TopNovel秘色の語り夢・扉>沙緒の章・2


…沙緒の章・弐…

 

「これが……朱花(しゅか)」
 大きな睡蓮のような紅い花を目の前に出されて、沙緒は感嘆の声を上げた。

「本当に生きている花なのですね。でも作り物みたい、この世の物じゃないみたいに綺麗です」

 両手に余るほどの花弁を抱えて、彼女はほうっと溜息をついた。ゆっくりと向き直る瞳から、しかしそれまでの輝きが消える。その後、ぽつりと呟いた。

「わざわざこのようにお持ちいただいて……侍女の方に言付かってくだされば宜しかったのに」
 かなり恐縮している様子である。 馴染みになった侍女からあれこれ聞いたのだろう、可哀想なほどだ。

「構わぬ、丁度こちらの対に用があったのだ。ついでのことであるから」
 華繻那(カシュナ)は決まり悪そうに横を向いた。

 わざわざ侍女たちに申しつけたりしたら、陰で何て言われるか分かったものではない。先の多岐の態度を見ても、今日の自分はいつもと違っているらしい。それに一日に何度も足繁く館西まで通う自分のことも、そろそろ噂になり始めていることを知っていた。ただですら少しばかりの行動でも目立ちやすい立場にある。面倒ごとに巻き込まれぬうちに退散するのが常であった。それなのに、……どうしたことなのか。

「あ、ちょっとお待ちになって……」
 何も言わず退室しようとした華繻那を、しかし沙緒は呼び止めた。

「……何か?」

 彼女の長いまつげが揺れて、桜色の口元がゆっくりと動く。花のつぼみがほころぶのは丁度こんな様なのだろうか、ふとそんな想いがした。

「手を……傷が出来ているみたいです」

 言われて確認してみると、確かに手の甲に引っかかったような痕があった。

「朱花の枝で切ったのだろう、大した傷でもない。そのうちに治るであろう」

 ここはいわば水の中、少しくらいの傷は放っておけば癒えてしまう。そんなことはこの地では常識であった。ただ、相手はそれも分からぬ異境の者、すぐには引き下がる様子はない。

「いけないわ、化膿したらどうします!」

 沙緒は強引に華繻那の手を取った。

「私、これでも医術の心得があるんですよ。だって、父は町医者なんですから」
 そう言うと、楽しそうに女は手当を始めた。

「医者……とは薬師(くすし)のような者であったか? お前も、その『医者』なのか?」
 華繻那は片手を預けたままの姿勢で尋ねた。海底国を司る王でも、「陸」に対する知識は少ない。その場所は口にすることもおぞましいとされ、忌み嫌われていたのだから。

「華繻那様、陸で医者の資格を取るためにはそれはたくさんの勉強をして、実習をして……何よりお金がたくさん必要なんです。ウチのような、しがない町医者ではとてもとても。だから私は看護の仕事に就くことにしたんです、お医者さんのお手伝いをする仕事なんですよ。弟はどうにか医者になりたいと頑張っていますが……」

 父はすぐにお金を貰わずに患者さんを看てしまうから…と言って、沙緒は静かに微笑んだ。それからふと、遠い目になる。それまでは弾んでいた話も途切れた。それきり、沈黙が続く。

 やがて細布をクルクルと器用に巻くと、「ほら、上手なものでしょう」と、にっこり微笑んだ。無意識のうちに目を合わせてしまった華繻那は、次の瞬間に慌てて手を引っ込めていた。

 また元のように手の中が空になった沙緒は先の紅い花を手にした。彼女の長いまつげの下の瞳が静かに潤んでいくような気がする。

 ――そうか、家族のことを思い出しているのだな。そんな風に思い当たる。無理に押しとどめていたのだろう、それがわずかなほころびから滲み出てくるのか。

「朱花の花が……たくさん咲いているところを見てみたいです」

 沙緒はそんな華繻那の思惑を知るか知らないか、朱花の花に目を戻して独り言のように言った。

 

◆◆◆


「華繻那様、……華繻那様?」

 物思いに耽っていた彼は多岐の声で現実に引き戻された。

「侍女長がこれからお目に掛かりたいとのことです。半月後の儀式の件で……出来れば御衣装のことなどもご説明申し上げたいとか」

 華繻那は首を大きく振った。それまで惑わされていた想いから、どうにか抜け出そうと試みる。

「承知した、衣装あわせならば、こちらよりも広間の方が良かろう。使者の者にもそう告げよ」

 多岐は心得て、一礼の後扉の向こうに消えた。きっとそこには侍女長が使わした者が控えているはず。いつもそうだ、自分に用事がある者も直接はこちらにやってきたりしない。たとえ侍女長という立場にあっても、それは同じだ。いつも側に控えている多岐が話を受け、こちらに伝える。何枚もの扉を開けなければ、他の者との接触はあり得ないのだ。

