TopNovel秘色の語り夢・扉>沙緒の章・1


…沙緒の章・壱…

 

 彼は窓の外を見ていた。

 そこに広がっているのは館の中庭。様々な装飾が名うての風流人の手によって施され、池があり橋があり…その中を人がひとりやっと通れるほどの細道が造られていた。その道を埋め尽くすように数え切れないほどの樹木が植えられている。折しも花の頃である、見る者が見れば感嘆の声を上げる美しい情景であった。
 
 幼少の頃からいつでも目覚めると変わらずそこにある景色……。

 寝台から身を起こすと窓際に寄り外を眺めるのが、彼の毎朝の決まり切った日課なのである。
 昨日と変わらずにそこに存在する、緩やかに水が流れる向こうの浅黄色の情景。夢の中のような世界を瞳に映しながら、しかし冬の湖面にも似た表情は何も語ってはいなかった。

「華繻那(カシュナ)様」

 その声に彼は静かに振り向く。背丈に余るほど伸ばされた髪は闇の帯のように彼の周りをゆるりとうねり、やがて元通り磨き込まれた床へと流れ落ちた。

「今日は幾分早いな、多岐(タキ)」
  凛と透き通った声が辺りに響き渡る。口元をわずかに動かしただけで、すぐに元通りの静寂が戻った。

「は……、上様にご相談申し上げたきことがございましたので。お休みの所、申し訳ございません」

  彼の前に跪いた男はこざっぱりとした着物を纏っていた。髪は肩より少し長く、首の後ろでひとつに結われている。どう見てもこの男の方が年長である…親子ほどは違いそうだ。息子、とも呼べる年齢の主人に当然の如く頭を垂れる。

「別に構わぬ、申せ」

 実際、この部屋の主である彼は二十歳ほどの青年の風貌。しかしながら、その寝着は絹に似た滑らかな光沢の白地に手の込んだ刺繍が一面に施してあるもので…その上の羽織物も深い紫のかさねであった。見るからに高貴な身分が感じ取れる。
 跪いた男は話を続けた。

「昨日の娘、今朝方に意識を取り戻した様子にございますが……」

 男の言葉に、彼は軽く頭を巡らした。すぐに思い当たらなかったのは、寝起きのせいばかりではない。何もかも、自分の周りを取り巻く全ては抵抗無く受け入れるようにしていた。そのために、深く想い留めることもなかったのである。話題に上がった娘のことも、今の今まで忘れきっていた。

 ――そうか、あの女子(おなご)が。

 ゆっくりと記憶をたぐり寄せ、心の水面をゆらりと動かす。だが、それは刹那。すぐに何事もなかったように、彼は普段の心地に戻っていた。
  少し早めではあるが、衣を改めようか。そう思ってもう一度先ほどの男の方を見れば、珍しいことにまだその場に跪いたままである。

「何をしておる、もう話は終わったであろう。このようなことは幾度となくあること、いつものように侍従に命じて陸に戻せば良いまで。この上に、私にいちいち報告することもあるまい」

  不思議なこともあるものだ、と思った。 こちらが何か告げる前に、すでに先を見越して行動を起こす、そんないつものこの男の姿とはどこか違うように思われた。考えてみればこのような報告も、わざわざ寝所まで知らせる必要もないはずである。あと半刻もすれば、朝支度をするための侍女たちがここを訪れることになる。その後、公務に就いてからでも十分なはずだ。

「はい、仰るとおりにございます。……しかし」

 続く言葉に、彼はまた少しばかり頬を動かす。だが、ひとことふたこと申し伝えた後に男が去ってしまうと、後にはまた浅黄色の静けさが戻る。彼は再び窓のところまで進んでいき、外を見やった。

 やがて起床の刻限を知らせる拍子木の音が響き、本日の公務に就くため寝所を後にする。後に続くのはゆったりと流れる錦のかさね。彼にとっては何千日の日々の中の1日が始まるに過ぎなかった。

 

◆◆◆


「全く……少しは召し上がってくださいませんか? ただでさえお顔の色が優れないご様子ですのに……」

  寝台の脇に立つ侍女が困り果ててぼやいた。漆黒の髪を襟足の辺りでひとくくりして、細めの目で娘を一瞥する。淡色の装束に身を包み、手には食事の置かれた膳。それをしげしげと見つめた彼女はもう一度、大きくため息を付いた。
  それは他でもない、この侍女が一刻ほど前に置いていった物なのである。自分が運んだ時と同じまま箸を持ち上げた形跡すらないのには呆れ果てている様子だった。

