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夢見るHard Winds
序・ハード・ウィンズ

 


「新聞!新聞はいらないかい!? 」
 一人の少年が古びた帽子を深くかぶり、駆けていく。小さな片田舎────リース村。ただっ広い耕地と牧場の間を小さな 川が流れているこの村は今、春を迎えようとしていた。
 唯一の商店街(と言って良い代物かどうかは疑問だが)には雑貨屋、靴屋、時計屋などが競争相手もなく一軒ずつ軒を連ねて ささやかな賑わいを見せていた。
「やあ、ジミー。元気がいいね、いつも」
 角の果物屋のおかみさんが先程の新聞売りに声をかけた。
「あ、イルミアおばさん!…わあ、もう苺が出ているの?」
 ジミーと呼ばれた少年は立ち止まると店先を見つめた。きらきら澄んだブラウンの瞳、栗色の髪───十三、四に見える。
「ああ、きれいだろう。今朝、南の国から汽車で着いたんだ。ひとつどうだい?」
「おあいにくさま!」
 少年はおどけたような仕草で首を振って見せた。
「おばさんも悪い人だなあ。そんな金持ちみたいなことが出来っこないだろ、今度の給料で、ほら、ようやく新しいズボンを買えそうなんでね」
 そう言って、何度も繕った跡のあるズボンをはたく。
 別にイルミアの方も本気で売ろうとしているわけではない。これはいつもの挨拶のようなものだった。
「そうかい…じゃ、こっちは一部貰おうかね一ターナだったな」
「毎度あり!」
 イルミアは前掛けのポケットから銀色のコインを一つ取り出した。
 少年は慣れた手つきでそれを受け取ると新聞を差し出し、また駆けていった。
「まったく…風のような奴だ」
 彼女は太った体をもう一度いすに収めると、頼もしそうに後ろ姿を見送った。

…銃声…。村のポリスの敷地内から響いてくる。少し間を置いて何発も。
「やあ、アレク。相変わらずの凄腕だな」
 明るい声に護身用の銃を持った青年が振り向いた。二人とも白地に濃いブルーのラインの入った制服を着ている。
「レイフ…いたのか?」
 銃を収めた青年は、はっとする程の端正な顔立ちをしていた。神話にでも出てきそうな彫りの深い顔、そして腰まで伸ばしたブラウンの巻き毛。
「今しがたね」
 アレクと比べたら、レイフは素朴な顔立ち。ともに二一歳だ。
「きみとはポリスに入隊したときから一緒だし、ずっと隊も同じだからその腕の確かさは誰よりも知っているつもりだけど…今日もまた…すべて命中だぜ」
「いやいや」
 レイフが余り誉めるのでアレクは首をすくめてしまった。
 まあ彼が言うのも無理はなく…全ての弾が的の中央に集まっていたのである。
「わずか十二歳にして署長自らの推薦で入隊。全く、他の隊員は惨めなものだよ。リース村はおろかセルア区── いや、我がリディール共和国一とも唱われる銃士と一緒じゃな」
「何を言うんだ、君の剣の腕だって相当なものじゃないか」
「…おまえが剣がからきし、とでも言うのなら今の言葉も素直に受け止めるんだが…ハハ、いいだろう。もうすぐ昼食だぞ」
「そうか」
 二人はポリスの建物の中に入っていった。

「ポリス」とは── もう百年以上の歴史を持つ、この国の警察業務を行う機関の総称である。国中至る所に…こんな国境近くの小さな田舎の村ですら千人余りの人口に対して七十人もの隊員が配置されていた。アレクとレイフのような村人もいれば、他の地域から派遣されている者も多くいた。
 クーデターが起こるまではこのポリスは国王の護兵の隊であった。今となっては政権を握る「ゴースト」…元死刑囚達の顔色を伺う腰抜け、という陰口さえ叩かれるようになってしまっているが。もっとも、ポリスに対する一般大衆の尊敬の念はいつの世も変わらず、少年達は誰でも一度はこの制服に憧れ、一握りの確率の入隊資格を得ようとするものであった。
アレクもレイフもそんな少年のひとりだったのである。

 また先程の商店街へ戻ってみよう。
 時計屋の店先で大柄な青年が熱心に時計の修理をしていた。薄いブラウンの髪は短く切りそろえ、やはり同じ色の目をしていた。やがて彼は顔を上げる。
「おう!親父、直ったぞ。次のをよこしてくれ」
 低く響く声だった。
「お疲れ、飯にしよう、ロッド」
 この村の人々は誰もがそうなのだろうか、ここの主人もやさしい目をしていた。ほぼ白くなった眉の下にしわに隠れそうな細い目がある。その目は長い年月を経た穏やかな色を見せていた。
「こう毎日修理ばかり。この前新品が売れたのは何時だった? こんなで儲かるのかい?」
 主人は眼鏡を掛け直しながら、おやおやという表情になった。「ロッドはもう嫌になったのかい? 修理が…」
「そんなこともないが…」
 青年は二三歳という年齢の割には落ち着いて見えた。主人に悪態をつきながらもその目は穏やかであった。
「時計、ひとつ直して三ターナだ。新品を売ればどんなに安くたって一ダイル(三十ターナ)はするだろうに…」
 微笑みを交えたほんの戯れ。
「いいじゃないか」
 主人はコーヒーカップを手にすると大人しい声で語った。
「この村の人々は概してみんな貧しい。一ダイルの時計より一ターナ分の砂糖が必要だよ。だけどわしゃ、気取ったタウンやティレス区の人々よりはずっと好きだね。そういえば、ティレス区のポリスから派遣されて来ていた男、辞めちまったそうじゃないか…合わなかったんだな」
「ま、奴がポリスを捨てたんじゃないな。ポリスに捨てられたんだ」
 二人は昼食のテーブルを挟んで、声高らかに笑った。
 そこへ、はるか海からの春の風が吹いてきた…。

