「ママ、ママのいちばんたいせつなものって…なあに?」 ママ…ママの『だいすき』はゆいこじゃないの…? ねえ、…どこをみてるの?
◇◇◇
「お疲れ様、遠いところを大変だったね」 毎日のように電話で話しているのに。久しぶりに聞く肉声はとても新鮮な気がした。昨日で前期の試験が終わったばかり。芸術大学でも、1年生は一般教養も受講しなければならない。これじゃあ高校よりも面倒くさいとぼやいていた。 少し日焼けしたかな? ちょっとした変化がとても新鮮に感じられる。だって…本当に、久しぶりに会えたのだから。唯子は自分の胸に湧いてくるドキドキした気持ちを抑えるのに必死だった。
「遊びに来ない?」 夏休みになったら、すぐに戻ってくるのかと思っていた。悟史の大学は前期の試験を7月中に終わらせて、その代わり9月いっぱいが夏休みになる。高校よりは少し後にずれるが、それでも久しぶりにゆっくりと過ごせるのかと思うと嬉しかった。 「唯子を案内したい場所があるんだ。時間があれば…どう?」 時間なんて、有り余るほどあった。友達のほとんどは進学のための予備校通い。大学に進学した従兄の翔太は夏のバイトを入れてしまったために長期休みでも戻ってこない。あまりのことにとうとう伯母の晶子は心配して、ここ1週間ほどあちらに泊まりに行っている。息子のことが心配で心配で仕方ないのだろう。過保護だと言われそうだが、翔太の身体のことを考えれば仕方ない。 もう、だんだんどちらが本当の我が家か分からなくなってきている。もともと生野の家にいても居候扱いでどこか他人行儀だった。伯父と伯母と従兄の翔太が「家族」としてかたち取られているところに、思わぬ異分子として自分が入っていった。いつまでもそんな気持ちがぬぐえずにいた。10年以上も暮らしていたのに。 「別に、日帰りなんて忙しいこと言わないで、しばらくのんびりしてくれば?」 「…え?」 言葉の意味が分からずに、聞き返してしまう。そんな唯子の頬を、佳苗はマニキュアの綺麗に塗られた指でつついた。 「悟史のところに、泊まってくればいいじゃない。部屋を借りる時、ちゃんと布団だって二組買ってやったのよ?」 ――は…? 何か言い返す前に、自分の頬がカーッと熱くなっていくのが分かった。やだ、何を言ってるんだ、この人は。 「そそそ、そんなっ…、困りますっ。もう、佳苗さんは…っ!」 頬に手を当てて、どうにか火照りを冷まそうとした。時々、こんな風にからかわれることがある。そんなときの佳苗は何を考えているのかよく分からなくて、唯子は混乱してしまうのだ。 「あら〜、いいのに。プラトニックなんて今時流行らないでしょ? 唯子ちゃん、可愛いんだもの。早く手を付けて貰わないと、私泣いちゃうわ」
…もう。 思い出さなくていいことを思い出すから、困ってしまう。佳苗は派手な顔立ちで、おっとりとした悟史とはあまり似てないようにも思えるが、やはり親子だけあって目元とかそっくりだ。同じ目で見つめられたら、やはり思い出さずにはいられない。 「…あ?」 改札を抜けて、小さな駅前のロータリーに出る。バス乗り場がふたつ、タクシー乗り場がひとつ。それから小振りなスーパーと銀行のビル。空がとても大きく見える。と言うことは建物が全体的に低いと言うことになるのだろう。うっすらと霞んだ視界の果てに、青い山麓が雲間から覗く。 すううっと、頬を撫でる風。その涼やかな流れに、ふと立ち止まる。
…なんだろう。この気持ち。 不思議な気分で悟史を振り返る。背後に立っていた彼は穏やかな表情のまま、静かに言った。 「思いだした? …ここ、君が住んでいた街なんだよ」
◇◇◇
記憶にある風景よりもひなびて、全体的に小さく見えた。それは自分が成長したからなのだろうと少しして気付く。毎日のようにこの坂を駆け下りて、公園で遊んでいた。待つ間。…待つ? 何を待っていたのだろう。 さらさらと耳元で踊る髪。伸ばしたまんまで手を加えていなかったのに、このごろではクラスの友達から「どうやって染めているの?」とか「全然痛んでなくて羨ましい」とか言われてしまう。
