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………11 

 

 

――ごめんなさい。あなたには何も望まないつもりだった。でも、ひとつだけいちばん大切なものを貰っていきます。あなたの、私への気持ち。全部持って消えるから、だから、探さないで。追いかけないで。

一番好きな人は、永遠にあなただけ。

 

◇◇◇


 3月の空はぼんやりと霞んで、穏やかに微笑んでいる。

 静かに、深呼吸して。それから振り返る。近づいてきた足音がそこで途切れた。

「…唯子ちゃん」

 そう名を呼ぶと、嬉しそうに微笑んでくれる。日溜まりみたいな笑顔。すっかり大人びた姿は時々、どきりとするほど、亡き人の面影を宿している。

 

 あの日、北向きの霊安室で初めて出会った時から。ずっと、この子の成長を見守っていた。だが…どうしても後ろめたい気持ちがぬぐえなかった。妻の手前、臆病になるしかなかった自分がいた。

 ――どこまで、気付いているんだろう…?

 正直、綱渡りのような日々を過ごしてきた。それは何も渉だけがそうだったわけではない。妻の晶子も、そして目の前にいる唯子も…みんなみんな、口には出せない想いを抱えて歩いてきた。大人の中で可愛がられて育ったのだろう、幼い頃から唯子は、相手が何を望んでいるのか察することの出来る子供だった。少し、無邪気さが足りなかったとも言える。

 それだからこそ、気付いているのではないかと、背筋がぞっとする瞬間が何度もあった。

 そして…そのあまりにも不安定な関係は、あの日を境にとうとう壊れてしまったと言ってもいいだろう。息子の翔太が。こともあろうに唯子に特別の感情を抱いていたのだ。

 もともと、ちょっと度の過ぎる執着があると、妻から相談されていた。だが、渉から見ればそれは仲の良い兄妹にしか見えなかったのだ。心配するほどのこともない、と言う気持ちでいたのがいけなかった。

「従兄妹だからって、何が悪いんだよっ! 唯子のことは俺が一番知っているっ! いいじゃないか、世間体が何だって言うんだっ! …従兄妹は結婚だって出来るんだぞっ、それくらい母さんだって知ってるだろうっ…!!」

 その言葉を聞いた瞬間、渉の内臓はぐにゃりと歪んで、その機能を停止した。それくらい、おぞましい信じられない事実だったのだ。

 ――翔太と、唯子が? そんな、そんな馬鹿な。…それは…!

 渉が思わず何か叫ぼうとした瞬間に、晶子の絶叫が家中に響き渡った。絹を裂くような悲鳴に、そこにいた誰もが凍り付いていた。

「許しませんっ…!! そんなっ、絶対に許しませんっ!!」

 気が狂ったような叫び。もともと気の弱い、やさしい性格だった翔太は、変わり果てた母の姿に立ちつくしたまま動けなくなっていた。

 そして、唯子は。そんな母と息子のやり取りを、真っ白に血の気の引いた顔で、ぼんやりと見下ろしていた。

 

「…伯父さん、どうしたの?」
 小さなボストンバッグをひとつだけ抱えた唯子は、渉の顔を下から不思議そうに見上げている。くるくると動く瞳は明るく輝いて、この娘がこれからの日々に期待でいっぱいになっているのが分かった。

「あ…、ああ、うん。そうか、今日、発つんだったね」

 この春高校を卒業して、都内の短大に進学することになった。当初は、何が何でも専門学校で…と頑張っていたが、どう説得されたのか、ようやく推薦入試を受ける気になったのだ。渉としてもその決定にホッとした。あまり自分たちに遠慮しすぎることはなく、のびのびと生きて欲しい、いつでもそう望んでいた。それが、この子の母親である人の、願いでもあると思ったから。

 養子縁組の話は結局流れてしまった。だから、今でも唯子と自分は伯父と姪の関係だ。それは生涯変わることはない。…それで、良かったのだと思う。この子は成美の娘だ。命がけで産んだ子供を勝手に取り上げたら、申し訳なかったのだ。

「うん、だから、伯父さんの帰ってくるのを待ってたの。昨日の晩、きちんとご挨拶はしたけど…でも、最後にちゃんとお別れしたかったから。朝早くから、どこに行っていたの? 伯母さんもすごく心配していたわ」

 無邪気に微笑む彼女に、長い間付きまとっていた影は見えない。

 