 風が吹いてきた。村の中央の商店街の方から麦畑を抜けて川を渡って…丘を吹き上がってくる。
 丘の上には、商店街のどれと比べてもちっぽけな小屋が建っている。小さな台所に居間、それから寝室に五つのベッドが並んでいるだけ。
 小屋から少し離れたところに、大きな樹が村を見下ろすように立っている。常緑樹…だろう、今も小さな葉を数知れず枝に飾り、ざわざわと風に歌っている。
 樹の根元の今、丁度陽の当たっているところ…宅の戸口からは死角になっているところにひとりの青年が座っている。ようやく「青年」と呼べる一八歳。割とがっちりした体格で運動神経は良さそう。金髪で青い目、整った顔立ちだ。髪を風になびかせて…しかし、浮かない表情。左の膝から下は添え木され、包帯がぐるぐると巻かれている。
「ちくしょう!」
 彼は叫ぶと、傍らに繋がれている馬をじろりと睨んだ。
「リカルド! …まったく、もう、何が一ヶ月だ! 半分はお前のせいなんだぞ!」
「ま、いつも無茶する人が大人しいと後の仲間は気が楽ね」
 馬が話したのではない…背後に人の気配。
「キャシー…!」
「まだ風が冷たいわよ、またベッドを抜け出して…ほら」
 そう言って上着を投げてよこすと、少女は彼の隣にちょこんと座った。
「全く、困った病人さんね。リード、あなた三月も半ばだって言うのに気の早い水泳までしたのよ。風邪、治ってないじゃない」
 いたずらっぽい笑い顔。赤みがかった金髪にグリーンの瞳。髪は長いふたつのお下げに結ってある。男物の洗い晒しのワイシャツに色あせたスカート…真っ直ぐなきれいな瞳はくるくる動く。
 少女の隣りの青年は三日前に郵便配達中にアヒルの列を避け損ねて乗っていた馬も配りかけの手紙も無事だったのに、自分だけが池へとダイビングしてしまった可哀想な主人公さん。
「ね、お昼サンドイッチにしたの、ここで食べよ」
 何時になく大人しいリードに同情したのか、キャシーはバスケットを取り出した。
「ありがとう。…一ヶ月もじっとしてたら、完全になまっちまうよ」
「”早馬のリード”だものね」
 キャシーはくすくす笑った。それから髪をかき上げて、
「春の風ね…この風、タウンにも吹いているかしら」
と、言って空を見上げた。
 タウン──とはリディール共和国の中央政府が置かれている中
央区と呼ばれる地区である。リース村の属するセルア区とは異なり、建物も道も全て煉瓦で造られ、高級な店が建ち並んでいる。教育機関もタウンへ集結されているため、高等教育を受けたい者は必然的にタウンへと集まっていった。
「君は── 何かとても楽しそうにタウンの話をするね」
 リードは少し困った顔で言った。
「そうかしら…いけなかった?」
 タウンは元死刑囚が牛耳っている──  クーデターの後。
「いや、別に…」
 自分に言い聞かせるようにリードは言った。

 風が吹いてくる── 正面から吹いてくる風…向かい風…
ハード・ウインド。
 ジミー、アレク、ロッド、キャシー、そしてリード。丘の上の小さな家は五人の住みかだ。
”ハード・ウィンズ”と言うのが村人が彼らに付けた 愛称だった。
 九年前、どこからともなく流れ着いたみすぼらしい身なりの子供達。五人が別々の家に養子として引き取られる話にはどうしてもうなづかず、誰の力も借りずに自らの手で日々の糧を得るために働き始めた。向かい風のごとく虚勢を張ってまで生きているのだ。決して負けない、決して泣かない、いつもいつも前を見て。生意気で優しい子供達だ。
 リディール共和国は、タウン、ティレス、ダーク、リバティー、ユリス、ルータ、ジャイス、ロード…そしてこのセルア区と九つの地区から成り立っている。ここリース村はセルア区の二十の町村の中でも最も国境に近い、タウンの政府の力が余り及んでこない穏やかな村であり、ここに暮らす人々も村のイメージそのままである。
 今、ひとつの物語が始まる…季節は春であった。


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