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自分の周囲を取り巻いている「気」…空気ではない異質の…。自分の手をふわりと空に揺らしてみる。すると明らかに抵抗を感じた。お風呂の湯加減を見るために湯船に手を入れた感触に似ている。 「沙緒(さお)…? 何をしている?」 「…え? あ、上様…どうしたのですか? お早いですね…」 「お帰りなさいませ…」 「もう良い、面を上げなさい…お前の動きは何とも…微笑ましいね」 「華繻那(カシュナ)様…」 「ただいま」 「お前がこうして腕の中にいないと、落ち着かないな…」 「…華繻那様、もう、お離しになって下さい…まだ陽が高いです。お庭にも渡りにもたくさんの人がいるのに…」 昼の刻の少し手前、庭では木々の手入れを行っている侍従たちが何人もいる。竜王の寝所に面した庭は一日で歩ききれないと言う広大な庭園の中でも、ひときわあでやかな造りになっている。館の中でも数え切れないほどの侍女たちが流れるような身のこなしで、渡りをあちらへこちらへと移っている。衣を整える者、お食事の給仕をする者、身の回りのお世話をする者…華繻那などは侍従や侍女に囲まれているのは慣れっこらしく、彼らが部屋の中にいても平気で沙緒に絡みついてくる。愛されているからこそと思えば、嬉しくないわけではない。それでも、寝の刻を迎えた頃ならいざ知らず、こんな昼間からでは…。 「…良いではないか、皆にも見せつけてやろう…」 「おやめ下さい〜」 「お食事、お運びして宜しいでしょうか?」
「…上様、兄から話がございましたでしょう? ここは西南の集落から来る方から見えますよ。ただでさえ、あちらはご立腹なさっておいでです。些細なことでも大事になりますでしょう…」 そう申し上げているのは、華繻那の一の侍従である多岐の末の妹である多尾。 この侍女は沙緒がこの地に来てすぐの頃、世話をしてくれたのが縁で、そのまま沙緒と共に竜王の寝所である「東所」に移ってきた。元々は客人を宿泊させる西所の侍女の一人であり、「結界を破ってこの地に落ちてきた異形の者」である沙緒もそこで静養していた。 そうなのだ、沙緒は本来ならこうして竜王のお側に上がることなど許される立場ではない。王族と親密な関係にある「西南の集落」よりお后のお輿入れが迫っていたというのに、その全てを白紙に戻して華繻那は沙緒を招き入れた。先の竜王であった父王の急逝に伴ない、若くして王の座に着いた華繻那は類い希に見る采配でこの地を支配し、治めていた。周囲の期待に応えるべく、取り忙しく日々の暮らしを重ねていた彼にとって、型にはまらない沙緒の存在はまぶしすぎるものだった。気が付いた時には、我が腕に抱きしめていた。しっとりとした細い身体に一度触れてしまったら、もう放せなくなる。周囲の判断も仰がぬまま、その夜から沙緒は東所の住人になった。 元々、「異形の者」である沙緒は西所の侍女たちからも疎んじられていた。そんな女が上様のお側に上がる…それがほんの一夜の戯れであったとしても大事だった。 「沙緒を正妃とする。側女はとらない」 この華繻那の突然の物言いには西南の集落の大臣家に留まらず、海底国じゅうの全ての者がその耳を疑い、恐れおののいた。竜王である華繻那の言葉はこの海底国において「神の声」に等しい。何人も撤回することなど出来ない。そうは言っても、話が大きすぎる。 まずはその日のうちに西南の集落が動いた。華繻那の長姉である大臣家の正妃「翠の君(すいのきみ)」様が直々にお里帰りされてやってくる。今まで自分の言うことには全て素直に従ってきた弟の豹変に、彼女の怒りの矛先は沙緒に向いていた。 「口で言って聞かないのであれば…その者を王の御前から葬り去れば宜しいだけのこと!!」 この話は瞬時に華繻那の侍従、多岐の元に届いた。これには冷静沈着が服を着て歩いているような彼ですら取り乱さずにはいられなかった。彼にしてみても、沙緒が華繻那の元に上がることには異議なかった。我が王は優れたお人ではあったが、人間らしい感情に乏しいところがあった。それを沙緒はほぐしていったのだ。彼女のような者がお側にいるのは王の安らぎとなられるであろう…だが。まさか正妃に迎え入れようとするとは。 必死に申し上げて、面を上げたとき…多岐の目に映ったのは…華繻那の頬を伝うひとすじの滴だった。 「…沙緒を正妃にすることが叶わぬのなら…妃は娶らない…」 多岐は我が目を疑った。この王が涙を流すことは今までなかった。先王がみまかられた時ですら氷のように冷たい表情で憔悴はしていたものの、とうとう皆の前で涙を見せられることはなかった。 「承知…仕りました…」
