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今夜は幾分、上の方が荒れているらしい。竜王庭園に揺らめき立つ金色の光の帯が見えない糸で操られているかのようになめらかに動いている。満月に程近いのであろう遥か遠いこの輝きの源をここから見ることは叶わない。 …海の奥底に静かに隠れる海底国。 そこは水底でありながら、この地を司る歴代の「竜王」の不思議な力により住人達が「陸」と余り変わらぬ生活を営むことが出来る。また、この者の「妖しの力」はこの異世界を他の人種の目には映らないように惑わすことが出来た。だからこそ、何人の介入に乱れることなくひっそりと長い時を刻むことが出来たのだ。異界の者がこの地にやってくるのは何らかの理由で水底近く沈んでしまったときのみ…それでも竜王の結界を破ることは稀であったし、ここに着くまでにはそのほとんどが事切れていた。 それに…「陸」―地上の人間にはこの地で生きることは出来ない。 ゆっくりとこの地を流れていく水流…水の中であるから音はくぐもり、歩くたびに髪や着物が後に引かれる気がする。初めはそれになかなか慣れることが出来なかった。大きく広がった「エラの耳」にも悪いと思いつつもついつい目がいってしまう。 ここは、夢か幻か…自分は覚めることもない夢の中に浮遊しているのではないだろうか… いつかは覚めるかも知れないこの甘い夢の中で、気付くと4回目の秋は訪れていた。 「…沙緒(さお)…?」 すっかり耳に馴染んだ声が部屋に響く。バリトン…と言うのだろうか。低くて…それでも冴え冴えと響き渡る美しい澄んだ声。 その声が耳に届いたとき、沙緒は自分がまだ「夢」の住人であることに気付いた。 前頭部に鈍い痛みを覚えて、それからゆっくりと瞼を開ける。 「…お帰りなさいませ…申し訳ありません、お出迎えが出来なくて…」 痛みをこらえながら、身体を起こす。大分楽にはなったが、まだ幾らかの痛みが残っている。頭を揺らすと締め付けられるような激痛に見舞われた。 乱れた髪を整えながらようやく寝台に上体を起こしたとき、みやぎの萩に似た溢れんばかりの柳枝の花を背に立っている人を瞳に捉えることが出来た。 「…無理をしなくていい、横になっていなさい」 手にしていた灯り取りの燭台を脇のテーブルに置くと、男は静かに言った。 「男」…とは言っても、彼は漆黒のしなやかに流れる髪をその長身の身丈に余るほどに伸ばし、銀色に光る着物の上から濃紺の重ねを掛けていた。その重ねには細かい刺し文様が施されている。金銀に散らされた運河が夜空に流れているようだ。 彼はその人形のように整った美しい顔を心持ち歪ませて、心痛の面もちになった。 揺れる闇色の瞳がどんなに自分のことを心配してくれているのかを沙緒は知っていた。 …それが…自分にとってこの上ない愛おしい感情なのだと言うことも。 「…大丈夫ですわ、華繻那(カシュナ)様…大分、楽になりましたので…」 そう答えて、精一杯の微笑みを作る。 「東の祠の薬が効いてきたのかな…?」 男は少し安堵の色を浮かべ、椅子を寝台のすぐ近くまで引いてきて、そこに腰を下ろした。ふわりと広がっていく香りが彼の存在を確実なものにする。 「上様が取りに行って下さったのでしょう? …申し訳ございませんでした、使いの者をやってくださったら宜しかったのに…」 海底国の…竜王、華繻那。 「そんな…私が好きでやったこと、そんなに恐縮される事でもない。…それに」 「それに…?」 華繻那が不意にいたずらっぽい表情を浮かべるので、沙緒は不思議そうに聞き返した。 「お前の身体のことを誰より存じておるのは…私であろう…?」 その美しい表情を崩さずに、彼は口元で微笑んだ。 「は…?」 「もう! …華繻那様は…お戯れを…」 耳まで熱くなったことに気付いた沙緒は寝台に身を起こした姿勢のまま、華繻那にくるりと背を向けた。 「何? …私は誠のことを申しただけであろう?」 