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………8 

 

 

「ほら、夕陽がお家に帰っていくわよ。だから、唯子ももう帰ろう…お空がピンク色の間に」
――ママ。ママはどこに帰るの? …どこに帰りたかったの? すごく遠い場所を見てた、夕陽のお家よりもずっとずっと遠くを…。

 

◇◇◇


 表通りに面したカフェテラスは、午後の日差しにゆったりと佇んでいた。時計をちらっと見て、少し足を速める。思ったよりも面接が長引いてしまった。学校を出る時に一応の連絡は入れていたが、遅刻は遅刻だ。

 

「ごめんなさい、遅くなっちゃって…」

 からんからんと頭上でカウベルが鳴る。ここの店のマスターが海外を旅行して集めているというそれは、定期的にかたちが変わる。せっかく来てくれる客に、色々なコレクションを見せたいという心意気だった。

「何? 話があるなら別に外じゃなくたって。私、明日は佳苗さんのところにお手伝いに行くことになってるでしょう」

 そう言いながら、ふたりがけの向かいの席に座った。それほど広くもない店内だが、悟史は唯子がすぐに分かるように、入り口のすぐ近くの席にこちら向きに腰掛けていた。

 衣替えしたばかりの制服は焦げ茶色のブレザーにアイボリーのベスト。そしてベストと同色のスカートを少し引っ張る。規定の長さのままなのに腰掛けると太股の半分くらいまでまくれ上がってしまう。それが落ち着かなかった。

「そうかなあ…でも、俺もたまには気分転換したいんだよね。家でも学校でも息が詰まってさ、クラスなんて『芸術家の苦悩の図』がそこら中で展開されていて悲惨なんだよ」

 そう言いながらも、さほどせっぱ詰まった様子もない。悟史という人間はいつでもおっとりしているから、焦っているのか余裕なのか全くこちらには伝わってこないのだ。

 これが翔太だと、もう本人を取り巻く空気からピリピリと伝わってくるものがある。それが芸術肌の人間の姿なのかと思っていたが、そうでもないらしい。

「たまには母親抜きで唯子に会いたいし…で、何にする?」
 すっとメニューを差しだされる。A4の大きさの紙がパウチされている両面のものだ。デジカメとパソコンで作ったものだろう、このごろではファミリーレストランなどのチェーン店ではないこんな個人に店でもこの手のメニューが主流になった。昔ながらの分厚い皮の表紙に印刷文字のメニューはあまりお目に掛からない。


 ――どきり、とした。

 悟史が少し変わったと思ったのは、あの遠出した次の日からだった。いつものように悟史の家に行き、彼の母親の教室の手伝いをする。当たり前の時間を過ごしたあとの帰り道だった。

「唯子」

 初めて、名前を敬称なしで呼ばれた。教室が終わるまで…いや、悟史の家を出るまでは「唯子ちゃん」だったのに。ぽつりぽつりと街灯の灯りを追いかけるように住宅地を抜けていく時。振り向いた人の唇が動いたのを、ぼんやりと霞んだ闇の向こうに感じた。

「はい?」
 何となく反射的に答えていた。胸の高鳴りを押さえながら。あの瞬間から何かが確実に変わり始めた。


「そんなに、おなかも空いてないんだけどな…」
 メニューを目で追いながら、でも食べたいものが見つからない。学校に行く前に、軽く軽食を摂っていた。午後一番の面接なので、食事をしてから家を出たのでは間に合わない計算だったから。

 

 面接…はクラス担任と行うもの。人によっては父兄が同伴するが、唯子は伯父や伯母の手を煩わせるのが嫌だった。もう進路は決まっているし、今更保護者と並んで教師の話を聞くまでもない。専門学校はものによっては試験を行うところもあるが、唯子の志望する実務系はあっても形式的な適正診断テストくらいだ。

 簡単に話が終わってホッとした。あと1年半、それであの家から出ることが出来る。本当なら、奨学金の制度なども使いたいところだが、あまり気を遣いすぎるのもどうかと諦めた。やはり世間体というものがある、伯母たちにしてみても自分たちの本当の子供ではない唯子だけが奨学金を使ったというのであれば、何か差別しているような感じに取られるかも知れない。亡くなった母親が残した通帳もあるらしいが、大した額ではないのだろうと思っていた。

 

「そんなことないでしょう? どれもおいしそうだよ、たくさん食べようよ。決められないなら片っ端から注文してみる? 食べきれない分は俺が手伝うからさ」

「…え?」

 いきなりの提案に面食らってしまう。なんだそれは。選べないからって、そんな安易な。食べきれずに残したりしたらお店の人に失礼だし…でも、悟史の方はどこ吹く風。すぐにウエイトレスを呼んでしまう。唯子には口を挟む暇もなかった。

