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夢見るHard Winds番外編・1
「もうひとつの風が吹く」

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「どうしたの、急に…」

 今までの動揺は一気に消し飛んだ。

「他のみんなにも声は掛けたんだけど…リーアはあの通り臨月だから動けないだろう? アレクも彼女に付いていた方がいいし。ジミーも大学に立つまでに片づけなくちゃ行けない用事があって駄目なんだって。…あのラベンダーのドレスは必ず、荷物に入れて置いて。あれ、まだ着たことないだろ?」

 ゆっくりとした微笑みで淡々と語るリードの心内は全く見えなかった。今日一日、明け透けなトムの快活な態度に触れていた身としては、容易くは受け入れがたい。

「明日の朝出て、夜行の汽車を乗り継げば…命日までにはたどり着けると思うんだ。丸2日あれば着くだろう」
 それから一端、言葉を切ってから続ける。

「…そうそう、俺は今日、図書館長に休みの届けを出したんだけど、キャシーの方は店を休める? 1週間ぐらいになると思うんだけど、どうだか聞いてきて。それが先だったね…」

 照れ笑いの表情も憎らしいくらい自然だ。

「…分かった」

 一度掛けたコートをまた着直す。
 袖を通しながら、夕まぐれの街並みに飛び出していった。

 

 

 リードのいきなりの発言には他の仲間達も一様に驚いたようであった。

彼はその行動は突拍子もないこともあったが、それは(例えば…いつかの複雑骨折のように)不測の事態によって引き起こされるものであって、考えること自体は慎重すぎるくらい普通だったのだ。

 それがいきなり仕事を1週間も休んで、出掛けようと言うのだ。

 

「ミスター・カーターによろしくね…お店を受け継いでくださったこと、本当に感謝しているの。お会いできなくて残念だわ」
 リーアはすまなそうに言った。リーアの父、オルフェインの雑貨屋を現在切り盛りしているのはカーター氏なのだ。

 この3年の間に、このラナリア村のあるガジューラ共和国と懐かしい人々の暮らすリース村のあるリディール共和国の間には鉄道が完備されていた。3年前は乗合馬車を何度も乗り換えての旅路だったが、今回は乗り物が汽車に変わる。乗り心地から言わせて貰えば、格段の進歩と言える。

 そうは言っても乗り換えて2日の道のりは臨月のリーアには避けた方がいいだろう。上の子達もいるのだから、その世話も考えなければならないのだ。

「カーターさんに電報を打っておいたから。よろしく伝えて…ポリスのみんなにも」

 ゴーストが退いて、新政府が樹立したリディール共和国では他国との交流もにわかに広がりつつあった。つい3年前まで伝令の早馬を走らせていたというのに、今ではそれがすっかり電報に取って代わっている。

 ゴーストを打破したあの事件の後…皆の心中を重んじてこの村のポリスへの移動を決意したアレクであった。リース村は住み慣れたいい場所であった、しかし…ロッドのことを初め、辛い思い出が多すぎる。また村人に自分たちの素性も知れてしまい…何となく居心地悪い気分なのも否めなかった。

 ゴーストが独裁的政治を行っていたのも確かだが、彼らの以前に同じように権力を我がものにしていたのは自分たち、タウンの人間だったのだ。新政府の人間の中にタウンの貴族を快く感じていない者が多いことも分かりきっていた。分かっていてやっていたことではないにせよ、贅沢を極めていた生活は多くの民衆の犠牲の上に成り立っていたのである。
 その事実を消し去ることは出来ないが、新天地で全てをさらにして生まれ変わりたい気持ちが確かにあった。

 ジミーは引っ越しの日程が迫っていた。教授との打ち合わせもある。簡単だがそれなりの試験もあるらしい。

「じいさんの墓参りもしたかったけど…」
 彼はすっかり大人びた顔で小さくぼやいた。

 多分、こんな風に立派に成長したジミーを誰より見たいのは新聞屋のダークじいさんであろう。だが、彼はもうこの世にいない。死んだ人間にはいくら会いたくても…言葉を交わして再会を喜ぶことは叶わないのだ。

 

 

