「これが、あきこおばちゃん。ママのおねえちゃんなんだよね? …ねえ、おねえちゃんって、どんな?」
◇◇◇
病院の玄関先で夫である渉が出迎えてくれた。会社を早退して、妹の元に駆けつけてくれたのだ。こちらが動転して電話をしたのに、夫の対応はしっかりしていて嬉しかった。久しぶりに自分たちは会話らしい会話をしたような気がする。これから色々なことを処理しなくてはならないが、ひとりでこなさなくていいのだと思うとホッとした。 でも…その背後からぴょこんと顔を覗かせた小さな子供の存在に次の瞬間、全ての意識を奪われる。さらさらと肩までの髪を揺らし、大きな茶色の瞳がこちらを見た。しばらくはこちらの表情を探るように見上げていたが、やがてふわっと目を細めて綺麗な笑顔を作った。 「いくの、ゆいこです。晶子おばちゃん、はじめまして」
…軽い目眩を覚える。どこかで意識の糸が切れて、遠く夢の世界へ引き込まれる…そんな錯覚すら覚えた。
◇◇◇
両親を亡くしたあと、頼れる親戚もなくふたりで身を寄せ合って生きていた。自分は頼れる「姉」を演じ、成美は従順な「妹」であった。 ただ…ひとつだけ、困ったことがあった。それは成美の持病の喘息(ぜんそく)である。長期の入院をするほどではないが、季節の変わり目などには酷い発作が起こることもあり、そのたびに救急車を呼びつける羽目になった。それは両親の存命の頃から続いていることで、晶子にとってももう決まり切った年中行事のように感じていた。 「ごめんなさい、姉さん」 「…何、言ってんのよ」 「あんたの世話をするのは、姉として当然のことでしょう? いちいち礼を言われる筋合いもないわ」 そのきつい物言いに、成美はふっと顔を崩した。彼女は晶子の心の奥にあるものを確かに承知していたのだ。だからあんな安心した表情をしていた。それが愛おしくて、だけど妬ましかった。守る者と守られる者…その決まり切った定位置が煩わしく感じることもある。 「成美ちゃんは、可哀想にね…」 「晶子ちゃんは健康で良かったわね。…幸せね」 だが。幸せと不幸せ、そのボーダーラインは一体どこにあるのだろう? それをいつも考えていた。 身体が弱いために両親から大事にされ、何かと心配され手を掛けられている妹。引き替え自分は? 何でもひとりでしなさいと、突き放されていた。それが別に愛情の違いだったわけではない。ただ、手が足りなかっただけだ、それくらいは分かっている。でも…成美が熱を出したからと言って、授業参観などの行事を欠席される辛さは何度経験しても口惜しかった。 仕方ない、どうしようもないんだから、と思いつつも…やはり気になってしまう。成美が小さくくしゃみをしただけで、背筋がびくっとする自分がいた。
「部屋数は余っているんだし、別に追い出そうなんて思ってないわよ。今まで通りにここにいればいいじゃないの」 裏切られた、と思った。ずっと一緒だったのに、全ての面倒を見てやっていたのに。どうするんだ、ひとり暮らしのアパートでいきなり発作が起こったら。自分で救急車が呼べずに取り返しのつかないことになったら…!? ひとりじゃ何も出来ないくせに、何を粋がっているんだと腹が立った。 渉との結婚を決めた時、実はもう晶子のおなかに子供がいた。その子が産まれてから、ようやく成美は実家である晶子たちの暮らす家に頻繁にやってくるようになった。何故なら、産まれてきた息子が成美と同様の体質を受け継いでいたから。 環境の変化のせいか、成美の年少の頃よりはアトピーなどの症状が重い。ハウスダストなどと言う聞き慣れない言葉がお目見えする。いいと言われればどんなに遠い病院の医師にも診察してもらいに行ったが、どこでも同じような診断しかされることはない。ずっと妹の面倒を見てきたのに、今度は我が子で苦労することになるなんて。何という因果なのだろう。
そうしているうちに、成美を誰かに縁づけられないものかと考え始めた。幸い、人当たりのいいやわらかな性格の娘だ。身体のことなど惚れてしまえば何とでもなる。儚すぎる外見も男心を大いにくすぐるものがあると思った。 早速、色々と手を回してみた。しかし、もう少し、と言うところでいつも話が流れてしまう。結納の日取りの決まった話だけでもいくつかあった。それでも…あともうちょっとのところで、成美は相手に全てを打ち明けてしまうのだ。 酷い時は月に二度も救急車の世話になることがあること。そして…主治医に最初から子供を産むことは諦めるように言われていること。妊娠時に今飲んでいる薬をやめたら、それこそ命に関わってくる。最悪赤ん坊と共に死亡するパターンだって起こりうるだろう。 ――そんなこと。全てがまとまったあとに言えばいいのに。発作が起こってから、打ち明ければいい話なのに。どうして馬鹿正直に話してしまうのだ。自分が幸せになりたいという希望がないのか?