背中越しにくすくすと可笑しそうに笑う声が聞こえてくる。 初めて出逢ったときはこんな雰囲気の王ではなかった。 お変わりになられたものだ、と思う。 俯くと自分の身につけている寝着とその上に掛けた上掛けが目に入る。先に見た竜王の着物に勝るとも劣らず、美しい刺し模様を施した着物はそのまま、自分の身分を語っている。 海底国の長たる…竜王・華繻那の…后。 これこそがこの地とこの時を「夢」の様に思わせる最たる要因だ。 よそ者である自分の事を良く思わない者達が多数を占める廷内にあって、気苦労も多いが…それでも自分は…。 「…具合は…良くなったのであろう?」 「ええ、それはもう…」 3日前、またいつもの熱が出た。 これは東の祠の占いおばばが煎じた薬草でないと治すことが出来ない。 「陸」にいたころはこんなに身体が弱くなかった。やはり海底の地が自分に合わないのだと言うことはもう分かっている。 今残っている頭痛は熱の後遺症だ。身体の節々も動かすとズキズキと痛む。 …明日には寝台から離れられるだろう。 「ならば…」 ギシ、と寝台がきしむ。 「今夜はこちらで休もうかな?」 身体ごと。 ふわりと包まれる。 天真花香の主の暖かさが背中に広がった。 「…え、…華繻那様…ちょっと…!!」 「ここ、狭いんですから…2人は無理ですっ、どちらかが床に落ちてしまいます」 熱は下がったはずなのに、身体が熱を帯びてくる。 「ならば、落ちぬよう、このように私の腕におればよいだろう…?」 くすくす…と押し殺したように笑い声が耳元に届く。 「上様…!?」 からかわれているのだ、と言うことは分かる。 「私、まだ病体なのですよ。うつったらどうするんです? 御公務に差し支えます!」 いつもの病ではあるけれど…もしも華繻那の身体にさわりがあったら大変だと言うことで、沙緒は寝所を移されていた。竜王の寝所から3部屋ほど奥に行った少し狭い部屋だ。 美しく彫刻の施された窓枠の向こうには綺麗に造られた竜王の庭園が広がる。 愛らしいピンクの小花を柳枝に一杯に付けた低木は沙緒の大好きな花だった。 「誰かにうつせば…病は治るのであろう? だったら私にうつしなさい、沙緒の病なら…喜んで頂くかな?」 「華繻那様ぁ〜」 そんな滅茶苦茶な、と恥ずかしいやら、可笑しいやらで色々な気持ちが頭の中をグルグル駆けめぐった。 「もう、今夜は御自分のお部屋に戻られて下さい…!」 沙緒がそう言ったとき。 その言葉が促したように、自分の身体を包んでいた腕ににわかに力が加わった。 「…え…? 華繻那…さ…ま…?」 答えはない。 耳元に吐息だけが届いてくる。 胸の前できつく巻き付いた腕が微かに震えていた。 「…あの…」 さっきまでの戯れの色が瞬時に消えた。 …どうして…? さらさらと気の流れる音がする。 寝の刻を伝える拍子木の音が響いていた。 自分が眠っている間に、時は夕刻から夜半に移っていたらしい。 「沙羅(さら)は…どうしていました?」 一息、付いて。 自分の体調が崩れてから、顔を見ていない愛娘のことをふと訊ねた。 1歳半になる娘は可愛い盛りで、見ていると飽きない愛らしさだ。3日も姿を見ることが出来ないのは寂しかった。 「…ああ、」 「さっきまで寝ぐずっていたが…多香(たか)が寝かしつけてくれたよ」 「…そうですか…可哀想なことを致しました…」 この地の王の御子であるから、乳母に世話をさせるのは当然の事であった。 いつもは余り意見しない沙緒が珍しく言葉を返したので、華繻那は驚きの表情を見せた。彼自身が乳母の手で育てられていたので、沙緒の言い分がよく分からなかったらしい。 最終的に乳母は選出された。華繻那の一の侍従と称される「多岐(タキ)」の娘の一人で、気だての良い女性だった。その女…多香は沙緒の気持ちを充分に汲んでくれ、良い子育ての相談役としていつも沙緒の側にいてくれる。沙緒の母親としての立場を充分に守りながら、こうして体調が悪くなったときは一切の面倒を見てくれた。 沙羅は沙緒にも多香にも同じようになついていたが、虫の居所が悪くひどくぐずった時はやはり沙緒の出番だった。まだ産まれたばかりの赤子の頃から、本能として母の存在を知るかのように。 泣きわめいて言葉にならない片言のぐずぐずを言いながら、沙緒の腕に抱きついてくる。この胸にしっかりと抱きしめると、小さな心許ない身体が子供特有の甘い匂いを放ちながら、すうっとくっついてくる。母の胸に顔をうずめて存在を確認すると、今までのぐずりが嘘のように治まるのだ。 しっとりとした重みを思い出すと、その分だけ心が重くなった。
