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………3 

 

 

「ねえ、悟史。…夢のかたちってどんなだろうね? 大きいかな、小さいかな、甘いかな…?」
「う〜ん…きらきらのきがする。しゃぼんだまみたいの、おおきくふくらんで、ぷちぷちはじけるから」
「何だか、とってもおいしそうね」
「うん、ぼくのゆめはきっとおおきなまるいけーきのあじがするよ?」

 

◇◇◇


 どこまでも澄み切った空が続いている。雲ひとつない、という表現がとてもよく似合う。少し気の早い半袖から出た腕に涼風がまとわりつく。そのひんやりとした湿った空気が、雨の気配を感じさせる。空にはそんな兆候は少しもないのに。でも…確実に季節は梅雨に近づこうとしているのだ。

「空を一枚の板にしてはならない」

 と言ったのは油絵の先生だったか、他の人だったか。ふと、果てしなく広がる青を眺めながら、そんなことを思いだした。とにかく彼の持論によれば、空は透明なキャンバスらしいのだ。宇宙の色が地上に届くまでの間に、様々に屈折して、大気圏の向こうで静かに色を漂わせる。空は球体だ。だからそれを感じながら色を付けなければならない。

 植え込みのあじさいから白い花がちらちらと見える。まだ6月を呼ぶには10日ほど足りない。この花は最初はこんな風に真っ白で、だんだん色づいてくる。その姿を変える様から「移り気」とか言う花言葉が付いているそうだ。悟史は小脇に抱えたスケッチブックを持ち直して、少し足を速めた。

「あーあ! …ホント、嫌になるよな〜っ!」
 隣を歩いていた生野翔太がけだるそうに首を回しながら、ぼやく。

「何が?」
 軽い感じて聞き返しながら振り向く。オヤジ臭く肩まで叩いているのがおかしくて、悟史は笑いをかみ殺した。

 翔太とは3年生になってはじめて、クラスが一緒になった。悟史の通っている高校は色々特殊な学科に別れていることで有名だ。専攻している美術科コースだけでも専門別に3つのクラスに別れている。他にも音楽や書道と特に芸術方面に明るい。もちろん、普通科もあるが。
 それまでは顔と名前を知っている程度の仲だったが、話してみると結構気の合うことが分かった。思ったこことをぽんぽんと口に出す彼とは付き合いやすい。

「何がって…、だってよー3年生にもなって、まだデッサンの授業が週に何度もあってさ。先生によって言うことは違うし、やりにくいったらありゃしない。何のために美術科コースのある高校に来たんだよ、だいたい俺たちの専攻はグラフィック・デザインだろ?」

「まあ、…そう言われてみればそうだけど」
 悟史自身はデッサンの授業もそれほど嫌いじゃない。だから翔太がこんな風にぶつぶつ言うのも理解出来なかった。何となく言葉を返すと、その空気に気付いたのだろう…翔太はあきれ顔で振り向いた。

「そう言われてみれば、って…。おい、悟史。お前本当に、何も考えてない奴だなあ。どうすんだよ、お前は専門じゃなくて、きちんと四大を受験するつもりなんだろ? そりゃ、ウチの高校は指定校とか充実しているから、そう言うのを狙うって手もあるが、お前はその辺ものんびりしてるからなあ…。もっとどん欲にならないと大学生になるまでに10年くらい掛かって仙人になっちまうからな」

「う〜…ん」

 翔太の言うことはあながち嘘じゃない。悟史は曖昧な笑みを浮かべつつ、するっと視線をそらした。空の一番遠いところに、ぽつんと白い雲が浮かんでいるのが見える。はじめて気付いたそれが、何だか自分と似ていると思った。



「ええと、次はA棟だったっけ?」
 ふたりの間の何とも言えない気まずい空気に気付いたのか、翔太が急に話を変える。彼は胸のポケットから生徒手帳を取り出した。

「うん、そうだな。第二地学室だから…」
 悟史がそうやって切り返すのと、翔太が手帳を確認するのが一緒だった。生徒手帳には学内案内図がある。自分でも方向音痴を自負している翔太はそれが手放せない様子だった。

