「痛っ……」 室内に小さな叫び声が響いた。 「……また、でございますか? お方様」 「沙緒(さお)様、今少し……お手元にご注意なさった方が宜しいのでは? お心がどこかに飛んでいらっしゃるのではないですか?」 「多尾(たお)さん、相変わらずではありますけど……きついひとことですね」 室内は高い天井に装飾を施された柱。天井には美しい花園に愛らしい鳥たちが飛び交う姿が描き出されていた。 「まあ、お方様はお針仕事がお得意でないのは皆が存じていることで、今更とやかく言うことではありませんわ」 「…そうでは…ありますね」 2人の手にはそれぞれ異なる絹がある。 多尾の方は膝から足首に流れるほどの大振りのもので、両手を広げたくらいの大輪の花が刺繍されていた。それは深い緑の地に金色に輝き、もうすぐ一輪が晴れやかに花開く所であった。 丁度、小学生が家庭科の時間に初めて縫った雑巾の針目のようだと沙緒は我ながら哀しくなった。 目の詰まった織り地に刺していくのは神経を使う。レザー手芸をやるのに近い気もする。革製品は一度針目が付いてしまうと布のように安易にほどくことが出来ない。なぜなら一度通してしまった針の穴はふさがらず残ってしまうからだ。 今やっている刺繍は「文化刺繍」と呼ばれるものに近い。 文化刺繍とは「糸で布に絵画を描いていく手法」で木枠にはめてピンと張った布地に特殊な針で上から糸を刺し込んでいく。西洋刺繍の様にいくつかの異なる刺し方で構成されていると言うよりは直線の長短を巧みに使っていく。大輪の牡丹や羽を広げた孔雀の見事な刺繍を子供の頃、見たことを今更ながら沙緒は思い出していた。 あれは…お母さんに連れられていった文化展覧会だったかしら? 遠い記憶を辿るように沙緒は小首を傾げた。 もちろん、沙緒自身は文化刺繍などやったことはないし…第一、家庭科の宿題ですら母親の手を借りていたような不器用ぶりである。つましい世の中で洋服は手作りかオーダーメイドがほとんどだったから、子供の頃から母親の手作りの服を着ることは当然だった。そして早い少女は小学校の高学年頃からスカートなど簡単のものを手始めに自分で服作りを始めていた。沙緒だってやる気がなかった訳ではない。しかし人間には得手不得手があるのだと痛感させられるような出来映えにあきらめの境地になりつつあったのだ。 …本当、自分が母親になったらどうしようかと思っていたのよね… 改めて自分の刺した桜の不格好さに情けなく笑いが込み上げてきた。
沙緒がこの地…海の、陸の人間が「深海」と呼ぶ水底に広がる「海底国」の住人になってから早いもので二年近くの歳月が流れていた。正確には沙緒は現在、海底国の王たる「竜王・華繻那(カシュナ)」の后、と呼ばれる身分になっている。それは自分でも思いも寄らない事態であった。 未だにこの地の人間の誰にも言えぬ理由から沙緒が産まれ育った地の岸壁からその身を投げたのは、春まだ浅き頃であった。 それが、目が覚めたところ…見たことのない建物の中に横たわっていた。寝台から身を起こしてみればそこは海底の王国で、ねっとりと身体にまとわりつく不思議な大気に満たされていた。それが「海水」であり、この地の者は異形の形をしたエラのように大きく広がり裂けた耳を使って魚のようにエラ呼吸を行っているのだと知った。沙緒は…人間そのものであり、当初は「竜王」の神秘的な力のひとつを使ってその身の周りに結界を張って貰っていた。それは「身体が元に戻って、陸に戻るまで」の暫定的な措置であった。竜王である華繻那もそう考えていたようだ。 どういう巡り合わせか、いつの間にか沙緒はこの地の最高の地位にある「竜王」に想いを寄せていた。まさか向こうが同じような気持ちでいるとは到底考えられなかったが…気が付くと「后」と言う立場に置かれているのだから今でも不思議な気分がする。
「上様は…本日、お戻りになるんでしたよね?」 「ええ…そうでしたね…」 「お昼の御膳を召し上がってからの御出発と言うことでしたから…いつ頃、お着きになられるでしょうね」 「…そうね…」 受け答えをしたものの、沙緒には全く見当が付かない。竜王である自分の夫が出掛けた「西南の集落」へは一度も足を運んだことはなく…話を聞いている限りでは正しい土地勘が掴みかねていたのだ。
今回の華繻那の行幸は公私を兼ねてのものだった。 西南の集落は王族と関わりの深い土地だ。歴代の竜王の元に后、側女(側室の様なもの…この地では正妻の他に数人の側女を持つことがある程度の身分のある人間にとって当然のことであった。最高権力者たる竜王にはいつの世もたくさんの側女が置かれていた)として送られる者はこの地の者が多かったし、王族からこの集落に嫁ぐ者も多かった。 現竜王の華繻那の姉のうち、数名がここに嫁いでいた。特に長姉である「翠の君」は大臣家に正妻として嫁いでおり、多くの子を成していた。 「腹立たしいことでございますわね…」 竜王である華繻那の方も姉夫婦のあからさまな悪意には閉口した様子であったが、無理に沙緒を連れて行こうとはしなかった。そこに同席した場合の沙緒の身の置き場のない心痛を華繻那自身がよく分かっていたのだ。