3年4年と過ぎて。それがようやく薄れてきて、平穏な毎日が戻ってきたのだ。翔太の身体も心配だったが、どうにか普通学校に入学することが出来た。あまり症状が酷いと養護学校に回される例もあると聞いていたのでそれなりに覚悟していたから、入学通知を受けた時は嬉しかった。 これからは少しまとまった時間が出来る。ようやく手に入れた自分のための時間。どうしよう、何に使おう…胸がわくわくしてくる。そんな矢先の。本当にそんな矢先の…妹・成美の訃報だったのだ。
◇◇◇
…でも、この事実を受け入れるしかないだろう。目の前の少女はどこをどう見ても成美に生き写しだった。見つめられる瞳の色まで寸分違わない。どうしたらここまでそっくりになるのか、分からなかった。 そう…まるで、思い出がねじれ曲がって、あの瞬間――小さかった頃の記憶の中から、成美が飛び出してきたように。
目の前の出来事をどうにか受け入れると、次に心を占めたのはこの子の父親の存在だった。聖母マリアじゃあるまいし、まさかひとりだけで子供が産めることはない。なんかしらの行為があり、その結果の事実なのだ。
これからの色々を取り決める中で、宿直の看護婦に少しの間、少女を預ける。夫婦ふたりきりになったところで夫がこちらの心中を探るような瞳で聞いてきた。 もう辺りはとっぷりと暮れている。病院の診療時間も終了して、わずかな宿直の看護婦と医師残すのみだ。成美はそのままこの近所にある葬儀場に運び、そこで全てを行うことにした。 役場関係の手続きなども、明日になってからだ。早く翔太も引き取りに行かなくてはならない。あとに残るのは「唯子」と言う名前の少女への対応だけだった。 「とりあえずも何もっ…!」 そう言うほかに何が出来ただろう。病弱で面倒を見なければならなかった妹。それを「偉いね」と言いつつも当然のことのように受け入れていた周囲の大人たち。その子がただひとつ残した命を引き取ることはまた自分にとって当然なのだ。文句のひとつも言ってやりたくとも、妹はもういない。さっさと自分だけ両親の元に行ってしまった。 「成美の子供なら、私たちが面倒見るしかないでしょう、当たり前のことをご大層に聞かないでよっ!」 夫がふっと安堵の息を漏らす。どうしてそんな風にするのか、その時は考える余裕すらなかった。
◇◇◇
可愛がっていた妹の娘。髪の色も肌の色も細い体つきまでが全部似てる。自分を探るように見つめるあの瞳すら、まるで成美からくり抜いて目の前の少女に埋め込んだように寸分違わなかった。 女の子を持ってみて嬉しかったのは、洋服を選んで買い求めたり、毎朝の髪の手入れをしてやることだった。しばらくは唯子を人形のように思い通りに飾ることに夢中になっていた。 赤ん坊の頃の翔太にはそれでも色々なブランドモノの洋服を着せ、連れ歩いた。そこら辺にいる安物スーパーの服を着た子供たちとは自分の息子は全く違う。服を整えて見るその心がけだけで、変わってくるのだ。気合いも入るというもので。 唯子はシンプルなブルーのワンピースでも、明るい花柄のブラウスでも似合っていた。肩を過ぎた髪は昔成美のものを見て羨ましくてならなかったのとそっくりで。さらさらと素直なそれは自在に変化した。 「おばちゃん、可愛い?」
…もしかしたら、天使が降りてきたのかも知れない。 成美に対して感じていたわだかまりや後ろめたさ。支配してやろうという傲慢な考えに自分で気付いて情けなくなる日々。それすらもこの子は浄化してくれる。自分はいい母親になれるかも知れない。妹の子を引き取って我が子として育てている、そのことに対する周囲の目も温かだった。
「どこかにぶつけたの? ちゃんと病院には行った?」 口うるさい舅や姑に会いたくないから夫の実家への足も遠のいているというのに、そんな晶子に容赦なく他人の干渉が降りかかる。大声で泣きたくても、この怒りをぶつける当ては、同じアトピーの子供を持つ母親たちだけだった。夫は頼りにならない。子供が発作を起こしても、叩き起こさなければ目覚めることもないのだ。 唯子の手を引いて外出すると、こんなに世の中はやさしく心地よいものだったのかと驚かされる。人なつっこい唯子はどこででも声を掛けられて、いい子だと誉められた。唯子が誉められると、自分が評価された気がする。 ただひとつ…唯子が「おばちゃん」と自分を呼んだ瞬間に、全ての幻想が壊れる気がして…怖かった。
◇◇◇
普通、養子縁組をすると戸籍には「養子」の記載がされる。たとえば唯子を晶子と夫・渉の養子にした場合、自分たちは彼女の養父母になるわけだ。もちろん、唯子は自分が晶子たちの子供ではないと承知している。でも、今後、生きていく上で色々と都合の悪いことも出てくるだろう。いらない詮索をされることもあるかも知れない。 夫の話に寄れば。「特別養子縁組」というのは子供が6歳未満であれば、戸籍に実子として記載されるという措置が取られるものだという。唯子は自分たちの本当に娘になり、「長女」となるのだ。紙の上の情報では唯子が養子であることが分からない。