 部屋付きの侍女を呼び衣を改めさせる。その後、館の中央にある「客座」と呼ばれる広間まで渡りを進んだ。多岐も彼の一歩後ろに控えている。長い渡りの向こうには夜の静寂が広がっていた。濃紺の先は何も見えない。
 ユラユラと揺らめき立つ気の流れは見つめていると吸い込まれていくように思えることがある。長い髪を揺らしながら華繻那は思った。
 渡りの所々には侍女達が付けた灯り取りの蝋燭が揺れている。橙色の明るい光にふと目をやると、そこに先刻の最後に見た沙緒の悲しげな横顔が浮かんでくるようだ。 

「その……御手の布は何でしょうか?」

 さすがに竜王の一の侍従、多岐はすぐに袂の下の異変に気付く。華繻那もとくに隠すこともなく、その部分を明るい場所にかざした。

「包帯……とか言う物だそうだ、陸では切り傷が出来たとき、化膿を防ぐためにこのように巻くらしい」

 多岐も目を見張って、それを見つめている。やはり彼の目にも目新しく映るらしい。

「……沙緒様ですか? それにしてもよくございましたねえ、このような長い紐など……」

 ――当然だ、いきなり自分が敷いていたしとねの布を引き裂いたのだから。大人しいなりをして、思い切ったことをする娘だ。本当に彼女には驚かされたばかりである。

「どうした、私の顔に何かついているか?」
 多岐の嬉しそうな視線に気付いた華繻那は、振り向いて尋ねた。

「いいえ……何でも」
 尚も微笑みながら、しかし聡明な侍従はそれ以上何も語らなかった。

 

◆◆◆


「陸には彼岸花と言う赤い花があるんですよ。紅い……糸のような花なんです」

  沙緒が静かに語りだす。辺り一面に朱花の花が咲き乱れる東の庭に二人は立っていた。昨夕の沙緒の言葉を覚えていたのだろうか。朝食の盆が下げられた後、早速やってきた彼の姿に、沙緒は目を見張った。

「よろしいのですか……? お務めがあるのではないですか?」

 海底の全てをまとめる長としての竜王には山のような公務があると侍女達が話しているのを聞いている。彼女たちも「上様」の行動を訝しげに感じているようであった。申し訳なさそうに自分を見つめる沙緒に華繻那は幾分、表情を和らげて言う。

「それは昼からやることにした。まだ春も浅い頃であるから、庭歩きは暖かい昼前時が良いではないかな…?」

 その言葉に導かれる様に彼女は黙って付いてきた。竜王の城の庭はその端から端まで一日掛かっても歩ききれないほど広大であると言う。朱花の花園までは沙緒の休んでいる来訪者のための仮部屋のある西所から半刻以上歩いたところにあった。

「東の対が私の寝所になっている。この辺りは私の部屋から見える庭だ」

 鬱蒼と茂る庭木の間を通り抜けてようやく辿り着いたそこは紅い毛足の長い絨毯を敷き詰めたよう。花びらのカサカサと重なり合う音を聞きながら彼女は長い間、じっと黙って立っていた。

「彼岸、と申しますのは死んだ者が河を越えて……苦しみや哀しみやその他の俗世の煩わしさから解放されて辿り着く場所と言われています。私には彼岸花がどうしても血潮の色に見えて仕方ないんです。人はこの花に全てを託して彼岸に渡ってしまうのでしょうか……私も」
 沙緒はそこで話を止めた。

 ――ああ、この娘は死を選んだ者なのだ。華繻那はすぐにそう思い当たったが、自分からは何も訊ねようとはせず、やはり暫く黙って花を見ていた。花が咲いている、と思ったことはある。だがしかしこの様に花を感慨深く眺めることは今まであったのだろうか? 花も樹木も……そして自分の周りにいる人々すら、ただのひとつの物のように考えていた。

 彼はそろそろ話を切り出さなければならなかった。沙緒はここにいるべき人間ではない、陸で生きるべき者なのである。彼女の周りに気を濃くしていることも、次第に華繻那自身の負担になりつつあった。

