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………9 

 

 

「いちばん偉い人にならなくてもいいよ、誰かのいちばん大切な人になりなさい。そのためにはね、まずは自分で自分が大好きにならなくちゃ。自分のことが好きになれない人は、誰にも好きになってもらえないからね…」

 

◇◇◇


 何を持って、その言葉を口にするのか。自分の存在を自分自身で否定することくらい、人間にとって不幸なことがあるだろうか。

 すぐに「そんなことはない」と言って慰めなくてはと考える。だが…どうしたことかそれが出来なかった。

 

 悟史にしがみついてきた唯子は、想像以上にしっとりと重く感じられた。細い線の少女だから、体重はそれなりだと思う。でも…その瞬間に悟史が支えようとしていたのは腕に感じ取れる「重み」だけではなかったのだ。もっともっと深いもの、唯子の心の奥に眠っていた感情までが全部伝わってきた。

「…私のせいで、ママは死んじゃったんだもの。私を産んだりしなければ、ママは命を削ったりすることなかったのにっ…!」

 そう言って泣きじゃくる彼女は、高校生と言うにはあまりに頼りない存在に思えた。幼子が感情の全てを吐き出して、心のままに泣きわめくような…そんな自分をぶつけてくるあからさまな姿。

「…唯子…」

 その人に与えられた名を呼んで、抱きしめること。それしか出来なかった。

 夕暮れの公園で、ふたつの影が長く長く伸びてやがて闇に溶けるまで、やわらかい髪の感触を手のひらに感じながら、悟史は唯子の痛みまで全身で感じ取っていた。

 

◇◇◇


 それからしばらくの間。表面上はそれまでと少しも変わらない、平穏な日々が続いていた。唯子も以前と少しも変わることなく登校し、放課後は制服姿のまま悟史の家にやってくる。そこに悟史がいてもいなくても佳苗の仕事をてきぱきと手伝い、夕食を摂って帰っていった。

 ただ…駅までの送る道、ふたりきりになると。

 にわかに唯子の態度が変化した。なんと言ったらいいのだろう…分かりやすく言えば「赤ちゃん返り」…と言うところだろうか? まあ、いくらなんでも赤ん坊の頃まで戻ることはない。だが、悟史を見上げる目は頼りない子供のものだった。どうしたらいいのか、どこへ行けばいいのかさすらっている、誰かが導いてくれるのを待っている…それが揺れる瞳から伝わってくる。

 悟史としても。どうしたらいいのか、正直分からなくなっていた。

 唯子の内側が壊れたことを、確かに感じていた。彼女が頑なに隠していたもの…それは母親に対する懺悔の気持ちに他ならない。4歳で死別したという唯子の母親。もともと身体が弱く、子供なんて産めないと言われていた彼女が、家族にも告げずに唯子を産んだ。それが死期を早めることになったのは間違いないのだ。

 そうなれば物心の付いた唯子が敏感にそれを感じ取り、誰かの犠牲の上に生きている自分を厭うことがあっても当然だ。

 

「頼む、悟史。唯子を守ってくれ…」

 翔太の言葉の裏にあったのはこう言うことだったのかと改めて思う。唯子に連れて行かれたあの山間の静かな墓地で、自分が最後までためらっていた理由も分かる。

 

 …自分すら支えきれないままで、どうして他の誰かの心まで支えられる?

 自分の中に絶えず疑問符を抱えながら、ただ彼女の隣りにいることだけが、悟史に出来る全てだった。

 

◇◇◇


 秋は駆け足で深まっていく。ふと気付くと木枯らしの音を聞き、遠い北の国の大雪の情報を毎日TVのニュースで見ることになる。その頃には悟史の受験も追い込みで、唯子のことばかりを気にかけていられなくなっていた。

 まあ、幸いというか週に何度も自宅に来ているので、そこで彼女の姿を見ることが出来る。少しやつれた感じではあるが、日常生活に支障があるという程でもない。翔太にさりげなく聞いてみると、家に戻ってもぼんやりはしているものの、普段とあまり変わらないらしい。もともと影の薄い家族だったからと、彼は寂しそうに付け足した。

 

 唯子は自分の中から母親の存在を吐き出した。だから、今の彼女は抜け殻同然なのだ。翔太はともかくとして、伯母や伯父にしてみれば、どんどん母親にそっくりに成長していく姪娘を、何とも複雑な気持ちで見つめていたのだろう。いつか唯子自身も言ってた、記憶の中にある母親の姿に、時々ぞっとするくらい似ている自分を見ることがあると。だから、だんだん恐ろしくなって、鏡を見られなくなってきたと。

 それは悟史にとって想像も付かない感情であった。だが、同時に唯子はその母親の影に支えられていたのだ。出来る限り記憶にそって、その影と同じように振る舞っていけば、全てが上手く言った。初めの頃、悟史が感じていたあの人なつっこい明るい気性は、唯子自身というよりも母親のものであったのかも知れない。娘でありながらあまり記憶のないことを「親不孝」だと言っていた。だが、確かに彼女の中に、母親は息づいていたのだ。やがては巣くわれてしまうほどに。

 