…ううん、違う。 そのたびに、思っていた。これはあの人がくれたもの。私に全てを託して、そしてその代わりに自分の命を散らした人。
「どうしてなんだろう…?」 嘆くわけではなく、本当に素朴な疑問として。自分の中に湧いてきた疑問を口にしていた。悟史がこちらに振り向くのが分かる。でも唯子の視線は無人のブランコに向けられていた。 「自分の命よりも大切なものなんて、この世にあるとは思えないのに。ママは、どうして私に全部くれたんだろう、自分が生きたいと思わなかったのかしら…?」 もうこの世にいない人に、訊ねることは出来ない。だから想像するしかなかった。
唯子の知っている事実は、母親の成美がある日突然、それまで住んでいたアパートを引き払って消えたと言うこと。行き先は実の姉である晶子にすら告げられなかった。色々な街を転々としながら、やがて自分を産んで、そしてそれが元で身体を壊して亡くなった。 時々考える。もしも…自分がひとつの命を宿したと仮定して。それと引き替えに自分の命を絶たなくてはならないと知ったら。その時、どうするだろうと。分からない、だって、それはたとえ話でしかないから。ただ、いくら考えても、唯子は自分の命を犠牲にしてまで、もうひとつの命を守ろうとは思えなかった。
「それだけ、ママは強い人だったのかなと思う。私はママを越える事なんて、絶対に無理。ママがいたから生まれてこられたのだし、こうして生きていける。だけど…それが重くて」 申し訳ないとは思う。でも、感謝すると同時に重く足枷になっているのも本当だ。 「どうやって生きれば、ママが喜んでくれるんだろうって。考えても考えても分からなかった。…今も分からない、こうやって生きていていいのかなって、時々思う」 ここまで言うだけで、心臓が痛いほど高鳴った。こんなことを言ったら恥ずかしいとか、嫌な子だと思われそうだとか考えていた。だから、今まで誰にも言えなかった。 懐かしい風に吹かれて、あのときの小さかった自分に戻った時、ようやく唯子の口からほろんとこぼれ落ちた想い。 「…そう」 緩やかに風に溶けるほどのやわらかさで、悟史が受け止めてくれる。何だか分からないけど、この人は最初から不思議だった。今まで自分の周りにいた人とはどこか違う。 ふんわりと、あるがままを受け入れてくれる…そんな安心感。もちろん、寄りかかってしまうのは怖かったけど、隣にいるだけで自分がまっすぐに立っていられる気がしていた。 「あのね、この先にね…」 悟史が坂の上の方を指さした。唯子もつられてそちらを見る。 「君を取り上げてくれたお医者様がいらっしゃるんだ。まだまだ現役の産婦人科医なんだよ?」 まだそこまで行き着かないのに、もう何があるのか知っていた。林の木々の間に見えてくる三階建てのこぢんまりした総合病院。入院棟の入り口も、窓から見える風景も全部覚えていた。
◇◇◇
白髪の老医師が、にこやかに微笑みながらソファーを勧めてくれた。午前中の診療時間が終わって、丁度昼休みに入ったところだという。彼は唯子をひと目見るなり、目を細めて感慨深く何度も頷いた。 「失礼します」 「早いものだねえ、もう17歳になったんだって? 高校三年生か…僕も年を取るわけだ。あのときのお嬢ちゃんが、こんなに大きくなるんだもんなあ」 眼鏡の奥の瞳が何を語っているのか。怖くてまっすぐに見ることが出来なかった。悟史はここに来るのが初めてじゃないようだ。看護婦さんたちとも気軽な感じで話をしている。
…ママを、知ってる人。 そう思っただけで、怖かった。もしかしたらこの人は自分の知らない事実を知っているのではないだろうか? 唯子にとって母の記憶はおぼろげにしかない。あとは日記代わりの育児記録。ただ、そこには唯子の成長の記録しか書いてなかった。最後の方の書き文字の乱れから、体調の悪さがかろうじて想像出来るだけだ。 身体中を病魔に冒されて、死の床にありながら。それでも我が子の成長を祈り続けた母。でも…それは表向きで。本当は書き残せない想いがたくさんあったのではないだろうか? もしも、後悔していたら? その時はどうすればいいのだろうと恐ろしくて仕方なかった。