 

 そして。数分後、狭いテーブルに乗り切れないような量の皿が並ぶことになったのだ。

「…これ。どうするんですか? 一体…」

 カットしたケーキが5つ、ゼリーにムース。そして、すぐに食べなければ溶けてしまいそうなパフェも3つ…ソフトドリンクもある。

 さすがの唯子も、この状況には非難めいた言葉を発するしかなかった。

「どうするって、決まってるでしょう? 食べるんだよ、俺と唯子で」
 悟史はあっさりと言うと、こちらに身を乗り出した。

「まずはどれが食べたい? とりあえずはアイスクリーム系から片づけようか、バナナとチョコレートとフルーツのパフェ、どれがいい?」

 これがメニューの段階ならゆっくりと選ぶことが出来る。だが、実物が並んでいるとなるとそうも行かない。アイスクリームが溶けてしまったらどろどろになってしまうじゃないか。それが好みの人もいるかも知れないが、唯子としては頂けなかった。とくにここの店のは手作りソフトクリームが上に絞り出されている。涼しい陽気でも、もうてっぺんが溶けだしているのだ。

「ええと…じゃあ、フルーツの奴…」

 一体何を考えているのか。いきなり呼び出してどうしたんだろう。そう思いながらも与えられてしまった状況を考えるとやるしかないと言う感じだ。

 唯子の言葉に悟史はにっこり微笑むと、パフェ用の柄の長いスプーンを差しだした。

 

◇◇◇


「ああ〜、思う存分食べたって感じだね〜」

 2時間後、ようやく店を出たふたりは人通りの多い週末の街を並んで歩いていた。気持ちのいい10月の風が傾きかけたオレンジ色の日差しに流れていく。唯子の髪がふんわりと舞い上がった。

 

 …思う存分って…、自分が好きでやったことでしょう?

 唯子は急に子供っぽく不可解な行動を取りだした悟史を、未だに信じられないように見つめた。

 結局パフェは1つ半、ケーキをふたつとチョコレートムースを胃に収める羽目になった。甘いものばかりでさすがにソフトドリンクは辞退する。ウーロン茶とお水でどうにか口を正常化した。

 まあ、唯子の方がそうなのだから、残りの分は全て悟史が平らげたことになる。今まで数ヶ月見てきた彼は小食とは言えないまでも、まあ普通の高校生の男子の食欲だったと思う。甘いものも好きでも嫌いでもなくて、勧められれば食べる、と言う感じで。まさか、受験のストレスが溜まってヤケ食い…? いや、それはないだろう。だいたい、甘いものを食べまくるのは女の子に多い行動だし。

 

「どう? 満足した?」

 この細身の身体のどこにあれだけの食べ物が入ったのだろう? それが不思議で仕方ない。呆れ顔のまま歩き続ける唯子に悟史はさらに言葉を続けた。

「次、もうひとつ、付き合って欲しいところがあるんだけど…」

「…はぁ…?」

 まさか、これ以上何か食べるとか言うんじゃないでしょうね? いくら何でもそれは無理なんだから…という心の叫びはしっかりと顔色に現れていたらしい。悟史はくすくすと笑って、かぶりを振った。

「いくら何でも、あと3時間は何も食べたくないなあ…ほら、あそこ。新しくできたファッションビル」

 彼が指さしたのは、秋にオープンしたばかりの真新しいビルだった。たくさんのテナントが入っているファッションモールで、若い客層をターゲットにしている。この不景気の時代に財布の紐が緩いのは、親のすねをかじったりバイトしてその収入を全て遊びに使えるという若者だけだ。そのビルも新生児衣料から、TVタレントが好んで着るブランドまで色々取り揃えている。

「…服を、買うんですか?」

 ヤケ食いのあとは…衝動買い? 本当に女性的な行動パターンだ。今日の悟史は不思議なことばかりで唯子はすっかり混乱していた。

 

◇◇◇


「俺のじゃなくて、唯子の服」

 制服姿のまま引っ張ってこられたのは、どう見ても女性向けのフロアだった。赤やピンク、水玉模様に花模様、明るいストライプ。ウインドウに並ぶマネキンたちはまるで花を身につけているみたいだ。

「私の…? どうして?」

 きょとんとしたままの唯子に悟史は茶色い封筒を見せた。

「夏休みにね、唯子がたくさん手伝ってくれたからって。規定のバイト料の他に、母親が大入り袋を出したいんだって。いつもよりたくさんの受講生を受け入れられたから、かなりの収入になったそうだよ?」

「え…、でもっ…」

 別にバイト料だけでも十分だったのだ。唯子はそれほど浪費家でもなく、服を買うお金も季節ごとに伯母である晶子から手渡されている。学校には制服で行くし、休日に遊びに行くとしても手持ちの服で十分だった。そんなものはいらないと辞退しようとするが、悟史の言葉に遮られてしまう。

