TopNovel秘色の語り夢・扉>沙緒の章・3


…沙緒の章・参…

 

 ……眠れない。

 沙緒は何回も寝返りを打ったあと、諦めて身を起こすことにした。窓の外には夜の闇が先刻よりも深く広がっている。明日の朝目覚めれば、侍従達により自分は陸へと戻されてしまうのだ。陸へ……、あの地へ帰されてしまう。

 彼女は自分の口元に手を当てていた。天寿花(てんじゅか)の木の下でそこに触れた華繻那(かしゅな)の体温をまだ覚えていた。思い出しただけで動悸が速くなる。……でも。

 ――あれって…人工呼吸の様なものだったのよね……。

 軽い落胆と共に沙緒は目を閉じた。いきなりの行動にはかなり驚いたが、彼にとっては呼吸が苦しくなった者を助けようとしたに過ぎないのだと思う。その後のあの落ち着いた彼の姿にそれを強く感じた。大体、この世界では口づけが愛情表現がどうかも、怪しいような気もする。

 いくら打ち消そうとしても、それでも熱くなる心。決して満たされぬ心。……求めてはならないものを求めてしまう自分。

 ――駄目だわ、このままでは。お水でも頂いて、心を落ち着けなくちゃ。
 彼女は寝台から降りると侍女達が集まっている寄り所まで渡りを進んでいった。

 

◆◆◆


「……全く、上様はどういうおつもりなのかしら?」

 不機嫌そうな声が中から聞こえてきたので、沙緒は足を止めた。いつもの侍女の声ではない、何度か仕方ないと言うように部屋を訪れた者のものに思える。

「本当よねえ、あんな陸の女に心をお砕きになるなんて、上様のなさることとも思えないわ……」

 明らかに自分を蔑んでいる言葉。すぐに立ち去ればいいのに、足はすくんだまま。嫌でも続く話を聞いてしまう。

「それで、侍女長様が上様に進言申し上げたらしいわよ」

 高らかなひとつの声に、いくつかの声が続きを促す。侍女長、という言葉にも馴染みはなかった。だが、多分その名からして、このようにたくさん館に仕えている侍女たちをひとつにまとめる者の役職名なんだろうと考えられる。そのような偉い人が、わざわざ華繻那様に? 一体何を……?

「だって、そうでしょうよ。上様のご婚礼の儀はもう十日余りでしょう、あと三日後には西南の集落よりお后様になられる方がお興し入れなさるわ。それまでにあの女、どうにか片づけなくっちゃ」

 ――え……!?

 またも聞き覚えのない言葉に、沙緒は自分の耳を疑っていた。婚礼……、お后様……?

「ねえ、西南の集落の姫君って結構、きついお方なんでしょう……?」
 好奇心の固まりのような声が、扉の向こうから憚ることなく響いてくる。だいぶ夜も更けて、皆が寝静まっている刻限であるから、誰かに聞かれる心配もないと思っているのだろう。

「侍女長様はあちらのご出身でしょう? 私、お側にいるから色々聞いてしまうのよ。お姿は、それはお美しいお方のようよ。でもとても嫉妬深い方で、お興し入れなさるときにお連れになる侍女達はかなり年輩の者ばかりをお揃えになっているって言われているわ。若い娘のような侍女は、決して上様のおそばには近寄ることが出来なくなるようよ」

「じゃあ、上様付きの侍女も御自分の御采配でお決めになられるおつもりなの?」
 それはご大層な事よねえ……と言う様な言い方だ。

「そりゃそうよ、だって姫君は西南の大臣家の御息女よ。上様と未だご対面さえなされてないとはいえ、幼少の頃より正妃様に上がることは国中の皆が承知していた事ですもの。まあ、御身分から見ても上様にこの上ないお方ですしね……」

 まあ、怖いわ……と一同が息を呑んだのが分かる。でもその後に、乾いた笑い声も聞こえてきた。

「東の対のことは私たちのような者には余り縁のないことですもの、気が楽で良かった」

「あちらの女房だったら、失業しちゃうかもよ」
 部屋の中にいる者たちにとっては、竜王の婚礼など所詮格好の噂話でしかないようである。衣類の手入れでもしているのであろう、シュルシュルと衣擦れの音に乗せて、楽しそうな語らいがまだまだ続いていた。

