…沙緒の章番外・「夢幻の森」

 

 自分の周囲を取り巻いている「気」…空気ではない異質の…。自分の手をふわりと空に揺らしてみる。すると明らかに抵抗を感じた。お風呂の湯加減を見るために湯船に手を入れた感触に似ている。

「沙緒(さお)…? 何をしている?」
 背後で不思議そうな声がした。

「…え? あ、上様…どうしたのですか? お早いですね…」
 転げるように椅子から立ち上がり、声の主の足元まで歩み出て跪く。侍女たちはこれを流れるように優雅に行うことが出来るが、いかんせん付け焼き刃の素人だ。三つ指をついて…と言うような礼儀作法も身に付けてはいなかったが、この地でのあれこれは更に仰々しい。
 草履が袴の裾を踏むこと2回、肩から掛けた重ねに引っかけること2回。薄茶色の髪は乱れ、慣れない気の中で大きな袖を後ろに取られながら、ようやく一通りの動作をこなした。

「お帰りなさいませ…」
 大きく肩で息をしながら、どうにか言葉を述べると、頭の上からくすくすと笑い声がした。

「もう良い、面を上げなさい…お前の動きは何とも…微笑ましいね」

「華繻那(カシュナ)様…」
 頭上の人が笑いを堪えながらそう言うのを聞いて、憮然とした表情で顔を上げた。深い漆黒の瞳が暖かくこちらに微笑みかけている。

「ただいま」
 華繻那は前屈みになると腕を伸ばし、すくい上げるように沙緒を引き寄せた。顔にかかる髪をかき上げている間もなく愛おしそうに頬をこすり合わせられ、唇が重なる。覆い被さられると沙緒は墨色の美しいカーテンに包まれた様になる。それは絡まることなく、気の中を自在に浮遊する。気を付けながら指の間に絡め取り、そっと握りしめる。滑らかなそれは沙緒の手の中で、きし、という微かな音を立て優しい香りを放った。

「お前がこうして腕の中にいないと、落ち着かないな…」
 長い口づけが終わっても、沙緒の身体はなかなか解放されない。ただですら動きにくく重い装束をまとった上に、自分のそれより更にしっとりと重い身なりの人間に捕らわれる。自分の力で抜け出すのは困難だった。

「…華繻那様、もう、お離しになって下さい…まだ陽が高いです。お庭にも渡りにもたくさんの人がいるのに…」
 必死で訴える。これは本当の事だった。

 昼の刻の少し手前、庭では木々の手入れを行っている侍従たちが何人もいる。竜王の寝所に面した庭は一日で歩ききれないと言う広大な庭園の中でも、ひときわあでやかな造りになっている。館の中でも数え切れないほどの侍女たちが流れるような身のこなしで、渡りをあちらへこちらへと移っている。衣を整える者、お食事の給仕をする者、身の回りのお世話をする者…華繻那などは侍従や侍女に囲まれているのは慣れっこらしく、彼らが部屋の中にいても平気で沙緒に絡みついてくる。愛されているからこそと思えば、嬉しくないわけではない。それでも、寝の刻を迎えた頃ならいざ知らず、こんな昼間からでは…。

「…良いではないか、皆にも見せつけてやろう…」

「おやめ下さい〜」
 沙緒の細い腕が華繻那の胸の辺りで必死にもがいて抵抗する。そんな姿も初々しくて愛らしい。離したくないのは山々だったが、もう一度、拗ねた口元に軽く口づけるとその腕を解いた。

「お食事、お運びして宜しいでしょうか?」
 その直後、入り口の辺りできっぱりとした声がした。見ると両手で食事のお膳を持ったままの侍女が呆れ顔をして立っていた。

 

 

「…上様、兄から話がございましたでしょう? ここは西南の集落から来る方から見えますよ。ただでさえ、あちらはご立腹なさっておいでです。些細なことでも大事になりますでしょう…」

 そう申し上げているのは、華繻那の一の侍従である多岐の末の妹である多尾。

 この侍女は沙緒がこの地に来てすぐの頃、世話をしてくれたのが縁で、そのまま沙緒と共に竜王の寝所である「東所」に移ってきた。元々は客人を宿泊させる西所の侍女の一人であり、「結界を破ってこの地に落ちてきた異形の者」である沙緒もそこで静養していた。