 寝台の上では上半身を起こした娘が俯いている。
 明るい栗色がかった髪は腰の辺りまであり、その肌の色は透き通るように白い。滑らかな陶器の輝きを放つそれはこの世界でもめったにお目にかかれない程の美しさだった。長いまつげの下で潤んだ眼が揺れる。その視線の先は身を起こしたときにふわりと肩から掛けられた薄桃色の上掛けを握りしめた両の手にある。
 時折、辺りを満たした水のゆるやかな流れに合わせて豊かな髪が揺らめきたつと、それに包まれた全身の美しさが際だった。しかし残念ながら彼女の顔に生気がない。まるで生きたままの人形のよう。青白くさえ思える顔色に哀しみの色をたたえたまま、動くことはなかった。

 どんなに美しい人形でも、このように憂いの色しか持たないのなら側に置きたくない。自分までがその嘆きの波に飲み込まれそうになるのだから。

  実際、彼女以外の侍女たちはこの娘に近づくことを嫌がった。それどころが部屋に入ることすら躊躇して、表から遠巻きに伺っている有様だ。ただですら「異形の者」、それが冷たいものを放っているとしたら――その身体に触れただけで祟りにあいそうだと口々に言う。
  彼女にももちろん、そんな恐怖感はあった。でもただひとつ他の者と違っていたのは、その恐ろしさが胸にあってもなお、この娘に心惹かれているということだ。その抑えきれない欲求に駆り立てられているらしい。彼女がそれほど嫌がっている様子がないと知ると、仲間は自分たちに任された仕事を残らず押しつけてきた。

 その瞬間、侍女は背筋に冷たいものが流れた気がして軽く身震いをした。しかし気を取り直すと、言葉なき人形に懲りもせずに声を掛ける。

「あなたは恐れ多くも……上様、御自らお助けあそばされた御身体なのですよ。有り難いことではございませんか……御館にお仕えする私どもでも、滅多にお顔を凝視することすら叶わないほどの高貴な御方なのですから」

 返事はない。それどころか言葉が耳に入っているのかすら、察しかねる。侍女はとうとう諦めて膳を下げ、そのまま退室していった。

 

 部屋に一人残された娘はようやく顔を上げた。寝台の横に大きな窓がある。その外を眺めながらほつりと彼女は考えた。

 ――どうして、死ぬことが出来なかったのかしら?

 あの時、確かに岸壁から海へと飛び込んだはずだった。もう他に逃げる術がなかったのだから仕方ない。あんな男のために死ななければならない無念さが、今思い出しても震えるほどの怒りになった。
 聞くところによると近々、自分は「陸」に戻されるという。「陸」と言うのは自分が今までいた、生きていたあの場所のことだろう。

 ……でも。

 もう一つの疑問が浮かんできた。

 ――ここは……一体、何処なのだろう?

 最初は夢かと思った。その次は死んだ後の世界なのかと。空気より重い液体のようなものに満たされた空間、しかし水の中とは異なり、ちゃんと呼吸は出来ているのだ。音も少しくぐもってはいるが、聞き取るには差し障りがない。寝台から降りて歩くときには身が軽く、油断すると半ば浮き上がりそうになった。

 目覚めてから身の回りの世話をしてくれる女性は、平安の絵巻物から出てきたような装い。そして耳が人間のそれよりずっと大きく、異様なヒレのようにかたちづくられていた。近くまで来るのはひとりだけだが、窓の外を行き交う者たちを見れば、一人ずつ色が異なるのも分かる。ぬらぬらと光沢すら感じさせるそれは凝視するのもおぞましかった。でも違っているのはそこだけで、それ以外は自分と似た感じに見える。
 彼女はしきりに「上様」のことを話す。その者が庭先に倒れていた自分をこの屋敷に運び込んだらしい。男はこの屋敷の主のようであった。

 ぼんやりと見える外の景色は、少しずつ輝きや色を変えていく。最初に瞼を開いたときに見えたのは、多分明け方であったのだろう、それが今では夕焼けの色に染まっている。もうしばらくすれば、辺りは闇に包まれていくのだろう。

 早く、時間が過ぎて欲しい。何もかも、朽ち果ててしまうほどに。永久の時すら、流れて欲しかった。

 彼女はじっと身を固くして、水のような大気の流れを眺めていた。

 

◆◆◆


  やがて、窓の外を藍色の闇が包み始め、それが細い帯のように部屋に流れ込んでくる。彼女が目覚めてからの長い一日が暮れようとしていた。

 ――ここは、何処なのだろう?

