…沙緒の章番外編・「氷月夜」…

   

「痛っ……」
 室内に小さな叫び声が響いた。

「……また、でございますか? お方様」
 対応する声は平然としたもの。もう慣れっこと言った感じだ。

「沙緒(さお)様、今少し……お手元にご注意なさった方が宜しいのでは? お心がどこかに飛んでいらっしゃるのではないですか?」

「多尾(たお)さん、相変わらずではありますけど……きついひとことですね」
 針を刺した後が痛む左の人差し指を軽く口に含んで、沙緒は小さく溜息を付いた。

 室内は高い天井に装飾を施された柱。天井には美しい花園に愛らしい鳥たちが飛び交う姿が描き出されていた。
 大きく開かれた窓から外を見やれば、そこは竜王の宮殿の中でもひときわ美しいとされている庭園である。「春」をテーマにしつらえられているため…新年を指折り数える今日では常緑の低木達がひっそりと佇むのみである。そうではあっても木々の配置から遣り水、細道に時々かかる朱の塗り橋などなど…揺らめく大気の中、美しいことに変わりはなかった。

「まあ、お方様はお針仕事がお得意でないのは皆が存じていることで、今更とやかく言うことではありませんわ」
 そう言うと多尾は自分の針の手を止めて、我が主人に微笑みかけた。
 言葉とは裏腹に好意的な笑みを浮かべている。

「…そうでは…ありますね」
 沙緒も観念したように同意した。

 2人の手にはそれぞれ異なる絹がある。

 多尾の方は膝から足首に流れるほどの大振りのもので、両手を広げたくらいの大輪の花が刺繍されていた。それは深い緑の地に金色に輝き、もうすぐ一輪が晴れやかに花開く所であった。
 沙緒の方は紅色の風呂敷ほどの布地で見た目より軽い織り地だ。小さな桜の5枚の花びらが5つほど並んでいた。ひとつの花は5センチ四方ぐらいの大きさで薄い下書きに添って糸を刺しているにも関わらず、糸の引きも一定でないため所々が浮き上がった花びらになってしまっている。

 丁度、小学生が家庭科の時間に初めて縫った雑巾の針目のようだと沙緒は我ながら哀しくなった。

 目の詰まった織り地に刺していくのは神経を使う。レザー手芸をやるのに近い気もする。革製品は一度針目が付いてしまうと布のように安易にほどくことが出来ない。なぜなら一度通してしまった針の穴はふさがらず残ってしまうからだ。

 今やっている刺繍は「文化刺繍」と呼ばれるものに近い。

 文化刺繍とは「糸で布に絵画を描いていく手法」で木枠にはめてピンと張った布地に特殊な針で上から糸を刺し込んでいく。西洋刺繍の様にいくつかの異なる刺し方で構成されていると言うよりは直線の長短を巧みに使っていく。大輪の牡丹や羽を広げた孔雀の見事な刺繍を子供の頃、見たことを今更ながら沙緒は思い出していた。

 あれは…お母さんに連れられていった文化展覧会だったかしら?

 遠い記憶を辿るように沙緒は小首を傾げた。

 もちろん、沙緒自身は文化刺繍などやったことはないし…第一、家庭科の宿題ですら母親の手を借りていたような不器用ぶりである。つましい世の中で洋服は手作りかオーダーメイドがほとんどだったから、子供の頃から母親の手作りの服を着ることは当然だった。そして早い少女は小学校の高学年頃からスカートなど簡単のものを手始めに自分で服作りを始めていた。沙緒だってやる気がなかった訳ではない。しかし人間には得手不得手があるのだと痛感させられるような出来映えにあきらめの境地になりつつあったのだ。

 …本当、自分が母親になったらどうしようかと思っていたのよね…

 改めて自分の刺した桜の不格好さに情けなく笑いが込み上げてきた。

 

 