 そうなのだ、沙緒は本来ならこうして竜王のお側に上がることなど許される立場ではない。王族と親密な関係にある「西南の集落」よりお后のお輿入れが迫っていたというのに、その全てを白紙に戻して華繻那は沙緒を招き入れた。先の竜王であった父王の急逝に伴ない、若くして王の座に着いた華繻那は類い希に見る采配でこの地を支配し、治めていた。周囲の期待に応えるべく、取り忙しく日々の暮らしを重ねていた彼にとって、型にはまらない沙緒の存在はまぶしすぎるものだった。気が付いた時には、我が腕に抱きしめていた。しっとりとした細い身体に一度触れてしまったら、もう放せなくなる。周囲の判断も仰がぬまま、その夜から沙緒は東所の住人になった。

 元々、「異形の者」である沙緒は西所の侍女たちからも疎んじられていた。そんな女が上様のお側に上がる…それがほんの一夜の戯れであったとしても大事だった。

「沙緒を正妃とする。側女はとらない」

 この華繻那の突然の物言いには西南の集落の大臣家に留まらず、海底国じゅうの全ての者がその耳を疑い、恐れおののいた。竜王である華繻那の言葉はこの海底国において「神の声」に等しい。何人も撤回することなど出来ない。そうは言っても、話が大きすぎる。

 まずはその日のうちに西南の集落が動いた。華繻那の長姉である大臣家の正妃「翠の君(すいのきみ)」様が直々にお里帰りされてやってくる。今まで自分の言うことには全て素直に従ってきた弟の豹変に、彼女の怒りの矛先は沙緒に向いていた。

「口で言って聞かないのであれば…その者を王の御前から葬り去れば宜しいだけのこと!!」
 自分の息のかかった侍女長の前で仁王立ちになった彼女は、さすがの侍女長も震え上がるほどの恐ろしい形相で言い放ったという。

 この話は瞬時に華繻那の侍従、多岐の元に届いた。これには冷静沈着が服を着て歩いているような彼ですら取り乱さずにはいられなかった。彼にしてみても、沙緒が華繻那の元に上がることには異議なかった。我が王は優れたお人ではあったが、人間らしい感情に乏しいところがあった。それを沙緒はほぐしていったのだ。彼女のような者がお側にいるのは王の安らぎとなられるであろう…だが。まさか正妃に迎え入れようとするとは。
 それは叶わぬ事と申し上げた。沙緒との蜜月を楽しみたいなら正妃の御輿入れを先に延ばしても宜しいだろう…あちらだって竜王の正妃となるべく育てられたお方、評判はどうであれ、お上の寵妾の一人や二人は受け入れて頂けるだろう。だが、沙緒を正妃にすることは無理だ、国の皆が納得しない。出来ることではない…。

 必死に申し上げて、面を上げたとき…多岐の目に映ったのは…華繻那の頬を伝うひとすじの滴だった。

「…沙緒を正妃にすることが叶わぬのなら…妃は娶らない…」

 多岐は我が目を疑った。この王が涙を流すことは今までなかった。先王がみまかられた時ですら氷のように冷たい表情で憔悴はしていたものの、とうとう皆の前で涙を見せられることはなかった。

「承知…仕りました…」
 それだけ言うとその足で侍女長の元へと走った。侍女長は「西南の集落」出身で、翠の君様とは特に懇意にしている者だ。自分はその地とは相容れない「北の集落」の出身者。同じ竜王華繻那に仕える者とは言っても、立場が違いすぎた…しかし。彼は必死の思いで訴えた。彼の唯一の希望はこの侍女長が…元々華繻那の乳母であったと言う事実だけだ。幼少の頃から華繻那を慈しみ育てて来た者なら、彼の真の幸せを祈ってくれるのではなかろうか…そう簡単にいくことではなかったが、どうにか沙緒の命の保証だけは取り付けた。彼女のお世話をする者は「北の集落」出身者で固める。その長として自らの妹である多尾。口ではどんなに罵ってくれてもいい…お命だけは奪うような性急な行動には出ないで欲しい。…多岐はやはり華繻那の幸せを願っていた。

 

 

 あの騒動から一月が経過した。本来なら盛大な儀式があり、正妃様の御輿入れが執り行われるはずだったが、それは中止になった。全てがうやむやのまま、沙緒は正妃になってしまったのだ。
 表向きは平穏を保っているが、「西南の集落」の動きは読めない。