 また、彼女は考えた。それくらいしか考えることが出来ないのだ。
  ゆっくりと流れていく時――同じだけの時間のはずなのに、今までいた世界とは進み方が違う気もする。自分がひとりきりで物思いに沈んでいるせいか。

「そろそろ、灯りをお付けいたしましょう」
 いつもの侍女が蝋燭の灯を手にやってくる。このような古風なものも初めて見た。ひとつひとつの道具だけではない、屋敷の建物そのものが、まるで古の建造物のようである。磨き込まれた床は何かの石で出来ているのか、艶っぽく光っている。白い柱もその素材が何であるかよく分からなかった。

「今日は天が荒れている様子ですよ。ほら、網目のように揺らめいておりますでしょう?」
 彼女が物言わぬままでも侍女は気にする様子はない。いつも通りに勝手に話しかけて、用事が済むと扉の向こうに消えていった。

 窓から外を眺めると丁度、空のようなところがゆらゆらと揺らいでいるのが見える。水中に潜ったとき、そこから見た水面の揺らぎによく似ていると思った。

 今去っていった侍女は、薄藍の衣を纏っていた。それを思い出しながら、彼女は自分の身につけているものをあらためる。着せられていたのは白地の着物だった。肩から掛けられているのはそれよりもいくらか厚手の着物で、満開の桜の色。よく見るとごくごく細かい小花がびっしりと刺繍されている。海に落ちる前に身につけていたクリーム色の花のワンピースは何処に行ったのだろうか。

 ――着物なんて、長いこと着ていなかった。

 夢を見ているのが今だと思ったり、今までのことの方が夢であったのではと思えてきたりする。何もかもが不可思議で、受け入れるのが難しかった。だけど、自分は「生きて」いる。それだけが紛れもない真実なのであった。

 ――いつまでもこうして黙りを通すわけにもいかないし、どうしたらいいのだろう。

 今更、身の上話をしたところで、どうなることでもない。他人には関係のないこと、どうしようもないことだ。彼女はまた深い溜息をつく。ゆるりと髪が頬にかかって、その表情ごと隠した。

 

「具合は、如何かな」

 不意に扉の方から、今までに聞き覚えのない声がした。弾かれたようにそちらを振り返る。彼女の長い髪が宙をゆっくりと泳いで、再びユラユラとおさまった。

 視線の先には漆黒の髪を長く伸ばした男が立っていた。背丈より余った豊かな髪は床に流れ、黒々とした墨色の河のように続いている。何処かで見た飾り人形のような深く整った顔立ちは息を飲むほどに美しかった。

 彼女はどうしても男から目を逸らすことが出来なかった。一体、どうしたことだろうか。その冷たい視線に射抜かれてしまったようにすら思える。
 身に付けているものも侍女達とは明らかに異なっていた。ずしりと重みを感じさせるほどの見事な刺繍が一面に施された濃紫の着物を肩から羽織っている。確か自分の肩にも掛かっている同様のものが「上掛け」と呼ばれていたように思う。その奥は銀色の着物、腰から下は袴のような装束を付けている。それは深い藍色の無地だった。やはりエラのような耳をしていて、それは濃い紫である。

 そして何より、吸い込まれそうな深い眼差し。声はどこまでも澄み渡り、それでいて深く辺り一面に響いていた。

 彼女は微動だにせずに男を見つめ続けていた。こんな人間が世の中に存在するとは到底思えない。男は冷ややかな表情はそのままに、ゆっくりと話し出した。

「お前は朝より何も食していないそうだが、私の館の料理は口に合わぬのか?」

 ああ、自分に声を掛けられているのだとしばらくしてから気付いた。美しすぎるその者が言葉を発することすら、不思議な気がする。決して責め立てている風ではない、だからといって心配して気遣っている様子もない。淡々と、ただ平坦な言葉が述べられたのみ。彼が口を閉ざしてしまえば、あとには静寂が残るだけ。そんな時間の中でも闇より深い瞳に見入られたまま、彼女はどうしても目を逸らすことがかなわなかった。