「ダークじいさんが…もしも生きていたら、ジミーは日程をやりくりして同行しただろうな」
 半日ほど汽車に揺られてから、リードは外の風景に目をやったまま静かに言った。

「そうね…」

 ダークじいさんの話をされると、キャシーは今でもあの時の光景を嫌でも思い浮かべてしまう。

 モートンによって放たれた炎の中、繰り広げられたあの光景…

「…ごめん、嫌なことを思い出しちゃったかな?」
 キャシーの表情の変化に気付いたのか、リードは申し訳なさそうに微笑んだ。

「ううん、気にしないで…夕方には乗り換えでしょう? 座り続けるのもしんどいもんね」

 過去は忘れようとしてもいつでも付いて回る。だからきちんと付き合って行かなければならないことをこの3年でキャシーは学んだ。

 精神的な打撃が大きかったらしく、最初は火を見るのも怖かった。全身に鳥肌が広がり、身体じゅうの震えは止まらなくなる。 

 次は夜の暗闇が怖くなった。

 …ひとつひとつを乗り換えてどうにかここまで回復したのだ。

「行き遅れ」
と、実の弟に馬鹿にされても仕方ない。そんなこと考える精神的なゆとりは皆無だった。

「今夜は汽車の座席で寝ることになるけど…大丈夫かな?」

「気が高ぶっているから…眠れるか、心配だわ」
 ゆっくりと微笑み返す。

 懐かしい村で懐かしい人々が待っている…そう思うと自然に胸が高鳴る。それから、会話の流れに促されたように、ずっと考えていたことをやっと口にした。

「…どうして、急にリース村に戻ろうと思ったの? 私が行かなくてもひとりで戻るつもりだったでしょう…ロッド兄さんの命日なら去年も一昨年もあったわ。今年に限って、どうして…」

「聞くと思った」
 リードはこの質問を予期していた様に穏やかな口調で話し出した。

「理由は、これ」
 彼は内ポケットから何か取り出すとキャシーの手の上に置いた。

 それは…あの金の懐中時計だった。

「どうにかして動かせないかと預かっただろ? …で、思い出して…それで調べていたんだ、ずっと」

「時計の修繕のことを?」

「ううん、そうじゃなくて…」

 リードは左手でキャシーの手ごと包んで支え、右手で時計の蓋を開けた。

「ほら、これ」
 蓋の内側に文様のように彫られた文字を指さす。

「でもこれ…普通の字体じゃなくて読解が不可能だったでしょう?」

「どうも南洋の古代文明の文字じゃないかと言うことが分かった。図書館でその手の本を調べたんだけど、どうしても一部分からない文字があって…そしたら古本屋に古文書があると言うんだよね。だから昨日、マイヤに聞いてたんだ」

「そう言うことだったの…」
 どう見たって彼女の方はそれだけじゃすまなそうだったわよ、と言いたいのをかろうじて押さえた。

「で、分かったんだ。…何て書いてあったの?」

 丘の上の住人で悩んで分からなかった謎なのだ、知りたくないわけはない。

 身を乗り出したキャシーにリードは肩をすくめた。
「…内緒」

「え、どうして?」

 これは君が持っていなさい、と言うように懐中時計をキャシーに握らせてからリードは短く言った。
「村に着いてからにしよう、カーターさんにも聞きたいことがあって」

「いじわる…」
 その言葉にキャシーは拗ねたように呟いた。ここまで話を進めておいて「お預け」にするのはあんまりじゃないだろうか。

 そんなキャシーに柔らかい笑顔で応えてから、リードはまた、外の風景へと目を移した。

 

 汽車はラナリアのある高地を半日以上かけて下る。まっすぐに降りるわけではなく、ゆったりと周囲を回りながらなので暇を取られる。その後、乗り換えて北へ向かう路線に乗り換える。夜通し走って、早朝に国境近くの駅にたどり着く。それから先は直接、乗合馬車を使っても、半日ぐらい次の汽車に揺られてから歩いても…リース村への到着は夕刻になるという計算になった。
 

 