 専門コースは2年生以降の授業で専門教科が占める割合が多くなる。ほとんど美術棟で過ごすことが多くなるため、時々違う教科になると困ってしまうのだ。
 1年の時は皆普通科と同じ学棟にいるが、2年と3年は専門棟で過ごすことになる。クラスの仲間が街で女子を引っかけたら、実は同級生だった、と言うのも笑い話のひとつだ。まあ、普通科の学舎と専門棟は歩いて10分以上かかる敷地の端と端にある。違う高校と言ってもいいくらいだ。

 ふたりがくるっと校舎づたいに回ると、綺麗に設えられた校長室前の中庭に出た。

「…お兄ちゃんっ!?」

 と、同時に。どこからか明るい声が響いてきた。中庭を見渡しても人影はない、だいたいここは進入禁止だ。ゴミでも落ちていようものなら、全校集会が開かれてしまう。校長の専門は造園なのだ。

「お兄ちゃんっ!! 上っ、上だよ〜!」
 翔太とふたり、きょろきょろしていると。くすくすと笑い声と一緒にまた声が降ってきた。慌てて見上げる。窓から身を乗り出した女の子がいた。嬉しそうに大きく手を振っている。長い髪が風に吹かれてさらさらと揺れていた。

「――唯子」
 そう言ったのは翔太の方だった。クリーム色のリボンを胸に結んだ女の子はひとつ頷くと、ひょいっと顔を引っ込めた。それきり姿が見えなくなったと思ったら、やがて非常階段の上からばたばたと音がする。踊り場を回ってこちら向きに姿を見せた時に、彼女は翔太ではなく悟史の方を見て、にっこりと微笑んだ。


「わ、やっぱりそうだった。上から見て、どうかなと思ってたの。すごいっ! やっと会えたね〜」

 一瞬の間合いが、偶然だったのか見間違いだったのか分からない。しかし、次の瞬間、彼女はコンクリートの無機質な階段を転げるように駆け下りると、まっすぐに翔太に駆け寄った。

「同じ学校にいるのに、全然会わないんだもんね。この学校やっぱり変かもしれないっ! 今年になってはじめてじゃないのっ!!」

 翔太を見上げて嬉しそうに叫んでいる。悟史と翔太は背格好が似ている。中肉中背といった感じで、別に目立って背丈があるわけでもない。そんな翔太をこうやって見上げるのは彼女が小柄なんだろう。

「――生野の、妹?」
 おしゃべりなはずの翔太が大人しく見えるほど、止まらずにしゃべり続ける背中をぼんやりと見つめていたが、悟史はようやくそれだけ質問した。

 別に家族のことや兄弟のことを話したことはない。でも、自分がひとりっ子の悟史は何となく同じような雰囲気のする翔太を自分と同じなんだと思っていた。学内にいる彼女が来ている制服は間違いなくこの学校の女子のもので、胸に結んだクリーム色のリボンは普通科の2年生の印だ。美術科コースの3年生である悟史や翔太はえんじのネクタイに白い斜めのラインが3本入っているものを身につけている。

「あ、悪い。紹介するよ、悟史。コイツは唯子、普通科の2年生だ…ええと、唯子。こっちは…」

「悟史さん、でしょう? 木暮、悟史さん。お兄ちゃんからいつも話を聞いてるわ。何でもそつなくこなす、優等生だってっ!! 見ましたよ〜校長室の前に飾ってあるパネル。とても綺麗ですよねっ!」

 彼女…唯子は翔太の言葉を遮って、悟史に話しかけてきた。大きな目がくりくりっと動く。肌がふんわりと白くて、ミルクを落としたみたいだ。それに合わせるように瞳もうす茶色、そしてさっきから気になっていたさらさらの髪も丁寧に染め上げたみたいに綺麗な明るい色をしていた。
 でもそれが人工的なものでないことはよく分かる。何故なら、まつげの色もやはり黒というより茶に近いと見えるからだ。きちんと神の手によって作られたかたちに違いない。

「おいおい、唯子…」
 このままでは一体何を話されるのかと思ったのか、翔太が慌てて口を挟む。でもその時に、さっき唯子が顔を覗かせた窓から、数名の女子が彼女を呼んだ。