 揺れる空間に時折、流れに乗せて男の髪がゆっくりと流れ、彼女の髪もそれに従うように同じ方向に流れる。二人の距離は近づくことも離れることもなくそこにある。

 沈黙を破ったのは男の方であった。

「私はこの館の主だ、戻りたくないなら少しばかりの時間をやろう。身体が元に戻るまで、ゆっくりしていくが良い。お前、名は……名は何と申す?」

「――沙緒(さお)」
 導かれるようにいつの間にか返事をしていた。目覚めてから初めて発したその声は鈴の音のように愛らしく、彼女の周囲の気を揺らしていく。

「そうか」
 男の声は変わることなく、淡々としている。

「私の名は華繻那(カシュナ)と言う。沙緒、ここへ留まるつもりなら食事だけは必ず摂るようにせよ。その上で。もし必要なものなどがあれば、何なりと侍女たちに伝えればよい」

 彼女はゆっくり頷いていた。その姿を確認した後に、男はきびすを返す。

「では……時間が許せばそのうち来よう」

 華繻那の姿が自分の視界から消えてしまうまで、沙緒はその背中を静かに見送っていた。

 

◆◆◆


 ――何て美しい人なの。

 しばらくののち、ようやく気を取り戻した沙緒は先ほどの華繻那の姿を思い出していた。あんな人が本当に存在するなんて…切れ長の眼、整った鼻筋、口元…到底お目にかかれるものではない。彼女の生活していた世界の人間たちも、彼同様の黒い髪と黒い瞳を持っていた。そう言えば、世話を焼いてくれる侍女も同じ色である。
 だが、華繻那のそれは明らかに他の者とは違っていた。しっとりとした深みの中に何とも言えない甘やかな輝きがある。今までの人生で映像の中ですら、沙緒はあんな美しい人間に出会ったことはなかった。そして……あの冷たい表情と深い声の響き。

「まあ、まあ、……もしや、上様でございましょう? この残り香は……まさしく」
 先の侍女の慌てた声がした。

「これは、驚きましたわ。滅多なことではご自分から人前にはお出にならない御方ですのよ。きっと、余程あなたのお身体を気遣っていらっしゃったのですわ」

「あ……あの。それでは、あの方が――」

 思わず、そんな言葉が出てしまい、慌てて口元を抑える。驚いてこちらをまじまじと見た侍女が、やがてホッとしたように微笑んだ。

「……ようやくお話になりましたね、その通りにございますよ。上様が昨日、お忍びで御庭の散策に出掛けられて、あなたを見付けられたのです。せっかく目を掛けて頂けたのですから、早くお元気になられませんと。畏れ多くて、ばちが当たりますわよ。上様は何と言ってもこの海底の世界で一番お偉い高貴な方なのですからね。ではこちらは、ちゃんと召し上がってくださいませ」

 侍女はそう告げると、夕食の膳を寝台の傍らに置いた。

 ――海底国……? ここは本当に海の底なの? でもおとぎ話でもあるまいし、まさか……竜宮城のようなところが本当に存在するなんて……。

 何処までが夢で、どこからが現実なのか分からない。自分の置かれた状況の全てを、沙緒には未だに理解が出来ずにいた。

 

◆◆◆


「私はこの地の民からは『竜王(りゅうおう)』と呼ばれている。この海底の世界を司っているのだ」

 翌日の昼下がり。華繻那は再び、沙緒の前に現れた。以来食事をきちんと摂っていることは侍女から聞き入れたのだろう。冷たい表情は変わらなかったが、その中にいくらかの安堵の色が見える気がした。

 ――不思議だわ。この人は、いつでもこうして表情を崩さないのかしら……?