その頃はまだ、いつか唯子の父親という者が彼女を引き取りに来るのではないかと思えてならなかった。もちろん成美の戸籍には婚姻のあとはなく、唯子のものにも父親の名の記載はない。でもこの世のどこかに確かに唯子の父はいるのである。そう思って、荷物を丁寧に改めた。 …何と言うことなのだろう? たったひとりの妹が父親のない子を産んだのだ。何故、そんなことをしたのだろう。妹が一体何をしたというのだ。あの子に落ち度があるわけはない。 見たこともない会ったこともない男への不信感は募っていた。そして、もしも今後そのような男が自分たちの前に現れたとしても、頑として受け入れるわけにはいかないと思った。
◇◇◇
「…まあ、翔太くんには妹さんがいたのね? やっぱり兄妹ね、よく似ていること…」 唯子は妹の成美の子供だから、ふたりは従兄妹同士になる。似ているのは当然だ。それは晶子も感じていたことだ。晶子にも自分と似ている従兄がいた。その上、成美とはあまり似ている姉妹ではなかったのだし。 「…あら」 「翔太くんはお母さん似だなと思っていたんですけど、妹さんの方はお父さんによく似ていらっしゃるわ」
「ほら、先週の小学校の奉仕作業に。ご主人がいらっしゃっていたでしょう? 同じクラスだから近くで作業していまして…もっともご主人は無口な方だから他の人とおしゃべりしたりなさらなかったけど。ほら、目の辺りとか、よく似ているわ…そう言われません?」 晶子は促されるままに唯子の方を見ていた。 いつもはどんな人間にも笑顔で接する彼女が…驚きの表情のまま凍り付いていた。たった4歳の子供ではあるが、大人の言うことは本当に良く理解している。話によっては2歳年上の翔太よりもよほど理解力があると見ていた。
…この子が、夫に似てる? 考えてもみなかったことだ。もとより身内のことは自分たちではよく分からないことで。翔太にしてもあちらこちらで晶子に似てると言われたり、渉に似てると言われたりする。 …でも。
晶子は乱暴に唯子の手を引っ張ると吐き捨てるように叫んだ。 「この子は私の妹の子ですのっ! 翔太には従妹になるんですっ!!」
ずんずん歩いて、家まで戻ると、ふたりを子供部屋に押し込んだ。 「晩ご飯になるまで、ふたりで大人しくしてなさい」
頭の中を様々な思考が渦巻いた。吐き気がする。そのまま晶子はリビングのソファーに倒れ込んでいた。
晶子の中で、ずっと疑問に思っていたことがあった。 どうして、成美が自分たちの前から姿を消す必要があったのだろうかと言うことだ。父親のない子を身籠もったからと言って、肉親である自分にまでそれを隠す必要がどうしてあったのだ。反対すると思ったのだろうか? そりゃそうかもしれない。…でも。
◇◇◇
言葉をなくしたまま、晶子はソファーに座ったままの姿勢で夫を見上げた。その頬があまりにも血の気がないことに気付いたのだろう。夫は心配そうに顔をのぞき込んできた。 「どうした? …風邪でもひいたのかい?」 そして、熱でもみようとしたのか、頬に触れてきた手を知らずに払いのけていた。 「…やめてよっ!!」 「…晶子?」 自分の剣幕のその理由を知るはずのない人が、呆然とこちらを見る。その曖昧な色の瞳が晶子の中でひとつの真実をかたち取った。しかし、それを口にすること何てどうして出来る? 出来るわけないじゃないか。あまりにつじつまが合いすぎている、口に出すのも恐ろしいほどに。 だが、その思いは全て飲み込んでいた。そして晶子の口から出てきたのは、全く異なるひとことだった。
この人はずるい、と思った。何食わぬ顔をして、唯子を自分の子供として受け入れようとしている。そう言うことをしゃあしゃあと出来る人だったのか。そこまで自分は見くびられていたのか。そうか…従順な振りをして、成美とふたり、自分を嘲笑っていたのかっ…!? 「何だよ、急に。だって、この前はあんなに唯子ちゃんのことを…」 疑い始めると、きりがない。今まで思ってもみなかったのに…今となってはもうそれしか事実はないとすら感じてしまう。自分の中のおぞましいほどの恐ろしい思考が吐き出せなくて息苦しい。 「――だってっ…!!」 どうにかして、この話は撤廃しなければならない。夫の思うようになどさせるもんかっ! でも事実を突き付けたってきっとしらばっくれるに決まっている。そう言う男だ、そう言う風に卑怯な男なのだ。晶子はぐるりと頭の中を巡らした。そして、今思いついたもっともな言い分を叫んでいた。 「唯子は、成美を殺したのよっ! あの子が産まれてきたから、私の妹の成美は死んだのっ! たったひとりの肉親だったのよっ! …そんな子を自分の娘として愛することは出来ないわっ…あんな子、産まれてこなければっ…成美は…」
「…あ…」 その瞬間、晶子を取り巻く全ての空気が凍り付いた。ひりひりと痛む喉はもうその次の言葉を発することは出来なくなった。 リビングのドアの陰から。熊のぬいぐるみを抱えた唯子が、青ざめた顔で晶子と夫を見つめていた。
|