 乗り換えの時間を利用して早めの夕食を採り、夜行に乗り込んだ頃には春の夕陽が西の空へと沈んでいく頃だった。

 冬と春との狭間の透き通った空の海を漂うように、目に見えるほどのゆるやかな速度で茜色の夕陽は沈んでゆく。

 遥か遠くにあるそれは汽車がどんどん進路を進めても全く動かないように佇んでいるのだ。

 向き合って座るリードは顔を窓の方に向けたまま…眠っているのかもの想いでもしているのか、さっきから姿勢を変えない。

 いつもなら…こんな夕時は夕食の支度と洗濯ものの始末に明け暮れて忙しくしているのだが、今日はそう言う雑務がないので…少し手持ちぶさたな気がした。

 何気なく視線を外の風景に向けば、どうしてもリードの俯いた横顔を視界に入れてしまう。ほんの3日前までは何でもなかった。

 ジミーが突然あんな事を言い出さなかったら、もうしばらくは現実から目を背けていられたのだろうか?

 色々な考えが頭の中を過ぎる。自分がトムと付き合った場合、リードがマイヤと付き合った場合…そして。そんなことをごちゃごちゃ並べていたら頭痛がしてきて、目を伏せた。

 それでも瞼の裏側には沈んでいく夕陽の朱が残像の様に残っていた。

 

 耳元にカタカタという車輪の音が戻ってきた。

 自分が今どこにいるのかを一瞬考えてから、キャシーはゆっくりと目を開けた。

 リードが前の座席にさっきまでと変わらずに腰掛けながらこちらを見ていた。目が合うと、当たり前のようににっこり微笑む。

 背後の風景はもはや闇の中に葬られていた…いつの間にか眠っていたらしい。

 周りを見渡すとポツリポツリと座席を埋めている他の乗客も皆休んでいるらしく、物音ひとつしない。
 車両の中はカタンカタンという汽車の走行音だけが響いていた。昼間よりもひときわ大きく感じるのが不思議だ。

「…目が覚めたなら、ちょっと外に出る?」
 周りを気にしたごくごく小声でリードが言った。

 キャシーは無言のまま、頷く仕草で同意を示した。

 2人は足音を忍ばせながら客席の間の狭い通路を過ぎて、客室の外のデッキ部分に出た。
 臨時で荷物を置くこともあるのであろう広めのデッキ部分で周りは落下防止の手すりが巡らされていた。2両の客車の後ろ車両に乗っていたのでデッキはこの汽車の最後部に当たる。

 雲一つなく澄み渡った夜空に満天の星達がきらめいていた。

「貸し切りみたいで、贅沢な気分だね」
 もう声を落とす必要がなくなったので、リードの声はいつものトーンに戻っていた。彼は手すりの脇に置いてあった木箱に腰掛けて空を仰ぐ。

 ひっそりと静まりかえった風景は時々、思い出したように彼方の灯りを見せてくれたが、いくら目を凝らしてみても空と彼方の山脈との境も見極められないほどだ。客車の中から控えめなランプの橙色が漏れてくる。

 夢の続きを見ている様な不思議な気分になった。

 だからキャシーは今まで心にとどめていた言葉をすんなりと口にする事が出来た。

「ねえ、リード?」

「うん?」
 視線をキャシーの方に動かした拍子に彼の前髪が少し目に掛かった。それを右手でかき上げる。

「私たち、これからどうしたらいいんだろうね…」

 きっと自分は今、とても複雑の表情を見せているに違いない。笑っているような…泣き出しそうな、どうにも形容のしがたい心境にあったから。

「どうしたらって…ジミーが言ってたこと?」

 リードは曖昧にはぐらかすように言葉を濁した。彼の方も多分どうしたらいいのか分からないのであろうとキャシーは推察した。

「君は、どうしたいと思うの?」
 そう言ったリードの視線はまっすぐにキャシーを捉えていた。澄んだ濃紫…初めて会ったときから変わらない綺麗な色だ。

 後ろ手に手すりを握りしめて、キャシーは大きくひとつの溜息を付いた。でも…今なら言えそうな気がした。

「分からないの、私。アレク兄さんには最初からリーアという相手がいたわ。ジミーは私の弟だし…ロッド兄さんは死んじゃって。…それで丘の上の仲間の最後に残ったから、と言う理由で私たちが一緒になるのは…何かおかしい気がする」

