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彼は窓の外を見ていた。 そこに広がっているのは館の中庭。様々な装飾が名うての風流人の手によって施され、池があり橋があり…その中を人がひとりやっと通れるほどの細道が造られていた。その道を埋め尽くすように数え切れないほどの樹木が植えられている。折しも花の頃である、見る者が見れば感嘆の声を上げる美しい情景であった。 幼少の頃からいつでも目覚めると変わらずそこにある景色……。 寝台から身を起こすと窓際に寄り外を眺めるのが、彼の毎朝の決まり切った日課なのである。 「華繻那(カシュナ)様」 「別に構わぬ、申せ」 ――そうか、あの女子(おなご)が。 ゆっくりと記憶をたぐり寄せ、心の水面をゆらりと動かす。だが、それは刹那。すぐに何事もなかったように、彼は普段の心地に戻っていた。 不思議なこともあるものだ、と思った。 こちらが何か告げる前に、すでに先を見越して行動を起こす、そんないつものこの男の姿とはどこか違うように思われた。考えてみればこのような報告も、わざわざ寝所まで知らせる必要もないはずである。あと半刻もすれば、朝支度をするための侍女たちがここを訪れることになる。その後、公務に就いてからでも十分なはずだ。 「はい、仰るとおりにございます。……しかし」 続く言葉に、彼はまた少しばかり頬を動かす。だが、ひとことふたこと申し伝えた後に男が去ってしまうと、後にはまた浅黄色の静けさが戻る。彼は再び窓のところまで進んでいき、外を見やった。 やがて起床の刻限を知らせる拍子木の音が響き、本日の公務に就くため寝所を後にする。後に続くのはゆったりと流れる錦のかさね。彼にとっては何千日の日々の中の1日が始まるに過ぎなかった。
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寝台の上では上半身を起こした娘が俯いている。 どんなに美しい人形でも、このように憂いの色しか持たないのなら側に置きたくない。自分までがその嘆きの波に飲み込まれそうになるのだから。 実際、彼女以外の侍女たちはこの娘に近づくことを嫌がった。それどころが部屋に入ることすら躊躇して、表から遠巻きに伺っている有様だ。ただですら「異形の者」、それが冷たいものを放っているとしたら――その身体に触れただけで祟りにあいそうだと口々に言う。 返事はない。それどころか言葉が耳に入っているのかすら、察しかねる。侍女はとうとう諦めて膳を下げ、そのまま退室していった。
部屋に一人残された娘はようやく顔を上げた。寝台の横に大きな窓がある。その外を眺めながらほつりと彼女は考えた。 ……でも。 もう一つの疑問が浮かんできた。 ぼんやりと見える外の景色は、少しずつ輝きや色を変えていく。最初に瞼を開いたときに見えたのは、多分明け方であったのだろう、それが今では夕焼けの色に染まっている。もうしばらくすれば、辺りは闇に包まれていくのだろう。 早く、時間が過ぎて欲しい。何もかも、朽ち果ててしまうほどに。永久の時すら、流れて欲しかった。 彼女はじっと身を固くして、水のような大気の流れを眺めていた。
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――ここは、何処なのだろう? また、彼女は考えた。それくらいしか考えることが出来ないのだ。 「そろそろ、灯りをお付けいたしましょう」 「今日は天が荒れている様子ですよ。ほら、網目のように揺らめいておりますでしょう?」 今去っていった侍女は、薄藍の衣を纏っていた。それを思い出しながら、彼女は自分の身につけているものをあらためる。着せられていたのは白地の着物だった。肩から掛けられているのはそれよりもいくらか厚手の着物で、満開の桜の色。よく見るとごくごく細かい小花がびっしりと刺繍されている。海に落ちる前に身につけていたクリーム色の花のワンピースは何処に行ったのだろうか。 ――着物なんて、長いこと着ていなかった。 夢を見ているのが今だと思ったり、今までのことの方が夢であったのではと思えてきたりする。何もかもが不可思議で、受け入れるのが難しかった。だけど、自分は「生きて」いる。それだけが紛れもない真実なのであった。 ――いつまでもこうして黙りを通すわけにもいかないし、どうしたらいいのだろう。 今更、身の上話をしたところで、どうなることでもない。他人には関係のないこと、どうしようもないことだ。彼女はまた深い溜息をつく。ゆるりと髪が頬にかかって、その表情ごと隠した。