 季節はまた巡り、木々の枝に若い芽がぽつぽつと伸びてくる。学校が自宅学習に入ったかと思ったら、あっという間に卒業の頃になっていた。

 

◇◇◇


「…ひとり暮らし…するんだ?」

 ある夜、いつものように母親の佳苗の手伝いをしていた唯子を駅まで送っていた。こちらがまだ告げていないことを、彼女が口にする。多分、佳苗が話したのだろう。

「うん、ちょっと通うのには遠い大学になっちゃったし。電車は2時間半くらいなんだけど、その先にまたバスに揺られないといけないんだって。乗り換えの待ち時間とか考えると、やっぱそうした方がいいかなって」

 何だか後ろめたい。出来ることなら第三者の口からではなくて、自分できちんと報告したかった。いや、大学を受ける時点で、家を出ることを決めていた。いくら放任主義の親に育てられているとは言ってもやはりひとりっ子。一度くらい世間の荒波に揉まれてみたいと思っていた。大人になるためにそれがどうしても必要な気がしていたのだ。

 今まで言い出せなかったのは、残していく唯子が心配だったからだ。事実は事実なのだから、簡潔に告げればいい、そう思っても、その瞬間の唯子の目を見るのが怖かった。

 彼女の心を壊してしまったのは自分なのだ。それなのに、割れた破片を拾い集めることも修復することすらせずに、ただ逃げるような気がして。そうしたくてそうしたわけではないと思っても、結果的にはそうなのだ。

 

 あの時、いきなりあんな行動に出てしまったことには理由があった。

 それまでも唯子の行動や態度には時々「あれ?」と思ってしまうことがあったのだ。…何と言ったらいいのだろう、言葉で表現するのも難しいのだが。

 たとえば、喫茶店に入ったとする。メニューを広げどれにしようか選ぶ。彼女はそんなときになかなか決めることが出来なかった。聞けば、伯母家族と一緒に出かけても、友達と出かけてもそうだという。自分に選択権が求められると途端に臆病になる。仕方なく誰かと同じものを選ぶことが多いと言っていた。

 まあ、目移りして悩むと言うことは、普通の人間にでもあることだ。でも、唯子の場合は少し違った。彼女はある瞬間に来ると、ふっと立ち止まる。そして何かを呼び覚まそうとしているのだ。それがなんなのか、最初は分からなかった。だが、繰り返すうちに何となく見えてくる。

 ――あの人なら、どうするだろう…?

 自分の目を、誰かの目にすげ替えて、そして判断しようとする。それは同様に服装にも言えた。制服姿の時は分からない、でも私服になると一目瞭然だ。

 なんと言ったらいいのか…唯子の身につける服は言葉は悪いが多少流行遅れのものが多かった。だが古着を着ている、と言う風でもない。きちんとシーズンごとに店に並んだ服を購入しているのに、わざわざ流行を外れた色やかたちを好むのだ。いつだったか、母親の若い頃のアルバムを見た。写真に写った若き日の佳苗が着ている服と唯子のファッションは酷似していた。

 それを見るたびに、もどかしくやるせない気分を抱いてしまう自分がいた。

 母親がトールペイントの教室を開いているためか、悟史には若い女性の私服姿を目にする機会が多かった。まあ、講座に通うような女性たちは唯子とは年代が違う。自分の稼ぎで買い物を楽しんでいるのだから、自由気ままな選択が出来るだろう。自分の手で何かを創り出そうとする人たちだからなのか、華やかな流行の先端を行くような格好が多かった。

 唯子にその手のセンスがないのかと言うと、そんなこともないようだ。雑誌などをめくっていても、普通に流行のファッションについてあれこれ語ったりする。ただ、それを決して身につけようとはしなかった。

 

 そして、気付いた。

 唯子が無理をしてわざわざ自分ではない誰かになろうとしていることを。そのために、その人が好んで着ていた服を身につけ、その人と同じ髪型にする。今はまだそこまで行かないが、将来化粧をしたりするとまた良くそれが分かるようになるのではないかと思った。

 その「誰か」が彼女の亡くなった母親であると気付くのに時間は掛からなかった。彼女が乗り越えて行かなくてはならないのは、誰よりも慕っている人であったのだ。

 

 ちょっとしたことで自分の好みを聞き出そうとするだけで、酷く怯えてしまうのを知っていた。だから、無理に彼女が望まないものを押しつけたりすれば、爆発してしまうことも何となく予想していた。

 ――ただ、そうすることで、自分の存在そのものを否定するなんて。そこまで傷が深いとは知らなかった。

 

 その傷を癒す間もなく、時間は迫っている。まあ、自分ひとりが唯子を守る人間ではない。もちろん彼女は伯母の家に住んでいるのだし、自分がいなくなったあとも母親の佳苗の手伝いは続けるだろう。大丈夫、…きっと大丈夫と思いながら。それでも不安だった。