親に対して愛情を求めるには、ただ抱きついてそのぬくもりや身体の匂いを感じればいい。確かな命の鼓動と共に、慈しみ育ててくれる人がきっと抱き留めてくれる。そんな風に当たり前の行為を繰り返しながら、やがて子供は成長していくのだ。 子供の非行の問題で、いかにして彼らを立ち直らせていくか、その過程にも親の存在は欠かせない。家庭内暴力を繰り返す子供は幼年期にスキンシップが足りなかった場合が少なくないそうだ。親がそれに気付き反省したら、そこからどうするのか。
…しかし。唯子にとって、本当に必要としていた人はもういない。あの日から、満たされない想いを抱いて生きていた。
「こんなに大きくなって。綺麗になっちゃって、僕も嬉しいなあ。よくね、この部屋をちょろちょろして、カーテンの影や机の下に隠れたりして、みんな驚かされたもんだよ。こうして見るとあの頃が夢のようだね…天国でお母さんもさぞ喜んでいるだろう」 事務の女性が麦茶のコップを持ってきてくれる。表面についた水滴が指のかたちにくり抜かれている。そこからつうっと雫が流れて、紙製のコースターに吸い取られていく。 恐る恐る、顔を上げた。それでもまだ目の前の人を見つめる勇気がない。唯子は途方に暮れて、隣に座った悟史を見た。彼はただ穏やかに微笑んでいた。
…どうしよう。 このままなんとなくやり過ごすのが得策かも知れない。でも…それでいいのだろうか? これから先の人生も、たくさんの疑問符に囲まれて、不安定な心地のまま過ごすのだとしたら? …でも、怖い。訊ねていいものなんだろうか。
「…何か、心配事ですか?」 さすがベテラン医師。心に何かを抱えている患者ばかりを相手にしてきて、もう何もかもをお見通しなのだろう。彼はおどおどしている唯子にそっと身を乗り出してきた。 「…ママは…」 ああ、喉が渇く。ヒリヒリと焼き付くほどに。この言葉を発したくない、でもそうしないと胸が張り裂けそうだ。ギリギリの感情に、膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。それでもガクガクと身体が震えてしまう。
…どうしよう。そう思った時。ふんわりと拳が包まれた。 ハッとして、顔を上げる。そこには悟史の瞳があって、まっすぐにこちらを見ていた。
「心配しないで。先生に聞きたいことがあるなら、正直に言ってごらん?」 信じられなかった。怖いのに、進めと言われる。支えてくれないのか、突き放すのか…? でも、そうじゃないとすぐに気付いた。この人は隣にいてくれる、きっとこうして自分が生まれた病院を探し当て、わざわざ医師にアポイントを取ってくれた。他人のことにここまで頑張れる人なのだ。それを学業の忙しい合間を縫ってやってくれたに違いない。 そっと、手の力を抜いた。緩く開いた指の隙間に、自分のものじゃない五本の指がしっかりと絡みついてきた。 「先生っ…、あの、ママは…」 どくどくどく。心臓から血液が流れ出す音。あまりに早い脈拍数に、破裂しそうだ。 「なんでしょうか?」 「ママは…どうして、どうして私を産んだんですかっ…!?」
唯子がようやく吐き出した言葉に、彼はおやおやと言う表情になった。それから静かに椅子から立ち上がる。そして、唯子の目の前までやってくると膝を折って、床に跪いた。 「それは…簡単なことですね」 カサカサの手のひらが、両方から唯子の頬をそっと包んだ。顔を上げた視線の向こう、眼鏡の奥にある瞳がしっかりと映る。やわらかい色だった。 「君のお母さんは、君のことをどうしても産みたかった。ただそれだけですよ…そう、こんな風に青ざめた顔をして、あの日、ここを訪れたんです」