「おかしい…?」

「だって、そうでしょう?」
 キャシーはするりと向きを変えて、リードに背を向けた。

「恋人とか、結婚とか…そこには…何て言えばいいのかな? とても相手のことを好きだという気持ちがなくちゃ、本当じゃないでしょう? でも私たちは、その前に仲間で…色々なことをくぐり抜けてきた同士で…誤魔化すように、ただ残り物同士がくっつくのもおかしいわ」

 そこまで一気にしゃべって、一息つく。

「私、リードに対して…仲間としての見方を変えることは出来ないと思う、ずっと。恋愛感情は持てないと思うの…でも」

「でも?」

「昨日、トムと話していて思ったわ」

 キャシーが言葉を切るごとにカタンカタンと言う音が主役に戻る。こうしている間も汽車は途切れない道を走り続けているはずなのに、周りの風景が見えないと揺れているだけでずっとひとつの所に留まったままのような気がする。

「私たちには他の人には話しづらい秘密が多すぎる。それに…分かち合いたい悲しみも抱えている。…そういうものを心の中に秘めたまま、何食わぬ顔をして明るく誰かと生きていくのは…確かにしんどいのよね…だから、分からないの…」

 ロッドのこと、ダークじいさんのこと…それからあの状況で命を落としたたくさんの人々。なにより…クーデターで命を散らした肉親たち。この感覚を何も知らない人に1から教えるのはしんどい気がしたし…そうやって話したところで分かって貰えるかは謎だ。

「…そう」
 リードはそれだけ答えると黙り込んでしまった。

 辺りはまた、汽車の音に包まれる。

 言いたいことを全部吐き出してしまうと、それなりにすっきりとはしたが…一方でリードの心中がにわかに気になりだした。

 大体…こちらの話に頷くだけで…彼の方は何を思っているのかさっぱり分からない。

 そんなキャシーの表情の動きに気付いたのか、リードは言葉を選ぶように静かに言った。

「そんなことだろうと、思っていた。…ねえ、ロッド兄貴に聞いてみよう、何か答えを出してくれるはずだよ」

「ちょっと、待ってよ!」
 キャシーは向き直った。

「ロッド兄さんはもう死んじゃったのよ! …どうしてそんな馬鹿なこと言うの? リードはどうなのよ!? 私の意見だけ聞いて、はい、そうですかって…ずるいわ、自分のことは話さないで」

 あらん限りの勇気を振り絞って、ようやく話した言葉をいいようにはぐらかされたようで納得行かない。

「でも、君は…」

 暗がりのせいで彫りの深さが際だって見える顔が何だか青ざめているように見える。

「ここで、俺に…何て言って欲しい…? 何て言ったら、納得してくれるの?」

 グッと言葉に詰まる…確かにそうだ。何と言われても納得できそうにない。

「村に行って、そして答えを探そう…きっと、何か分かるはずだから…」

 何にも変わらない気もする。その確率の方が高い。

 そう思いつつも、頷くしかなかったキャシーだった。

 

 

 2人の選んだルートは朝靄の中を出発する乗り合い馬車を使うことだった。たくさんの人間の中にいた方が気が紛れる様な気がしたからだ。

 でも同乗者に初っぱなから、
「あれ、新婚さん? …お似合いだねえ」
 とか、勘違いされて、いくら言い訳しても信じて貰えず…2人とも途中からは観念して、すっかり新婚さんと化して道中を過ごす羽目になった。

 それでも懐かしい言葉を話す人々の中にいて(ラナリアとリース村は言語自体は一緒なのだが、微妙に方言があるらしく何となくニュアンスが違うのだ)気分が落ち着いていくのが分かった。

 

 

