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………6 

 

 

 散る桜は止められない、降る雨は受けられない。…落ちていくもの、崩れていくもの、流れていくもの…その行く先にあるのは…何?

 

◇◇◇


「ただいま〜」
 網戸にしてある玄関から、明るい声がする。

「あら、おかえり〜」
 唯子の傍らに座っている人は、自分の作業を中断することもなく、首を伸ばしてそう答えた。


「ただいま」「おかえり」――当たり前のやり取りだ。唯子だって、それをずっと聞いて育ってきた。唯子の伯母である晶子は、翔太や伯父の渉が戻った時に玄関先まで出迎える。どんなに忙しいことをしていても、たとえば天ぷらを揚げていても、火を止めてそこに向かう。

 ここに来るようになって早いもので2ヶ月が過ぎようとしている。6月の梅雨の時期だったのが、いつの間にか夏休みの終わり。2年生の唯子はまだまだ気楽なものだったが、悟史の方は受験の追い込みの時期に入りつつある。いくつもの美術予備校の授業を掛け持ちして、受験に備えていた。
 ことに芸術の分野というのは、審査する人間の「眼」で評価が全く異なる。乱暴な話をすれば、ある教授が「A」と言った作品が、違う教授によって「D」の落第点を提示されることもあり得るのだ。まあ、受験では複数の審査員により評価が行われるので、そこまでかけ離れた事はないだろうが、志望校の傾向を知って対策を立てることは必要だ。


「ああ、暑かった。何か冷たい物、ある?」
 駅からたった10分の道のりで、もううっすらと汗ばんでいるTシャツ。悟史がリビングに顔を出した。

「おかえりなさい」
 唯子ももうすっかりとこの家の住人のようになっている。このごろでは悟史には関係なく、佳苗とのやり取りでここに来る日を決めているほどだ。晶子や渉にもバイトをすると言っていた。

 そして、席を立とうとすると、それは佳苗が制した。

「駄目よ、唯子ちゃん。あなたは今、私の生徒なの。悟史なんて、勝手に冷蔵庫を開けて、どうにかすればいいのよ」

「…はあ」

 ひとりっ子なのに、全然甘やかさない。そんな佳苗が唯子には不思議でたまらなかった。どうしてもそのたびに伯母の晶子と比較してしまう。佳苗が太陽なら、晶子は月だと思った。自分で光り輝く太陽に対し、月は太陽の輝きに照らされることしかしない。自分では存在する術を見つけられないのだ。

 …どうしよう。

 腰を浮かしかけて、悩んでいると。首をすくめた悟史が、いいよいいよとジェスチャーした。

「あ〜、ついでにっ! 私と唯子ちゃんにもアイスコーヒーをちょうだい。頼んだわよっ!」
 佳苗が筆を動かしつつ、叫んだ。

 

 悟史の言葉通り、佳苗は本当に多趣味だった。節操がないと言うことではなく、本当にバイタリティーがあって、多方面に興味のアンテナが伸びていくのだ。人付き合いも多く、そのくせべたべたしたところがなくあっさりしている。

 そんな彼女と接していて、実は少し困ったことが出てきたのだ。何故ならたびたび、こんな問いかけがなされるから…。

「じゃあ、唯子ちゃんの好きな絵柄を考えて描いてみて」

 佳苗にそう言われると、途端に筆が止まってしまう。言われた通りに見た通りに、同じ物を同じように作るなら、とても簡単に出来る。でも「自分の好きな物」といきなり問われると、何も浮かんでこないのだ。

「そんなこと、言ったってさ。いきなり、好きな物をと言われたって困るんじゃないの?」

 悟史が横から助け船を出してくれることもある。しかし、そうであっても佳苗は一歩も譲らなかった。

「馬鹿ね、自己主張が出来なくて、これからの世の中渡っていけますかっ! 好きな物を好き、と言える潔さがないと、自分を見失うのよっ! こういうご時世だからこそ、「右へならえ」では駄目なのよっ!」

 佳苗は流行に敏感ではあったが、それをそっくり受け入れるのではなく、いつも自分のやり方を加えるようにしていた。だから流行の先端を行くような服を着ていても、いつでも佳苗らしさが光っている。

 
…好きな物。

 唯子にとって、この佳苗の問いかけはとても難しいものだった。一生懸命考えれば考えるほど、それは行き詰まり、堂々巡りを続けた。

「母さん〜、あまりいじめちゃ駄目だろ? 彼女、困ってるじゃないか…」

 悟史の再三に渡る注意に、佳苗が渋々折れることもあった。そのたびに唯子は悟史にも、そして佳苗にも悪いなと思っていた。

 