 兄の並々ならぬ苦労を目の当たりにしている多尾にとっては、華繻那の尋常ではない寵愛ぶりは頭痛の種であった。

「分かった、分かった…気を付けるから」
 軽く笑い声を上げた華繻那と向かい合った席で、沙緒は元々華奢な身体を更に縮こまらせて、小さくなっていた。箸は動かすものの、味なんて分からない。

 沙緒にしてみれば。想像以上の混乱にただですら馴染まぬこの地で、どうして良いのか分からなくなっていた。確かに華繻那は優しい。この地で目覚めて最初に顔を合わせたのはつい一月前の事になる。あの時の氷のように動かぬ表情からは今の彼の姿は想像できなかった。
 身に余る光栄だと思う。正妃の他に側女を10人は抱えるのがこの地の王だという。それを自分の他には女子を置かず、何の身分もない自分を華繻那に準ずる地位にある正妃に据えるという。

 …でも…。

「どうした、…今日の食事は口に合わぬか?」
 華繻那が心配そうに覗き込む。沙緒の膳が少しもはかどっていないのに気付いたらしい。

「あ、いいえ…今日は食欲がなくて…」
 慌てて微笑み返しながら、ふと考える。この所、食事を味わったことなどあったかしら? 多岐の厚意で沙緒の周りには彼女に好意的な「北の集落」の者が多くいた。しかし、竜王の館の侍従・侍女を多く持つ「北の集落」であっても…全てを占めている訳ではない。「西南の集落」を始め、他の地からの者も多くいた。
 そう言う者は遠慮のない物言いをする。沙緒がふいに一人になったところを見計らって、罵声を浴びせることなど朝飯前だ。

 華繻那に愛されているのは…本当に幸せなことだ。でも…。そう、沙緒の心には常に「でも…」と言う否定的な心が常にあった。

「顔色も優れぬが…これから、午後の刻、日程が空いたのだ…少し足を伸ばして、天寿花の林の奥に足を伸ばしてみようと思っていたのだが…」

「それは、宜しゅうございますわ…いってらっしゃいまし! 今、林の奥は花も満開…言い尽くせぬ美しさと聞いておりますわ。お方様、少しは気晴らしをなさるのが宜しいですよ」
 華繻那の言葉に多尾が反応した。

 多尾は沙緒の気落ちの原因がどこにあるか知っていた。華繻那も多少は気付いているかと思われるが、そこは生まれながらの王としての気楽さがある。この堅苦しい廷内から出ることが我が主にとって何よりの薬だと思った。

 

 

「…天寿花の林に…そんなに奥があるのですか…」
 重苦しい部屋着を多尾の手で、外を歩く軽装に改めてもらった。足取りも軽くなった沙緒は表に出た気楽さで声色までが晴れやかだった。

「秘密の場所があるのだ…私しか入れない…」
 沙緒の明るい表情を見るのは華繻那とて嬉しい。軽い装束は緩やかな流れの中で彼女の動きに合わせて揺らめく。いつもより多く外に出た白い腕がまぶしかった。

「秘密の…?」
 天が仰げないほどの薄桃の天井に覆われた木の下を歩きながら、沙緒は不思議そうに訊ねた。流れるように薄紅の花びらが舞い散る。丁度、満開を迎えた天寿花の林は咲き乱れる花と散り急ぐ花びらとが共存し、辺り一面を我が色に覆い尽くしている。

「そこに、小さな祠があるだろう…?」
 華繻那が指し示した場所には腰の高さの小さな祠があった。白い滑らかな石で作られた美しい装飾物だ。こんな雨ざらしにするのはもったいない気がする…まあ、海底はもともと水の中…雨など降らないのだが。そして祠の奥は深い谷になっている。その向こうにも天寿花の林は続いていた。

「…はい…?」
 小首を傾げると、さらりと沙緒の髪が流れる。若草色の重ねが彼女の揺らめきに合わせてふわふわと泳ぐ。

「あの奥に細い木の橋があり、向こうの岸に渡れる。だが気が薄い地でもある、私の力がなければ踏み入る事は海底の人間ですら不可能だ…でもひとつ、大切な事があるんだが…」
 そう言うとおもむろに沙緒の手を取った。柔らかい手のひらのぬくもりを絡め取る。