「これは母親からの要望でもあるんだから。たまには明るい色の服を着てみない? きっと似合うと思うよ…?」

 

 言われる通り。唯子には大人しい色合いの服が多かった。しかも時代に左右されないような、膝下のスカートやオーソドックスなブラウスやカットソー。髪型も小さな頃からずっと一緒だ。だが、それが一番落ち着くと思っていたし、誰からも指摘されたこともなかった。たまに晶子が街で見かけた服を「あれがいいんじゃないの?」と言ってくれることがあったが、それは唯子にとっても好みの服だった。

 学校帰りに悟史の家に行く時は制服姿。だからあまり気にならなかったのかも知れない。夏休みになって私服でお邪魔するようになって、佳苗に服装のことを言われたことがあると思いだした。

 

 …だが、しかし。

 何だろう、この店。唯子は悟史が選んだ店の前で、思わず立ち止まってしまった。足が中にはいることをためらっている。だって、そこには、普通は絶対に素通りしてしまうような原色の幾何学模様が並んでいたのだ。

 スカート丈だって、すごく短い。この服を着たらそのままTVに出て歌が歌えそうだ。かろうじて着られそうな細かい花模様や水玉も、よくよく見るとふわふわにペチコートがついている。身体にぴたっと吸い付きそうなニット、細いつま先のパンプス。真っ赤でぴかぴかしたバッグ。

「唯子は色白なんだから、こう言うのも似合うと思うな。どうして着ないの?」

 

 ――どうして、って。

 心の中で呟く。だって、そうじゃない。こんなの、私の服じゃない。いつもの服がいい。髪型だって、このままがいいし…変わろうなんて思ったこともない。

 …ううん、むしろ…。

 

「いらっしゃいませ〜!」
 店の前にずーっと突っ立っている唯子を店員の女性が呼び止める。一目でこの店の店員と分かるような服を着て、にこやかな顔でこちらに歩いてきた。

「何かお探し? どういう服が好みなのかしら…ええと、そうねえ…」

 人なつっこく、あまり押しつける感じのない上質のセールストーク。だが、こういう店員の方が実は細かいのだ。話をしている素振りのまま、あっという間に一揃えのコーディネートをしてしまう。

「ウチのショップは、かっちりしたものと女の子らしい可愛いのと両方あるんだけど。お客様にはあまり固いデザインは似合わなそう…ほら、これなんか可愛いでしょう? 今日の朝に入ったばっかりなの」

 そう言って目の前に出してきたのは、さながら花束のような服だった。

 つぎはぎのスカートは様々な花模様や水玉模様を絶妙に組み合わせてある。お互いにケンカしそうな組み合わせなのに、何故かまとまって見えるのはデザイナーのセンスか。赤やピンクにベージュやアイボリーも組み合わせて、いちごのショートケーキみたいな彩り。合わせるブラウスはシンプルなデザインながら、レェスをふんだんに使って少女趣味な仕上がりになっていた。

「ほらほら〜少しくすんだ色でも合わせてみると可愛いでしょ? あらぁ、よく似合うわ。何だかこっちまで嬉しくなっちゃうようね…」

 一気に押しまくられて、泣きたくなる。困り果てて振り向いて悟史を見た。今まで黙ったままで店員と唯子のやり取りを聞いていた彼は静かな口調で言う。

「せっかくだから、試着してみればいいのに」

 

 …どうして…?

 本当に訳が分からなかった。何のためにこんなことをするんだろう? 食べたいと言っていないものを無理矢理食べさせられて、着たくもない服を着ろと言う。そうして、何が起こると言うのか?

 このところずっと、会えなかった。悟史の家に行って、佳苗の仕事の手伝いはする。でも…悟史本人と色々しゃべったり、そう言う時間はなかったのだ。彼は予備校やら特別な授業やら…色々あって忙しそうだったから。

 久しぶりに会って。どうしてこんな風なんだろう? 今まで勢いに押されて来てしまったが、ようやくここに来て、とても居心地の悪いことに気付き始めた。自分がやりたくないことを押しつけられるということに強い不快感を覚える。あまり感じたことのなかった、唯子にとっては不思議な感情だった。

 

「…やっ、着たくないっ! 絶対にいやっ!!」

 自分の中から、ほとばしる感情が、そのまま声になっていた。それは言ってしまってから自分で驚くほどの、唯子本人すら気付いていなかった激しい想い。               

「私、もう帰るっ! …ごめんなさいっ…!」

 そう言い終わる前に、唯子はビルの出口に向かって一目散に駆け出していた。

 