「キャシー、リード!!」

 村の先まで出て、出迎えたのはイルミアおばさんだった。

「ああ、キャシー…すっかり見違えて…娘らしくなったね…」
 キャシーをきつく抱きしめたおばさんはもう涙声になっていた。

「ただいま、おばさん」
 キャシーの方も胸が熱くなる。

 どこからともなく流れ着いた孤児達を迎え入れ、暖かくその成長を見守ってくれたのはこの村の人々に他ならないのだ。

「やあ、リード。…今日は何処も怪我してないようだね」

「…ちょっと、キャシーと待遇が違いすぎないかい? ひでえなあ…」
 そう言いつつも、リードは照れ笑いを浮かべている。

「今日は長旅で疲れているだろうから、早くカーターのところで休むといいよ。明日はみんなでパーティーを開いてあげるからね」

「パーティー…、何の?」
 2人はきょとんとしておばさんを見つめた。

「決まってるだろう…」
 イルミアは思わせぶりでウインクした。
「お前達がこの村に里帰りしたパーティーさね」

「…、やだあ、みんなってば…」
 キャシーは声を立てて笑った。

「ほら、カーターが腕によりをかけて男やもめの料理を作ってるよ。早く行きなさい…ゆっくり休むんだよ!」

 3年の時が過ぎてもイルミアは少しも変わらない感じだ。

 それは、自宅に迎え入れてくれたカーター氏にも言えることだった。

「ほら、カーター。客人がご到着だよ〜聞いておくれよ、2人とも。この男、いくら私が嫁の世話をしてあげても…何処吹く風。のたれ死んでも知らないからなって言ってやってんだよ!」

 その言葉にキャシーとリードは顔を見合わせて吹きだした。おばさんの世話焼きは相変わらずらしく、そのたびに当惑しているカーター氏を容易に想像できた。

 

 イルミアが去ってしまうと、カーター氏は少し表情を変えた。それは仲間内だけが共有する、憂いを含んだ笑顔だった。

「…そろそろ来る頃だと思っていたよ…道中、ご苦労だったね」

「早いものですね…3年たってしまいましたよ」
 勧められた椅子に腰を下ろしたリードが静かに言った。

 家はリーア親子の暮らしていた雑貨屋の奥を少し改築したものだった。必要最低限に揃えられたシンプルな作りの家具がしつらえられ、掃除の行き届いたさっぱりとした屋内である。

「ミスター・カーター…何だか感じが変わったみたい…」
 キャシーは小首を傾げて呟いた。

「…そうかも知れませんね。ゆとりのある生活をすると人間が丸くなるようですね」
 お茶のカップを勧めながら、カーター氏も嬉しそうに言った。もうすっかりこの村での生活が身に付いているようだ。

「仲間の人たちから、政府に加わらないかと未だに言われているんでしょう?」

「そんな気分でもないですよ…」
 リードの問いにもゆっくりした口調で、でもきっぱりと答える。

 それから自分も椅子に腰掛けるとにこやかに2人を見比べた。

「…さて。私に何か、聞きたいことがあるんでしょう?」

「どうして…分かるんですか?」

「勘、ですよ」

 そのやりとりをキャシーは言葉を挟まずに見守っていた。そういえばリードはカーター氏に聞きたいことがあると言っていた。それは何なのだろう…?

「あなたが…グレイン家、キャシーとジミーの生家に仕えた頃のことをお聞きしたいんです」

「何を、です?」
 カーター氏はテーブルに肘をつくと顎の下で両手を組んだ。

「…アレクが前に言ってました。俺自身は覚えてないけれど…タウンの貴族では当たり前のように年少の頃から家同士が決めた婚約者がいたって。本人の意思を聞くことなく、家の繋がりを強固にするための結婚であったと」

「…キャサリン様やジェームズ様にお相手がいらっしゃったかと言うことですね?」

 言いにくいことを訊ねるために言葉尻を濁してしまうリードに対してカーター氏ははっきりと言った。

「…私の、こと…?」
 目をぱちくりさせたキャシーを取り残して、2人の会話が進んでいく。

「そりゃあ、いらっしゃいましたよ。私たち、使用人から言わせるとお館の皆さんは何もかもをしがらみに縛られて…不自由に見えましたね。…でも、そんな中でご主人様や奥様は年の頃も合うようなお方をお選びになりました。…奥様の姉上様は30も歳の離れた方の所に後妻に入り、苦労なさったそうなのです。そんなことも当たり前の事でした…想像できますか? 30と言ったら私とキャサリン様位の歳の離れがあるんですよ」