「祠より奥は…『夢幻の森』と呼ばれている…」

「夢幻…ですか?」
幻想的な事柄はこの地には満ちていて、今更驚くほどでもなかったが、それでも華繻那の言葉には何とも言えない妖しいうねりがあった。

「夢と現実のはざまに佇む地…迷いのあるものは入れない…まあ、これは言い伝えで…ただの迷信の様なものだから」

「迷い…?」
 沙緒は覚えず、足を止めた。対して華繻那はそのまま前へと歩みを続けていた。するりと手が抜ける…。

「…あ…」
 手が心細く空を切り、沙緒は小さく叫ぶ。次の瞬間、信じられないことが起こった。

 薄桃の花びらが音もないまま絶え間なく降りしきる。華繻那の漆黒の髪がその中に消えるような気がした。慌てて手を伸ばす…しかし。

「華繻那様…?」
 手を伸ばしたその方向から、拭き上がってくる気を感じた。髪が衣が強く後ろに引かれる。気の勢いに一瞬目を閉じた…次に視界に飛び込んできたのは…天も地もない…ただどこまでも花びらの舞う空間だった。


 

 天寿花の林に来るのは正直、怖かった。

 ここは以前、呼吸が苦しくなって咳き込んだ場所だ。花の操る不思議な力からか、竜王の張る結界が弱くなっているらしい。華繻那に抱かれて、名実共に彼の妃となった今、彼女は「陸の人間」としての姿のまま、海底の気に対応できる様に身体が変化していた。だから、苦しいこともない。
 華繻那は、優しい。陸にいた頃でもこんなになりふり構わず愛されたことはなかった…彼にも。
 沙緒の心の中に、陸に残してきた思いが時折満ちてきた。それを押さえつけ、忘れた振りをする。思い出したところで何になろう…あれは終わったことだ、もうずっと前に終わったじゃないか…。

「…沙緒!」
 華繻那の声は何とも言えない深みがあった。辺り一面に天真花の香と共に広がっていく。でも、今、耳に届いた声は全く違う人のものだった。

「あ…!!」
 沙緒は思わず声を上げた。そして手を伸ばす。でも手は届かない。

「今日はあっちの浜の方まで行ってみようか、天気もいいしさ…」
 すがるように見つめているのに、彼は沙緒の気持ちなどお構いなしに自分の言葉を述べる。黒縁の眼鏡、顔全体で微笑みながら。透き通った明るい声…その声が耳に届くのが好きだった。

「待って!!」
 自分の声が空間にむなしく響くと…途端に場面が変わる。

 

 ざわざわとしたたくさんの人間のざわめきが聞こえてきた。姿は見えない。花びらの向こうにいるのだろうか…でも姿は捉えることが出来なくても、彼らの声は恐ろしいほど鮮明に耳に届く。

「しばし待たれよ…こんなものは一種の熱病のようなもの…」
「そうだ、造作ない。我が王は異形の珍しい娘に己を失っているだけだ」

 沙緒は息を呑んだ。…つい最近、聞いた言葉。渡りを一人で歩いてきたとき、聞く気もなしに耳に飛び込んできた。 

「何よ、お高く止まっちゃってさ…上様にお情けを受けたからって大きい顔でお館にのさばられちゃ、やりにくいったらないわ」
「大丈夫よ、あの人。多尾さんのいないところでは本当に何も分からないみたいよ…」
「どうせ、少しの間よ。上様だってすぐに正気に戻られるわ…」
「じゃあ、それまでの間…ちょっと楽しんじゃいましょうか?」
「ふふふ、そうね。あの人の顔色が曇るのを見るのが楽しいわよ…」

 どうして? 聞かない振りをしたのに、聞いても忘れてしまっていたのに…何でこんなに頭の中を響き渡るの?

 

「…ごめん、もう終わりなんだ。許してくれ、沙緒」
 またあの人の声に戻る。一番忘れたい言葉を繰り返される。

「僕のことは…忘れて。他の奴と、幸せになってくれ…」

 …どうして? どうして急に、そんなこと言い出すの? 私のことを好きだって、大切だって言ってくれたでしょう…?

 

「あんな女のどこが良ろしいの? 上様にふさわしくないわ」
「髪も短く、色も薄い…肌色も悪いようだわ…陰気な感じで…おやめなさい」

 そして…いつもは心地よい言葉をかけてくれる人達の声までしてくる。

 

「あの娘を正妃になさるとは…正気の沙汰とも思えません、どうかお考え直しください…側女で宜しいではごさいませぬか。本来でしたら側女の地位も与えられぬ身分ですが…そこは私がなんとかいたします」

 どこまでも沈みゆく空間にうずくまる。何がいけなかったのか、自分が悪いことをしたのか…去っていく人々、受け入れてくれない者たち。

 …辛い。

 我が身が引きちぎれるほどに辛い!! どうしてこんな所にいなくてはならないのか!?