 

 沙緒はやっとの事でその場を離れ、よろめくように渡りを戻っていった。……そう言うことであったのか。半ば分かっていたことが現実のものになったしまったような寂しさが襲う。

 ――しかるべきご婚約者がいらっしゃって、その方がもうすぐおいでになるのだとしたら……私なんて一刻も早く陸に帰してしまいたいと思われることでしょう。

 ねっとりと自分の周りにまとわりつく気は心なしか冷たい。まだ春浅い夜半である。この水の中の重苦しい感覚がいつの間にか当たり前になっていた。足元も衣も後に引かれるように上手に歩くことも出来ないが、それが疎ましいとは思えなかった。

 その時。沙緒は自分の心の中に溢れるような思いがあることをはっきりと悟った。でもそれは…永遠に満たされることなく、葬り去らなければならない思いなのだ。

 今夜は満月にほど近いらしく、竜王の庭は月明かりに満たされていた。青白く浮かび上がる樹木を眺めていた沙緒はふと続き間から外へと出ていた。

 

◆◆◆


 ――あなた様のご本心を良く確かめられてから……。

 華繻那の耳元で幾度となく同じ言葉が反芻されていた。一体どういうことか、どんなつもりで多岐はあの様に申したのか……?

 寝台に休んでから、もうだいぶ時間が過ぎたようである。しかし、同じ言葉がこう何度も繰り返されては気持ちが休まる気がしない。

 ――少し、夜風にでも当たるか……。

 彼もまた、寝台から身を起こしていた。

 しかし、庭に抜ける扉には警護の侍従が夜通し控えている。別に身の危険が起こるような出来事が過去にあったわけでもないのだが、通例として行われているだけのことである。こんな風に竜王の行動は気にならないぐらいの無数の束縛で護られている。しかし、それは生まれ落ちてよりの日常のもの。華繻那にとっては何でもないことであった。

 警護の侍従を煩わせるのも面倒なので、彼はせめて窓から外を眺めることにする。明るい月明かりに照らし出された中庭は竜王の寝所に似つかわしく、この広大な庭の中でも一番に美しくあつらえられていた。遣り水が夜の間も留まることなく流れ続けている。ふと遠くに目をやるとそこは朱花の花園が広がっていた。月明かりに浮かび上がった朱花は赤みを増し、背筋の凍るほどの美しさである。

 ……人はこの花に全てを託して彼岸に渡ってしまうのでしょうか、……私も。

 軽い目眩と共にあのときの沙緒の言葉が甦る。眉間に手を当ててそっと目を閉じた華繻那は再び目を開いたとき、視線の先に何か動くのを感じた。視界をすうっと横切ってゆく人影。

「……沙、沙緒……!!」
 彼はすぐさま我が目を疑った。どうしたことだろう、天寿花の木の下に置き去りにしたまま、ついに顔を見ることがなかった彼女がどういうことかこんな花園に来ている……? とうとう幻影が映ったのかと彼は思った。

 しかし、それは幻影などではなく……、するりと声に反応して振り向くとふわふわした足取りで庭木の間を抜けてきた。月明かりの下で彼女の薄茶色の長い髪が金に輝き、動きに合わせて衣と共に辺りになびく。その様を華繻那は息を飲んで見ていた。それは長い時間のようで……一瞬の出来事にも思える。

 やがて彼女は窓際までたどり着き、そっと華繻那を見上げて微笑んだ。

「……どうしたのだ。夜歩きには少し、遠出が過ぎるんじゃないか。それに、こんなに薄着で……」

 まだ彼女が実体であるという確信がつかめず、窓際に置かれた小さな白い手に我が手を重ねていた。ヒンヤリとした感覚でようやく目の前にいる人間が幻でないと信じることが出来る。彼女は昼間と同じままの単の着物の上に薄い重ねを羽織っただけの軽装でそこに立っていた。

