――ごめんなさい。あなたには何も望まないつもりだった。でも、ひとつだけいちばん大切なものを貰っていきます。あなたの、私への気持ち。全部持って消えるから、だから、探さないで。追いかけないで。 一番好きな人は、永遠にあなただけ。
◇◇◇
静かに、深呼吸して。それから振り返る。近づいてきた足音がそこで途切れた。 「…唯子ちゃん」 そう名を呼ぶと、嬉しそうに微笑んでくれる。日溜まりみたいな笑顔。すっかり大人びた姿は時々、どきりとするほど、亡き人の面影を宿している。
あの日、北向きの霊安室で初めて出会った時から。ずっと、この子の成長を見守っていた。だが…どうしても後ろめたい気持ちがぬぐえなかった。妻の手前、臆病になるしかなかった自分がいた。 ――どこまで、気付いているんだろう…? 正直、綱渡りのような日々を過ごしてきた。それは何も渉だけがそうだったわけではない。妻の晶子も、そして目の前にいる唯子も…みんなみんな、口には出せない想いを抱えて歩いてきた。大人の中で可愛がられて育ったのだろう、幼い頃から唯子は、相手が何を望んでいるのか察することの出来る子供だった。少し、無邪気さが足りなかったとも言える。 それだからこそ、気付いているのではないかと、背筋がぞっとする瞬間が何度もあった。 そして…そのあまりにも不安定な関係は、あの日を境にとうとう壊れてしまったと言ってもいいだろう。息子の翔太が。こともあろうに唯子に特別の感情を抱いていたのだ。 もともと、ちょっと度の過ぎる執着があると、妻から相談されていた。だが、渉から見ればそれは仲の良い兄妹にしか見えなかったのだ。心配するほどのこともない、と言う気持ちでいたのがいけなかった。 「従兄妹だからって、何が悪いんだよっ! 唯子のことは俺が一番知っているっ! いいじゃないか、世間体が何だって言うんだっ! …従兄妹は結婚だって出来るんだぞっ、それくらい母さんだって知ってるだろうっ…!!」 その言葉を聞いた瞬間、渉の内臓はぐにゃりと歪んで、その機能を停止した。それくらい、おぞましい信じられない事実だったのだ。 ――翔太と、唯子が? そんな、そんな馬鹿な。…それは…! 渉が思わず何か叫ぼうとした瞬間に、晶子の絶叫が家中に響き渡った。絹を裂くような悲鳴に、そこにいた誰もが凍り付いていた。 「許しませんっ…!! そんなっ、絶対に許しませんっ!!」 気が狂ったような叫び。もともと気の弱い、やさしい性格だった翔太は、変わり果てた母の姿に立ちつくしたまま動けなくなっていた。 そして、唯子は。そんな母と息子のやり取りを、真っ白に血の気の引いた顔で、ぼんやりと見下ろしていた。
「…伯父さん、どうしたの?」 「あ…、ああ、うん。そうか、今日、発つんだったね」 この春高校を卒業して、都内の短大に進学することになった。当初は、何が何でも専門学校で…と頑張っていたが、どう説得されたのか、ようやく推薦入試を受ける気になったのだ。渉としてもその決定にホッとした。あまり自分たちに遠慮しすぎることはなく、のびのびと生きて欲しい、いつでもそう望んでいた。それが、この子の母親である人の、願いでもあると思ったから。 養子縁組の話は結局流れてしまった。だから、今でも唯子と自分は伯父と姪の関係だ。それは生涯変わることはない。…それで、良かったのだと思う。この子は成美の娘だ。命がけで産んだ子供を勝手に取り上げたら、申し訳なかったのだ。 「うん、だから、伯父さんの帰ってくるのを待ってたの。昨日の晩、きちんとご挨拶はしたけど…でも、最後にちゃんとお別れしたかったから。朝早くから、どこに行っていたの? 伯母さんもすごく心配していたわ」 無邪気に微笑む彼女に、長い間付きまとっていた影は見えない。