「あ〜、行かなくちゃ。移動教室の途中だったのっ! じゃあね、お兄ちゃん、悟史さんっ!」

 隣を通り過ぎるその瞬間に、ふわっと一瞬髪の先が悟史の頬に触れた。綿毛の方に柔らかなそれは、確かな感触を残す。天使が通り過ぎたような不思議な感覚を味わっていた。



「驚いた。…生野に妹がいたなんて。誰もそんな話、してないし…」

 彼女の姿が非常階段の踊り場に消えていったあと、悟史はやっと正気に戻った。もともと綺麗なものや美しいものを鑑賞するのが好きで、それが興じて作り手に回るようになった。

 普通、年頃の女の子を見たら、違う欲求が湧いてきてもいいと思う。でも悟史はその瞬間に確かに「芸術品」と同じような感じで唯子を見ていた。後から考えてもそれが不思議でならないことになる。普段感じたことのない感覚に、正直戸惑っていた。

「あ、本当は従妹なんだけどな。あんまし、知ってる奴もいないし」
 翔太は何でもないようにそう言うと、くるりときびすを返した。その時まで彼は廊下の窓越しに去っていく少女たちの姿を眺めていたのだ。それを悟られないように、わざとぞんざいな言い方をしているようだった。

「…え?」
 驚いて、聞き返していた。

「だって、『お兄ちゃん』って…」

「ガキの頃、親が死んでウチが引き取ったからな」


 早くしないと、地学に遅れるぞ。そう言った彼の背中が、あまりに遠くて驚いた。逃げるように速い足取りだったような気がする。

 でも、たったそれだけのことで、雑多な日常の中ではすっかりと忘れ去っていた。

 

◇◇◇


 井の中の蛙大海を知らず、というもののたとえがある。特に芸術関係では良く言われる言葉だ。

 普通の勉強や陸上競技などでは、はっきりとした数字が見えてくる。それによって譲ることの出来ない位置関係が自ずと形成される。でも…世の中にはそう言う基準が見えてこない曖昧な事柄が多すぎる。

 

「君は、器用な生徒だね」
 悟史の提出した課題をひと目見て、何を思ったのか担当教諭はそう言った。

 遅くまで学校に残って課題を仕上げていた。別に今日中に上げなければならないものではなかった。ただ、先生も用事があって教員室に残っていると言うし、自分も何となく乗っている感じだったので、仕上げてしまおうと思ったのだ。4Bの鉛筆を何度も滑らせ、力の入らない線を描く。しゃかしゃかと紙の上をこすりつける音だけが広い教室に響き渡る。相手は何度も角度を変えては描いた、石膏の胸像だった。

 ひとことで「美術」と言ってもその中は細かく種類分けがされている。大まかには「絵画」「造形」「デザイン」「彫刻」…と言ったところだろうか? また、「絵画」の中も大きく油絵と日本画に分かれるなど細分化される。そこ側から見たら、皆同じ芸術に見えるのだろうが、その実は表現の方法が異なる。

 石膏デッサン、とか言うと、木炭に消しゴムはパンの耳…という印象がある。だが、実際は絵画専門ならそれもあるが、悟史たちのようなデザイン専攻になってくると、鉛筆を用いることが多い。滑らかなやわらかい線の描ける鉛筆は驚くほど高い。教室で落とすと瞬時になくなってしまう、と言うジンクスまである。

 全ての感覚をオフにして、作業に集中しているようでありながら、しかし悟史は心のどこかで、ずっと考え事をしていた。

 最初に美術関係を志したのはいつだっただろう。幼稚園の頃から、絵を描くのが得意だと思っていた。先生には誉められるし、友達も「すごい」と言う。コンクールに出せば、必ず金の折り紙が張られて戻ってきた。そんなひとり息子を連れて、両親は色々な美術展に連れ出してくれたのだ。そこで感銘を受ける様々な作品と出会ってきた。

 

「君は、器用な生徒だね」
 そう言った先生の目は笑っていなかった。まるでものの本質を見極めるように、じっと悟史を見つめていた。何を思ってそんな風に言うのか、その答えも探せないままに、足の裏がむずむずするようなもどかしさを覚えた。

