「悟史、もうちょっと頑張ってみようか。駄目だな、と思ってももうちょっとだけ。そうするとね、もうこれ以上行けないと思った場所から、もう少しだけ遠くに行けるかも知れない。諦める前に、もうちょっとだけ、ね」
◇◇◇
あまりにも唐突で、あまりにも普段の彼からかけ離れていた。親しく付き合っていたはずの友の知られざるもうひとつの顔に、悟史は人間の難解さと奥深さを確かに感じ取っていた。
あの後。唯子が落ち着くのを待って、彼女を自宅の近くまで送り届けた。 丁度、忘れ物を取りに行っていた母親の佳苗が戻ってきたのだ。悟史が気を利かせて助手席に収まり、唯子をひとり後部座席に乗せる。彼女はあれ以来、とうとう何も語ろうとはしなかった。サイドミラーから覗くと、青ざめた横顔が見える。いつでも垂らしたままのまっすぐな髪。その茶色の流れが車の微かな振動に揺れる。
彼女は語らなかった。とうとう…なにも口にしようとはしなかった。
◇◇◇
「…あ…」 「放課後、サッカーグラウンドの先のところまで来てくれ」
真っ青に晴れ渡った空は、それでも幾分色を変化させている。秋の空、夏の頃よりも色が薄くなって、そして高くなる。薄くなるから遠くなったように思えるのか。それとも遠くなったから薄くなったのか。宇宙の漆黒が光の屈折で見せる色。それに対して問いただしたところで答えはない。 …翔太が、唯子に特別の感情を持っていた。 迂闊ではあったが、そのことに悟史は少しも気付いていなかった。それもそうかも知れない。彼自身が唯子にとっては「恋心」というものを抱いていなかったのだから。 確かに、可愛くて明るい子だと思った。そこにいるだけで、周りがぱっと明るく輝く。よく気がつくし、人なつっこい。母親の開いている教室でも彼女は皆から可愛がられていた。…でも、ただそれだけのことだった。それ以上のものではなかったのだ。 もしも、悟史が唯子に特別の感情を抱いていたら、翔太の気持ちにも気付いていたのかも知れない。恋愛にはエゴがつきものだ。好きになれば、独占したくなる。他の者の心にも敏感になっていくのだから。 …では、この気持ちは何と形容したらいいのだろうか…? 友達ではない、かといって妹という存在でもない。改めて考えると、まったく適当な単語が思いつかなかった。翔太のことももちろん気になっていたが、それ以上に、毎日のように顔を合わせていた唯子の存在が消えたことに戸惑っていた。帰宅した時に母親の声に被るように彼女の「おかえりなさい」の声がないと何だが落ち着かない。 「――唯子ちゃん、大丈夫かしら…?」 唯子の方から、飛び込んできてくれなければ。何もすることが出来ないのだ。でも、彼女は来ない。あの意味不明な言葉を残して、ふっつり現れなくなった。
「…もう、おしまいかも知れない。何もかも、崩れちゃう…」 何がおしまいなのだろう、彼女は何を恐れていたのだろう…? 彼女の取り乱し方があまりにすごかったので、悟史も佳苗も何もすることが出来なかった。 唯子はほとんどしゃべらなかった。自分の家のことを。そう言えば、翔太から話を聞いたことも少ない。だからこそ、唯子という従妹が同居していることも全く知らなかったのだ。
「…悟史」 サッカーグラウンドの先は小高い丘になっている。その先には学校の敷地とその外を隔てる黄緑色のフェンスがある。3メートルくらいあるだろうか。普通はよじ登るものではない。誰の趣味なのか幾何学的な模様になっていて、足場にもならなそうだ。 新学期だというのに床屋に行かないまま伸びきった翔太の髪は、そのまま貧乏学生のようだった。その遊んだ毛先が、フェンス越しの風に揺れている。彼はこちらに向き直ると、立っているのも辛いように、背中をフェンスに押し当てた。がしゃん、と鈍い音がする。 言葉を発するのにも躊躇するような、力無い態度を見て思う。…自分は、一体この男の何を知っていたのだろう? この男だけではない、唯子だって…彼女のことも全く知らなかった。知ろうともしなかった。表面に出てくる姿しか、知ろうとしなかったから、その根底にあるものを分かるわけなかった。