 強く強く引き込まれる…下へ、下へ…どこまでも深く…。意識がもうろうとしてきたとき、確かに心の外から声がした。

「…沙緒…!」
 上空から。誰かが、自分を呼んでいる。…そんなはずはない、私を受け入れてくれる人などいるわけもない。

「沙緒!!」
 …呼ばないで! 連れ戻さないで…もう、期待させないで!! どうせ、あなただって、いつか去っていく…人の心なんて…移ろいゆくもの。確かなものなんて何もないんだから…。

 …夢。

 そうよ、私は夢を見ていたんだ。暖かくて、幸せな夢…息が出来ないほど抱きしめられて、包まれて…でも、期待しちゃ、いけない。また…裏切られる。

(…もう…あなたには、後がないのに…)

 その時。地の底からわき上がってくる声があった。足元を見るとそこは鮮血の色に染まっていた。ぞっとした…血の色を見ながら、血の気が引いていく。足の先がギリギリの所を浮遊する。

「沙緒…」
 天から聞こえる声は遠くて儚い。もう、この腕があの暖かい声の主に絡め取られることはないだろう。

 …いいんだ。後から、突き放されるよりも…最初から、期待しないでいれば絶望しないで済む。

(…本当に、それでいいの?)

 赤が揺らめき立つ。責め立てる声ではない、諭すように。

「…いいの。もう悲しむのは、嫌…」
 自分の想いが声になる。こうして言葉にしてしまうと、心の中で思いを巡らしているよりよりはっきりとしてくる。その言葉が、何故か自分を締め付ける。

(だったら…どうして、泣いているの…?)

「…え…」
 思わず声の方向を見る。赤の中にぽたぽたと落ちていく透明な粒か見える。一粒ずつ、赤に溶けていく。

(…手を離そうとしているのは、あなた。振りほどこうとしているのも…ためらっているのもあなた。どうして? 全てはあなたから始まるのに…)

 ふんわりと、どこからか花の香りがした。今まで利いた事のない不思議に懐かしい香り。

 愛されることに、戸惑っていた。愛されることが怖かった。受け入れることで、そのあと失うのが…その絶望の大きさが恐ろしかった。だから、どこかで冷めていた。すがりつきたい気持ちを押さえ込んでいた。

 花の香りがうっすらと紫色に染まる。すうっと足元が赤から遠のく。

 何を、迷っていたのだろう。何を、恐れていたのだろう…夢なら夢で良いじゃないか。幻なら、幻で…。だって私は…もう後がないんだから。散ったところで失うものもないのだから。

 掴み取れないで後悔するなら、抱きついて傷ついた方がいい!!

 目の前がぱあっと開けていく。まぶしくて目を細めてしまう…閉じる瞬間に見えたものに必死で腕を伸ばした。


 

「…沙緒!?」

 気が付くと。目の前に華繻那の顔。心配そうな瞳が揺れる。その背後に背負うのは淡い花の天井…先ほどまでの天寿花の林の中に戻っていた。今自分がいるのは他の誰でもない、愛おしい人の腕の中だ。

「あの…私? …どうしました?」
 ゆっくり身を起こす。花びらがやはり、絶え間なく降りしきる。先ほどより、ほのかに赤みを増して。音もなく。

「やはり…お前は体調が優れぬのか? 一瞬だが、気を失っていた…」

「…一瞬…」
 そんな時間ではなかった。もっと長い時間、自分は浮遊していた。あの不思議な空間を。でもそれは瞬時に見た幻影だったのか?

「もう、館へ戻ろう…花はまた改めて…」
 そう言いながら華繻那は沙緒を抱き上げた。胸元に顔を埋めたとき、いつもと違う香をふんわりと感じた。華繻那の身体全体からはいつもの天真花香が薫っていたが、ほんの少しだけ異なる香りがある。その源を探り、襟元にそっと触れる。華繻那はおやおや、と言った表情で覗き込んできた。

