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………1 

 

 

 唯子、唯子。私のただひとりの娘。
 あなたがしあわせに生きてくれることがただひとつの望み。
 どうか、心の灯火を絶やさないで…この世にひとつしかない命で、精一杯生き抜いて。

 

◇◇◇


 石畳のなだらかな下り坂。少女はそこを勝手知ったる庭、と言った感じで駆け下りていく。渉はそのあとを必死に追いかけた。さらさらとなびく薄茶の髪が、かの人を思い起こさせる。思い出すなと自分に言い聞かせてもそれは出来ない相談だ。

 もう二度と追いつくことの出来ないその人の残像を確かめるが如く、現実と幻想の狭間を意識が行き交っていた。

 


「いくの、ゆいこ、4さいです。わたるおじちゃん、はじめまして」

 たった4歳の幼子なのに。彼女は渉が泣きやむまで、ずっと大人しくしていた。案内してくれた看護婦はさっさと自分の持ち場に戻ってしまい、彼は初めて出逢ったその少女とふたりきりで北向きの霊安室に残された。傍らの小さなベッドで少女の母親である人が永久の眠りについている。

 二度と語ることのないその人に聞かなくてはならないことがたくさんあった。詫びなければならないこともたくさんあった。そのはずなのに…渉に出来ることと言ったら、信じられない事実にただ涙を流すことだけ。いい歳をした大人が情けないと思いつつも、止める術も知らなかった。

 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。渉が呼吸を整えて面を上げると、少女は変わらずに高いスツールに腰掛けたまま、にっこりと笑ってこちらを見ていた。胸元でキラキラとペンダントが揺れる。そして、彼の眼から新たなしずくがこぼれないことを何度も確認した後、しっかりした声で自分の名を告げた。

「ゆいこ…ちゃん…?」
 渉はゆるゆると口の中で反芻した。少女の名前、多分、彼女の母親が名付けたのであろう名前を。

「おじちゃん、ひとりで来たの? おばちゃんは? あきこおばちゃんも来てくれるんじゃないの? ママがそう言ってたよ。病院の人にちゃんとお願いしてあげるって」

「…ああ、うん」
 何がどうなっているのか分からないまま、返事する。成美が、この子の母親が、自分がもう先がないと分かってそう言ったのか。でも、ならばどうして? 病院側だって、もっと早く教えてくれれば良かったのに。せめて亡くなる前に…彼女の意識があるうちに。


 今朝。久しぶりに成美のことをはっきりと思いだした。まっすぐに伸びた新緑の枝が、彼女のしなやかな姿を思い起こさせていたのだろうか。
 誰にも告げず、姿を消した彼女。忘れた頃に住民票が移されていた。転々と繰り返される転居先を鬼ごっこのように追いかけたこともあったが、いつしかそれもやめてしまった。こんなにも振り切って逃げるのだ。何か訳でもあるのかも知れない。そうしているうちに、5年の月日が過ぎていた。

 …もしも。

 彼女が、幸せになってくれているのなら、それでいいと思わなければならないだろう。自分には出来なかったことを他の男がなし得ると言うのも口惜しいが、それは仕方ない。

 そう思っていたところに、妻からの電話だ。成美が死んだのだという。自分たちからそれほど離れていない県境の病院で。自分はすぐには行けないから、と涙声で語る妻をなだめ、まずは渉が単身でやってきた。看護婦に案内されて霊安室に入る。するとそこには、かの人の亡骸だけでなく、見知らぬ少女が付き添っていたのだ。


「伯母ちゃんはね、息子が戻ってくるまでは家にいなくてはならないから。でも、これから連絡するからすぐに来るよ?」

「…息子? 翔太お兄ちゃんのこと!?」
 少女…唯子は、大きな瞳をくるくると動かしながら、嬉しそうに叫んだ。体中からうきうきとした気持ちが溢れている。
 本当に母親を亡くしたばかりの娘なのだろうか? 疑わしくなってくる。だが、この唯子という少女は紛れもなく成美の娘だと思う。これだけ似ているのだ、そうじゃないと言う方が苦しい。多分、妻がこの子を見てもそう思うだろう。

 だが。どうして、この子はこんなにも自分や妻、息子のことまでをよく知っているのか? 自分たちは成美の失踪後、今日までのことも、ましてやこの少女のことも全く知らなかった。それなのに…。

「ゆいこちゃん、私たちのことを…お母さんに聞いたの?」
 恐る恐る、そう訊ねてみた。この子がどこまで知っているのか分からない。成美と自分のことはふたりだけの秘密だった。成美がいなくなった後も、妻はそれを疑うことはなかった。永遠に封印されたことだと思っていたのだ。