「……」
 キャシーは息を飲んだ。
 カーター氏が嫌いとかそう言うのではなく…本人の意思を無視して親ほども歳の離れた人と当然のように結婚させられる異常さに目眩すら感じた。

「おうち同士の繋がりがあり、なおかつ…キャサリン様とお似合いになるようなお相手…」

「…で、相手の方は、もちろんキャシーが自分の婚約者だって知っていたんですね」
 リードは何か掴んだかのように話を進める。

「そりゃあね、遊びにいらしたこともありましたよ…ユリウス様ーキャサリン様のお兄さまのお友達でいらっしゃいましたし」

「…そうですか…」

 静かに。

 それだけ言うと、俯いた。

 リードはそれから額に手を当てて何か思案していたようだったが、ややあってキャシーの方を振り向いた。

「…夕食まで、ちょっと風に当たってこないか?」

 彼の言葉にカーター氏は分かったように頷いた。

「お二人がお戻りになる頃には、もう召し上がるばかりにしておきましょう」
 そう言って送り出してくれた。

 

 

「…何処に行くの?」

「大体…見当が付いているんじゃないの…?」

 リードが勝手知ったる道をずんずんと歩いていくのをキャシーは後から追いかけた。
 そう。

 それは…9年間、親しんだ家路への道だった。

「手紙でも…何でも良かったんだ、カーターさんに聞く手段は。でも…やっぱり、直接会って答えを貰いたかった」

「……」

 夜露の降りた日没後の道はしっとりとして水気が足にまとわりつく。
 丘の上の小屋と傍らの大きな樹がもう目前にあった。

「…時計、持ってる?」

「うん…」

 リードが差し出した手のひらに、キャシーは金の懐中時計を置いた。

 彼は時計をキャシーに見えるようにして蓋を開く。

 闇に包まれつつある空気の中で、文字盤は判別できなかったがリードはしっかりとした声でこう言った。

「…我が愛する妻、キャサリンへ」

 キャシーは。

 心の何処かで分かっていたような気がしていた。

 気付いていながら封印していた記憶が一気にあふれ出す。

「送り主の著名は…分かるね」

 そのまま2人は樹を回って…小さな石を置いた小山の前に立った。

「ロッド・オールソン…でしょう?」

 静かな風が2人の前を吹き抜けた。リードのブロンドとキャシーのオレンジがかった金の髪が柔らかく流れる。

 石の前には村人達が飾ってくれたのであろう、春の花が溢れていた。

「そっか…そうだったのか…」
 自分に言い聞かせるように何度も頷きながら石の前にうずくまった。目から涙が知らず、溢れてくる。 

 幾らかの間、リードもその隣りで黙ったままでいた。

「あのね、キャシー…」

 キャシーの気持ちが幾分落ち着いた頃、リードは静かに話し始めた。

「…多分、ロッドは君が大人になって自分で色々なことを判断できるようになるまで待っていてくれたんだろうな。この時計をあの夜に持ち出すことが出来たのは偶然の事であっても…その前に何らかの方法でこれを作らせていたんだよ。わざわざ普通の人が読めないような昔の文字を使って…結構、凝り性だったんだね。いつか君に渡すつもりでいたんだろう」

「そうなのかなあ…全然分からなかったけど」
 やっぱり、戸惑いは隠せない。

「今となっては、聞くことも出来ないけどね…」
 寂しそうに微笑みながら、リードは答えた。

「ねえ、こういう風に…同じ人を懐かしめるのって…貴重だと思わない? 亡くなった人を思うのは…寂しいことだけど、俺はこういう気持ちを共有できるのはキャシーだけだと思うんだ」

 目で確認しなくても、リードがこちらをしっかりと見つめていることが分かった。

「でも、私は…」

 懐かしい場所で懐かしい風に吹かれていると、昔に戻れた気がする。でも変わってしまったこともある…もう、会えない人たちもいる。俯いたままのキャシーの手をリードはやさしく包んだ。2人の手の中には止まったままの時計があった。これが再び、時を刻むことはもうないであろう…ロッドがもう2度と笑いかけてはくれないように。