 しかし。彼は気付いていた。その負担が少しも煩わしく思えないことを。どうしてなのかは分からない、しかし自分の力が及ぶ限りは続けたいとすら思えてくる。

 柔らかい春の日差しがはるか水面からこの地まで射し込み、気泡を乗せた花弁が所狭しと咲き競っている。花のひとつひとつが一人の人間のようだ。押し合いながらもひとつの方向を向いて、高く伸びようとしている。花弁がわずかに揺れると気泡は解き放たれ、すうーっと天に向かって吸い込まれていく。息を止めなければ見えないほどの静かな自然の営みを二人は黙ったまま、いつまでも見ていた。

 

◆◆◆


「……それでしたら天真花(てんしんか)はいかがでしょう? 手鞠のように七色に輝く不思議なお花なんですよ」

 昨日は昼過ぎまで華繻那と朱花を見ていた。とうとう彼は何も言わなかったが、自分をあそこまで連れだしたこと自体、何か話があったのだと沙緒は分かっている。そして、話されることと言えばひとつしかないだろう。

 ――陸に…返されるのだわ。

 それは彼女にとって絶望を意味していた。でも5日目の朝を迎えて自分がここにいられるのはもうわずかであると実感している。心なしか気が薄い気がする、無意識に呼吸していると時折、激しい動悸に襲われた。でもそのことを誰かに話すことはどうしても出来ないでいる。

 昨日はあれ以来、華繻那は訪れなかった。彼の顔が見たいと思う反面、彼が来れば話を切り出される気もして怖い。いつもの侍女の話によれば今までここに辿り着いた人間は目覚めるとすぐさま陸へと戻されたという。どうして自分がいつまでも留まっているのか、侍女の中には自分のことを快く思っていない者があるのも感じていた。

 少し、気分を変えてみたい…そう思って、いつも世話をしてくれる人の良い侍女に今見所の庭を尋ねてみたのだ。

「丁度両の手で包めるほどの珠のような花なんです。それに本当にいい香りで……あそこの庭は夢のようだと皆が申しますわ」

 天真花はその枝から香の材料も取るという。ここから南に真っ直ぐ降りたところだと聞き、沙緒は早速出掛けてみることにした。

「で大丈夫でしょうか? 誰か供の者をおつけ致しましょうか……?」

 そう心配する侍女に笑顔でかぶりを振って、沙緒は竜王の庭に出た。寝台の上であれこれ考えても埒が明かない、夢のように美しいと言う場所に行けば少しは気も紛れるだろう。

 

 履き慣れない草履が足に当たって痛かった。それはすなわち、自分がまだ生きていることを意味する。細道の両側から道を遮るように伸びた樹木の枝を振り分けて歩んでいくうちに、次第に気分が楽になる気がした。

 どれくらい歩いたことだろう。急に視界が開け、腰の高さほどの低い木が見渡す限り続いている所に出た。

「天真花、だわ…」
 伝えられたとおりに両手に包めるほどの大きさ。丁度紫陽花の様に小さな花が集まったかわいらしい花だった。紫から蒼へ、また他の花は黄色から橙に……花それぞれが美しい濃淡で色づいており、夢の世界もかくやと言う情景である。

 香の材料を取ると言うから、本格的に栽培しているのかも知れない。それにしても地の果てまで続いているように見えるこの光景はどうだろう。まるで延々と何重にも掛かった虹を上から見下ろしたかのように感じられる。それに……この香りは覚えがあった。

「華繻那様の香の香りなんだわ…」

 侍女も側に寄ればほんのりとした香りを感じた。でも竜王の用いる香はそれらとは明らかに違う。香りも濃く、深い。そして、華繻那のそれはこの天真花から作られたものらしい。
 昨日…朱花の園で自分の背後にずっと立っていた彼……身につけている着物の全てに焚き込められているのであろう、辺りに広がっていくような穏やかな香。

「何だか、華繻那様がここにいらっしゃるみたいね…」
 沙緒は覚えず微笑んだ。初めて逢ったときから目を逸らすことが出来なかったあの深い瞳の色が脳裏に甦る。それは今、眼に映っている天真花の園の果ての色によく似ていた。竜王の庭の果てはどうなっているんだろう…? 海底の世界は竜王の力により海底の人々が生活できるように特別の結界が張られていると言っていた。

 ――庭の果て……もしかして結界が途切れるところがあるのかも知れない。

 気付けばふらふらと、やさしい香りが漂う園の中をかき分けながら進んでいった。その時に沙緒は自分の心が死を求めていることを思い出す。陸には戻りたくない、それでも戻らなくてはならないと言うなら、いっそ……。