前にどこかで聞いたことがある。 「30才からの顔には自分で責任を持つこと」――人間は長年培ったものを心に積もらせて生きていく、だから30才くらいになれば、その心映えが表情ににじみ出てくるのだ。だからそれまでの人生をどう生きてきたのかで、その後の顔つきも生き様も決まってくる。気がついたらもうその三分の二にさしかかろうとしている。物言えぬ子供だった頃を含めるのだと考えれば、これからの10年の大きさが思い知らされるのは無理ないだろう。 まだ自分たちはそう言う意味では道の途中だ。これからの道を登っていくのか下っていくのかも知らない。物事の、自分を取り巻く全てたちの表面しか見ていなかったから、今まで平たんな絵しか描けなかったのかも知れない。一歩踏み込んだものを描きたければ、もっとその内面を知る必要があったのだ。
翔太が口を開くまで。悟史もやはり突っ立ったままで黙っていた。言葉を発することは出来ない。促すことも出来ない。それは…彼が彼の中で必死であるのを気付いたからだ。 「…悟史」
「頼む、悟史。唯子を守ってくれ…俺は、もう駄目だ」
◇◇◇
唯子が自分と出会う前、どこで何をしていたのか知らない。だが、彼女はとても長い期間、週に何日かは遅くなるまで帰宅しなかったのだ。行く当てもないまま、彷徨っている身体と心。人前で彼女が見せる姿とは対照的な本質がそこにあった。 …知らないで済ませられるなら、そうしようかと思っていたのか。面倒なことは他人に任せて、自分は楽をして生きたかったのだろうか? …違う、そうじゃない。そうではないはずだ。しかし…だからといってどうしたらいいのか。 いつだったのか、唯子に告げた。自分は描きたいと思うものがあると。それが…それこそが、唯子自身だった。そして、彼女と出会えなくなって、そのしばらくの時間、悟史は記憶の中の彼女と向き合うことになる。ぞっとするほど、頼りない影。真っ白なスケッチブックにラフを描こうとしても、思い出そうとすればするほどに彼女は遠ざかっていく。 …そう、ここで。 初めて、彼女に出会った瞬間に始まったいたのかも知れない。長い長い旅が。知らない間にもう歩き始めていた。 「…逢いたい…」
――時計が8時半を示す。駅から吐き出される人の波が、とっぷりと暮れた街並みに吸い込まれていく。どれくらいここに座っていたのか、それすらももう分からなくなっていた。 「…悟史、さん?」 もう帰ろう、そう決めて立ち上がった時。背後から声を掛けられた。 思わず身体を堅くして、そのあとゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、青ざめた顔だった。…知っている、この色。瞳の色も、顔色も…輪郭の微妙なラインも、みんなみんな知っていた。 「唯子、ちゃん…」 言葉の続きがなかなか出てこない悟史に、唯子は力のない笑みを浮かべて応えた。 「佳苗さん、心配してましたよ? 今日は予備校の日じゃないのに、どこに行っちゃったんだろうって。私、今まで悟史さんのお家にいたんです。長いことお休みしちゃって、申し訳なかったけど…今日からまた、頑張ろうかなって…」 「そう…なんだ」 何だか、気抜けしてしまった。ここで長い時間待っていたのに。当の彼女は自分の家にいたという。学校を出る時に、もう教室にいなかったから、先回りして駅に行けば会えるかと思ったのに。翔太の話では、唯子はあれからもふらふらと出かけたまま、なかなか家に戻らない日々が続いていたという。彼女は自分でも分からないままに、彷徨っていたのだ。 この感情をどうやって表現したらいいものか。それが分からない。このごろの悟史には分からないことだらけだった。分からない、分からないと思いながら、いたずらに時間が過ぎていく。 それでも、嬉しい。 