◇◇◇


「…悟史さんは芸術家の卵だし。色々と思い描いてかたちにしていくのは楽々なんでしょうね」
 帰り道、思いだしたように訊ねていた。


 いつでも教室の仕事の終わった後、駅まで送ってくれる。8時過ぎとは言っても、明るい人通りの多い道だ。別にいいと断ったが、これには佳苗が食い下がった。大切なお嬢さんに何かあったらどうするの、と、珍しく古風なことを言う。
 何しろ悟史の家にいる時は、始終佳苗のペースだ。ふたりでゆっくりしゃべる暇なんてない。この10分の道のりがふたりの時間だった。

 佳苗はいつも思いつきのようでいて、ずばっと核心を突いてくる。それが嬉しくもあり、苦しくもある。出来れば放っておいて欲しいと思うこともあった。でも、それを口に出来る唯子ではなかった。


 生野の家にいて。小さな頃から唯子が慣れした親しんだのは、相手の顔色から心を探るような生活だった。居候という言葉の意味を知ったのは大きくなってからだが、伯父の渉・伯母の晶子…そして従兄の翔太、その3人の家族に自分が「おまけ」として存在しているのは初めから分かっていた。

 最初の頃、それこそ晶子は今の佳苗のように、唯子をべたべたと可愛がった。唯子もその愛情に応えようと必死になっていた気がする。買い与えられる可愛らしい服を着て、髪を伯母の好みのかたちに結い、それで満足するように自分に言い聞かせていた。

 何て言えば伯母が喜ぶか、何て言えば嫌な顔をするか。

 それはだんだん容易に分かるようになる。意識しなくても、心の中に注ぎ込んでくるように。
 子供は何も分からないだろと大人たちは思うのかも知れないが、もしかするとそう言う能力は子供の方が長けているのかも知れない。冷たい言葉など掛けられた記憶もないが、それでも気に入られるように頑張ろうと思った。

 だから、困るのだ。佳苗のようにあるべき物をあるべきようにありのまま受け入れる人間は。「なんでもしていいよ?」と言われたら、何をしていいのか分からなくなるじゃないか。そんなの屁理屈だと言われればそこまでだ。でも、少なくともこれは唯子の正直な気持ちであった。


「そんなこともないと思うけどな…俺はどっちかというと目の前にあるままに描くタイプだし。抽象的な絵を好む奴とは違うよ。ま、もちろん、ああいうのも基本があってこその応用なんだけど。ピカソなんかも普通の肖像画や風景画はとても綺麗なんだよ。『ゲルニカ』なんかからはとても想像が出来ない感じで」

 そこまで言うと、悟史はうーんと首を回した。

 どうやって説明しようか悩んでいるようだ。悟史は不思議だと唯子は思っていた。母親の佳苗のようにぽんぽんと思っていることを言うわけではない。かといっておなかに溜めている風でもない。その時に思ったことを思ったように、自分なりの言葉で表そうとする人間だった。

「ほら、そう言えば。小学校の頃にあったでしょう? 国語の教科書で。無人島の地図を手に入れて探検に行こうという奴。ひとりひとり、話を考えて、発表しあったよね? ああいうのかな? 想像力」

「…はあ」

 そう言えば、あった気もする。面倒くさい授業だった。唯子は無人島に行って何をしたい? と言われて、その瞬間に、どうしたらいいのか頭が真っ白になった。友達がどんどん考えて話を作っていく脇で、何故か浮かんだのは晶子の顔だった。

 …おばちゃんは、どうしたら喜んでくれるだろう…?

 その頃、たしか4年生か5年生になっていたと思う。相変わらず、翔太の喘息は一進一退を繰り返し、季節の変わり目になると必ず酷い発作を起こす。そのたびに晶子は息子の世話に明け暮れ、唯子は家にひとりで残された。洗濯物を取り込んだり、お米を研いだり、簡単な買い物をしたり。唯子は唯子なりに頑張った。ただただ、晶子の喜ぶ顔が見たかったからだ。