「具合は、如何かな」 不意に扉の方から、今までに聞き覚えのない声がした。弾かれたようにそちらを振り返る。彼女の長い髪が宙をゆっくりと泳いで、再びユラユラとおさまった。 彼女はどうしても男から目を逸らすことが出来なかった。一体、どうしたことだろうか。その冷たい視線に射抜かれてしまったようにすら思える。 そして何より、吸い込まれそうな深い眼差し。声はどこまでも澄み渡り、それでいて深く辺り一面に響いていた。 「お前は朝より何も食していないそうだが、私の館の料理は口に合わぬのか?」 ああ、自分に声を掛けられているのだとしばらくしてから気付いた。美しすぎるその者が言葉を発することすら、不思議な気がする。決して責め立てている風ではない、だからといって心配して気遣っている様子もない。淡々と、ただ平坦な言葉が述べられたのみ。彼が口を閉ざしてしまえば、あとには静寂が残るだけ。そんな時間の中でも闇より深い瞳に見入られたまま、彼女はどうしても目を逸らすことがかなわなかった。 揺れる空間に時折、流れに乗せて男の髪がゆっくりと流れ、彼女の髪もそれに従うように同じ方向に流れる。二人の距離は近づくことも離れることもなくそこにある。 沈黙を破ったのは男の方であった。 「私はこの館の主だ、戻りたくないなら少しばかりの時間をやろう。身体が元に戻るまで、ゆっくりしていくが良い。お前、名は……名は何と申す?」 「――沙緒(さお)」 「そうか」 「私の名は華繻那(カシュナ)と言う。沙緒、ここへ留まるつもりなら食事だけは必ず摂るようにせよ。その上で。もし必要なものなどがあれば、何なりと侍女たちに伝えればよい」 彼女はゆっくり頷いていた。その姿を確認した後に、男はきびすを返す。 「では……時間が許せばそのうち来よう」 華繻那の姿が自分の視界から消えてしまうまで、沙緒はその背中を静かに見送っていた。
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「これは、驚きましたわ。滅多なことではご自分から人前にはお出にならない御方ですのよ。きっと、余程あなたのお身体を気遣っていらっしゃったのですわ」 「あ……あの。それでは、あの方が――」 思わず、そんな言葉が出てしまい、慌てて口元を抑える。驚いてこちらをまじまじと見た侍女が、やがてホッとしたように微笑んだ。 「……ようやくお話になりましたね、その通りにございますよ。上様が昨日、お忍びで御庭の散策に出掛けられて、あなたを見付けられたのです。せっかく目を掛けて頂けたのですから、早くお元気になられませんと。畏れ多くて、ばちが当たりますわよ。上様は何と言ってもこの海底の世界で一番お偉い高貴な方なのですからね。ではこちらは、ちゃんと召し上がってくださいませ」 侍女はそう告げると、夕食の膳を寝台の傍らに置いた。 ――海底国……? ここは本当に海の底なの? でもおとぎ話でもあるまいし、まさか……竜宮城のようなところが本当に存在するなんて……。 何処までが夢で、どこからが現実なのか分からない。自分の置かれた状況の全てを、沙緒には未だに理解が出来ずにいた。
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翌日の昼下がり。華繻那は再び、沙緒の前に現れた。以来食事をきちんと摂っていることは侍女から聞き入れたのだろう。冷たい表情は変わらなかったが、その中にいくらかの安堵の色が見える気がした。 彼の声の響きを耳に入れつつも、沙緒は華繻那の瞳から目をそらせなかった。 「お前の住んでいた陸の世界とはかけ離れているであろうが、ここにもいくつかの集落があり、それぞれで様々な人々が暮らしている」 「このような世界があるなんて……知りませんでした、私」 「お前達が住む世界の科学は進んでいて、海底の調査も進んでいるであろう。だが、ここには私が自らの力で結界を張っている。どんなことをしても陸の人間には見えないのだ」 「……私には見えるのに?」 「お前はどうして水の中で自分が生きているのか、息が難なく出来るのか、不思議には思えぬのか……?」 「そうしばしばあることではないのだが、時折お前のようにこの水底に落ちてくる者がある。私の結界を破って……そういう者には少しの間、私が力を貸しているのだよ」 「力……を?」 「陸の人間にはここの気は薄すぎるであろう? もっとも、海底の人間から見たら陸の気は濃すぎるのであるが。