 怖くはなかった、それどころか不思議なほどの安心感に包まれている。ここにいないはずの華繻那の香りに包まれているせいか、沙緒の心は安らかだった。

「あ……!」
 天真花の根に足を取られてよろめいたとき、草履が脱げた。泥に足を取られる。
 沙緒は低木の中に膝をついた。着物の裾も袖も汚れ、手にはいつの間に付いたのだろう、枝で擦ったらしい無数の傷が出来ていた。しかし、園の果ては少しも近づいてはおらず、遥か遠くに変わらず揺らめいている。

 華繻那の瞳と同じ冷たい色を見上げたとき、沙緒の目から涙が溢れてきた。泥に手を付いたままうずくまって沙緒は嗚咽をあげた。思えば陸の世界での最後の夜、やはりこうしてひとりで泣いていた。自分の力ではどうにも出来ないことから逃れることも叶わず、ただ泣くことしかできない自分。情けなかった、本当にどうにか出来ることならそうしたかった。

 そして今また、自分は非力だと言うことを思い知らされる。結局はもがいたところで結果は少しも変わらないのか。

 

「…沙緒?」

 自分の名が不意に呼ばれて、沙緒はハッと我に返った。悲しみの淵からゆっくりと顔を上げて振り向く。見上げた先に、この庭の主の姿があった。

「華…繻那…様…」
 天真花の香りが余りに強かったせいか、彼の香に少しも気付かなかった。それでも強すぎる香りの中でその周りだけが穏やかな優しさを含んでいる。それが華繻那がここにいることを意味していた。

「侍女からお前が一人でここに行ったと聞いて追ってきた。慣れぬ道を供も連れずに長く歩くのは危ないではないか」
 彼は身をかがめると沙緒の腕を取った。そして彼女の顔を覗き込む。

「……泣いて……いたのか?」

 心の読めない冷たい瞳がわずかに揺らぐ。沙緒は衣の袖口で顔を覆うと、静かに視線を逸らした。

「天真花の根の辺りは泥が深くて歩きづらくなっている。草履履きのままで歩けるところではないのだ」
 俯いたままの沙緒に腕を伸ばすと、華繻那はおもむろに彼女を抱き上げた。

「……え、あのっ……、おろしてください。華繻那様のお着物が――」
 沙緒は驚いて、すぐさま腕をほどこうとした。彼の美しい着物が自分に付いた泥で汚れるのは申し訳ない。

「草履もどこかに飛ばしてしまったのだろう、このままでは歩けないではないか」

 沙緒の必死の抵抗に華繻那の腕の力は尚も弱くはならなかった。

 ――こんなに近づいたら…泣き顔を見られちゃうじゃないの……。

 彼女は出来る限り身をよじって、顔を華繻那の方に向けないようにしようと試みる。華繻那は呆れたようにため息を付いた。

「お前は……。だいたい、お前を見付けたときだって私はこうして運んでやったのだよ」

「……そう、だったのですか……?」
 沙緒は思わず向き直った。見付けたのは華繻那だと聞いていたが、運び込んだのは誰か他の――侍従か誰かかと考えていたのだ。

「あの時だって私の衣にはだいぶ汚れが付いたと思うが……」

「……」

 沙緒は決まり悪そうに黙ってしまった。でも華繻那の方を向きたくないので、彼の着物の襟元に顔を押し当てる格好になってしまう。そうすると天真花の香が自分の身にまとわりついてくる錯覚にさえ陥る。そうか、この香りは自分がこの世界で初めてであった香りだったのか。そう軽くはないと思う自分の身を軽々と抱えている腕に揺られながら、沙緒はそっと目を閉じてそんなことを考えていた。

 

「ほらごらん、この林のあちらにも花がある」
 耳元でそっと囁かれた。いつの間にとろとろとまどろんでいたらしい。気付けばもう、館のすぐ近くまで戻ってきていた。

「あれは、天寿花(てんじゅか)と言う…」

 華繻那の腕がほどかれ、地に足をつけた沙緒は樹木の枝をかき分けて見た。桜のような薄い桃色の花が木々に咲き誇っている。ふわふわと身が浮きそうになるのに注意しながら、彼女は木の元にやってきた。