「うんっ!」
 唯子はスカートのポケットから、紙切れの様なものを取り出した。それを渉に手渡す。四つ折りになったそれを広げてみると、それは親子三人の和やかな家族写真だった。

「渉おじちゃんと、晶子おばちゃんと、従兄の翔太お兄ちゃん。翔太お兄ちゃんは、きっともっと大きくなってお顔とか変わっちゃったと思うけど、おじちゃんたちはあまり変わってないはずだから、すぐ分かるよって。晶子おばちゃんはママのお姉ちゃんなんでしょう?」
 彼女はもうすっかり覚えていることを、自慢げに披露している、そんな感じに説明する。

 渉は写真を裏返してみた。そこには見覚えのある綺麗な字でこう書かれてあった。

『私の娘の唯子です。どうぞ宜しくお願い致します・成美』

「ママが、いつも教えてくれた。今は会えないけど、きっと会えるって。だから、ちゃんとお顔は覚えておきなさいって」

 自分の亡き後のことを、姉夫婦である自分たちに託した。それが何を意味しているのだろう。病院側に聞けばいいのか? だが…。しかし、こんな小さな少女にそれを訊ねていいものか、渉は分からなかった。

 でも、何も知らないままだったら、説明のしようがない。晶子はこの娘を見て、一体どんな反応をするだろう。ただひとりの肉親である妹・成美が死んだのだ。今ですら、あんなに取り乱している。それを…その上に…。

 さやさやと、木々が揺れる。開け放たれた窓から、並木の揺れる音が注ぎ込んでくる。背中を押された気がした。成美がそこにいたのかも知れない。

「唯子ちゃん、…君のお父さんは? どこにいるの?」

 すると、彼女はきょとんとした顔になって、じっと渉を見つめた。そのまっすぐな瞳に射抜かれて、正直眼をそらしたい自分がいた。こんないたいけな少女よりもずっと臆病な自分が情けない。

 返事を待つわずかな時間が永遠にも思えた。手のひらには知らず、汗が滲んでいる。しかし少女は渉のそんな心内などは全く知らないように、あっさりと簡潔に言い放った。

「唯子のパパは、最初からいないの。ママがそう言ったよ?」

 


 少女がまっすぐに目指した場所は、病院からそれほど離れていない小さな公園だった。真ん中に大きな噴水が設置され、それを囲うように様々な遊具が配置されている。午後の日溜まりの中で人影はなく、風に揺れているブランコに彼女はすぐに飛び乗った。器用にこぎ出す。
 息子の翔太はブランコが苦手で、押してやらないとうまく扱うことが出来ない。必ず駄々をこねる。しかし目の前の少女はいともあっさりとやってのける。

 晶子に、連絡を取った。そして、成美を確認したと告げると、彼女もこちらに向かうと言った。翔太は友達の家に預けるらしい。これから葬儀のことなど取り決めなければならない。子供がいては落ち着かないからと言った。

 …こちらにもひとり子供がいるのだが、とはとても言えない電話口だった。とうとう唯子のことを告げられず、話を終えてしまった。

 

 ふう、とため息を付くと、何だか高いところから声がする。顔を上げると無人のまま揺れるブランコの向こうのすべり台の上で、唯子が手を振っていた。つられて手を振り返しながら考えてしまう。…彼女の父親は…誰なんだろう?

 晶子は、妻はあの子を見れば、最初にそれを思うのだろう。日数から考えても、成美があの子を宿し、それを知った上で自分たちの前から姿を消したと考えるのが妥当だ。『パパは最初からいない』…となると、どういうことなのだろうか? それ以上のことは、恐ろしくて考えられない。考えようとしても心が立ち止まってしまう。

 ――まさか…やはり、それは…?

 不意に頬をやわらかい風が撫で、ふっと思いを途切れさせる。鮮やかすぎる風景。全てが勢いを上げて伸び上がる季節。その中で、ひとりの人間がはかなく世を去ったのだ。他の誰にも看取られることを好まず、ただ、ひとりの娘を傍らに。自分は…ともかく、妻の晶子は血の繋がった姉なのに。その人をも避けることがどうして必要だったのか。

 そして、唯子が首からさげているペンダント…に見えるもの。金の鎖を通したプラチナの指輪。それこそが自分が成美の誕生日の夜、贈ったものだった。

「…今日は…帰らないで…ずっと、側にいて」
 揃いの指輪をお互いの指につけた時、彼女はそう言った。今までどんなに遅くなっても、家に戻るようにと言って聞かなかったはずなのに。あの夜だけは…。