「これは…描き直したほうが宜しいでしょうか?」
 あまりに冷たく突き放された気がして、悟史は先生の手からスケッチブックを取り戻そうとした。

「…いや」
 それを上手くかわすように、四角い物体が円を描く。先に提出された仲間の作品の一番上にぽんと置かれた。

「これは、間違いなく合格点だ。受け取っておくよ」

「…でも」
 評価はされていない。言われたのは何とも煮え切らない言葉だけだ。悟史は唇を噛んで、目の前の男を見つめた。

「さ、もう遅いんだから戻りなさい」
 悟史の物言わぬ視線に気付いているはずなのに、先生はこともなげにそう言うとさっさと椅子を回して背を向けた。

「…君は」

 諦めて退室するために扉に向かった彼に、鋭い声が飛ぶ。

「何度描き直したところで、この作品以上のものは描けないよ?」

 

◇◇◇


 昇降口から外に出ると、もう空にはキラキラと星が瞬いていた。星座のことはよく分からないし、だいたいここからでは見える星の数などたかが知れている。空気の綺麗な山の上などではそれこそ降り注ぐように臨めると言うが。

「ふう、…8時か」

 思いがけなく遅くなってしまった。熱中して遅くまで制作する生徒に学校側は配慮してくれる。芸術に重きを置いている校風ならではだ。
 だいたい、大きなキャンバスを持ち込めるほどの部屋を持つ生徒は少ないと思うし、パソコンを使う機会の多い悟史も、グラフィックに適した機種を買い求めていたらきりがない。もちろんそれなりのものは自宅にあるが、完全に動かそうとするといきなり画面がフリーズしてしまったりする。

 自分は男だし、美大対策のために通っている予備校のある日はもっと帰りが遅くなることも多い。まあ、物騒な世の中である。いきなりナイフを振りかざされて、刺された何て言うニュースも聞かないわけではない。一応家には連絡を入れて、家路を急いだ。
 悟史の家は学校を出て、駅前通りをぐるりと迂回する。時間にして20分ほどだ。家から近いというのも便利なものだ。自転車を使うこともあるが、今日は徒歩だった。

 

 駅のロータリーに近づいてくる。高架の上を走る電車が到着すると、少しの間をおいて、どばっと人並みが出口から吐き出される。それぞれに駅前駐車場やバス乗り場、または送迎用の駐車スペースに急いでいく。都心への通勤圏の端にあるこの街は、ちょうど今ぐらいの時間帯が帰宅のサラリーマンでピークになる。

 しばらくは立ち止まってそんな人の流れを見ていた。悟史の家は両親と彼の3人暮らしだ。父親は家の近くにある工務店で働いていて、大抵定時に戻ってくる。子供の少ない家というのはどこも同じなのかは知らないが、悟史は小さな頃から、あまり子供扱いをされなかったような気がする。
 もちろん、養育そのものを放棄された訳ではない。ひとりっ子の親としてはつかず離れず、上手な位置関係を保つ両親だったと思う。

 ただ…そんな規則正しい関係にふっと疲れることがあるのも事実だ。そんなとき、こんな風にがちゃがちゃした雑踏の中に立つのは気が紛れる。

 

「あれ…?」

 どこか芸術家の目になっていたのかも知れない。題材を探す時のように四角く切り取られたアングルをいくつも見つけていた。そんなとき…ロータリーの真ん中にある噴水のフチに、見覚えのある制服を見つけたのだ。

 …ウチの、生徒だ。

 夏服に替わったばかりの半袖のセーラー服。ひらひらと風に舞うクリーム色のスカーフ…。あ、普通科の2年生だ。そう思った瞬間に、ぱあっと車のライトに照らし出されて、その顔がはっきりと見えた。

 

 …唯子、ちゃん?