「…東の祠で…おばばに話を聞いてきた」 「おばばさまに…? 何と…」 耳元に届く言葉がいつになく震えている。言おうか、言うまいか…思案しているように。 「お前が…やはり、いつもこんな風に病に苦しんでいるのは忍びない。先人の言葉では『陸』の人間もこの地の者と夫婦になり添い遂げれば、海底人と同じように生活できると聞いていた…だが…」 そうなのだ。 沙緒がこの地に辿り着いた3年半前…それはまだ水の冷たい春の始まりであった。結界を破り、竜王宮殿の庭の隅に倒れていた沙緒を最初に見付けたのが他ならぬ華繻那である。 この地に着いた「陸」の人間はすぐに元いた場所に帰される事になっていた。当然、沙緒もそうなるはずだった。 …でも。 沙緒は二度と、戻りたくはなかった。 入水したのには訳がある。その理由を口にすることはないが、一度は死を覚悟したのだ。どうしてそんな場所に戻れるであろう…そう。 最初は。 そうであった。 「陸」に戻りたくなかったのだ…しかし。 その感情が、全く別のものにすり替わってゆくのに時間はかからなかった。 「…私は…自分の感情を押しとどめることがどうしても出来なかった。お前を手元に置いておきたかった…だから…」 「…それは、私とて…同じ事ですわ」 かすれてゆく愛しい人の声に自分の言葉を重ねる。目眩がするほどの幸福感が宿る。 「…沙緒…」 彼女の言葉に反応したように尚も強く抱きしめられる。 「お前は…やはりこの地には身体が合わないらしい…おばばの薬をもってこそ、ここまで長らえているが…こんな事を繰り返していてはいつかお前の身体が参ってしまうだろう」 一端、言葉が途切れる。華繻那は静かに息を吸った。 「お前の身体のためには…やはり今からでも…『陸』に戻した方が良いと…おばばが、」 そこで。 彼の言葉が止まった。 次に何と言われるかと耳をすませて身を固くしていたが、聞こえてくるのは先ほどまでと同じ気の流れの音のみ。 それでも沙緒は自分の心が少しも乱れていないことを知っていた。信じられないほどの静かな鼓動…華繻那の言葉をしっかりと受け止めていながら、少しばかりの動揺もなかった。 「…上様…私は、戻りませんわ」 迷いは微塵もなかった。 「沙緒…」 この言葉は予期していたであろう、しかし華繻那の声は力無い。 「沙羅が…おります、どうして私だけ異の地へ行けるでしょう…?」 「…そうだな」 深い溜息と共にかすれた言葉が漏れる。 沙羅は淡い肌や髪の色、容姿そのものは沙緒に似ていた。しかし…彼女は華繻那や他の海底の住人と同じく大きなエラ耳を持っていた。沙緒が陸へ帰されるとしても連れて行くことは叶わない。 「私は…子供という足枷で…お前をここに縛り付けてしまったのだな…」 諦めたような華繻那の声が静かに流れ込んでくる。緩くなった腕をそっと外して、沙緒は彼の方に向き直った。 一瞬、沈んだ瞳が視線を過ぎる。でもすぐに白地に浮き立つ文様が光る寝着に視界が移った。 沙緒は華繻那の胸に額を強く押し当てた。張りのある濃紺の重ねを包み込むように細い腕を回す。自分に今ある力の限りを出して、強く我が王を抱きしめた。 「そうでは…ありません…」 頭の痛みはいつの間にかなくなっている。 「沙羅が愛おしいのはあなた様の御子だからです。もしもあの子が陸の人の姿をしていても…私はあのこと二人でこの地を去るなど考えも出来ません…」 「沙緒…」 大きな手のひらがためらいがちに背中に回される。 