いつの頃からか、唯子はそれまでのどこか怯えたような瞳の色を変えた。生き生きと楽しそうな娘らしい姿に変わっていったのだ。そして、そうしたのは自分たちではない、彼女の前に現れた、ひとりの若者のお陰だった。 今日、唯子は旅立つ。ここから少し離れた、彼の住む街に。一緒に暮らすと最初に聞いた時は、親代わりとして反対するべきかと随分悩んだ。だが…唯子を内側から明るく変化させたその男に会って、全てを託してもいいのではないかと言う気になる。それは、渉として今までに考えつかなかったような心境の変化だった。信じられないことに、妻も反対しなかった。 ――唯子が20歳になったら、きちんと籍を入れます。それまでの時間、黙って見守っていてください。 そのまっすぐな瞳に、圧倒された。こんな勇気が自分にあったなら、どんな人生を過ごしていただろう。ただ一度の恋すら、封印してしまった気弱な自分に、語れることは何もない。
「…こうしていると、何だか娘を嫁に出す気分だな。ちょっと口惜しいみたいな、複雑な心境だよ」 真面目ぶった渉の言葉に、唯子が弾けるように笑った。 「やだなあ、伯父さん。お休みにはちゃんと戻ってくるわ。まだまだ、私は生野のお家の子ですから、これからも宜しくお願いしますっ!」 ぴょこんと頭を下げると、それにならうように、さらさらと長い髪が彼女の周りで踊った。綺麗に流れる金茶の輝き…それを見る時、どうしても思い出さずにはいられない。この腕から飛び立って二度と戻らなかった、永遠の人を。 「あ、そうそう。伯母さんから、貰ったの。これ…」 ごそごそとカバンの中を探って、やがて彼女は古びた手帳を取り出した。それは成美の亡き後、彼女の遺品の中にあった、育児日記。事細かに我が子の成長が綴られていた。そして、それと共に一冊の母子手帳。父親の名は空欄のままだった。
…あの子を、成美に返しましょう。ある夜、妻はぽつりとそう言った。 妻は妻なりに、唯子を我が子のように思っていたのだ。複雑な感情を抱きながら、それでもかけがえのない家族として。唯子が思い出の中の実の母に思いを馳せることは、妻にとって分かってはいても認めたくないことだったのだろう。
「そう…良かったね」 穏やかに微笑んだつもりだったが、どこか頬が引きつっていたかも知れない。覚悟は決めていたつもりだが、本当にいいのか、まだ悩んでいた。
…だが、これは決めたことだ。最初に約束したのだから、守らなくては。
「あのね、唯子ちゃん?」 ごくり、と息を飲む。そんな渉の緊張した心とは裏腹に、唯子はどこまでも無邪気にこちらを見上げている。 「なあに?」 「私からも…プレゼントがあるんだ。ちょっと、後ろを向いてくれるかな?」
渉はポケットの中から、金色の細い鎖を取り出す。そして、そこには、ふたつのプラチナのリングが通されていた。
胸元に滑り落ちたそれを、唯子は見たのだろう。あっと、かすれた声を上げた。しかし、渉はそれには構わずに話を続ける。 「これは…君から預かったものだからね。もう、大丈夫だろうから返すことにするよ。大切にするんだよ?」 「あ、…あのっ…」 何か言いかけて、こちらを向いた唯子を振り切って、渉はきびすを返した。そのまま立ち去ろうとした背中に、唯子の声が飛んできた。
「…お父さん…」
ぴくん、と身体が揺れて、弾かれるように振り向いていた。その声は幻聴だったのだろうか。にこやかに微笑む唯子の笑顔がそこにあった。 「今まで、本当にお世話になりました。これからも、どうぞ宜しくお願いします」 一度頭を下げて、それから、もう一度向き直って渉を見つめた。あの人と似てる、でもあの人とはどこか違う。大切な人を想う瞳の色には迷いがなくて、それがあまりにも切ない。
「じゃあ、私。時間だから、行くね。伯父さんも伯母さんもお元気で。ふたりで仲良くしてね…あんまりケンカしちゃ、駄目だよ…?」 大きく手を振って、それから背中を向けると、向こう側に走り去る。本当に時間がギリギリなのかも知れない。さらさらと流れる髪がどんどん遠ざかる。 渉はその姿が見えなくなるまで、立ちつくしていた。
やわらかい風が、そこに残る。 近いけど遠い、遠いけど近い、あの日の残像を胸に焼き付けて。 おわり (030918)
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