 そうだ、彼女だ。浅く腰掛けた姿勢で、やはり駅から吐き出される人々を眺めている。時々、時計をちらっと見て。そのあと、小首を傾げると彼女によく似合う長い髪がさらさらと流れた。

 人を待っているのだろうか? そう思ったが、そうでもないらしい。まるで盗み見をしてしまったような何とも嫌な気分で、悟史は声を掛けるきっかけを失っていた。

 唯子は悟史が気付いてから30分ほどが経過してから、すっと立ち上がった。そうなのだ、翔太の家に同居しているのだから、彼女の住んでいるのはここから電車で3つ下ったところ。今までに10本以上の電車がそこに向かって通り過ぎていた。

 そのまま、駅の構内に消えていく後ろ姿を、色付き始めたあじさいの植え込み越しにいつまでも見つめていた。

 

◇◇◇


 そのことを翔太に聞いてみても良かったのかも知れない。でも、何となく聞けなかった。翌日、いつも通りに学校を終え、一度帰宅する。でも夕食のあと、ちょっとコンビニに行くと言って家を出た。

「…あ」

 やはり、いた。彼女は昨日と同じ場所に、昨日と同じポーズで座っていた。本当に昨日がそのままリフレインしているかのように、時計を見て、小さく小首を傾げる。やはり制服姿のまま、傍らには教科書を入れたカバンがある。

 昨日と同じように、しばらくは時折車のライトが照らし出す横顔を遠くから見つめていた。声を掛けていいものか悩んでしまう。一体、こんなところで何をしているんだろう? あまりにも謎めいている。

 …と。悟史の腕にぽつんと何かが落ちた。

「雨…」
 夜になると天気が崩れると予報で言っていた。上空の気圧が不安定な様だ。悟史は家を出る時に母親に無理矢理に持たされた傘を広げた。さらさらとそれほど強くない降りではあったが、辺りに満ちてくる冷たい空気と一緒になって濡れるには肌寒い感じだった。

 傘を差してもう一度見ると。…唯子はその場所にやはりいた。でも、彼女には傘を広げる気配もない。持っているのかどうかも分からない。まるで雨なんて感じていないように、当たり前に座り続けていた。

「…どうして」

 気付いてから、考えをまとめるまでに何分かかかったと思う。でも、彼女の髪の先から、最初の雫が伝わり落ちた時、車と人の波をかき分けて、小島のようなロータリーに入っていた。


「唯子ちゃん…?」
 何と言ったらいいのかも考えていなかった。だから名前を呼ぶまでは出来たが、その次の言葉が出てこない。近づいてみると彼女は相当に濡れていて、自分で気付いているのか、制服の色も濃くなっていた。

 傘を差し出すと、彼女の上に黒い屋根が現れる。その中で首を振ると、髪から雫が飛び散った。

「あ〜、悟史さんっ? …どうしたんですか? わ、私服だ」
 呆れるくらい明るい声でそう言われて、悟史はますますどうしていいのか分からなくなっていた。

「ええと…ちょっと買い物に。唯子ちゃんこそ、どうしたの?」

「え?」
 返答に戸惑っている、と言うよりは、悟史の質問そのものに驚いていると言った感じで、彼女はくるくるっと瞳を動かした。

 それから、悟史にぴったりと視線を合わせると、びっくりしたように叫ぶ。

「あ、悟史さん。濡れてますよ?」

 自分だって濡れていたのに、そんなことは気がついていないと言うように唯子は言った。そして勢いを付けて立ち上がる。意を決して小川を飛び越えようとする時の様な心が感じ取れた。ひょいっと地に足を着いたその仕草も昨日と同じだった。

 

 …もしかしたら、昨日だけじゃないかも知れない。おとといもそのまえも…ずっと前から。彼女はこうしてここにいたのだろうか? でもどうして、何のために…?

 

「じゃ、帰りますから。悟史さんもお気を付けて」

 唯子の声はどこまでも自然で明るかった。そう告げる頬には笑みが浮かび、かげりなど微塵もない。でも、夜の8時半だ、女の子がひとりでいるのは不自然な時間で。誰かを待っていると言った感じでもない。ただ、…時間を過ごしているみたいで。

「あの…」
 ただ、名前と顔が一致するだけの後輩だ。自分が気にすることもない。なのに、引っかかっている。だから今日も来てしまったのだ。だが、何か言おうとしても言葉が見つからない。

「明日も、ここにいるの?」

 こちらに背を向けて、2歩3歩と歩き出した唯子が振り向く。きょとんとした顔が悟史をじっと見つめた。

「あの、唯子ちゃん…」

 彼女は一瞬だけふっと微笑むと、向き直って走り出す。やがて小さな背中は、雑踏の中に吸い込まれて見えなくなった。


 

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