こうして、唯子が再び目の前に現れて、そして自分の名前を呼んでくれた。黙って通り過ぎることも出来たのに、声を掛けてくれた。――あの日の、自分のように。引かれあう糸の両端をしっかりと感じ取った。 「…お帰り、唯子ちゃん」 自然に、そんな言葉が口から出た。適切な言葉じゃないと後から思ったが、どうしてもこうやって言いたいと思ったのだ。 「やだっ…、悟史さん…」 「それ、さっき…佳苗さんにも言われました」 やわらかい風を感じる。ふたりの間で立ち止まっていた時間が静かに静かに流れ始めたのだ。 「あのね、悟史さん」 「今度のお休みに、一緒に行って欲しいところがあるんです。…宜しいでしょうか?」 そのあとに見せた笑顔が、今までで一番綺麗だと悟史は思った。
◇◇◇
しばらく声もなくその風景を見つめてから。唯子は悟史を先導するように、ずんずんと奥に進んでいく。やがて、奥まった一角で立ち止まる。そこには腰までの高さの小さな墓石が立っていた。 「……?」
石の周りを静かに片づけると、唯子は手にしていた花を活けて、振り向いた。静かな微笑みだった。 「…私の、ママ」 確か。唯子の母親は翔太の母親、つまり唯子の伯母の妹に当たるという。だとしたら、先祖代々の墓があり、そこに眠っているのが本当ではないだろうか? 悟史が怪訝そうにその表情を捉えるのも構わず、彼女は静かに話を続けた。 「ママはね、私が4才になったばかりの頃、死んじゃったんだって。おじさんとおばさんが全ての後始末をやってくれて、お骨も生野のお墓に納めるつもりだったの。でもね、ある日ここの霊園から手紙が来て。ママが自分でお墓を買って、自分はここに眠りたいと言っていたんだって住職さんが仰った」 神経質な伯母は、もちろん反対した。何を思ってそんなことをするのだ。両親と同じ墓にどうして入らないのだ。しかし、故人の願いでもある。すったもんだの末、「分骨」と言うかたちで事なきを得た。お骨のほとんどはこちらに、一部だけを生野の墓に納める。 謎めいた昔話を、唯子はただ淡々と続けていった。
自分が、ここにいていいのか? ひとり、家族じゃないのにここにいて。生野の家に引き取られてからも小さな唯子には絶えず不安がつきまとった。 そんな悩みをかき消してくれたのが、翔太の存在だった。幼い頃から持病のためなかなか集団生活にとけ込めなかった彼は、いきなり現れた妹という存在に最初は戸惑ったがすぐに夢中になった。兄弟というものの大きさが彼を変えたのだ。その頃からとても快活になり、学校生活も楽しく送れるようになった。伯父も伯母もそんな息子の変化をとても喜んでいた。 …少なくとも、表面上は。波風の立たない穏やかな日々が続いていった。しかし、翔太が中学に上がる頃になって、ささやかな平穏がだんだん崩れ始めたのだ。その変化に一番先に気付いたのが、唯子自身だった。 「…その頃まではね。お兄ちゃんもお友達がたくさんいて、家にも一度に何人も連れてきていたの。おじさんもおばさんもお兄ちゃんには甘かったから、ゲームとか漫画とかもお友達の中で一番たくさん持っていた。それもあったんだと思う。…でもね、ある時、困ったことが起きて」 それは、突然の出来事だった。翔太の級友のひとりが、唯子に興味を持ったのだ。多分、その男の子がませていたのだろう。その頃、唯子はまだ小学生で、とてもそんな考え方には付いていけなかった。 翔太の唯子に対する執着に次に気付いたのは伯母である晶子だった。彼女はふたりの間に割り込むような態度を取り、やんわりと牽制した。その微妙な空気の変化に気付かない唯子ではない。もとより、伯母の欲求や期待には出来る限り応えるように努力していた。それに…唯子自身も、翔太にはただならぬものを感じ取っていた。 何でもないように語られる昔話。悟史にとっては初めて聞く、友人・翔太と唯子の歴史。 そこまで聞いて、彼は何となく自分が持っていた違和感に気付いた。翔太は家族の話をほとんどしなかった。