妊娠を知って、それからの成美はたださすらっていたのではない。わずかばかり金額を記しただけの貯金通帳を手に、どうにか自分の意を受け入れてくれる産院を探していたのだ。だが、何しろ主治医から出産することを禁じられていた身体。どこへ行っても断られる。わざわざ危険なお産を助けたいと名乗り出てくれる病院はなかった。 最後に、彼女は学生時代の友人が勤務するこの病院にたどり着いた。どこでも堕胎を勧められてきて、もういい加減嫌になっていたのだろう。その表情には絶望の色が濃かった。 もう分かり切っている妊娠判定を終え、内診を済ませたあと、医師と向かい合った成美は震える声で、でもしっかりと自分の思いを告げた。 「先生、お願いします、この子を産みたいんです。私、自分の生きてきた証がどうしても欲しい」 もしも子供を諦めたところで、普通の人と同じくらい生きながらえるとは思えない。せっかく授かった命、奇跡は起こらないかも知れないけど、それでも…自分の全てを使ってもどうにかしてこの世に送り出したい。それが、自分に課せられた最後の使命なのだから。 それだけの意志を持って、必死に訴えられて。それでも躊躇してしまう。上手く行くわけはない、最悪は胎児も母胎もどちらも危険になる。それが最初から分かっていて、どうして承諾出来るだろうか。 しばらく沈黙が続いた。そして、そのあと、観念したように医師は訊ねていた。 「…その赤ちゃんを産みたいのは、誰のためですか? その子のためですか、…それともその子の父親のためですか?」 「…え?」 「この子を産むのは、誰かのためじゃありません、私のためです。自分自身のために、頑張ってみたいんです」
「ママが…ママのために…?」 唯子は目の前の老医師の言葉がにわかには信じられなかった。今までずっと、自分は母親の命の犠牲の上に生きていると信じていた。間違って身籠もってしまった子を、仕方なく産んだ。そのために彼女は死んだのだと。 「そうですよ、みんな自分のために頑張るんです。君が生まれた時、お母さんは本当に嬉しそうだった。女性はみんな出産のあとの笑顔が最高に美しいものですが…彼女の場合は特別でしたね。今でも覚えています、たくさんのお産を見守ってきましたが、とても印象深いものでした」 まだ腑に落ちない表情の唯子を、老医師はにっこりと微笑みで見つめた。
「君も…君のために頑張ってください。それだけでいいんです、それだけが大切なんです」
◇◇◇
「君のお子さんも是非、取り上げたいものですね」――と言う言葉には絶句してしまったが。
空調の効いていた屋内から外に出ると、ムッとした夏の日差しが照りつけてきた。 唯子は隣を歩く悟史にも何も言葉をかけられず、ただ、黙っていた。言葉にすると、胸の中を満たしているものが溢れ出てしまいそうで怖かったから。さらさらと夏の盛りの枝が葉を揺らしている。その木陰にしばし佇んでいた。
「…あのう」 「唯子ちゃん、ですよね?」 「…はい?」 いきなり名前を呼ばれて、驚く。知らないうちに胸に付けている名札に目がいった。「布谷」…聞いたことのない姓だ。 「あ、…ごめんなさい」 「私――旧姓を鈴木というの。鈴木美和子…って、名前、聞いたことない?」 「あ…」 美和子、という名前には覚えがあった。何度も母の手帳に名前が出てきた。そうだ、母にここの病院を紹介してくれて、生前ずっと助けてくれていた人。最後に成美が入院した時は、唯子の世話をしてくれていたらしい。 「良かったっ、今日は遅番だったの。もうちょっとで入れ違いになるところだったわ。まあ、本当に成美にそっくり、大きくなったわねえ、…こんなに大人びているなんて、本当に驚いたわ」 「良かった…あれからどうしたんだろうって、みんなで心配していたの。慣れない場所に行って、心細くしていないかって。でも会いに行くのも、成美のことを思い出させるみたいで可哀想だったし…でもね、ずっとずっと気になっていたの…」 そこまで言うと、感極まってしまったのか、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。でもそうしながらも、話し続ける。時間も押しているのだろう、それでも話さずにはいられない感じだ。 「あのね、…成美が言ってたの。最後に、もう口がきけないくらいに衰弱してる時に…」