「華繻那様…私は一度、死んだ人間です、もう生きるところはこの地しかないと承知しております…お許しがあれば…最後の瞬間まで…どうかお側に…」 そっと顔を上げる。華繻那の双の目と視線が合わせられた。 それを吹っ切るように、沙緒は自分から唇を重ねた。 「心から…お慕いしております…華繻那様だけを」 ほんのわずかに唇を浮かせて、吐息が彼の唇を震わせる程の距離で囁く。瞳はしっかりと目の前のその人に向けられていた。 今度は華繻那の方から合わせられる…。 「…本当に、それでいいのか?」 彼はその腕に沙緒をしっかりと抱きすくめ、その震える唇を彼女の頬、そして首筋に這わせた。 「時々…見る夢があるんです…」 海に飲まれる漁り夫の如く、強く華繻那にしがみついたまま、沙緒はうわごとのように囁いた。 「夢…?」 華繻那の動きが一瞬止まる。 「朝…目覚めるんです。するとそこは…自分の元いた家で…家族が私の目の前に並んでいます。皆が口々に…良かった、良かった…と」 「……」 「でも…華繻那様が、いらっしゃらないんです…何処を探しても、何処まで歩いてもあなた様のお姿だけが見つからない…それが悲しくて悲しくて…」 本当に涙が滲んでいた。この地に生きし日より、繰り返して見続ける悪夢。沙緒の腕が大きく震えていた。 「それでも私、あなた様のお姿を求めて、歩くんです…どこまでも、どこまでも…目が覚めると本当に泣いていて…でもまたここで目覚めたことに安堵するんです…」 あとから、あとから…溢れ出てくるものはそのまま沙緒の生きる証だった。 そんな姿を見つめていた華繻那は、たまらず、その愛しい人を自分の腕にしっかりと抱きしめた。 「私は、何処にも行かない…行くわけがない…心も、身体もお前の側にいる…だから、もう泣くのではない…そんなに赤子のように…」 沙緒の背を静かにさすりながら、華繻那はその耳元に静かに語りかけた。 「…はい…」 涙はまだ留まることを知らなかったが、それでも沙緒は精一杯その気持ちに応えようと微笑んだ。 静かに流れる気が二人の髪をもつれさせる程、長い間、無言のままでの抱擁が続いた。
「そろそろ、休むとしようか…」 「あ、華繻那様…? 先ほど、申し上げたでしょう? …ここ狭いんですから、御自分の寝所に戻られて下さい〜」 逃れようにも、これは1人用の寝台で…体をよじれば床に落下してしまう。固い素材で出来た床は叩き付けられたらとても痛そうだ。 「うん?」 華繻那はそんな沙緒が面白くて仕方ないように、尚もにじり寄る。 「…もう…」 沙緒は観念したように、不意に抵抗を止めた。 「こんなこと、していらっしゃると…いつまでも私の病が完治しませんよ…?」 頬を膨らませて、精一杯の不満げな表情。華繻那はそれすらも愛おしくて仕方ないように微笑む。 沙緒の… 寝着が緩み、なめらかな右肩がますます輝きを増した月明かりに照らし出させる。 華繻那の首に両の腕を静かに回すと、沙緒はゆっくりと目を閉じた。 |
Fin
(2001,9,19) |
◆ひとこと◆
リクエストにお応えして「華繻那と沙緒のラブラブモード」を全開させて頂きました…思い入れの強いキャラではありますが、沙緒はもう死んじゃうことが分かってますので…それだけに切なくて書いていて辛い気もします。あああ、何で沙緒を死んじゃう設定にしたのかなあと今更ながら後悔して(自分のキャラで何やっているんだか)。もう書くつもりはなかったのにリクを頂いて、ひねり出してしまった…あと1つ書きたい話も出来ちゃった。沙羅の章の「その後」の話になるのでいつかご覧頂けたらと思います。きっかけを下さった紫緒さんには本当に感謝してます。ありがとうございました。紫緒さんのサイトにもコメントまで付けてUPしていただきました。どうぞ足を運んでくださいね! 紫緒さんの小説は本当に柔らかくて素敵です。 【Crystal-Tiara】 ←水上紫緒さんのサイトはこちらからどうぞ!! |