「こうやって見上げると、とても綺麗です」

 後から付いてきた華繻那は歩きづらそうな彼女の肩をそっと支えた。伝わってくるぬくもりに気付かぬふりをして、沙緒はまた花を見上げる。

「空気の中ではなく……水の中に咲く花は何だか感じが違いますね。とても不思議、夢の中にいるみたい」

 そう言って天を仰ぐ沙緒に、華繻那は思い切ったように声をかけようとした。

「沙緒、……そろそろ」

 そこまで話し出されたとき、沙緒は急に咳き込んだ。呼吸が苦しくなって胸元を押さえたままうずくまる。すぐに背後から柔らかな羽が覆い被さってきた。

「沙緒……大丈夫か?」
 彼はすぐさまかがみ込んで 、倒れ込んだままの沙緒の背をさする。

「……平気です、……少し立てば……楽になりますから……」

 いつもより長いな、と沙緒は思った。呼吸が苦しくなるのは何度もあったが、やはりだんだん辛くなっている。どうにかして告げようとする言葉も途切れ途切れになって続かない。それがもどかしくてならないが、自分の力ではどうすることも出来ないのだ。

 苦しげに震える肩に手を添えていた華繻那は、やがて片手を沙緒の背の方に回した。そしてもう片方の手で彼女の顎を持ち上げて固定すると、唇を重ねる。

 ――え……!?

 ゆっくりと彼の息が吹き込まれてくる。だんだん呼吸が楽になっていった。突然の思いがけない彼の行動に身体が動かず、ただされるがままになっている。

 気の遠くなるような長い長い時間が過ぎたように思われた。やがて唇が離れたとき二人の視線がぴたりと合う。その時、慌てて目を逸らしたのは沙緒の方だった。華繻那の体を突いてくるりと身を翻した彼女の背に再び、彼の声が追いかけてくる。

「……やはり、このように気が薄くなっていたのか」

 沙緒は何も答えられなかった。一番知られたくない人に知られてしまった事実が彼女の胸を辛く締め付けている。

「沙緒、もう私の力も及ばぬようになったようだな。――明日の朝、陸に戻れるよう侍従たちに申し伝えよう」

「……」
 彼女は黙ったまま、唇を噛みしめるしかなかった。――そう、目の前にいるこの御方はこの地で一番偉い人。その方が仰ることなのだ、もはや翻ることはなかろう。

 華繻那が去っていき、その残り香が辺りから消えてしまうまで。沙緒はただ立ちつくしたまま、その場所から動けなかった。

 

◆◆◆


「……侍従を何人か、でございますか?」
 華繻那の傍らに控えていた多岐(タキ)は思わず顔を上げて、そう聞き返していた。

「そうだ」
 華繻那は書物から目を離さず、淡々とそう告げる。

「それでは……沙緒様を陸にお返しになるのですね?」

「陸」にあがれる侍従はそう多くない。何しろ、一度あの乾いた濃すぎる空気に触れれば、半日も持たずに死に絶えてしまうと言うのが海底の民なのだ。特別に訓練を受けた者だけしか、その地に付き添うことは不可能なのである。前もって準備も必要であるから、命じてすぐにどうにかなることではないのだ。

「――当然のことであろう、今更驚くこともない」

 さらり、と書物をめくる音が辺りに響き渡る。表情を変えずに淡々と公務を進める主を多岐は黙って見つめていた。暫く立ってから、華繻那はまだ退室しない多岐を不審げに振り向く。

「どうしたのか、早く手配せぬか?」

  漆黒の瞳に映ったのは、今までとはどこか違う多岐の姿であった。

「本当に…宜しいのですか? 華繻那様」

 いつになく真剣な竜王の一の侍従の眼差しにさすがの華繻那も一瞬、たじろいでしまう。

「……な、何を申すか。陸の人間を陸に戻すのは当然のこと」
 彼はなるべく多岐とは目を合わせぬように、素早く視線を書物に戻した。

 長年、仕えている多岐には主の心内に何があるのか。多岐はその大体を見当つけている様子であった。……しかし彼はあえてそれを口にするほどの無礼はしない。

「……侍女長が申し上げたことがお気に掛かっておいでですか? ……無理もございませんが」
 主は何も答えない。多岐は構わずにもう一言付け加えた。

「ここは、暫くお考えになってからお決めになっては如何でしょう? あなた様のご本心を良く確かめられてから……」

 その声にぎくりとして華繻那が顔を上げると、もう多岐は去っていった後であった。

 

 書物に目を落としても何も頭に入らない。―― 一体どうしたことか? 華繻那は大きくかぶりを振って、両の手で頭を抱えた。片手に巻かれたままの包帯が目に留まる。

 机に肘をついたまま、彼は長い時間、微動だにしなかった。

 

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