「ママ、どうしてなんだろう? かなしくないのに、なみだがでるの。どうしてもとまらないの。…ねえ、たすけて」
◇◇◇
ごろんとベッドに横になる。あのあと電車に乗ってからも、駅を降りて当たり前の通学路を歩いている時も、唯子はひとつのことばかり考えていた。 悟史さん…木暮、悟史と言う人。お兄ちゃんの友達。顔なんて知らないのに、すぐに分かった。 「あのなあ、悟史がね…」 友達の話をする翔太を不思議だと思うのには理由がある。何故なら中学校の3年生の時、彼は喘息の酷い発作を起こしたのだ。赤ん坊の頃からアトピーが酷く、年齢が上がってその症状が治まるのと引き替えに喘息が酷くなっていった。一時は命の危険も考えられた彼は、そのまま他の同級生と一緒に進学することが出来なかった。今、一緒に学んでいる級友たちは彼よりもひとつ年下になる。 「明日も、ここにいるの?」 悟史はそう聞いた。唯子は何も答えなかった。返事をする理由も思いつかなかったし、だいたいどうしてそんなことを聞かれるのかも分からなかったから。 「…変な人」 「面倒くさいなあ…」
ごろごろごろ。寝返りを打っていると、コンコンとノックの音がした。 「あ、は〜いっ…」 「あのね、唯子。…いいかしら?」 「なあに? おばさん」 「え…ええとね。駅前のショッピング街で夏服の売り出しをしているでしょう? 唯子も新しい服をどうかと思って。何だったら、一緒に行く?」 部屋の中に比べると廊下の照明は暗いので、その分顔色も悪く見えるのか? 唯子は晶子の手の所在なさげな動きや定まらない視線を、さりげなく見つめた。 …知ってる。 いつでも言葉以上に態度には真実がにじみ出る。だから、晶子の真意を知るには、そうした方が容易いのだ。 「でも、…おばさんも忙しいでしょう? 私、ひとりで行けるから大丈夫、友達と行ってもいいわ」 そう言って、何でもない感じに微笑んだ時、晶子の顔がほころぶのを見た。とてもホッとした気分になる。 「悪いわね、表通りのウインドウに唯子によく似合いそうなワンピースがあったわ。それも試着してみるといいわよ」 「…うん」 きっとあれだ、と思う。銀行の隣りのデパートに飾ってあったレモン色のワンピース。忘れないように、それだけは買おうと心に決めた。 「じゃあ、これ」 「ありがとうございます」 …でも。 無下に断ってはならないのだ。意に反しても、甘んじて受けるという姿勢が時として大切になる。だから、早く、大人になりたかった。
◇◇◇
「…悟史さん」 中学の時の同級生になら会うかなと思っていた。地元だし。でも高校は…少し遠目のところを選んだ為、地元に知り合いはいない。ひとりで買い物するなんて、面倒だし行かなくてすむものならそうしたい気もした。でも、晶子は地元のショッピングモールの割引券をくれた。彼女の行為を無にしてはならないのだ。ついでに福引き用のポイントカードも貰って帰れば喜んでくれるだろう。 「ええと、もしかして。お兄ちゃんに会いに来たんですか? だったら、今日はいませんよ」 そんな唯子の言い方の方が不思議だったらしい。悟史はきょとんとした顔になった。 「別に…生野に会いに来たと言うわけでも…。何となく、ぶらぶらと。この先のお寺で紫陽花が綺麗でしょう…?」 「…はあ」 パソコンを使って絵を描くというのは、手描きで一から仕上げるのとは全く異なったやり方だと思っていた。一瞬にして画面を一面別の色に変えることも可能なのだ。そんなことが手描きで出来るはずもない。翔太などももっと簡単に行くと思っていたらしく、デッサンや写生の授業が多いのに閉口していた。 「本当は紫陽花は雨の日の方が綺麗だからね、どうしようかなと思っていたところ」 何となく、ぶらぶらと言う感じだったのかも知れない。そこに自分が現れたので、つい声をかけた。それだけのことなのだ。 「そうなんですか…じゃあ」 …それに、この人は翔太の友達なのだから。 垂らしたままの髪をふわっとなびかせてきびすを返す。そこで、全てが終わるはずだった。 