あの騒動から一月が経過した。本来なら盛大な儀式があり、正妃様の御輿入れが執り行われるはずだったが、それは中止になった。全てがうやむやのまま、沙緒は正妃になってしまったのだ。 兄の並々ならぬ苦労を目の当たりにしている多尾にとっては、華繻那の尋常ではない寵愛ぶりは頭痛の種であった。 「分かった、分かった…気を付けるから」 沙緒にしてみれば。想像以上の混乱にただですら馴染まぬこの地で、どうして良いのか分からなくなっていた。確かに華繻那は優しい。この地で目覚めて最初に顔を合わせたのはつい一月前の事になる。あの時の氷のように動かぬ表情からは今の彼の姿は想像できなかった。 …でも…。 「どうした、…今日の食事は口に合わぬか?」 「あ、いいえ…今日は食欲がなくて…」 華繻那に愛されているのは…本当に幸せなことだ。でも…。そう、沙緒の心には常に「でも…」と言う否定的な心が常にあった。 「顔色も優れぬが…これから、午後の刻、日程が空いたのだ…少し足を伸ばして、天寿花の林の奥に足を伸ばしてみようと思っていたのだが…」 「それは、宜しゅうございますわ…いってらっしゃいまし! 今、林の奥は花も満開…言い尽くせぬ美しさと聞いておりますわ。お方様、少しは気晴らしをなさるのが宜しいですよ」 多尾は沙緒の気落ちの原因がどこにあるか知っていた。華繻那も多少は気付いているかと思われるが、そこは生まれながらの王としての気楽さがある。この堅苦しい廷内から出ることが我が主にとって何よりの薬だと思った。
「…天寿花の林に…そんなに奥があるのですか…」 「秘密の場所があるのだ…私しか入れない…」 「秘密の…?」 「そこに、小さな祠があるだろう…?」 「…はい…?」 「あの奥に細い木の橋があり、向こうの岸に渡れる。だが気が薄い地でもある、私の力がなければ踏み入る事は海底の人間ですら不可能だ…でもひとつ、大切な事があるんだが…」 「祠より奥は…『夢幻の森』と呼ばれている…」 「夢幻…ですか?」 「夢と現実のはざまに佇む地…迷いのあるものは入れない…まあ、これは言い伝えで…ただの迷信の様なものだから」 「迷い…?」 「…あ…」 薄桃の花びらが音もないまま絶え間なく降りしきる。華繻那の漆黒の髪がその中に消えるような気がした。慌てて手を伸ばす…しかし。 「華繻那様…?」
天寿花の林に来るのは正直、怖かった。 ここは以前、呼吸が苦しくなって咳き込んだ場所だ。花の操る不思議な力からか、竜王の張る結界が弱くなっているらしい。華繻那に抱かれて、名実共に彼の妃となった今、彼女は「陸の人間」としての姿のまま、海底の気に対応できる様に身体が変化していた。だから、苦しいこともない。 「…沙緒!」 「あ…!!」 「今日はあっちの浜の方まで行ってみようか、天気もいいしさ…」 「待って!!」
ざわざわとしたたくさんの人間のざわめきが聞こえてきた。姿は見えない。花びらの向こうにいるのだろうか…でも姿は捉えることが出来なくても、彼らの声は恐ろしいほど鮮明に耳に届く。 「しばし待たれよ…こんなものは一種の熱病のようなもの…」 沙緒は息を呑んだ。…つい最近、聞いた言葉。渡りを一人で歩いてきたとき、聞く気もなしに耳に飛び込んできた。 「何よ、お高く止まっちゃってさ…上様にお情けを受けたからって大きい顔でお館にのさばられちゃ、やりにくいったらないわ」 どうして? 聞かない振りをしたのに、聞いても忘れてしまっていたのに…何でこんなに頭の中を響き渡るの?
「…ごめん、もう終わりなんだ。許してくれ、沙緒」 「僕のことは…忘れて。他の奴と、幸せになってくれ…」 …どうして? どうして急に、そんなこと言い出すの? 私のことを好きだって、大切だって言ってくれたでしょう…?