沙緒が華繻那と出逢ったとき、華繻那は半月後に婚礼を控えていた。西南の集落の前大臣(今の大臣の父君)の息女で2人の婚儀は華繻那が生まれ落ちた瞬間に決まっていたものであった。 そこに、沙緒の登場である。 事もあろうに華繻那は沙緒を自分の后、正室として迎えるのみならず…側女はひとりも取らないと言い切ったのだ。今まで大臣や宮殿の侍女長(ともに西南の集落の出身)の申し上げることには首を横に振ったことのないほど従順だった華繻那の突然の豹変に西南の集落のみならず、海底国じゅうが震撼した。 当の本人の華繻那は落ち着いたものだったが沙緒の方は気が気ではない。 華繻那が自分一人に想いのたけを注いでくれることは嬉しいと正直に感謝した。
「…私は側女のひとりでもいっこうに構いません、何でしたら侍女のひとりに加えて頂いても結構なんです…華繻那様のお側にいられるだけで、本当に光栄なんですから」 事実上、華繻那に東所の竜王の寝所に迎え入れられて間もなく、自分を正后とすると言う我が王にためらいがちにそう言っていた。 「…沙緒…?」 「お前は私の后として、この地に生きてくれると約束してくれたんじゃ…なかったのか?」 「…それは…それは、もちろん、申し上げましたが…でも…」 言葉が続かない。震える両の手で自分の纏った重ねの襟元を握りしめて俯いた。 「また…誰か…お前に何か言ってきたのか…?」 事実、今日も夏の装束の色合わせに参上した侍女長が自分を一瞥して、 沙緒のお付きの侍女として、華繻那と華繻那の一の侍従である多岐(タキ)が選び出してくれたのは、沙緒がこの地に落ちてからずっと好意的に接してくれていた多尾であった。多尾はその名の通り、多岐の家の者…彼の末の妹に当たり、歳の割にしっかりしていた。 思い出しただけで涙は溢れそうになる…でも泣くものかと沙緒は唇をきつく噛んだ。 「何故…そのように辛そうにしているのだ…?」 「お前は…私の側にいるのが、辛いのか…?」 沙緒は思いがけない言葉に驚いて顔を上げた。目線の先に愛しい王の顔があった。 一瞬の沈黙の後、沙緒は大きく頭を振った。頭が左右に振られたため、ねっとりした空間の中を沙緒の美しい茶色がかった長い髪がゆっくり流れてその姿を覆っていく。 「上様は…ずるい…」 「そうやって…お優しいお言葉で…私の心を溶かしてしまうんだわ…」 「…沙緒…」 華繻那がどんなにか動揺して、自分を慰めてくれようとしているのか…沙緒には分かっていた。頬に当てられた手が震えている。何と言ったら、沙緒が心安らぐのか思案している様であった。 華繻那は沙緒の顔を覗き込んだ。 「…側女を迎えたところで…到底、彼らが…大臣や侍女長が望むようには出来ないと思う。側女として上がりながら寵を得られない事が一番の不幸じゃないかな…」 「華繻那様…」 「私は…もう…お前しか…愛せない」 その言葉を聞いた途端、溢れ出た涙も拭えないまま…沙緒は華繻那の胸に倒れ込んでいた。何と言ったらいいのか分からない。 そっと背中に腕を回されるのを感じる。 「お前は…どうか…心安らかに…笑っていておくれ。その為だったら…私は何でも厭わない」
そういったやりとりはこの2年足らずの間に何度となく繰り返された。 周囲の猛烈な反対を押し切った形で沙緒が竜王のただひとりの后としてその座に着いたのであるが…次はなかなか御子に恵まれなかった。全くその兆候がなかったわけではない。2度、受胎した。一人目は2月足らずで流れてしまったが、2人目の御子は早産の末…事切れてしまう。 華繻那は落胆しつつも沙緒を思いやってくれたが…猛然と元気になったのは西南の面々である。 「こうなったら、何があっても側女を」 彼らは華繻那に食ってかかった。 「何時までものうのうと居座って! 役立たずが!」 そんな中での今回の行幸である。沙緒が招待されなかったのは幸いであるが、その席でどんな話が出たかと思うと沙緒はまた気が重くなった。 「お方様」 「大丈夫でございますよ…いくら、あいつらが何か言ってきても…上様は御心からお方様を愛おしく思われていらっしゃるんですから。それに我が兄も付いております。鬼に金棒でございますわよ…」 包まれるような笑顔に支えられて、沙緒も少し笑顔が戻ってきた。 「そう、沙緒様が健やかにいらっしゃることが、上様の一番のお喜びなんですよ」 「…多尾さんたちには本当にお世話になってばかりね…」 「いえいえ」 「私たち侍従にとって一番は上様がお幸せにいらっしゃることです。沙緒様はその為になくてはならないお方ですから」 目の前に大輪の花が咲いた。