「あの、唯子ちゃん――」 …なによ、しつこい。これ以上何の話があるというの? むっとした心が表情に浮かんでいたと思う。でも面倒くさそうに振り向いた先にあったのは、このまま立ち去ることが出来なくなりそうな瞳だった。 「どうして、あれから…あそこにいないの? まっすぐ、家に戻ってるの?」 「…は?」 「ウチの高校、敷地が広いしさ。唯子ちゃんは普通科だから、ほとんど学校でも行動するエリアが重ならないでしょう? …生野に直接聞いても良かったんだけど、あいつは君の話をしないし」 通り過ぎてしまえばいいのに、それが出来ない。唯子は靴の底が、歩道のアスファルトにぴったりとくっついて離れなったような気がしていた。 「君に、会いたかったんだ」 一瞬、周りの全ての音が消える。ざわざわとさざめく人混みの中にいて、どうしてそれがなくなったのか分からない。 こちらをまっすぐに見つめている瞳。無言のまま、見つめ返すことしか出来なかった。
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そう言えば、自分も小さい頃、ここに翔太とふたりで買い物の間、待つようにと言われたことがある。唯子の手にはいくつかの100円玉と10円玉を握らされて、喉が渇いたらジュースを買いなさいと言われる。翔太の方はいつも首から水筒を下げていた。その辺にある缶ジュースには彼にとって有害な甘味料や添加物が使用されていることが多く、全て禁止されていたのだ。 でも。買い物袋を下げて戻ってきた伯母の晶子は、唯子が握りしめたままだった硬貨を改めて、とても悲しそうな目をした。 「遠慮することなんてないのよ、子供なのに。変な気を回さないで」 吐き捨てられる言葉。その瞬間、しまったと思う。親子みたいなのに、親子じゃない。一番大切な心が触れ合わない。それがもどかしくて、悲しかった。
「いい天気だね」 …おかしな人。 目の前にいる人間にかたちにならない興味を感じ始めている自分がいた。顔色をうかがおうにもそこには穏やかな色が浮かんでいるだけ。まるで言葉以上の何も考えていないようなそんな仕草。 「…なんで」 「なんで、私に会いたいなんて思ったんですか?」 ナンパするならもっと気の利いた台詞があってもいいと思う。翔太の友達なら、彼をだしに使って話をするのは簡単だったはずだ。でもこの人はそれをしなかった。 「え…?」 悟史は翔太と比べると大人しそうな顔立ちをしていた。翔太は身体は弱いのに、見た目はとても健康そうに見える。肌の色も濃いし、つり上がった目は勝ち気で負けん気の強そうな印象を与える。そのために彼がだいぶ損をしていることも知っていた。 その見るからに人の良さそうな顔立ちが、わずかに揺れる。彫りの深い顔立ち、整った眉に少し明るくなった髪。「深窓の姫君」ならぬ王子の風貌だなとかちょっと思った。 「会いたい、と思うのに理由がいるの?」 「そ、そりゃあ…」 「いきなり、そんな風に言われたら、誰だってそう思いますよっ。…びっくりするもの」 「そうかなあ…」 「唯子ちゃんってさ、視界に飛び込んでくるんだよね? …どうしてだろう」 どうしてだろうと言われても、何と答えていいのやら。抜けているというか何というか…とにかく不思議な人だ。あまりに分からなすぎて、考えるのも面倒になる。 「もう…いいです」
「悟史さんって。すごく才能のある人だって、お兄ちゃんが言ってましたけど? デッサンとかとらせても全然違うんだって。同じものを同じようにみんなが見てるのに、違うってことがすぐに分かるって」 従兄の翔太の口から出てくるのは友人である悟史を褒め称える言葉ばかりだった。それまではたとえ友達であっても、ライバル意識を燃やしていることの多かった彼が、その人にはあっさりと白旗を揚げる。それがとても不思議でたまらなかった。 「才能なんて…そんな大それたものは持ち合わせてないよ」 「あ…でも、昔はあるのかも知れないと思っていたのかも。