 沙緒が身を起こしている寝台の側に椅子を置かせ、彼はそこに腰を下ろした。寝台もそうだが、この椅子も大理石のような冷たい素材で作られている。背もたれには細かい彫り模様が施され、花や葉や樹木、鳥獣までが今にも動き出しそうな美しさで描き出されていた。座るときにお付きの侍女が彼の髪を邪魔にならないように横に流す。座した彼を正面から見ると左右に墨色の滝が現れた。それが気の動きに合わせてゆらゆらと舞い上がる。

 彼の声の響きを耳に入れつつも、沙緒は華繻那の瞳から目をそらせなかった。

「お前の住んでいた陸の世界とはかけ離れているであろうが、ここにもいくつかの集落があり、それぞれで様々な人々が暮らしている」
  ここは一体どこなのか、という問いかけをすると、彼は短い言葉で応えた。

「このような世界があるなんて……知りませんでした、私」
 沙緒はゆっくりと庭に目を向ける。遣り水を施した美しい造作が眼に入った。また一晩休んで目覚めても、夢の世界は続いている。こうなってくると、幻ではないと信じるほかはなさそうだ。

「お前達が住む世界の科学は進んでいて、海底の調査も進んでいるであろう。だが、ここには私が自らの力で結界を張っている。どんなことをしても陸の人間には見えないのだ」

「……私には見えるのに?」
 沙緒はゆっくり振り向くと、華繻那の顔を覗き込んだ。眼があった瞬間、初めて彼はするりと顔を横に向けた。

「お前はどうして水の中で自分が生きているのか、息が難なく出来るのか、不思議には思えぬのか……?」

  視線を逸らされて華繻那の顔が見えなくなると、沙緒は何故かとても寂しい気がした。見つめられれば、飲み込まれるように恐ろしいのに。

「……そういえば」
 あまりにも色々なことが起こりすぎて、そこまで考えられなかった。しかし改めて問われてみれば、かなり不思議な話ではないか。どうして今まで気付かなかったのだろう、情けない限りである。華繻那の言葉に少しばかりの呆れた色が感じられたのも、気のせいではないはずだ。

「そうしばしばあることではないのだが、時折お前のようにこの水底に落ちてくる者がある。私の結界を破って……そういう者には少しの間、私が力を貸しているのだよ」

「力……を?」
 沙緒は華繻那の横顔を尚も見つめていた。横顔のラインもすっきりしていて、とても美しい。

「陸の人間にはここの気は薄すぎるであろう? もっとも、海底の人間から見たら陸の気は濃すぎるのであるが。私は海底の長であるのだから、他の者にはない妖しの力を用いることが出来るのだ。結界を破る者は少しは普通の人よりは強い気質を持っているのであろう、私はお前の体の周りの気を少し濃くしているのだよ」

「……便利なものなのですね」
 またも間抜けな発言だ、と沙緒は恥ずかしくなった。そんな気の抜けた言葉に、華繻那は思わず振り返る。

「便利……とは申しても、だな。この力を継続的に使用するのには、私であっても多少の無理がある。保って7日位だろうか。忘れるでないぞ、あくまでもお前の身体が元に戻るまでだ。――時に、沙緒?」

「はい?」
 いきなり名前を呼ばれて、沙緒はかしこまって華繻那を見つめた。

「先ほどから気になっていたのだが――どうしてお前は私の顔をそのように凝視するのか?」

 意外な問いかけに、一瞬思考が立ち止まる。その後、するすると頭が動き出した。そうか、さっき目を逸らしたのはそのせいだったのか……、不思議に思っていた彼の態度の理由がようやく分かってホッとする。この答えを告げるのは、少しも難しいことではなかった。

「……とても綺麗なお顔なんですもの、つい見入られてしまうんです」
 正直に、沙緒は答えていた。

 その言葉に、華繻那は額に手を当てて軽くため息を付く。一瞬、年相応の若者の表情が浮かんだ気がする。俯いたまま髪をかき上げた彼は、やがて気を取り戻したようにゆっくりと顔を上げた。

「……お前に何を言っても分からぬであろうが。竜王の顔をまじまじと凝視する者はない。……慣れないことをされると何とも」

「はあ……」
 その姿に似合わぬほどしどろもどろになっている人を眺めて、沙緒はだんだん本来の自分に戻っていくような気がした。この人は本当に昨夕のあの長たる威厳の持ち主と同じ人なのであろうか? 昼間の明るい光の中では彼はとても若く見えた。

