は続けた。
「いや、わざわざ呼び立てるほどのこともないだろう」
  穏やかな鈴の視線がこちらに動いた気がしたが、それは軽くかわす。
「まだ床についていないのなら、こちらから訪ねてもいい」
「左様にございますか」
  主の着替えを慣れた手付きで手伝いつつ、鈴も短く言葉を繋いでいく。
「でしたら、お手数ですがこちらをお持ちいただけますか? なにやらお疲れのご様子のようで……夕餉をほとんど召し上がらなくて。気付けの薬湯をご用意しましたので」
  聞けば、遅めの昼餉もほとんど口にしなかったらしい。あの娘は細い身体ではあるが、食欲はそれなりにあるようで好き嫌いもさほど目立たなかった。
「お見かけした限りでは取り立てて不調などは感じられませんでしたが……やはり、お身体が万全ではないのでしょう」
  天上の人間には、海底の気は重すぎる。上手く適応できなくてもそれは当然であろう。
「わかった、お前はもう下がっていいぞ」
「はい、それでは失礼いたします。おやすみなさいませ」
  鈴が静かに別室に向かうのを見届けてから、彼は小さく溜め息をついた。

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