 沙緒がこの地…海の、陸の人間が「深海」と呼ぶ水底に広がる「海底国」の住人になってから早いもので二年近くの歳月が流れていた。正確には沙緒は現在、海底国の王たる「竜王・華繻那(カシュナ)」の后、と呼ばれる身分になっている。それは自分でも思いも寄らない事態であった。

 未だにこの地の人間の誰にも言えぬ理由から沙緒が産まれ育った地の岸壁からその身を投げたのは、春まだ浅き頃であった。
 まさかこのような地があるとも思わず…命を絶つことを覚悟してのことであった。

 それが、目が覚めたところ…見たことのない建物の中に横たわっていた。寝台から身を起こしてみればそこは海底の王国で、ねっとりと身体にまとわりつく不思議な大気に満たされていた。それが「海水」であり、この地の者は異形の形をしたエラのように大きく広がり裂けた耳を使って魚のようにエラ呼吸を行っているのだと知った。沙緒は…人間そのものであり、当初は「竜王」の神秘的な力のひとつを使ってその身の周りに結界を張って貰っていた。それは「身体が元に戻って、陸に戻るまで」の暫定的な措置であった。竜王である華繻那もそう考えていたようだ。

 どういう巡り合わせか、いつの間にか沙緒はこの地の最高の地位にある「竜王」に想いを寄せていた。まさか向こうが同じような気持ちでいるとは到底考えられなかったが…気が付くと「后」と言う立場に置かれているのだから今でも不思議な気分がする。
 
 こう言ってしまえばひとことで事足りるが…実際は簡単にはいかなかった。

 

「上様は…本日、お戻りになるんでしたよね?」
 多尾に話しかけられて、沙緒はハッと正気に戻った。

「ええ…そうでしたね…」

「お昼の御膳を召し上がってからの御出発と言うことでしたから…いつ頃、お着きになられるでしょうね」

「…そうね…」

 受け答えをしたものの、沙緒には全く見当が付かない。竜王である自分の夫が出掛けた「西南の集落」へは一度も足を運んだことはなく…話を聞いている限りでは正しい土地勘が掴みかねていたのだ。

 

 今回の華繻那の行幸は公私を兼ねてのものだった。

 西南の集落は王族と関わりの深い土地だ。歴代の竜王の元に后、側女(側室の様なもの…この地では正妻の他に数人の側女を持つことがある程度の身分のある人間にとって当然のことであった。最高権力者たる竜王にはいつの世もたくさんの側女が置かれていた)として送られる者はこの地の者が多かったし、王族からこの集落に嫁ぐ者も多かった。

 現竜王の華繻那の姉のうち、数名がここに嫁いでいた。特に長姉である「翠の君」は大臣家に正妻として嫁いでおり、多くの子を成していた。
 その姉の長子が大臣家の正式の跡取りとして決まり、お披露目の宴にあった。
 通常ならそう言う席には竜王と后はお二人とも招待される慣例になっている…しかし、西南の集落の大臣家は当然のように沙緒のことを無視してきた。

「腹立たしいことでございますわね…」
 沙緒に好意的なお付きの者達は立腹した様子だったが、沙緒自身はむしろホッとした面もちだった。

 竜王である華繻那の方も姉夫婦のあからさまな悪意には閉口した様子であったが、無理に沙緒を連れて行こうとはしなかった。そこに同席した場合の沙緒の身の置き場のない心痛を華繻那自身がよく分かっていたのだ。

 

 沙緒が華繻那と出逢ったとき、華繻那は半月後に婚礼を控えていた。西南の集落の前大臣(今の大臣の父君)の息女で2人の婚儀は華繻那が生まれ落ちた瞬間に決まっていたものであった。
 前竜王の父君の老齢になってようやく恵まれた世継ぎである華繻那である。もちろん、10人以上の側女を常時、抱えられていたという精力的な王はそれまでも男君に恵まれてはいた。しかし幼くして亡くなる者が多く、3人目の正后の子にして元服を迎えられた華繻那は母君の御身分も申し分なく、また政治的手腕は歴代の竜王の中でも抜きんでていた。父竜王が老齢であったこともあり、元服から間もなく亡くなり…その後の数年は竜王としての多忙な任務をこなすのにやっとの毎日であった。二十歳過ぎになってようやく后を迎える、と言った事になった理由である。通常は元服(13歳前後)と同時か少しして、后を迎えるのが普通であった。
 西南の集落の者にとっては待ちに待った婚礼である。后として輿入れした大臣の息女がお世継ぎをお産み申し上げれば、さらに集落と王家の繋がりは強固になる。