◇◇◇


 ――怖かった。何だか分からないけど、すごく怖かった。そんな自分の中の感情を、唯子は持て余していた。

 たかだか服の試着じゃないか? 着てみて、自分で似合わないと思えば、戻せばいい。そんなのは当たり前のことなんだ。そうすれば、店員と悟史の気も済むだろう。

 

 そうなのだ。

 今までの唯子だったら、自分の中のもやもやなど脇に置いておいて、誰かの気に入るように事を運ぶのが常だった。食べろと言われたものを食べ、行けと言われた場所に行き、着ろと言われた服を着る。それこそが彼女に与えられた処世術であったのだ。

 

「…唯子?」

 走って、走って。全てを振り切ったつもりだったのに、悟史は当たり前のようにすぐ後ろにいた。ようやく辿り着いた公園で、とうとう息が上がってこれ以上走れなくなる。大きく肩で息をして、唯子は振り向いた。

「もう…やめてっ!」

 思いの丈を吐き出してから気付く。何だろう…この感情は。自分の中に巣くっていたこの恐ろしいものは。

「嫌なのっ! …壊さないでっ! そっとしておいてっ…!」

 身体がガクガクと震える。感情が波になる。ほとばしるしぶき…今まで押さえつけていたもの。

 

 唯子はすっかり混乱していた。それが自分でも分かるほどに。なんと言ったらいいのか、冷静な自分が狂った自分を少し上から見下ろしているみたいで。そう…自分がふたりいる。自分を見ている自分がいる。気がついていなかったが、今までずっとそうだった。

「生野唯子」という人間を演じ続けていた。決して外れないレールの上で、静かに進んでいたのだ。悟史が自分に働きかけて来ることは、その流れを乱すもの…自分にとっては有り難くない事でしかなかった。

 

「もう…いいんじゃないかな?」

 濁流に飲まれて、沈んでいく刹那。どこかでそんな声を聞いた。驚いて、顔を上げる。そこは夕方の当たり前の風景。風に揺れるブランコ、音を立てる木々の枝。巣に戻っていく鳥の群れ。

 目の前に、立っている人の。穏やかな視線。当たり前みたいに、自分を見つめている瞳。

「そろそろ、解放されてもいいと思うんだけど。――自分の影から」

「…え?」

 何を言ってるんだろう、この人は。「影」って一体何? 私にはそんなものはない。

「気付いてないの…? 唯子はずっと、自分じゃない人間になろうとしてる。それでいいの? これからもずっとそうしていくの…? このままだと、一生変われないよ。唯子が唯子にならなくて、どうするの? 君はこの世に一人しかいないんだよ…」

 呪文…? 違う、この言葉は何? 私が私って、何?

「…違う、私は私。何言っているの、悟史さん。私はちゃんと生野唯子だわ、そう言う名前で、そう呼ばれて今まで生きてきたんだもん。悟史さんの言うこと、よく分からない。今日はどうしちゃったの? そっちこそおかしいわっ…!」

 そう言いながら。もう気付いていた。伯父の渉や伯母の晶子が何を望んでいたか。自分が本当はどうすれば良かったのか。

 

「もう、戻りなよ。解放されなよ…唯子は唯子でいいじゃない。無理をして、他の人になる必要なんてないんだから」

 

 …無理をしてる? ううん、そんなことはない。私は私。ずっと普通にしてきた。でも、そうなの? 本当にそうなの…?

 そう思った瞬間に。ひんやりと頬を撫でられた。

 通り過ぎた夕方の風。辺り一面を静かに揺らして、どこかに流れていった。


 そして。

 唯子の中で、何かが割れた。

 

「…ごめんなさいっ…」
 突然、そんな言葉が口から飛び出した。次の瞬間、今まで乾ききっていると思っていた目からぼろぼろと涙が溢れてきた。

「ごめんなさいっ…、ごめんなさい、ごめんなさいっ…!」

 ガクガクと体中が震える。立っているのも苦しいほどに、恐ろしい波がいきなり内側から唯子を飲み込み始めた。

「…唯子っ…!?」

 遠くで、自分を呼ぶ声がする。

 あなたは誰? どうして私の名前を呼ぶの…? ううん、それより、私は名前なんてものをそもそも持っていたのだろうか。

 そう思いながらも、かろうじて腕を伸ばす。身体が支えられたことを知って、そこでがくっと力が抜けた。

「どうしたのっ! 大丈夫っ…!?」

 

 ぐるぐると回る視界。でも、その中に響く声。自分をこの渦から引きずり出してくれる、神の声。すがりついたら、ようやく今までしまい込まれていたものが、心の奥から湧き上がってきた。

「私っ…生まれて来ちゃ、いけなかったのにっ。私なんて、いない方が良かったのにっ…!」

 

 その言葉を口に出した瞬間に。唯子は自分の中から全てのものが羽ばたいていくのを感じていた。


 

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