「…悟史さんは、どうしたんですか?」
 忘れていたはずのことを思いだしてしまい、心の隅がちくんと痛んだ。それをかばうようにして、唯子は話を振った。

「ええとねえ…」
 悟史は首をすくめた。少し恥ずかしそうだ。こう言う感情の表れる表情をすると、佳苗に似ている。

「何にもやりたいことがなくてね…、だから、ハンモックを吊って昼寝しますって。話が3行で終わってしまって困ったよ。先生は最低でも原稿用紙1枚分は書けって言うしね」

 唯子は黙ったまま、悟史の顔を見た。この人も「やりたいこと」が見つからなかったのだ。そして、何もしないことを選んだ。


 …同じ、なのかも知れない。一瞬はそう思って、でもすぐに違いに気付く。自分とこの人が同じはずはない、立場が違いすぎる。

 いつだったか、悟史は言った。

「『君は、器用な生徒だね』って、言われた」

 …そう言った目が哀しそうだった。器用なだけでは渡っていけないのが芸術の世界なのかも知れない。ほとんどの人間はそうでもいいだろう。でも一握りの秀でた存在になりたいのだったら、その上の「何か」がなくてはならない。それが分からずに、悩んでいるのだ。


「悟史さんは…きっと、選択肢がたくさんあるから。だって、別に、美大だって誰かに行けと言われた訳じゃないんでしょう?」

「…え?」
 唯子の言葉に悟史は驚いて目を見開いた。

「まあ、…それはそうだけど…」

 自由に、好きなようにやってみろと言われても、なかなか思い浮かばないものだ。色々な制約があった方が人間、効率よく物事を運べたりする。

「悟史さんは…何のために、絵を描くんですか? お兄ちゃんは言ってましたよ、コンピューターグラフィックスの世界は個人で出来るし、あまり出歩かなくていいし、時間的にも自由になるからって。もしもフリーになれば自宅でも出来る。規則正しく仕事をこなすのはお兄ちゃんの体調では難しいところもありますから。先生やおじさんやおばさんといろいろ話し合って決めたんです」

「…ふうん」
 初めて聞く話だったらしい。悟史は分かったような分からないような顔をした。

「そうかあ、あんまり、考えたことなかったかも知れない」

 そんなに深く悩んでいる風でもなく、やわらかく言う。

「子供のころは、みんなが誉めてくれるのが嬉しかったんだ。評価されたり、賞を取ったり。でも…それがなかなか出来なくなって、このごろ分からなくなってしまって…」

「…そう、ですか」

 唯子の方を見て、悟史が寂しそうに微笑んだ。

「もしかすると、先生に気に入られようと頑張っていたのかも知れない。でもそうしても認められない。だからどうしていいのか分からなくなったんだな。ただ、誉められたいだけだったのに…」

「難しい…ですね」

 

 ふたりして、黙ってしまった。夜間照明に照らし出された空が明るい群青に見える。星なんてひとつも見えない。都会なんてそんなもんだ。そう言う場所で生きている。子供の頃からそうだったから、あまり疑問もなかった。

 そんな風に、ただ当たり前のように受け入れていれば良かった。先生が認めてくれるように、晶子が認めてくれるように…誰かの顔色を見ながら生きていれば良かったのに。いきなり「好きなように」と言われたら、困ってしまう。

「…あのさ」
 悟史が、ぽつんと言う。

「俺、描いてみたいなと思うものがあるんだけど…」

 その言葉を最後まで聞いて、唯子は声をなくしていた。

 

◇◇◇


「ただいま帰りました…」

 唯子は玄関でそう声を掛けると、靴を脱いで上がった。そのまま廊下を進んでいってリビングを覗くと、晶子はTVを見ながら縫い物をしていた。

「あら、唯子。お帰りなさい」
 前もって、夕食は食べてくると言ってある。だから、唯子の分は用意されていなかった。

 お湯を沸かしてコーヒーをいれる。

「おばさんも、飲みますか?」
 カップを出しながら、訊ねた。

「…そうね、お願いしようかしら?」

 そう言いながら、晶子が唯子の手元を見る。唯子はそれを感じながら、知らぬ振りで3個のカップを出した。伯父の渉がまだ戻ってないのは玄関の靴で分かっていた。多分、翔太は部屋にいるのだろう。

「唯子」
 お盆にカップをふたつ乗せたところで、晶子が立ち上がる。そして、そこからカップをひとつだけ取り、言った。

「これは、私が持っていくわ。あなたも疲れたでしょうから、お風呂を先に使って休んでいいわよ」

 きっぱりとそう言い切られて、唯子は返事をすることも出来なかった。晶子の身体からしみ出してくるぴりぴりとしたものが、空気を通して伝わってくる。

「はい、…分かりました」
 振り向きもせず、廊下を遠ざかっていく背中に小さく呟いた。返事はなかった。

 