 そこに、沙緒の登場である。

 事もあろうに華繻那は沙緒を自分の后、正室として迎えるのみならず…側女はひとりも取らないと言い切ったのだ。今まで大臣や宮殿の侍女長(ともに西南の集落の出身)の申し上げることには首を横に振ったことのないほど従順だった華繻那の突然の豹変に西南の集落のみならず、海底国じゅうが震撼した。

 当の本人の華繻那は落ち着いたものだったが沙緒の方は気が気ではない。
 もちろん、沙緒が産まれ育った地は一夫一妻制でそう言う意味では当然のことと思えたが…でも沙緒の知っている限り、ある程度の権力者が妾を抱えることはそれ程珍しいことでもなく「男の甲斐性」とやら誉め称えられているほどだった。ましてや「海底国」と呼ばれるこの地は妻ひとりしか養えないのは卑しい身分の象徴とさえ言われていた。

 華繻那が自分一人に想いのたけを注いでくれることは嬉しいと正直に感謝した。
 しかし、事の重大さに眠れないほどの心痛を抱えていたことも事実だ。

 

「…私は側女のひとりでもいっこうに構いません、何でしたら侍女のひとりに加えて頂いても結構なんです…華繻那様のお側にいられるだけで、本当に光栄なんですから」

 事実上、華繻那に東所の竜王の寝所に迎え入れられて間もなく、自分を正后とすると言う我が王にためらいがちにそう言っていた。

「…沙緒…?」
 華繻那は開いていた書物から顔を上げて、沙緒の方に向き直った。緩やかに漆黒の美しい髪が肩から流れた。闇色の双の瞳が驚きを伴って小さく震えていた。

「お前は私の后として、この地に生きてくれると約束してくれたんじゃ…なかったのか?」
 その言葉は鋭く沙緒の心に突き刺さった。

「…それは…それは、もちろん、申し上げましたが…でも…」

 言葉が続かない。震える両の手で自分の纏った重ねの襟元を握りしめて俯いた。
 その召し物ひとつにしても、この宮殿の女子の誰よりも高貴のものを身につけていると言うことを沙緒はもう分かっていた。誰が何と言おうが誰が反対の意を唱えようが…華繻那が、竜王が決定したことは天の声として海底国じゅうに轟くのである。正式なお披露目が未だなくとも、沙緒が華繻那の后であることは変わりなかった。

「また…誰か…お前に何か言ってきたのか…?」
 華繻那の問いに沙緒は答えなかった。

 事実、今日も夏の装束の色合わせに参上した侍女長が自分を一瞥して、
「卑しい御身分の方は、お気に召すものも安っぽくていらっしゃいますのね…そんなことで上様のお世話がお務まりになるとも思えませんわね。全く…どんな手を使って竜王さまをたらし込んだのか…」
と、部屋中に響き渡る声で高々に言い捨て、またそれを含み笑いとともに無言で同意する他の侍女達の中に沙緒はひとりで置かれた。

 沙緒のお付きの侍女として、華繻那と華繻那の一の侍従である多岐(タキ)が選び出してくれたのは、沙緒がこの地に落ちてからずっと好意的に接してくれていた多尾であった。多尾はその名の通り、多岐の家の者…彼の末の妹に当たり、歳の割にしっかりしていた。
 華繻那や多岐、そして多尾が側にいてくれるときはそれでも侍女長も他の侍女や女房達も大人しくしていた。でも今日のように一寸ひとりになったときなどは容赦なかった。