死の床。身内の方を呼んでくださいと言っても、彼女にとっては娘の唯子ひとりしかいなかった。何故か肉親である姉とは音信不通になっていた。そのことを訝しげに思いながらも、臨終の時までは連絡をしないでくれという本人の意志に従っていた。 「…え? 何?」 震える口元。ほとんど息だけの言葉。美和子が耳を寄せると、成美はか細く囁いた。 ――奇跡が、起こればいいのに。 それは何度も何度も、彼女が口にしてきた言葉だった。自分の生きた証が欲しくて、どうしてもこの子を世に送り出したかった。そして、産んでみたけれど、子供というのは産み落とせば終わりというものではない。毎日毎日を慈しんで育てて、そして人になっていくのだ。唯子とのわずかばかりの生活では、まだまだ伝えきれなかったことがたくさんある。 もしも、ある日突然、健康な体に生まれ変われたら。母親として、人生の先輩として、もっとたくさんのことを伝えられるのに。 …いいえ、言いたいことはただひとつ。本当に、ただひとつしかない。
「唯子ちゃん、あなたは成美にとって宝物みたいな存在だったの。あなたを産んで育てることが、彼女の生きる証だった。そして…あなたがあなたらしく生きてくれることが…最後までひとつ残った望みだったのよ」 「私が…私らしく?」 唯子が不思議な心地で反芻すると、美和子は少し顔を歪めた。 「そんなつもりもなかったんだけどね…どうしても、ひとりで頑張っている成美を見ると、私たちはあなたに言っちゃったのよ。ママのために頑張りなさい、幸せにならないとママが可哀想だよって。泣いたりしたら、ママも悲しくなっちゃうよって…それが知れるとね、成美がすごく怒ってた。この子は私のために生きてるんじゃないって。この子は自分のために生きてるんだからって。泣いたり笑ったり、思いっきり人生を楽しんで、そして、幸せになって欲しいんだって。…誰かのために生きるのは、それは間違ってるって」 美和子はそこまで一気に言うと、はああっと息を吐いた。長い間、胸の奥に溜まっていたものを一気に吐き出すように。 「最後、バタバタと別れてしまったから、気になっていたの。私たちの言葉が、あなたを傷つけていたらどうしようって。私も結婚して、自分の子供を持って初めて分かったわ。子供は親のために生きるんじゃないのよ、自分のために生きるの。そしてそうしてくれることが、親にとってもとても幸せなのよ」 「美和子…さん」 もしも、母親が生きていたら、こんな風だったのかなと唯子は思った。記憶の中にあるよりも目の前の女性は小さくて、頼りなく見えた。大人というものは絶対的なものではなかったのだ。間違ったことや思いこみを言うこともある。助け合って生きていくものなんだ。
…唯子。 耳をくすぐる夏の風。記憶の中から誰かの声がする。 唯子、唯子。私のただひとりの娘。
もしかしたらそれは、母が唯子に伝えながら、実は自分自身に言い聞かせていた言葉なのかも知れない。幸せのかたちは人それぞれ。母は自分を産んだことを後悔していなかった。それどころか、ずっと一緒にいたいと思ってくれていた。
――生まれてきてくれて、本当にありがとう。 見上げた夏空が、少しだけ揺れて、そう言ってくれている気がした。
◇◇◇
「…ありがとう、悟史」 何て言ったらいいのか分からなくて。でも、やはりひとこと言わなければと思った。 「うん?」 「別に…何した訳じゃないよ」 そのまま。また背を向けて、どんどん歩いていってしまう。唯子は慌てて、あとを追いかけた。