「……朱花の花に、逢いたくなってここまで参りました」
 月明かりに照らされているためか、青白く生気の抜けたように見えた。弱々しい笑顔が自分を見上げている。本当にこの者は……生きている人なのだろうか、まさか朱花の花に生気を抜かれたわけではあるまい……? そんな馬鹿馬鹿しい考えが頭を過ぎる。覚えず、沙緒の頬を両の手で包んで その顔を覗き込む。華繻那の小指の先に彼女の頸動脈の波打つ微動が感じられた。しかし、白い頬の感触も生気の人間と思えぬほど冷たく感じられる。

 次の瞬間。

 淡く微笑んだ沙緒の両腕がそっと華繻那の首に回された。驚く間もなく、唇が重なり合う。やがて腕が静かにほどかれ、華繻那の眼に映った沙緒は……今の瞬間、自分のとった行動を忘れてしまったように、何事もなかったように消えそうな微笑みを浮かべていた。これは何としたことか。華繻那は自分だけがひどく動揺しているのに気付いた。

「お願いがございます、華繻那様……」
 沙緒の潤んだ瞳が華繻那を捉える。息が止まる思いで見つめ返した彼は目を逸らそうにも自分の意志が我が身に全く通じないことを悟った。

「明日になれば……私が陸に戻れば、華繻那様は余計な力を使うことなく、元通りになられるんでしょう?」

「……それは、その通りだが」
 沙緒の口から積極的に「陸に戻る」と言う言葉が出たことに華繻那は少なからず動揺していた。自分から陸に戻すと言っておきながら、その言葉を自分の中で全く消化していなかった事実を初めて思い知らさる。

「それでしたら……」

 ふうわりと沙緒の重ねが空を舞う。静かに後ろを振り返り、朱花の花に目を移した。

「今ここで、私の周りの結界を解いてくださいませんか?」

「……沙緒!?」
 思わず腕を伸ばしていた。彼女は再び華繻那に向き直って静かに微笑んだが、何歩か歩いたらしくもう彼の手には届かない。

「自分が何と言っているか分かっているのか? ここで結界を解いたら、お前はどうなってしまうか――」

 その瞬間を思い浮かべることすら恐ろしいと思った。だが、うろたえる彼を静かに見据えて、届かない幻影のような沙緒の柔らかな笑い声が辺りに響く。

「……全てを承知しているからこそ、こうして申し上げているのではありませんか」

 彼女の言葉と表情のかけ離れ方に、華繻那は軽い怒りを覚えた。その想いが胸から溢れ、のど元からほとばしっていく。

「お前は……、私が助け出してやったからここに居るのではないか? 陸に戻れば大切な家族も待っているだろう……せっかく助けた命、無駄にする事は許さぬぞ!」

 彼として最大限に怒りを表したつもりだった。でもその言葉すらも沙緒の前では効力がない。家族のことを話された瞬間、確かに沙緒の表情は揺らいだかのように見えた。でもそれも一瞬のこと。すぐに元の微笑が戻った。

「華繻那様は……陸の人間は陸に戻れば幸福になれると、そのように信じていらっしゃるのですね……」

「そうではないのか……?」
 半ば呆然とした表情のこの地の王に沙緒は静かに言い放った。

「幸せならば……どうして海に落ちるのでしょうか。あの場所に帰っても、私には避けることの出来ない地獄が待っているだけです」

 ユラユラと天女の舞のように沙緒の姿が月明かりに照らし出される。異の地より使わされた使者のようにこの世のものとも思えない光をたたえていた。

「でも……」
 次の瞬間。彼女は諦めたように穏やかな表情に戻っていた。

「お願いしても、叶わぬ事とは存じておりました。華繻那様が目の前にいる者を決して見殺しには出来ない方だから。申し訳ございません、おかしな事を申し上げて。大丈夫です、ちゃんと陸に戻りますわ……」