 思い出しただけで涙は溢れそうになる…でも泣くものかと沙緒は唇をきつく噛んだ。

「何故…そのように辛そうにしているのだ…?」
 沙緒が深刻な態度を崩さずにいるのを感じ取って、華繻那は書物を閉じると立ち上がった。

「お前は…私の側にいるのが、辛いのか…?」

 沙緒は思いがけない言葉に驚いて顔を上げた。目線の先に愛しい王の顔があった。

 一瞬の沈黙の後、沙緒は大きく頭を振った。頭が左右に振られたため、ねっとりした空間の中を沙緒の美しい茶色がかった長い髪がゆっくり流れてその姿を覆っていく。
 その豊かな髪をかき分けて、華繻那は沙緒の頬を両手で包んだ。沙緒の髪はまるで華繻那に従ったようにゆっくりと元のように背に流れた。

「上様は…ずるい…」
 頬から華繻那の体温が優しく伝わってくるのを感じながら、沙緒はようやく絞り出すようにそう言った。

「そうやって…お優しいお言葉で…私の心を溶かしてしまうんだわ…」

「…沙緒…」

 華繻那がどんなにか動揺して、自分を慰めてくれようとしているのか…沙緒には分かっていた。頬に当てられた手が震えている。何と言ったら、沙緒が心安らぐのか思案している様であった。

 華繻那は沙緒の顔を覗き込んだ。

「…側女を迎えたところで…到底、彼らが…大臣や侍女長が望むようには出来ないと思う。側女として上がりながら寵を得られない事が一番の不幸じゃないかな…」

「華繻那様…」

「私は…もう…お前しか…愛せない」

 その言葉を聞いた途端、溢れ出た涙も拭えないまま…沙緒は華繻那の胸に倒れ込んでいた。何と言ったらいいのか分からない。

 そっと背中に腕を回されるのを感じる。

「お前は…どうか…心安らかに…笑っていておくれ。その為だったら…私は何でも厭わない」
 温もりの中、沙緒は小さく頷いた。

 

 そういったやりとりはこの2年足らずの間に何度となく繰り返された。

 周囲の猛烈な反対を押し切った形で沙緒が竜王のただひとりの后としてその座に着いたのであるが…次はなかなか御子に恵まれなかった。全くその兆候がなかったわけではない。2度、受胎した。一人目は2月足らずで流れてしまったが、2人目の御子は早産の末…事切れてしまう。

 華繻那は落胆しつつも沙緒を思いやってくれたが…猛然と元気になったのは西南の面々である。

「こうなったら、何があっても側女を」
「大体、卑しい身分の者が竜王さまの御子をお産み申し上げることは叶わぬとの、何よりの証拠です」

 彼らは華繻那に食ってかかった。

「何時までものうのうと居座って! 役立たずが!」
 沙緒への罵倒も際だっていった。

 そんな中での今回の行幸である。沙緒が招待されなかったのは幸いであるが、その席でどんな話が出たかと思うと沙緒はまた気が重くなった。

「お方様」
 我が主人の心痛を気遣って、多尾が静かに話しかけた。

「大丈夫でございますよ…いくら、あいつらが何か言ってきても…上様は御心からお方様を愛おしく思われていらっしゃるんですから。それに我が兄も付いております。鬼に金棒でございますわよ…」
 そう言ってにっこりと勝ち気な笑みを浮かべる。
 褐色に近い肌と赤がかった髪が特徴的な西南の集落の人間に対して、多尾たちの「北の集落」の人間はしなやかな顔立ちの色白で髪が漆黒に近い者が多かった。

 包まれるような笑顔に支えられて、沙緒も少し笑顔が戻ってきた。

「そう、沙緒様が健やかにいらっしゃることが、上様の一番のお喜びなんですよ」

「…多尾さんたちには本当にお世話になってばかりね…」

「いえいえ」
 太めに編まれたリリアンのような刺繍糸をパチンと切ると多尾はきっぱりと言った。

「私たち侍従にとって一番は上様がお幸せにいらっしゃることです。沙緒様はその為になくてはならないお方ですから」

 目の前に大輪の花が咲いた。

 