だって、クラスの誰よりも上手だって自分でも分かったから」 でも、高校に進学して、そんな安っぽいプライドは打ち消されたと言った。何となく上手、では通用しない世界が待ちかまえていたからだ。それまでと同じように描いても、評価されなくなってくる。美術展に出しても全く手応えがなくなっていた。 「『君は、器用な生徒だね』って、言われた」 そう呟いた言葉が他人事みたいに聞こえる。芸術のことなんて、全く分からない唯子だったが、その一言が何だか引っかかった。 「…不器用なよりも、器用な方がいいんじゃないですか?」 上手に、立ち振る舞っていれば、全てがスムーズに流れていく。かげりの部分を見せればつけ込まれる。他人はいつでも薄暗い闇の部分ばかりを見つけたがるのだ。…自分が優位に立つために。「可哀想ね」と言う言葉が嫌いだった。それが自分に向けられたものだとは知っていたけど、それによって自分じゃない人が心を痛めるのも知っていた。 だから、お互いに腫れ物に触るようなつき合い方しかできない。いつからそんな風になったのか、それも分からなかった。でも表面上は明るく穏やかに過ごす。心の中に何があるかなんて、考えてない振りをする。 大人になることが、器用に生きる術を身につけると言うことなら…早く、大人になりたかった。誰にも後ろ指を指されることもなく、ひとりの力で生きてみたかった。 「そうかなあ…」 「ただ、器用なだけじゃ、駄目みたいだよ?」 「あの、…悟史さん」 「洋服を選びたいんですが…付き合って頂けませんか? 悟史さんのセンスをお借りしたいです」
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「どうでしょうか?」 若い女性向けの洋服屋になんて入ったことがないのだろう。そう言えば、ひとりっ子だと言っていた。姉や妹がいなかったら、普通こんなきらびやかなものを目にするものではない。所在なげに活けられた花を見ていた人が、自分の声にホッとしたように振り向いた。 試着室から出てきた唯子を見て、悟史は目を大きく見開いていた。それもそうだろう、今までは薄いベージュのシンプルなワンピースを着ていたのだ。それがいきなりレモン色のキャミソールドレス。すとんとしたかたちの上にもう一枚薄い透ける生地を重ねた綺麗なデザイン。肩を出して着るのはちょっと大胆だが、白い上着を羽織れば街着にもなりそうだ。 「へえ…とても女の子らしいね」 レモン色。唯子の白い肌にも薄茶の髪にもよく似合う。染めたわけでもないのに綺麗な栗色で、さらさらとまっすぐな髪。小さい頃から友達に羨ましがられた。 「…でも」 「何だか、唯子ちゃんじゃないみたいだ」 「…え?」 心の一番奥を叩かれた感触。まさか、この言葉が聞けるとは、と泣きたいような気分になった。でも、そんなこと、おくびにも出さずにただ微笑んだが。 「そっかな…駄目かな?」 「あ、ううん。そんなことはない。とっても似合ってるし…でも」
白い紙袋を手に提げて歩く唯子を、悟史は不思議そうに見つめていた。その視線がおかしくて、忍び笑いが漏れてしまう。彼もそれに気付いたのだろう、少しだけ不服そうな顔をした。 「…唯子ちゃん、何だか嬉しそうだね。どうしたの?」 実際、店を出る頃から、唯子の態度は少し違っていた。それまでの鬱蒼としたものがなくなって、とても晴れやかな気分になっていたから。 …誰かに気付かれるというのは、こんな風に素敵なのかも知れない。 すたすたすたと、少し足を速めて、悟史と自分との間に十分な距離を置いた。そして、くるんと振り向く。彼を通せんぼするみたいに立ちはだかった。そして、ワンピースの入った袋を目の前にかざす。 「…これは、ママの服なの」 ほんのささやかなことかも知れない。でもそれが…唯子にとって、大きな一歩だったのだ。何が何だか分からずにきょとんとしている悟史を見て、彼女は声を上げて笑った。
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