何にもしてないわけはない。唯子ですら忘れていた、昔住んでいた街を探し当て、当時のことを覚えている人間を突き止めてくれた。 それは、唯子自身が伯母に聞けばすぐだったのかも知れない。母子手帳も、当時の育児日記もみんな伯母が保管している。時々、思いだしたように見せてくれる。でも…それを譲ってくれとは何故か言えなかった。父親の分からない自分をここまで育ててくれた。そのことに恩を感じるからこそ、どうしても出来ないでいたのだ。 …大人になったら。そう思っていたのだが、その時が近づくごとにだんだん怖くなってきた。あまりその時を待ちすぎたために、逆に迷いが生じていったのだろうか。 もしも悟史がこんな風に連れ出してくれなかったら、一生何も知らないままだったかも知れない。
「でも、…やっぱり、ありがとうって言いたいな」 広い背中。自分から、しがみついてみた。ずっとそばにいたのに、こうして体温を求めることがなかったなと気付く。 「…そう?」 「きれいな、やさしい街だよね」
その声に導かれて、坂の下を覗く。この風景を見たことがある、手を引かれて一緒に歩いた人がいる。 …私のことを、心から愛してくれた人がいた。
ふうっとため息が漏れる。満ち足りた心からこぼれ落ちた安堵の音。何気ない事で、とても元気が出る。ふるさとに戻ってきたって気がした。
「あのね、ここ。路線が違うから分かりにくいんだけど…実は俺のアパートから歩いて来られる距離なんだよね?」 「…え、そうなんだ」 知らなかった。県境だから…ああそうか、すぐ向こうは東京なんだ。全然気付かなかった。 「で、唯子のお母さんのお墓にもバスで30分くらいで行けるんだよな。気持ちよく晴れた日なら、サイクリングとかで行けるかも知れない」 ゆっくりと、自然な仕草で腕を解かれた。あれ、と思っていたら悟史がくるりとこちらを振り返る。見つめた瞳が絡み合うと、くすぐったそうに目を細めた。 「…時に。提案なんだけどさ」 「え? 何…?」
答える前に、悟史が唯子の手を取る。しっかりと包まれた両手。夏の暑さの中でも鬱陶しいとか思わなかった。 「春が来て、ひとり暮らしするんでしょ? だったら、一緒に暮らさない?」
――は…? 一体何を言い出すんだ。訳の分からない問いかけに、唯子は自分の耳を思い切り疑っていた。
「え? …ええええっ!? ちょっと待って、そんなっ…いきなり言わないでよっ! って言うか…私、悟史とそんなっ…」 もちろん、冗談だと思って。ぶんぶんと腕を振り回した。でも…握りしめられた手は全然解けなくて、それどころか、確認するみたいにもっともっと力が入った気がする。 「そんなって…、嫌なの? 俺はそう言う対象にならない?」 くすくすくす。笑っているのに、それでも瞳の色は真剣だ。いきなりの言葉に、唯子はどうしていいのか分からなくなっていた。 「…だって」 ぐるぐるといろんな思考が渦巻いている頭の中を必死で整理する。どこがどうなって、こんな話になるんだ。もう、いい加減にして欲しい。 「好きとか、嫌いとか。…そんな話、したことないじゃない。私たちって、そんなじゃないでしょ?」 もちろん、大切な人だとは思う。ずっとそばにいたいし、たくさんおしゃべりしたいし。…だけど。 「え〜…、そうなの? でもさ、嫌いな子にここまで出来ないよ。それくらい、分かるでしょ?」 「…う…」 どんなふうに答えても、彼の聞きたいのは多分ひとつだけの言葉。だから、それをきちんと告げるまで、きっと解放してくれない。こんなのって、いいのだろうか? 「俺、そろそろ限界かも知れない。唯子と離ればなれになって、すごく寂しいよ。一緒にいないと、元気が出ないんだ。だったら、いいじゃない。一緒に暮らそうよ」 「だったら、って…」
その話、全然つじつまが合ってない。こんなのって、おかしいと思う。そう思いながらも、唯子は何だか当たり前みたいに1年後や5年後や10年後を思い浮かべている自分に気付いていた。
その風景があまりに心地よくて、吸い込まれていきそうで。また、ちょっとだけ泣きたくなった。
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