「上様が…お戻りになられました。ただ今、こちらにいらっしゃいます…」

 拍子木の音と共に高らかな侍女の声が響いた。

「あらあら、お噂すれば…そちらはお仕舞いになった方が宜しいですね…」
 多尾は沙緒の手から先の紅色の布地をさっと受け取った。

「ああ、7日ぶりか…早くお顔を見せておくれ…」
 足早に竜王が入ってきた。背丈に余るほどの漆黒の髪を惜しげもなくなびかせて、日本人形のような整った顔立ちの王は優しく笑みを浮かべている。この2年足らずの間…沙緒と出逢ってからの竜王は人らしい、活き活きした感情を取り戻したようだと言われていた。

 迎え立つ沙緒はここに来てから伸ばした髪が床まで届き…美しく波打っていた。明るい茶色の河のような輝きは光の加減によっては金にも見えた。色は透けるように白く、ほとんどおしろいもいらぬほどのきめの細かさだ。その瞳には包み込むような春の暖かさをたたえている。

「お帰りなさいませ…」
 沙緒は我が王に跪いてそう言った。その声は出逢った頃と少しも変わらずに澄んでいて一点の曇りもないと華繻那は思っていた。

「ほらほら…顔を上げて」
 促されてそっと顔を上げると、そこには久々に見る愛おしい御顔があった。変わらない優しい微笑みをたたえている。

「ああ、早くお会いしたかった。こんな事なら、反対を押し切ってでもご一緒するべきだったと後悔したよ」

「上様ってば…」
 愛おしげに抱きすくめられた腕の中で沙緒は小さく笑い声を立てた。
 本当に…たった7日なのに…何年も会っていなかった錯覚を覚える。沙緒は身じろぎして少し腕をゆるめるとそっと華繻那の顔を見上げた。

「私も…寂しゅうございました…」
 そう言ってにっこりと日溜まりのように微笑んだ。

「はいはいはい…」
 ひとり、その存在を忘れられている多尾が大袈裟に咳払いした。

「それじゃ、私は夕餉のお膳の準備をして参ります…どうぞごゆっくり!」

 その後、一直線に扉まで歩いていって、くるりと振り返る。

「沙緒様」
 そう言って意味深に笑う。
「しっかり、なさってくださいね…」

 

「…何のことなんだい…?」
 多尾の姿が消えてから華繻那は不思議そうに沙緒を覗き見た。その視線からするりと逃れた沙緒は主人の席を整えながら、さりげなく言った。

「…亜樹さまは…お健やかでいらっしゃいましたか?」
 ゆっくりと噛み砕くような話し方だった。

「ああ、袴着を迎える前の子供とは何とも可愛らしいものだね…駆け回る姿も微笑ましいよ」
 華繻那は言葉を選んで、沙緒の反応を確認しながら、言った。

「…それは、宜しゅうございました。何時こちらに? …私も早くお会いしたいですわ…」
 
 背を向けて辺りを整えていた沙緒は不意に後ろから抱きしめられていた。

「華繻那…さま…?」

「…すまない。お前を辛い目に合わせてしまったね…」
 そう言っている竜王の声の方がよっぽど辛そうだった。

「そんなこと…お気になさらないで」
 沙緒はあくまでも穏やかに答えた。

 臨月に程近い御子を死産してしまった昨春の声を聞いた頃…西南の者達の間では今ひとつの思案がなされていた。再三に渡る側女の話をかたくなに断る竜王に対して…それなら、と華繻那の姉、翠の君様の御子のひとりを竜王として教育するように、申し伝えて来たのである。それが亜樹であった。王族の、それも華繻那と同じく正室の后の血を引く者…沙緒のこの先、お産み申し上げるかも知れない御子より余程確かな御血筋だと言わんばかりだった。

 その話を聞いたときはやはりショックだった。半年以上過ぎたこの年の瀬になってもまだ、あの時の心痛は真新しく沙緒の中に残っている。
 そして、驚いたことに華繻那はその申し出を承諾したのだ。