 それから。

 彼女は天真花のような淡い微笑みを浮かべた。

「華繻那様……?」
 揺らめき立つ月明かりの中に、一輪の花が咲いたように見える。そんな沙緒の姿が一瞬、消えかけたように華繻那の眼には映った。

「華繻那様は……どうぞお幸せになって下さいね」
 その言葉を一息に言い終えると沙緒はくるりと背を向けた。

「……沙緒!」
 華繻那は自分でも気付かぬうちに腰高の窓を飛び越えていた。裸足のまま沙緒の所まで駆け寄り、自分の掛けていた重ねで彼女を包みこむ。

「華繻那様……」
 驚いた声で向き直った沙緒の目が涙で溢れている。その顔を見られまいとするようにすぐに俯いた彼女はするりと彼の腕をすり抜けていた。しかし、すぐに背後から天真花の香にすっぽりと包まれる。

「……自分には幸福がないようなことを言うな。私はお前と出逢ったとき、その心の中にある底知れぬ強さを感じた。不幸と感じるのであれば、逃げることなく道を探せばいいのではないか……?」

 丁度、沙緒の胸の下に回された華繻那の腕に彼女の目から流れ出る涙のしずくがポトポトと落ちた。
 やがて…彼女は静かにその腕をほどいて、華繻那に向き直る。そして自分に掛けられた重ねを取ると彼に手渡した。

「でも……私は死の淵で再び、叶わない夢を見てしまった様ですわ」
 涙顔のまま精一杯微笑んでそれだけ言うと、彼女は華繻那に背を向けて小走りに走り出そうとした。

「沙緒!」
 華繻那はすぐに彼女の腕を掴んで、力ずくで自分の方に引き戻した。彼の紫の重ねは波のように辺りを漂っている。彼に顔を覗き込まれた沙緒は慌てて顔を背けた。

「嫌です……! ……見ないで! もう、部屋に戻りますから…離してください!」

 そう言って、思わず見上げた沙緒の頬に彼は不意に口づけた。

「華繻那様…?」

 彼女は震える瞳で何かを訴えようとした。だが、言葉が続かない。

「沙緒……それではお前の幸せは何処にあるのだ?」
 背中に回された腕に力が込められた。沙緒はやはり言葉が出ないままである。瞬きもせずにじっと自分を見つめている瞳に吸い込まれそうだ。

「……分かりません」
 ややあって、絞り出すように喉の奥から音がこぼれる。身を剥がそうにも華繻那の腕の力が強く、彼女が出来ることと言ったら、その言葉と共に瞳の生気を失わせることぐらいだった。俯くことすら出来ない。顎は上向きにしっかりと押さえつけられている。

「分からないんです……本当に。もう……自分の心の内すら……。あの時に何もかも、捨ててしまったはずなのに、心ごと投げてしまったつもりだったのに……どうして、私は……」

 この瞳は自分を映しているのに。それなのに自分を見てはいない。心に何があるのか知りながら、見ない振りをしている。

 顎を掴んでいた手を解くと、そのまま彼女の頭の後ろに回す。さらさらと柔らかい流れを指先に感じながら、髪をすいていく。激しい動きに乱れていた髪が静かに整うと、最後に頬にかかっていた髪がかき上げられた。

 目前に現れた白い首筋に、華繻那は顔を埋めた。震える両腕が沙緒を抱きすくめる。

「……沙緒」
 吐息混じりの声が耳元に届く。それだけで、沙緒の目からは再び涙がこぼれ落ちる。

「私の幸せは……ここにあるのだ」

 腕の中で強ばっていた身体が、急に崩れるように力を失った。抱きかかえられた姿勢で顔を上げると、再び視線が絡み合う……そして。

 どちらからともなく。

 唇が深く重ね合わせられる。冴え冴えとした月明かりが二人の姿を照らし出していた。

 

◆◆◆


 ――明るい。

 沙緒はゆるゆると瞼を開けた。見覚えのない美しい天井模様が眼に映る。ハッとして振り向くと傍らに人の寝息を感じた。……その瞬間、呼吸が止まる。

 ――やだ……! ……私。

 沙緒は自分の寝着の襟を直すと隣の人を起こさぬよう、静かに寝台を降りた。離れても天真花の移り香に包まれているのを感じた。自然と顔が熱くなる。

 ――華繻那様……。

 まだ目を覚まさぬ竜王の乱れた髪をそっと後ろに整え、寝顔をそっと盗み見た。子供のような安らかな寝顔に自然と笑みがこぼれる。沙緒は重ねはかけずに白い寝着だけの姿で窓の所まで進み、外の庭を眺めた……いい天気だった。
 