「上様が…お戻りになられました。ただ今、こちらにいらっしゃいます…」 拍子木の音と共に高らかな侍女の声が響いた。 「あらあら、お噂すれば…そちらはお仕舞いになった方が宜しいですね…」 「ああ、7日ぶりか…早くお顔を見せておくれ…」 迎え立つ沙緒はここに来てから伸ばした髪が床まで届き…美しく波打っていた。明るい茶色の河のような輝きは光の加減によっては金にも見えた。色は透けるように白く、ほとんどおしろいもいらぬほどのきめの細かさだ。その瞳には包み込むような春の暖かさをたたえている。 「お帰りなさいませ…」 「ほらほら…顔を上げて」 「ああ、早くお会いしたかった。こんな事なら、反対を押し切ってでもご一緒するべきだったと後悔したよ」 「上様ってば…」 「私も…寂しゅうございました…」 「はいはいはい…」 「それじゃ、私は夕餉のお膳の準備をして参ります…どうぞごゆっくり!」 その後、一直線に扉まで歩いていって、くるりと振り返る。 「沙緒様」
「…何のことなんだい…?」 「…亜樹さまは…お健やかでいらっしゃいましたか?」 「ああ、袴着を迎える前の子供とは何とも可愛らしいものだね…駆け回る姿も微笑ましいよ」 「…それは、宜しゅうございました。何時こちらに? …私も早くお会いしたいですわ…」 「華繻那…さま…?」 「…すまない。お前を辛い目に合わせてしまったね…」 「そんなこと…お気になさらないで」 臨月に程近い御子を死産してしまった昨春の声を聞いた頃…西南の者達の間では今ひとつの思案がなされていた。再三に渡る側女の話をかたくなに断る竜王に対して…それなら、と華繻那の姉、翠の君様の御子のひとりを竜王として教育するように、申し伝えて来たのである。それが亜樹であった。王族の、それも華繻那と同じく正室の后の血を引く者…沙緒のこの先、お産み申し上げるかも知れない御子より余程確かな御血筋だと言わんばかりだった。 その話を聞いたときはやはりショックだった。半年以上過ぎたこの年の瀬になってもまだ、あの時の心痛は真新しく沙緒の中に残っている。 「…世継ぎを得るための、それだけの側女なんて意味もない。私は沙緒がいれば良い…そりゃ、沙緒の子の顔は見てみたい。でも今はゆっくりお休みになるしかないだろう…まずはお前が元気に戻られることが一番だ」
「穏やかな眼をした…元気はよいがお優しそうな気性の子だね」 「…そうですか」 「お前は…何も気にすることはないのだよ。私にはただ、沙緒がいればいいのだから…」 「…あの…華繻那様。これを見ていただけます…?」 「まあ、…相変わらずの…まさか今日も御自分の着物と一緒に刺し込んだんじゃないだろうね…?」 「…でも…これは? 匂い袋には大きいが…お前の召し物には小さいな…何に仕立てるつもりなんだい?」 「お袖にするつもりなんです…」 「…え…? 袖って…これじゃまるで…赤子の。…まさか…?」 「薬師も、占者も…みなさん、今回はとてもいいお顔をなさっていますの。あと、3月ほどでお目にかかれると思いますわ…姫君だろうと東の祠で言われたので」 華繻那は未だ信じられないと言った様に沙緒の下腹の辺りを見た。着物の下に隠れているせいかそれ程目立った様子も見受けられない。 「…この前の御子の時はずっと具合も良くなくて…何度も流れそうになって…どうにか保たせた感じでしたでしょう? でも今回は…とてもお元気ですのよ」 それから両手を胸のところで合わせるとぴょこんと頭を下げた。 「…なかなか申し上げられなくて…申し訳ありませんでした。…また、がっかりさせちゃうといけないと思って…ギリギリまで内密にしていたんです」 「沙緒…!!」 「…ありがとう…」 我が君の天真花の香が辺りに立ちこめている。もうそれだけで沙緒は十分だった。 何時しか日はすっかり消え、窓の外には月の光が満ちていた。 沙緒はそっと目を閉じると、昔見ていたまあるい月を心の中で描いた。 「大丈夫、きっと、御丈夫な御子がお生まれになりますでしょう…」 そう囁いたのは…もちろん、華繻那に対してでもあったが…今ひとり、誰よりもこの喜びを告げたい人がいることを沙緒は分かっている。それは叶わぬ事であるとも知っていた。
その人は…今、丸い月を眺めているだろうか…氷のように冷え切った月を。
手を繋ぎ家路を急いだ幼い日に優しい歌声で聞かせてくれた子守唄を心の中で何度も反芻していた。 |
Fin
(2001,7,15) |