私は海底の長であるのだから、他の者にはない妖しの力を用いることが出来るのだ。結界を破る者は少しは普通の人よりは強い気質を持っているのであろう、私はお前の体の周りの気を少し濃くしているのだよ」 「……便利なものなのですね」 「便利……とは申しても、だな。この力を継続的に使用するのには、私であっても多少の無理がある。保って7日位だろうか。忘れるでないぞ、あくまでもお前の身体が元に戻るまでだ。――時に、沙緒?」 「はい?」 「先ほどから気になっていたのだが――どうしてお前は私の顔をそのように凝視するのか?」 意外な問いかけに、一瞬思考が立ち止まる。その後、するすると頭が動き出した。そうか、さっき目を逸らしたのはそのせいだったのか……、不思議に思っていた彼の態度の理由がようやく分かってホッとする。この答えを告げるのは、少しも難しいことではなかった。 「……とても綺麗なお顔なんですもの、つい見入られてしまうんです」 その言葉に、華繻那は額に手を当てて軽くため息を付く。一瞬、年相応の若者の表情が浮かんだ気がする。俯いたまま髪をかき上げた彼は、やがて気を取り戻したようにゆっくりと顔を上げた。 「……お前に何を言っても分からぬであろうが。竜王の顔をまじまじと凝視する者はない。……慣れないことをされると何とも」 「はあ……」 「また、いずれ来よう」 やがて。ほのかな残り香を残し、彼は去っていった。後には静寂が残り、沙緒はそっと自分の頬を両の手で包んだ。
――華繻那様、困っていらっしゃったんだわ。 やがて、くすくすと笑い声がこぼれる。そんな自分に驚いていた。一度は死のうとした自分が。まさかこうして再び、明るく笑うことが出来るなんて。……でも。次の瞬間には、新たな悲しみが浮かんでくる。次々に明らかになっていく真実は、やはり沙緒を「陸」へと押し戻そうとするのだ。戻りたくなどない、あの地へ。 ――戻されてしまう…? ずるずると。夢心地の世界から、現実に戻される気がした。「陸に戻る」――それは自分にとって何を意味するのか……?水の中で竜王の力が及ばなくなれば、自分は生きていくことは出来ないであろう……しかし。 ――もう、あそこに戻っても私の幸せはないのだわ……。 戻りたくて戻りたくない、自分の今まで生きていた土地のことを思う。沙緒は自分の命の頼りなさを感じていた。
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「多岐まで、私の顔をまじまじ見るのはどうしたことか? ……誠に本日は勝手の違う日だ」 「お言葉を返すようですが……」 「私でなくとも、本日のあなた様を一目拝見した者は皆、同じように目をむくことでしょう?」 「言葉が過ぎるぞ、多岐」 さすがに竜王の一の侍従と言われる男はそれ以上の追求はせずに、跪いて一礼をした後に退出していった。その背中が扉の向こうに見えなくなるのを確認したあと、華繻那はようやく自分の手元を改める。そこにあったのは今手折ったばかりの大輪の一枝。 「何を申す……雅な行いも必要だと、いつも耳が痛くなるほど申しているのはお前の方ではないか」 ――全く……今日という日は勝手が違って、やりにくいことばかりだ。 多岐があの様に自分に対して軽口を叩くことなどは余りにも珍しすぎることである。幼少より、両親の元より離され「竜王」となるべく厳しい教育を強いられてきた華繻那であった。その傍らでご教育係として常にお側に仕えていたのが多岐なのである。今となってはふたりは互いにとって肉親以上の存在となっていた。 ――あの娘のせいなのか…? 竜王として親しく近くに人を置くこともせず、こちらから何かを働きかけることも稀であった。誰からも恐れられていたはずの自分を正面から真っ直ぐに見つめる娘……慣れない視線には戸惑うばかりである。館の東奥、竜王の寝所の向こうの庭には美しい花が見頃だと話すと、是非見てみたいものだと瞳を輝かせた。絡み合っていた糸がほころんでいくように徐々に明るさを取り戻している様子に見える。……だが。 彼は知っている。この地に辿り着く者が、どんな心地でいるのかを。普通であれば生きることの出来ぬ水の中に自ら落ちていく、死を望んだ者に間違いはないのだから。そう容易く、傷は癒えるはずもない。ここは出来る限り時間を掛け、心を安らかに持って陸に帰れるようにさせなければならない。そう、これもそのための花なのだ。 華繻那は自分に言い聞かせるように呟いた。
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