 静かに佇んでいると昨夜の事が思い出される。知らず、鼓動が激しくなってしまう。無我夢中だった……大きな波の中にいた自分……でも大波に飲まれても少しも恐ろしくないと思っている自分がいたのだ。

 でも、それは……。

 ――慈悲を、掛けられたんだろうなあ。

 ほどなく婚礼が控えている人なのだ。こんな軽はずみな行動は彼にふさわしくなく思えたが――多分、自分の心内なんてお見通しなんだろう。何しろ、彼は竜王なのだから。

 ――まあ、いいか。

 沙緒はまた、自分に言い聞かせた。今日、侍従の手により陸に帰されるのだから。最後にこんな夢が見られたなら……もう、思い残すことはない。そして……私は。

 一抹の寂しさが胸を過ぎる…彼女はかぶりを振って、それを自分の中から追い払おうとした。

「……沙緒」
 昨日の出来事を思い起こされる様な声がすぐ背後から聞こえて、彼女はハッとした。
 肩に重ねを掛けられる。でも……振り返ることは出来ず、そのまま庭を見つめた。

「庭を見ていたのか」

 窓の桟に置かれた自分の手が華繻那の手で当たり前のように覆われる。首筋に吐息が届くくらいの近距離に天真花の香の主はいた。自ずと高鳴る鼓動が聞こえてしまったらどうしようと沙緒は緊張してしまう。冷静に…冷静に話そう。

「……本当に長いこと、煩わせて申し訳ありませんでした。早々に支度して、引き上げますので。侍従の方をよこしてくださいね」
 そして一瞬、彼の手が弛んだので向き直って笑顔でその人の顔を見上げることに成功した。

「もう大丈夫、私、頑張れますから。華繻那様もどうぞお元気で……」

 何か言葉を返してくれると思ったが、目の前の彼は半ば呆然としたまま黙り込んでしまっている。

「あの……華繻那、様?」
 沙緒が覗き込むと彼の顔は見る見る紅潮していった。慌てた様子で口元を押さえて横を向く。しばし、何かを思案していたようであったが、やがて話し始めた。

「……そのように思い切ってくれてしまうと、こっちとしては話しにくくなってしまうんだが。……沙緒?」

「はい……?」

 朝の光を孕んだ流れは、軽やかにふたりをすり抜けていく。同じ方向に流れていく髪。同じ場所に確かに今、ふたりは存在している。

「お前が……陸に戻る気になってくれたのだから今更という気もしないではないが。今まで伝えてなかったのだが、実はただひとつだけ、陸の人間がずっとこの地にいられる方法があるのだ」
 それから彼はじっと沙緒の瞳を見つめて言った。

「この地の者と真の夫婦(めおと)になり、添い遂げることが出来るなら……なのだが」

「……はあ?」
 沙緒は信じられないように目を見開いた。

「沙緒は、この先もずっと私の側にいる気はないかな……?」

 一瞬、気が遠くなる。音が耳に入らなくなる。瞳だけはしっかりと目の前の愛おしい人を映し出しながら。でも次の瞬間、沙緒は我に返った。

「え……だって、華繻那様はもうすぐお后様を迎えられるんでしょう? 私などがおそばに居られるわけがありません……!」
 声を荒げながら、するりと視線を逸らす。今は目を合わせたくない、だって、この人の瞳に射抜かれたら、嘘が付けなくなる。戯れにしろ、こんな事を言われて、沙緒は戸惑ってはいた。反面、わき上がる幸福感があり、それを隠しきれる自信はなかった。

「すごくお強い方だって……お付きの侍女ですら若い娘はお側に置かないおつもりだと聞きましたよ、私……」
 そう言いつつ体が震えているのが自分でも分かる。ひとりでに髪が舞い上がる、気を揺るがせたのは、華繻那、その人であった。寝崩れたままの姿、袖口がめくれ上がって露わになった腕が、沙緒の腕を取る。