 翌朝、自分をアパートの玄関先で送り出した、それが彼女を見た最後だった。

 捨てられても仕方がないものだったのに、成美は持ち続けていた。そして、それを娘である唯子に託したのか。…どうして? 何のために…。

 考えれば考えるほど、混乱する。どうしていいのか分からない。

 だが、自分たちを信じ切っている無垢な瞳をどうして無下に出来るであろう。生い立ちはどうであれ、彼女には生きる権利があるのだ。そして、多分、彼女はそれを知っている。そうやって育てられてきたのだ。だからこそ、その姿に微塵の影もない。まっすぐに素直に伸びた感じだ。

 

「おじちゃ〜んっ!」
 ばすっと、体当たりに突っ込んでくる。細くて、頼りない身体。無意識のうちに抱きしめていた。息子の翔太くらいしか抱き上げたこともない。男の子はもっと骨張って重いのに、このふわふわした身体は羽のように軽く感じる。柔らかな香りがして、…やはり、あの人の娘なのだと実感する。親子とはこれほどまでに似ているものなのか。

「ふふっ…」
 唯子がくすぐったそうに、首をすくめた。

「おじちゃん、きゅーってしかたが、ママみたい。似てるね」

「…え?」
 びくりと身体が揺れる。些細なひとことに心の奥が波立つ。それは期待しているからなのか、危惧しているからなのか…?

「あったかくて、気持ちいい。…ママがいなくても、やっぱり大丈夫だね。晶子おばちゃんも、こんなかな? ママのお姉ちゃんだもんね」

「…そうだといいね」
 名残惜しいとは思いつつ、腕を解く。いつ、晶子が来るだろう。そう思うと気が気ではない。もしも彼女が来た時にこの子を抱き上げていたりしたら、余計な詮索をされたりするんじゃないだろうか?

 どうして、そんなことまで考えてしまうのだろう。…こんな自分だから、成美に愛想を尽かされたのだろうか? もしも…彼女が、自分にすがってくれたら…どうしていただろう。全てを捨てることが出来たのだろうか?

 考えても考えてもまとまらない。全てが堂々巡りをしていく。

 

 また、違う遊具に走っていく唯子の背を目で追う。それほど大人に依存することもなく、しなやかに自分の世界を持っている子供だ。突き放さず、かといって過保護にせずに、丁寧に育てられた感じがする。

 翔太や、その友人と言う子供たちをそんなに数は多くないが見てきている。皆、似たようでいて、結構多様で驚いてしまう。彼らの後ろには絶えず、彼らを育てている大人たちの姿が見え隠れする。皆、それぞれの親にそれぞれの形で育まれているのだ。
 翔太などは、生まれた頃からアトピーが酷く、物心付かないうちから入退院を繰り返していた。妙に悟りきったところと、歳不相応に甘えるところがアンバランスで、集団生活にとけ込みにくいらしい。人見知りも強い。

 それが今、目の前にいる唯子はそんな息子とはあまりに対照的だ。ほとんど初対面である自分に対して、少しも臆するところがない。ほんの少しの場面ではあるが、病院内でもそう思った。看護婦にも受付の女性にもにこにこと挨拶する。
 きっとこれはこの子の傍らにいた成美がそのようにしていたのだろう。母親がするように自然に身に付いて来たのではないか。語尾ののばし方や上げ方まで、面影はつきまとう。子は親を見て育つのだ。自然に育まれていくのだ。今更ながら、そう気付く。

 いつまでもふたりきりで霊安室にじっとしているのもどうかと思って困っていると、彼女の方から渉の手を引いた。公園に行こうよ、とにっこり笑う。まるでこちらの心を見透かしている様だった。小さな手が確かな意志を持って、渉を誘った。

 

 ――成美は、自分の命が短いことを知っていたのだろう。

 元々身体が弱く、そのせいで子供を産むのは難しい身体だと医師から言われていたという。そのため、過去に付き合った男からも結婚については難色を示された。成美自身は性格的にも本当に良くできた素晴らしい女性だったと思う。自分が愛した人だから間違いはない。…でも。 

 そんな彼女が無理をおして出産したのだ。それによって、どんなに苦しく辛い思いをしたのだろう。妊娠中は薬を飲むことを制限される。となれば、病気の症状を抑えることも出来なかったわけだ。しかもひとりで、ひとりきりで。どうして、そんな選択をしたのだろう…?