「恋愛対象とは見られないと言っても…俺のことは嫌いじゃないだろ? …俺は少なくともキャシーのことがとても大切だと思っているよ。今までも、これからも…」

 顔が近づくと、夕闇の中でもお互いの顔がはっきりと見えた。

「頑張ってみてくれないかな…? 人を思う気持ちって、そう激しいものだけが全てじゃないと思うんだ。お互いを大切だと思うのもひとつの愛の形だと言ったら…ちょっとキザかな」

 キャシーは何かに背中を押されるようにリードの胸にと飛び込んでいた。

「…いいの? 本当に?」

 心臓の鼓動と呼吸のリズム、今までどんなに近くにいても感じられなかったものがすんなりと手に入った。

 自然な感じで背中に腕が回される。自分の中に新たな感情が湧いてきたのに気付く。

「ゆっくりと、幸せになろう…急ぐことはないんだから」

 リードの声が少しだけ熱っぽく感じられた。

 …と。

「…あ、でも。他に誰かいるんなら、君には選択の余地があるんだよ」
 大事なことに気付いたように、リードは急にいつもの感じに戻った。少し腕が弛む。

「そうねえ…」
 そんなリードの慌てぶりがおかしくて、キャシーはくすくすと笑った。

「…トムはあなたより背が高いし頭もいいわね。性格も分かりやすいし裏表なくて明るいし…頼りになりそう」

「おいおい」
 ここまで言われちゃ、リードとしても立つ瀬がない。

「でもね」
 照れ隠しにリードの胸に額を押しつけた。

 それから彼の顔を見上げてゆっくりと微笑む。

「どちらを選べと問われたら…私はあなたの方がいいわ」

 その言葉にリードはホッとしたようにいつもの笑みを浮かべた。

 やがて。

 夜霧に包まれた2人の影がひとつに重なるのを揺れる花達だけがひっそりと見ていた。

 

 

「キャシー、ちょっと!?」

 翌日。

 言われた時間に中央広場に2人が出ていくと、早速、イルミアに呼び止められた。

「あんた達、今回はロッドに結婚の報告をするためにここに来たんだって!?」

 周りの人が一斉に振り向くような特大音声に返答も忘れてしばし呆然としてしまった。

「ちょっと、おばさん〜違うのよ、そんなんじゃないの」

「何照れてんだよ、今更。あんた達が実の兄妹じゃないことぐらいこの村のみんなは分かってるんだ。そうと決まっちゃ、じっとしていられるかい? 今日はみんなの前でお披露目だよ!」

「だからあ、違うの! 私たち、まだそんなんじゃ、本当にないのよ…」

 キャシーの必死の訴えにも聞く耳を持ってくれそうにない…リードと言えば、余りに話が飛躍してしまったのとイルミアの迫力に圧倒されてさっきから会話に加わることも出来ずに呆けている。…先が思いやられる頼りなさだ。

「まだ、と言うことはそうなるのも時間の問題だと言うことだろう? …そうなんだよね、カーター」
 イルミアはさらに早口でまくし立てる。

「…そのようですよ」
 傍らで静かに見守っていたカーター氏がにこやかに微笑むと静かに同意した。

「ミスター・カーターまで…」
 キャシーの責めるような口調にも動じない。

「…私はイルミアさんには極力、反論しないようにしているんです。話の矛先がこっちに来られても困りますしね」

「もう…」
 すっかりむくれてしまったキャシーの耳元でリードの声が囁いた。

「いいんじゃないの? …予行練習だと思ってさ、孝行しようよ。いままでさんざん世話になってきたんだし…」

「もう、リードまで! …知らない、みんないい加減なんだから!」

 すっかりへそを曲げてしまったキャシーがリードを睨み付ける。

 

 イルミアに捕獲され、果物屋の奥に引きずり込まれた彼女が再び懐かしい人々の前に現れたとき、一同から歓声が上がった。

 視線の先には照れた表情のリードがいる。

 キャシーは観念したように手を差し出した。

 

 見上げると懐かしい空は雲一つない快晴だった。

fin(2001,9,8)
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