◇◇◇


「――唯子っ!」

 その翌日も残暑厳しい一日になりそうだと予感させる朝だった。カッと照りつける日差しで、それを肌に感じ取る。

 今日は午前中から佳苗に買い出しの手伝いに行こうと言われている。夏休みのほとんどを唯子は悟史の家で過ごしていた。もしかすると、翔太と顔を合わせる回数よりも、悟史と顔を合わせる回数の方が多かったかも知れない。唯子としても、あの家にいるのは苦痛だったし、晶子の態度も怖かった。

 つばの広い麦わら帽子を被ったまま振り返る。その声も、とても久しぶりに聞いた気がした。

「待てよっ…、唯子っ!」
 立ち止まっているのに、そう言い聞かせながら近づいてくる。予備校に行く支度をした翔太だ。

「お兄ちゃん…」

 ひらひらとレースのスカートの裾が揺れるのを感じる。この服も晶子の見立てだった。唯子は今でも晶子が選んでくれた服を着るようにしていた。そうすると、晶子がホッとするからだ。どうしてか分からない、晶子は唯子がひとりで決めたり行動したりすることを酷く恐れていた。アルバイトのことも、機嫌の良さそうな時にお伺いを立てた。思いがけず、快く承諾されて気抜けしたほど。

「何だよ〜、そんなに他人行儀で。駅までは同じ道を行くんだから、一緒に行こうぜ?」

 屈託なく笑うその表情が、とても遠く感じられる。夏の名残の風がふたりの間を湿り気のある熱気で流れていくが、それよりも厚い層で隔たりを覚えていた。

「お兄ちゃん、まだ早いんじゃないの? 授業は午後からでしょ」

 何気なくそう言ってしまい、翔太の驚く顔でハッとする。

 ああ、そうだ。これは佳苗から仕入れた情報だった。悟史と翔太は予備校の夏期講習で、おおむね同じ講義を取っているという。「明日は悟史、午後からなのよ。荷物運びを少しさせようかしら?」と彼女が言ったのを覚えていた。

「何? 母さんに聞いたの…?」
 翔太の方は、そんないきさつを知らないから、自分の考えられる範疇で思考を巡らせる。彼の中ではまだ、悟史と唯子が線で結ばれていなかった。

「…あのさあ」
 翔太が言いにくそうに口を開く。ずっとおなかの中に溜め込んでいたために、吐き出す術を忘れてしまった言葉のように。

「母さん、このごろ、また…おかしくない?」


「へ…?」
 抽象的な言葉に、唯子は一瞬思考を止める。そのあと、ぐるんと頭の中をひとつの思いが駆けめぐっていた。でも今は取り出すべきではないと思う。ごくりと息と一緒にそれを飲み込んでいた。

「何だか、探られているようで気色悪いんだけど。…まあ、唯子が気付いてないなら気のせいかな? 唯子、遅くまで戻ってこないことが多いし、俺よりも敏感だから。何か気付いているのかと思った」

 …確かに。このごろの伯母は少しおかしい。それは唯子も気付いていた。でも、それは最近始まったことではない。数年前から徐々に広がってきたことで。
 もともと情緒不安定なところのある晶子だ。精神安定剤を常用している。もちろん、医師に処方して貰ったものだ。彼女は「何か」にひどく怯えている。それを緩和しなくては日常生活に差し支えるのだ。

「う〜ん…別に。私はバイトだもん」

 さりげなく言ったつもりだったが。やはり先ほどから感じていた翔太の刺すような視線は、思い過ごしじゃないようだ。彼は言葉を切ると意識して唯子よりも少し前に出て、通せんぼをするように立ちはだかった。

「バイトって、どこに行ってんだよ?」
 言葉そのものは静かだったが、でもそれを発した口元、顔全体が緊張していた。

 やはり、ここに来たか。まあ…きっといつかこうやって正面切って聞かれるとは思っていた。でも、自分から言い出すことなく、その機会を遅らせていたのだ。普通に考えて、翔太の友達の家にバイトに行くことがこんなにひた隠しにされる事じゃないと思う。だが、唯子のこの状況は特殊だった。

「…どこでだって、いいじゃない」

 こんなの答えになってないと思う。でも…事実を告げるには、少し時期が早いと思っていた。下手に翔太を刺激したくない。もしも、唯子の「予感」が当たっているのなら。

 おかしいと思っていたのは、むしろ翔太の方だ。夏服に着替えた頃から、何となくそれに気づき始めた。

「別に、悪いことをしてるわけじゃないもん。お兄ちゃん、過保護だよ? いいじゃない、何だって」
 拗ねるようにそう呟くと、さっさと翔太の脇を通って進んでいく。もちろん、足音が後ろから追いかけてきた。