 受験勉強の最中ではあったが、息抜きもかねて何度もスケッチブックを広げた。そしてそこに唯子を描こうと何度も何度も試みた。だが、上手く行かない。

 壊れる前の唯子は何かが邪魔をして彼女の本質まで届かない気がした。外側から捉えることは出来る。でもそれでは生気が感じられないのだ。悟史は気付き始めていた、写実的に描こうとしてもそのものを表面からただ捉えるだけでは駄目なことに。たとえば時計を描こうとしたら、その内側にある部品のことまで頭に描いて、そして絵にしていくのだ。表向きだけ描こうとするから、綺麗なだけの薄っぺらな絵になる。

 あの日以来。

 悟史の目には唯子が空っぽになってしまった気がしていた。空っぽ…というのは少し違うかも知れない。何も知らなかった頃の彼女に戻ってしまったのだ。普通に日常生活は送っている、でも以前のような覇気がない。

 

 …どうしたら、いいのだろう。どうしたら、彼女はもう一度生きることが出来るのだろうか?

 悩みつつも、そばにいることしかできなかった。心細そうに自分を見上げる唯子を、静かに見つめ返すことしか。

 

「…あ、でも。休みには出来るだけ戻ってくるし。別に行きっぱなしと言う訳じゃないよ。翔太のように飛行機に乗らないと行けないところに行く訳じゃないし…」

 慌ててそう付け足す。翔太が九州の大学に進学することにしたことを、彼の口から聞いていた。そのほかにも四国やら、北海道やら…とにかく家からでは何をしても通えない学校ばかりを受験した。もちろん両親は反対したらしいが、彼は頑なに自分の意志を貫いたという。

 …そう、まるで唯子の存在から逃げようとするが如く。結局、美術専攻のコースにいながら、彼が選んだのは国文科の大学だった。美術系の大学や専門学校は都心に集中している。この街は下手をすると通学出来る範囲になってしまう。それを避けたいと思っているのがよく分かった。

「でも…今までみたいに、毎日のようには会えないわ。もう、佳苗さんのお手伝いに行っても、悟史さんはいないんだ」

「唯子…」

 見つめた瞳はしっとりと潤んでいた。噛みしめた唇、白くなるほど握りしめた手。街灯の下、浮かび上がるその姿は、儚くて今にも消えてしまいそうだった。

 

「…行かないで」

 思い詰めた心が、ひとつの言葉になる。春の気配を含んだ夜の闇が、静かに揺れた。

「行かないで、私を置いていかないで。…ひとりにしないでっ…!」

 細くて、白い腕がすっと伸びてくる。七分丈の袖のセーターの袖口から彼女の生身のままの身体が覗く。それは、ぼろぼろに羽の抜けた、翼の残像のように見えた。力無く、抱きついてくる。背中に回ったぬくもりを感じ取りながら、悟史は呆然と細い身体を抱きとめた。

「あなたも、私を置いていくの? みんな、私を捨てていくのねっ…! ママもそうだった、私は一緒に行きたかったのに、連れて行ってくれなかった。私だけ残して、どうしてみんな行っちゃうの…!?」

 絡みついてくる腕は、確かに若い女性のもの。なのに、今自分に話しかけているのは、小さな小さな少女なのだと悟史は思った。

「私も行くっ…、一緒に連れて行って。ひとりにしないでっ…、置いていかないでっ…!」

 

 父親の顔を知らない少女が、ただひとりの支えであった肉親を失った瞬間の嘆き。それは想像することしかできない。でも、いくら思い描こうとしても、簡単にはいかない。

 今ようやく、分かった。その瞬間に、唯子は本当はこうして泣きたかったのだ。だけど、どうしてかそれが出来なかった。10年以上経って、ようやく流した涙が、彼女を静かに解放していく。

 

「行かないでっ…、悟史…」

 シャツの背をぎゅっと引っ張られる。彼女のものと思えないほどの力。全身の全てを出し切って、引き留めようとしている。今度こそ、失ったら、もう…駄目だと言うように。

「…唯子…」

 あの日。壊れていく彼女を抱きとめたのと同じように、ただ崩れそうになる身体を支えることしかできなかった。今の自分には…そう一緒になって泣くことしかできない。大丈夫だよと言って、口先だけの慰めを言うことは出来るだろう。だが、それでは何の解決にもならないことを知っていた。

 もしも…この人を本当に支えたいのなら、探さなくてはならないものがある。それを目の前にちゃんとかざして、初めてそこから動き出すのだ。

「置いていくんじゃないから、…捨てていくんじゃないから。ただ、探しに行くんだから」

「…え?」

 唯子の怯えた瞳が、悟史を見上げた。そこに街灯の白い光りが流れていく。

「ここで待っていて、必ず探してくる。唯子をひとりにしたりしない、そのために、絶対に探してくるから…」

 濡れる頬を指先で辿る。もうちょっと全体的に肉付きがいい方が健康的だなとか、いつも思っていた。自分の指のあとがついた場所に、そっと唇を寄せた。どこか遠い海の香りがして、それからそれを裏付けるような塩辛さが口の中に広がっていく。

 

 …この人を、守るんだ。そう思った。

 

 どこからか花の香りがしてくる。浅い春に咲く、沈丁花の甘い匂い。それが腕の中の鼓動と重なり合って、やがてひとつの希望になった。


 

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