したとしても同じ高校に妹的な存在の従妹が在籍していると言うことを明らかにしない。よくよく考えたら、異常な感じだった。 「お兄ちゃん、3年生になり立ての頃は、悟史さんのことよく話してくれたの。でもね、私がいつだったか…へえ、とてもいい人なのね、みたいに言ったらね。それきり話題に上がらなくなった。その時の空気がね、何だか、とても息苦しかったの」 そうだ。唯子に学校の中庭で初めて会った時。そのあとの翔太の説明はあまりにぞんざいだった気がする。かなり入れ込んで可愛がっていた存在ならば、自慢しても良さそうなものなのに、こちらが訊ねてもあまり反応してこなかった。 「お兄ちゃんが、私に何を望んでいるのかは知ってた。でも…おばさんの目も怖かった。家の空気がみんなぴりぴりしていて、息が詰まりそうで。それでも、あとちょっとだから、お兄ちゃんが大学に行けば、まず家からは通えない。私も明くる年には進学する。だから、もうちょっとだけ、もうちょっとだけどうにかすれば、何でもないように済ませられるんじゃないかって…ずっと…思っていたの。崩れるのは、怖かった」 翔太が、あの騒ぎの後、自宅に戻ってどうしたか、それは悟史には想像するしかない。ただ、神経質だという母親と彼の間にひと騒動が持ち上がったのは当然だろう。彼の今日の衰弱振りは、そのなれの果てだ。 「私…、もう、どうしていいのか分からないっ…!」
感情を露わにする娘ではなかった。いつも人との距離を推し量りながら、気持ちの良い会話を繰り広げられる存在。それを無意識に行ってしまうのが、彼女の才能であり、悲しさだったのかも知れない。 それなのに、この、突き刺さってくる感情は何だろう。彼女自身ですら気付いてないような細い硝子針のような痛み。これこそが、長年彼女を傷つけてきたものの正体だったのかも知れない。 墓石の前にうずくまって、顔を両手で覆った唯子は、大きく肩を震わせた。
…何なのだろう、これは。 悟史は唯子のせっぱ詰まった感情と向き合いながら、その一方で静かな冷たさを感じていた。いや、彼自身が彼女に対して抱いている感情ではない。彼女を取り巻く空気の中に異質なものを感じ取ったのだ。霊感、と言うにはおぼつかない…第六感のようなもの。 …誰かが、いる。 そうだ、思いだした。いつだったか試着室から出てきた唯子の背後に、確かに見えたもうひとりの影。それこそが、彼女を捕らえている存在ではないのだろうか。 …そして。自分は、どうしたらいい? どうするべきなのだろうか…? この目の前にいる少女の存在は想像を遙かに超えるほどに重い。わずか16才のいたいけな身体で、背負っているものの大きさ。 「頼む、悟史。唯子を守ってくれ…」 あの、翔太の悲痛な叫びは何を意味していたのか。そりゃ、唯子は慈しむべき存在だと思う。だが、それは何も知らない表面上の彼女に対してのみなら、簡単に言えることで。一歩踏み込んでしまうにはあまりに重いのではないだろうか。
…翔太に抱えきれなくて、彼が手放したもの。それを、守れるのか。自身の行く末すら満足に決められない自分が他人のことまで背負い込めるのか? そんなの無理だ、…だったら、だったらどうしたらいい? やはり、翔太のように自分も見限るしかないのだろうか…? だが、会いたいと思った。存在がないと寂しいと思った。
考えて、考えて、でも…まとまらなくて。それでも必死でその名を呼んだ。それが今の自分に出来ることの全てだと思ったから。 「…どうしていいのか、分からないのだったら、一緒に探そう。俺も分からないことだらけだけど、それはふたりとも一緒だから。求めるものは違うとしても…一緒に探したいんだ」
怖かった、不安だった。自分に出来るか何て推し量る術もなかった。だけど、自分の中に淡く浮いた感情を頼りに、悟史は想いの全てを唯子の前に晒していた。
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