「何やら、沙緒はいつのまにか館の侍女たちのように詳しい事情を知っているようだね……」
 言葉が終わらぬうちに沙緒は華繻那の腕に包まれていた。素早い動きに反応の遅れた華繻那の髪が、帯のように辺りを漂う。それは二人を包み込む網のように広がっていく。

「お前が現れる前は言われるがままに后を娶り、世継ぎを残すことも公務の一部のように思っていたのだが……今となっては」

 言葉が途切れ、愛おしそうに髪がなでられる。指の感触が地肌から伝わってくる……。

「そういう恐ろしい后には退散していただこう、と考えているのだが」

「……そのようなこと、簡単におっしゃって」
 震える体をとどめる術も知らず、されるがままに抱きすくめられる。言葉では抵抗を示しながらも、もう身体は心のままに素直だった。

「まあ、大臣達はひどく憤慨するだろうな」
 華繻那の口元がフッと緩む。

「だが、仕方もない。そうしてでも手に入れたいものを私は見付けてしまったのだからな…」

 耳元で優しい声が響く……、沙緒は体中の緊張感が抜けていく気がした。

「――ところで。私はまだお前の返事をまだ聞いておらんのだが。どうするか? やはり、侍従を呼んで陸に戻るか?」
 腕の力は少しも緩めずに、華繻那は少し意地悪い口調になった。

「華繻那様のご命令なら、私はそれに従いますが……」
 その質問に沙緒はすこしふくれた声で答えた。――それもほんの戯れでしかないが……。

「では、早急に侍従に申しつけるか。私も大臣達の気を損ねたくない」

「華繻那様!!」
 沙緒は慌てて、我が身をかき抱く人の襟元を握りしめた。見上げると、包み込むような笑顔が答える。

 言葉とは裏腹に背中に回された腕に力が込められたのを沙緒は感じていた。

 

◆◆◆


「まあ、そのようなことが……!」
 そのころ、庭の隅で。中年の男と、それよりはいくらか若い女の会話。女の方が呆れ半分で声を上げた。

「夜中にご様子を伺ったら、寝所はもぬけの空。沙緒様は侍女の間でも評判が分かれる方ですから……何かあったらお困りになると思って。私、庭中ひとりでお探しいたしてたんですよ!」

「だから、私が呼び止めて伝えてやったじゃないか」
  答える方の声はあっさりしたものである。だが、やはりどこか眠そうな雰囲気ではあるが。

「あれはもう、夜明け前でしたよ。私、昨晩は休んでないんですから――まあ、兄上にあそこでお目に掛かって本当にホッとしましたけど!」
  そう言いつつ、まだまだ言い足りぬことが腹に溜まっている様子である。男の方が軽い笑い声を上げた。

「……でも、お前は初めから薄々と感じていたんじゃないのか? 華繻那様のお気持ちは」

「兄上だって、ご存じだったでしょうよ」

 ふくれた声に、多岐は可笑しそうに笑った。傍らにいた彼の末の妹…ずっと沙緒の世話をしていた侍女も、安堵のため息を付いている。

「それにしても、兄上。あの上様のお変わり様……人はあんなに急にお変わりになられるものでしょうか? やはり長年お仕えしても、お上の考えられることは理解出来ませんわ」
 彼女は未だ信じられないと言う様子で、ぐるりと首を回した。

「でも、お前も私と同様にこれで良かったと考えておるのだろう?」

「まあ、そうですけど。これからが大変ですよ! 沙緒様は寝具を裂いたり……時々とんでもないことをなさるんですから。私もお世話が大変です。まあ、気持ちの良い方ですからご一緒にいて楽しくもあるのですが」
  諦めたようなつぶやきが、だんだん鈍くなる。そうは言え、彼らはこの館にお仕えする者。拍子木の音が響けばまた、お務めに向かわねばならない。今は、それまでのしばしの休息だ。

「それならいいではないか。華繻那様がお幸せなら、この地も末永く安泰と言うことだ」

 

 辺りに春の日差し。その日差しに誘われるように次々に咲き競う花々。波打つ水の奥深くの誰も見ぬ世界の物語。そしてそこから……また新しい物語が始まろうとしている。


(2001,3,25)
(2002.1.19・改訂*2005.5.10・第二回改訂)
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