「あんな女のどこが良ろしいの? 上様にふさわしくないわ」 そして…いつもは心地よい言葉をかけてくれる人達の声までしてくる。
「あの娘を正妃になさるとは…正気の沙汰とも思えません、どうかお考え直しください…側女で宜しいではごさいませぬか。本来でしたら側女の地位も与えられぬ身分ですが…そこは私がなんとかいたします」 どこまでも沈みゆく空間にうずくまる。何がいけなかったのか、自分が悪いことをしたのか…去っていく人々、受け入れてくれない者たち。 …辛い。 我が身が引きちぎれるほどに辛い!! どうしてこんな所にいなくてはならないのか!? 強く強く引き込まれる…下へ、下へ…どこまでも深く…。意識がもうろうとしてきたとき、確かに心の外から声がした。 「…沙緒…!」 「沙緒!!」 …夢。 そうよ、私は夢を見ていたんだ。暖かくて、幸せな夢…息が出来ないほど抱きしめられて、包まれて…でも、期待しちゃ、いけない。また…裏切られる。 (…もう…あなたには、後がないのに…) その時。地の底からわき上がってくる声があった。足元を見るとそこは鮮血の色に染まっていた。ぞっとした…血の色を見ながら、血の気が引いていく。足の先がギリギリの所を浮遊する。 「沙緒…」 …いいんだ。後から、突き放されるよりも…最初から、期待しないでいれば絶望しないで済む。 (…本当に、それでいいの?) 赤が揺らめき立つ。責め立てる声ではない、諭すように。 「…いいの。もう悲しむのは、嫌…」 (だったら…どうして、泣いているの…?) 「…え…」 (…手を離そうとしているのは、あなた。振りほどこうとしているのも…ためらっているのもあなた。どうして? 全てはあなたから始まるのに…) ふんわりと、どこからか花の香りがした。今まで利いた事のない不思議に懐かしい香り。 愛されることに、戸惑っていた。愛されることが怖かった。受け入れることで、そのあと失うのが…その絶望の大きさが恐ろしかった。だから、どこかで冷めていた。すがりつきたい気持ちを押さえ込んでいた。 花の香りがうっすらと紫色に染まる。すうっと足元が赤から遠のく。 何を、迷っていたのだろう。何を、恐れていたのだろう…夢なら夢で良いじゃないか。幻なら、幻で…。だって私は…もう後がないんだから。散ったところで失うものもないのだから。 掴み取れないで後悔するなら、抱きついて傷ついた方がいい!! 目の前がぱあっと開けていく。まぶしくて目を細めてしまう…閉じる瞬間に見えたものに必死で腕を伸ばした。
「…沙緒!?」 気が付くと。目の前に華繻那の顔。心配そうな瞳が揺れる。その背後に背負うのは淡い花の天井…先ほどまでの天寿花の林の中に戻っていた。今自分がいるのは他の誰でもない、愛おしい人の腕の中だ。 「あの…私? …どうしました?」 「やはり…お前は体調が優れぬのか? 一瞬だが、気を失っていた…」 「…一瞬…」 「もう、館へ戻ろう…花はまた改めて…」 「あの…何だか…香りが…」 「香り…ああ」 「私の母の用いていた香で…時折、思い出して忍ばせることがあるのだ。香は…いくつかの香を合わせて用いる事もある。私も幼き頃は天真花と色々な香を合わせて自分に試してみたものだ」 「…そうだな、沙緒にも香を選ばなければ…」 「私に、ですか?」 「上様…もう、気分は宜しいです…あの、お花を…見に参りましょう?」
「これは…誠に…」 花見用に歩きやすく樹の間隔をとって植えられたかの地に対し、ここはまさに森。立体迷路のようにようやく身体を滑り込ませるだけの隙間がある。見上げれば枝は無数に重なり合い、まるで森全体が壮大な樹のようだ。 身体の向きを変えながら、するすると奥に進んでいく。沙緒の軽い身のこなしに華繻那は付いていけない。 「…待ちなさい、こら…」 くすくすと笑い声を上げながら、沙緒の動きが止まる。ようやく、追いついた。樹の影に薄茶の髪と重ねが揺れる。 「…沙緒…」 「あの、華繻那様? …このままで…ちょっとだけ聞いていただけますか?」 「…どうした?」 「あの…私…ちゃんと申し上げたことがなかったような気がするんです…。華繻那様への気持ち…」 「…え?」 「私…華繻那様の事が好きです…本当に…こうしてお側に置いて頂けて、嬉しいです…あの、だから…」 「だから…あのっ…華繻那様のお気が済むまでは…このまま、お側にいさせてくださいね…」 「…何を申すのかと…思えば…」 「思えば…お前の気持ちなど、疑った事もなかったぞ…私と同じ気持ちでいるものだとばかり信じていた…」 「上様…」 「やだ、ちょっと! おやめくださいまし…もう…」 「どうした? …ここならば誰もおらぬぞ…人がいなければ良いのではないか?」 「華繻那様! 私、一人では着物が着られないんです〜はだけたら直せません、本当に…駄目です、こんなところで…」 すると、華繻那の手が止まった。ホッとしたのもつかの間、軽い力で身体を反転させられ、背中が幹に押しつけられる。 「上様…?」 「安心して良い…お前が着られないなら、私が着せてやろう。そのぐらいは出来るぞ…」 「え…?」 その言葉が何を意味するのか、頭を回転して考える間もなく…天を覆い尽くす夢の様な花天井、ゆらゆらと揺らめく黒と薄茶のカーテンの中で沙緒の唇はまた、言葉を発する術を失った。
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Fin(2002.1.20)
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