「…世継ぎを得るための、それだけの側女なんて意味もない。私は沙緒がいれば良い…そりゃ、沙緒の子の顔は見てみたい。でも今はゆっくりお休みになるしかないだろう…まずはお前が元気に戻られることが一番だ」
 そう言って優しく肩を抱かれたとき…静かに頷くしかなかった。

 

「穏やかな眼をした…元気はよいがお優しそうな気性の子だね」

「…そうですか」
 沙緒は自然に笑みがこぼれるのを悟られないように静かに言った。

「お前は…何も気にすることはないのだよ。私にはただ、沙緒がいればいいのだから…」
 その言葉と共に抱きしめる腕に力がこもる。丁度、胸の下の辺りに腕が回っていた。その腕の下の辺りにそっと視線を移してから…沙緒は腕を解いてくるりと向き直った。

「…あの…華繻那様。これを見ていただけます…?」
 そう言って差し出されたのは…先の紅色の小布だった。装束の刺し模様は通常、着物の部位ごとに裁ってから刺される。ものによっては形作られてから様子を見ながら仕上げを施すこともある。先ほど、多尾が刺していた方は華繻那の上重ねの背の部分だった。

「まあ、…相変わらずの…まさか今日も御自分の着物と一緒に刺し込んだんじゃないだろうね…?」
 沙緒が良く刺しものをしながら、自分の着物を一緒に縫い込んでしまうことを華繻那は知っていた。竜王の后として、主人の身につけるものを整えるのが重要な仕事ではあったが…華繻那は沙緒の不器用さをなじることはなかった。

「…でも…これは? 匂い袋には大きいが…お前の召し物には小さいな…何に仕立てるつもりなんだい?」

「お袖にするつもりなんです…」
 なぞなぞの答えを必死で考えているような表情がおかしくて、沙緒はくすくす笑いながら答えた。

「…え…? 袖って…これじゃまるで…赤子の。…まさか…?」
 信じられない、と言う表情で華繻那はうろたえていた。

「薬師も、占者も…みなさん、今回はとてもいいお顔をなさっていますの。あと、3月ほどでお目にかかれると思いますわ…姫君だろうと東の祠で言われたので」

 華繻那は未だ信じられないと言った様に沙緒の下腹の辺りを見た。着物の下に隠れているせいかそれ程目立った様子も見受けられない。

「…この前の御子の時はずっと具合も良くなくて…何度も流れそうになって…どうにか保たせた感じでしたでしょう? でも今回は…とてもお元気ですのよ」

 それから両手を胸のところで合わせるとぴょこんと頭を下げた。

「…なかなか申し上げられなくて…申し訳ありませんでした。…また、がっかりさせちゃうといけないと思って…ギリギリまで内密にしていたんです」

「沙緒…!!」
 ようやく事態が飲み込めてきた華繻那は今までになく愛おしそうに、でも壊れ物でも抱くように沙緒の背に腕を回した。

「…ありがとう…」

 我が君の天真花の香が辺りに立ちこめている。もうそれだけで沙緒は十分だった。

 何時しか日はすっかり消え、窓の外には月の光が満ちていた。
 師走の月は冷え冷えとしている…しかし水底では、見上げても月は水面の遙か彼方にあり、その姿は実際には捉えることは叶わない。

 沙緒はそっと目を閉じると、昔見ていたまあるい月を心の中で描いた。

「大丈夫、きっと、御丈夫な御子がお生まれになりますでしょう…」

 そう囁いたのは…もちろん、華繻那に対してでもあったが…今ひとり、誰よりもこの喜びを告げたい人がいることを沙緒は分かっている。それは叶わぬ事であるとも知っていた。

 

 その人は…今、丸い月を眺めているだろうか…氷のように冷え切った月を。

 

 手を繋ぎ家路を急いだ幼い日に優しい歌声で聞かせてくれた子守唄を心の中で何度も反芻していた。

Fin     
(2001,7,15)
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