 いつの頃からか、唯子はそれまでのどこか怯えたような瞳の色を変えた。生き生きと楽しそうな娘らしい姿に変わっていったのだ。そして、そうしたのは自分たちではない、彼女の前に現れた、ひとりの若者のお陰だった。

 今日、唯子は旅立つ。ここから少し離れた、彼の住む街に。一緒に暮らすと最初に聞いた時は、親代わりとして反対するべきかと随分悩んだ。だが…唯子を内側から明るく変化させたその男に会って、全てを託してもいいのではないかと言う気になる。それは、渉として今までに考えつかなかったような心境の変化だった。信じられないことに、妻も反対しなかった。

 ――唯子が20歳になったら、きちんと籍を入れます。それまでの時間、黙って見守っていてください。

 そのまっすぐな瞳に、圧倒された。こんな勇気が自分にあったなら、どんな人生を過ごしていただろう。ただ一度の恋すら、封印してしまった気弱な自分に、語れることは何もない。

 

「…こうしていると、何だか娘を嫁に出す気分だな。ちょっと口惜しいみたいな、複雑な心境だよ」

 真面目ぶった渉の言葉に、唯子が弾けるように笑った。

「やだなあ、伯父さん。お休みにはちゃんと戻ってくるわ。まだまだ、私は生野のお家の子ですから、これからも宜しくお願いしますっ!」

 ぴょこんと頭を下げると、それにならうように、さらさらと長い髪が彼女の周りで踊った。綺麗に流れる金茶の輝き…それを見る時、どうしても思い出さずにはいられない。この腕から飛び立って二度と戻らなかった、永遠の人を。

「あ、そうそう。伯母さんから、貰ったの。これ…」

 ごそごそとカバンの中を探って、やがて彼女は古びた手帳を取り出した。それは成美の亡き後、彼女の遺品の中にあった、育児日記。事細かに我が子の成長が綴られていた。そして、それと共に一冊の母子手帳。父親の名は空欄のままだった。

 

 …あの子を、成美に返しましょう。ある夜、妻はぽつりとそう言った。

 妻は妻なりに、唯子を我が子のように思っていたのだ。複雑な感情を抱きながら、それでもかけがえのない家族として。唯子が思い出の中の実の母に思いを馳せることは、妻にとって分かってはいても認めたくないことだったのだろう。

 

「そう…良かったね」

 穏やかに微笑んだつもりだったが、どこか頬が引きつっていたかも知れない。覚悟は決めていたつもりだが、本当にいいのか、まだ悩んでいた。

 

 …だが、これは決めたことだ。最初に約束したのだから、守らなくては。

 

「あのね、唯子ちゃん?」

 ごくり、と息を飲む。そんな渉の緊張した心とは裏腹に、唯子はどこまでも無邪気にこちらを見上げている。

「なあに?」

「私からも…プレゼントがあるんだ。ちょっと、後ろを向いてくれるかな?」

 

 渉はポケットの中から、金色の細い鎖を取り出す。そして、そこには、ふたつのプラチナのリングが通されていた。

 

 胸元に滑り落ちたそれを、唯子は見たのだろう。あっと、かすれた声を上げた。しかし、渉はそれには構わずに話を続ける。

「これは…君から預かったものだからね。もう、大丈夫だろうから返すことにするよ。大切にするんだよ?」

「あ、…あのっ…」

 何か言いかけて、こちらを向いた唯子を振り切って、渉はきびすを返した。そのまま立ち去ろうとした背中に、唯子の声が飛んできた。

 

「…お父さん…」

 

 ぴくん、と身体が揺れて、弾かれるように振り向いていた。その声は幻聴だったのだろうか。にこやかに微笑む唯子の笑顔がそこにあった。

「今まで、本当にお世話になりました。これからも、どうぞ宜しくお願いします」

 一度頭を下げて、それから、もう一度向き直って渉を見つめた。あの人と似てる、でもあの人とはどこか違う。大切な人を想う瞳の色には迷いがなくて、それがあまりにも切ない。

 

「じゃあ、私。時間だから、行くね。伯父さんも伯母さんもお元気で。ふたりで仲良くしてね…あんまりケンカしちゃ、駄目だよ…?」

 大きく手を振って、それから背中を向けると、向こう側に走り去る。本当に時間がギリギリなのかも知れない。さらさらと流れる髪がどんどん遠ざかる。

 渉はその姿が見えなくなるまで、立ちつくしていた。

 

 

 やわらかい風が、そこに残る。

 近いけど遠い、遠いけど近い、あの日の残像を胸に焼き付けて。

おわり (030918)


 

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