「あの…何だか…香りが…」
 どうも全く違う想像をされていたらしい。嬉しそうに微笑まれて、自然に頬を染めながら沙緒は小さな声で言った。

「香り…ああ」
 華繻那は自分の胸元に手を入れて、薄紫色の小さな匂い袋を取りだした。

「私の母の用いていた香で…時折、思い出して忍ばせることがあるのだ。香は…いくつかの香を合わせて用いる事もある。私も幼き頃は天真花と色々な香を合わせて自分に試してみたものだ」
 そっと手のひらに乗せてもらう…利き覚えがある…そうだ、自分をあの空間から呼び起こしてくれた香だ。

「…そうだな、沙緒にも香を選ばなければ…」

「私に、ですか?」
 
「この地では王族のみが香の使用を許されている…他の者は匂い袋でほのかに楽しむのみに限定されているのだ。お前は私の妃だ、多尾と相談して選ぶがいい」
 その言葉に胸の奥がじんわりとした。匂い袋を握りしめると、沙緒はしっかりした声で言った。

「上様…もう、気分は宜しいです…あの、お花を…見に参りましょう?」
 本当に? と言うように漆黒の瞳は訊ねてくる、それににっこりと微笑み返した。


 

 

「これは…誠に…」
 埋め尽くすような花の森に沙緒は息を呑んだ。先ほどまでの林ももちろん美しかった…だが、ここは。

 花見用に歩きやすく樹の間隔をとって植えられたかの地に対し、ここはまさに森。立体迷路のようにようやく身体を滑り込ませるだけの隙間がある。見上げれば枝は無数に重なり合い、まるで森全体が壮大な樹のようだ。

 身体の向きを変えながら、するすると奥に進んでいく。沙緒の軽い身のこなしに華繻那は付いていけない。

「…待ちなさい、こら…」

 くすくすと笑い声を上げながら、沙緒の動きが止まる。ようやく、追いついた。樹の影に薄茶の髪と重ねが揺れる。

「…沙緒…」

「あの、華繻那様? …このままで…ちょっとだけ聞いていただけますか?」
 近寄って捉えようとした華繻那の手が止まる。彼の歩みが止まったことを確認して、沙緒は大きく深呼吸した。

「…どうした?」

「あの…私…ちゃんと申し上げたことがなかったような気がするんです…。華繻那様への気持ち…」

「…え?」
 今更、何を言う? と言うような間の抜けた声。樹を挟んで、お互いの表情は見えない。呼吸の音だけが聞こえてくる。

「私…華繻那様の事が好きです…本当に…こうしてお側に置いて頂けて、嬉しいです…あの、だから…」
 言葉が途切れる。詰まってなかなか次が繋げないようだ。

「だから…あのっ…華繻那様のお気が済むまでは…このまま、お側にいさせてくださいね…」
 天寿花の幹に顔を押しつけたまま、震える声を押し出す。幹に回した腕も震えている。

「…何を申すのかと…思えば…」
 いつの間にか背後に回った天真花香の主が、後ろから細い身体を抱きしめる。

「思えば…お前の気持ちなど、疑った事もなかったぞ…私と同じ気持ちでいるものだとばかり信じていた…」

「上様…」
 沙緒はそのまま後ろに身体を預けた。そのまま優しい香りを楽しみながら瞳を閉じる。大きな手のひらが頬にかかった髪をなでて、そのまま顎の下に回る。首筋に触れた指先がくすぐったくて首をすくめた沙緒は、しかし、次の瞬間、ぎょっとして我に返った。

「やだ、ちょっと! おやめくださいまし…もう…」
 首筋から離れた手が、彼女の襟元から中に滑り込んできたのだ。着物の袷が緩む。

「どうした? …ここならば誰もおらぬぞ…人がいなければ良いのではないか?」
 ふふふ、と楽しそうに笑いながら、首筋に這っていく唇。

「華繻那様! 私、一人では着物が着られないんです〜はだけたら直せません、本当に…駄目です、こんなところで…」

 すると、華繻那の手が止まった。ホッとしたのもつかの間、軽い力で身体を反転させられ、背中が幹に押しつけられる。

「上様…?」
 ゆっくりと微笑んだ唇が今度は耳たぶを軽く噛んで、囁く。

「安心して良い…お前が着られないなら、私が着せてやろう。そのぐらいは出来るぞ…」

「え…?」

 その言葉が何を意味するのか、頭を回転して考える間もなく…天を覆い尽くす夢の様な花天井、ゆらゆらと揺らめく黒と薄茶のカーテンの中で沙緒の唇はまた、言葉を発する術を失った。

 

Fin(2002.1.20)
Novel Index秘色の語り夢・扉>夢幻の森
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