「おいっ…! 唯子――…」

 翔太の指先が肩に触れた。その瞬間に、びくんと悪寒が走る。あまりにも大きく唯子が震えたので、翔太もびっくりして手を引っ込めた。


 もうすぐそこが駅だった。どっと吐き出された中学生の一団がふたりを分ける。部活の練習試合かなにかなのだろうか、何十人もの同じジャージ姿が溢れていた。

 一瞬、振り向いたが、すぐに背中を向けた。自動改札を通り抜け、ホームへの階段を駆け上がると、丁度着いた電車に飛び乗る。すぐにドアが閉まり、翔太が追いかけてこないことを確認してホッと胸をなで下ろした。

 

◇◇◇


 3つ目の駅で降りると、駅のロータリーを突っ切って悟史の家の方向に歩き出す。すると、角を曲がったところで、見慣れた若草色のチェックのシャツが待っていた。

「おはようっ! 今日も暑いね」
 ここにも、午後からの授業の人がいる。悟史は文庫本を片手に人待ち顔で立っていた。


「…どうしたんですか?」
 あと10分後に会うと思っていた人間に思いがけずに早めに遭遇し、ちょっと驚いた。いつもだったら、悟史はまだ、この時間はキッチンで朝食を食べている。

「いや、母さんがホームセンターに行くからって荷物持ちを頼まれてね。ふたりで車でここまで来たんだけど、母さん、サービスカードを忘れたんだって。取ってくるからここで待ってろって言われた。ほら、ウチの前、細い道で一方通行だから、車だとすれ違えないんだよね、唯子ちゃんと」

「…はあ」

 炎天下の中、受験生の息子を待たせてしまう。そんな佳苗だ。そして、そうされても動じることもなくのほほんと受け入れている悟史。彼は水滴の付いた缶コーヒーの缶をこちらに差し出して、飲む? と言う感じに首を傾げた。

「…あ、ありがとうございます」

「お礼は母さんに言ってね。彼女のおごりだから」

 

 そんなやり取りの後、唯子の手に缶コーヒーが渡った。その時、目の前の悟史があれ? と顔を上げた。

「…生野?」

 唯子もハッとして、振り向く。そこにいたのは悟史の言葉通りの人物。息を切らして、形相を変えた従兄の翔太だった。

「何で、お前がここで降りてくるん…」

 数時間後に出会うはずだった友人が立っている。

 唯子と翔太との先ほどのやり取りなど知るはずもない悟史が、ただただ、驚きを伴った声でそう言いかけると、翔太の声がそれを遮った。

「どっ、どういうことだよっ! どうして、お前らがふたりでいるんだよっ!!」

「…え?」

 いきなりの剣幕に、何が何だか分からない感じでうろたえている悟史。その隣りで、唯子は長い間大切にしていた綺麗な硝子の珠が、アスファルトに打ち付けられて粉々に飛び散る様を思い浮かべていた。

 青ざめた頬に食い入る視線が突き刺さる。唇を噛みしめて、顔を上げると、見たこともない瞳の色にぶつかった。

「何でっ!! …唯子っ、そういうことだったのかっ!! 俺に隠れて、こそこそと何をやってるのかと思ったら…許さないぞっ! 勝手に男なんて作ってっ…、許すもんかっ!!」

「おっ…、おいっ! 生野っ! 落ち着けよっ、俺と唯子ちゃんは別に――」

 荒れ狂う翔太に悟史が慌てて言葉を投げる。でも、なだめようと肩に置いた手は、すぐに振り払われた。

「お前なんかに渡さないっ! …他の男だって、絶対に駄目だっ!! 唯子は…俺が先に目を付けたんだからなっ!! 俺のものなんだからなっ…!!」

「待てっ! …待てってば…!! 生野っ…!?」

 悟史の声も聞かず、翔太が走り去る。その行き先を、唯子は何となく察していた。それでも、立ちつくしたまま、一歩も動くことが出来なかった。

 

◇◇◇


 しばらく追いかけて、見失ったのか。足音と共に、悟史がひとりで戻ってくる。

 自分を見上げた彼の表情が変わる。唯子はそのぼやけた風景と人物を視界に入れながら、ぽつんと言った。

 

「…もう、おしまいかも知れない。何もかも、崩れちゃう…」


 

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