「また、いずれ来よう」

 やがて。ほのかな残り香を残し、彼は去っていった。後には静寂が残り、沙緒はそっと自分の頬を両の手で包んだ。

 

 ――華繻那様、困っていらっしゃったんだわ。

 やがて、くすくすと笑い声がこぼれる。そんな自分に驚いていた。一度は死のうとした自分が。まさかこうして再び、明るく笑うことが出来るなんて。……でも。次の瞬間には、新たな悲しみが浮かんでくる。次々に明らかになっていく真実は、やはり沙緒を「陸」へと押し戻そうとするのだ。戻りたくなどない、あの地へ。

 ――確か…長くて7日とおっしゃっていたわ。

 彼ははっきりとそう告げた。自分がここに来てから、もう3日目になっている。そうか、そうなんだわ……と心の中で反芻した。

 ――戻されてしまう…?

 ずるずると。夢心地の世界から、現実に戻される気がした。「陸に戻る」――それは自分にとって何を意味するのか……?水の中で竜王の力が及ばなくなれば、自分は生きていくことは出来ないであろう……しかし。

 ――もう、あそこに戻っても私の幸せはないのだわ……。

 戻りたくて戻りたくない、自分の今まで生きていた土地のことを思う。沙緒は自分の命の頼りなさを感じていた。

 

◆◆◆


「……華繻那様?」

 多岐の意外そうな声に、華繻那は少しばかり不機嫌な表情で振り向いた。彼にとっては、それほどのことでも珍しいことである。これには多岐もさらに驚きの色を濃くしてしまう。

「多岐まで、私の顔をまじまじ見るのはどうしたことか? ……誠に本日は勝手の違う日だ」

「お言葉を返すようですが……」
 多岐は必死に笑いを堪えつつ、話し出した。

「私でなくとも、本日のあなた様を一目拝見した者は皆、同じように目をむくことでしょう?」

「言葉が過ぎるぞ、多岐」
この者が自分を笑いものにすることなど、あるはずはない。やはり何かが違っている、おかしなことになっていると思わずにはいられない。そんな物思いすら悟られぬように、短く言葉を返した。

 さすがに竜王の一の侍従と言われる男はそれ以上の追求はせずに、跪いて一礼をした後に退出していった。その背中が扉の向こうに見えなくなるのを確認したあと、華繻那はようやく自分の手元を改める。そこにあったのは今手折ったばかりの大輪の一枝。

「何を申す……雅な行いも必要だと、いつも耳が痛くなるほど申しているのはお前の方ではないか」
  口をついて出てきていたのは、先ほどまでここにいた侍従への憎まれ口。さすがに本人を前にしては言うことが出来なかった。

 ――全く……今日という日は勝手が違って、やりにくいことばかりだ。

 多岐があの様に自分に対して軽口を叩くことなどは余りにも珍しすぎることである。幼少より、両親の元より離され「竜王」となるべく厳しい教育を強いられてきた華繻那であった。その傍らでご教育係として常にお側に仕えていたのが多岐なのである。今となってはふたりは互いにとって肉親以上の存在となっていた。

 それに、自分自身もどうしてしまったのであろうか。花を摘んで愛でる、そんな当たり前のことも今まで無意味なことに思えていた。庭に花が咲いていようがいまいが、自分の日常には何らの関係もないように思われて仕方なかったのに。

 ――あの娘のせいなのか…?

 竜王として親しく近くに人を置くこともせず、こちらから何かを働きかけることも稀であった。誰からも恐れられていたはずの自分を正面から真っ直ぐに見つめる娘……慣れない視線には戸惑うばかりである。館の東奥、竜王の寝所の向こうの庭には美しい花が見頃だと話すと、是非見てみたいものだと瞳を輝かせた。絡み合っていた糸がほころんでいくように徐々に明るさを取り戻している様子に見える。……だが。

 彼は知っている。この地に辿り着く者が、どんな心地でいるのかを。普通であれば生きることの出来ぬ水の中に自ら落ちていく、死を望んだ者に間違いはないのだから。そう容易く、傷は癒えるはずもない。ここは出来る限り時間を掛け、心を安らかに持って陸に帰れるようにさせなければならない。そう、これもそのための花なのだ。

 華繻那は自分に言い聞かせるように呟いた。


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