 ただひとりの、命を生み出すために…彼女が犠牲にしたものはあまりに大きい。

 

「…おじちゃん…?」
 いつのまにか、唯子がまた傍らに立っていた。そして、難しそうな顔をしてこちらを見上げている。

 どうしてだろう…? と考えて、ああ、そうだと合点がいく。彼女の無垢な心は今の渉の心を綺麗に映し出しているのだ。

「おじちゃん…悲しいの?」
 くるくると動く瞳が、少し潤んでいる。びくりとしてしまう。綺麗な心とはこれほどまでに怖いものか。

「ど…どうして?」
 つくり笑いをして、訊ねる。4歳の子供に臆する自分が滑稽だ。だが、確かにふたりの関係は逆転していた。

「だって」
 ふうっと、大きく息を吐く。少しの言葉を発するために、とてつもなく大きなものが必要なように。

「さっきも、…たくさん泣いてた」

「え…?」

 じっと見据えられている、大きな双の瞳。綺麗な茶色、成美と同じ色。彼女もいつも少し潤んだこんな眼で自分を見ていた。まるでどうしようもないこの心の裏側までをも全部知っているように。

 そう思ったら、たまらなくなった。何か見えないものに押されている。恐ろしくて…飲み込まれそうで…。だから、つい大声で叫んでいた。自分でもそれを止めることが出来なかった。

「だってっ…! 君のママが死んだんだろうっ!? 君の方こそ、おかしいじゃないかっ! ママが死んで悲しくないのかいっ!?」

 言ってしまってから、ハッとする。一体、何でこんなことを…小さな子供に対して、何を言ってるんだろう? 視界がぐらりと揺らぐ。自分が自分でなくなっていくような、妙な倦怠感が身体を走った。

 くいくいっと。引っ張られる。巻き込まれそうになる大きな渦の中から自分の意識が引き戻されていく。ようやく焦点のあった眼で見ると、唯子が自分のスーツの裾を引っ張っていた。大きな丸い目は、相変わらず不思議そうにこちらを見つめていた。

「…おじちゃん…?」
 小首を傾げるその仕草が、やはり似ている。髪までが同じようにさらさらと流れていく。

「どうして…? 唯子は泣いちゃ、駄目なんだよ?」

「え…?」
 それは意外なひとことだった。意外すぎて、逆に気抜けしてしまう。あどけない表情のその奥にはそれ以上のものを認めることは出来なかった。

「唯子は、しあわせじゃなくちゃ、いけないの。しあわせにならなくちゃいけないの」

 渉はハッとして、改めて目の前の少女を見た。自分はとんでもない布石を踏んでしまったのではないだろうか? 取り返しの付かないことをしてしまったのではないだろうか…?

 しかし。しばしの間をおいて、唯子はふっと微笑んだ。

「おじちゃんも、もう…泣いちゃ、駄目だよ?」

 思わず。もう、見境もなく、抱きしめていた。小さな身体、強く抱けば壊れてしまうほどの。この中にどれほどの強いものが宿っているのだろうか? いつの間にか膝を付いて、折れそうな細い肩に顔を埋めていた。

 

 …だって。唯子の手が震えていたのだ。何でもない顔をしながら、でも自分のスーツを握りしめる手が、ふるふると…。でも、それに気付かない振りをするのが、今の自分に出来る全てだと思った。

 

「そう…だね、本当に、そうだね…」

 また、涙が溢れそうになる。今度はそれを必死に堪えた。泣いてはならないのだ、自分には涙を流す権利などないのだ。

  


「ねえ…唯子ちゃん?」
 病院への坂道を小さな手を引いて歩きながら、ゆっくりと話しかけた。晶子が今、駅に着いたと携帯に連絡してきたのだ。そろそろ戻っていなければ。

「それ…おじちゃんが預かっていいかな?」
 渉の指が、唯子の首に掛かった細いチェーンをつまんだ。

「え…?」
 その時。初めて、唯子は泣き出しそうな不安げな顔をした。だから、次の言葉を語るのはちょっと怖かった。

「大切なものなんでしょう…? なくしちゃうといけないからね。おじちゃんが唯子ちゃんが大きくなるまで、持っていてあげる」

 その言葉に。唯子は目に見えるくらい、息を飲んだ。小さな身体全体でどうしたらいいのか考えている。そして、渉も忍耐強くその答えを待った。

「だいじに、してくれる?」
 唯子が絡めた方の手の指にきゅっと力を込めた。

「ああ…」
 渉は出来る限りの笑顔を作って、彼女の襟足に腕を回した。かちり、と金具が触れ合う音がする。やがて金の鎖とプラチナのリングが彼の手に収まった。

 

「…さ、唯子ちゃん。おばちゃんに会いに行こう?」

 西の空が茜色に染まり始めた風景の中、長い影を踏みながら並んで歩く。なだらかな坂道がこれからの行く末を暗示している様に思えた。そして、それを知っても知らない振りをすればいいのだと、何度も自分に言い聞かせた。


 

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