TopNovel秘色の語り夢・扉>沙羅の章・1



…沙羅の章…


其の一◇鴇色天井(ときいろてんじょう)

 花びらのひとひらが、ゆったりとした気の流れに誘われて膝元まで舞い降りてくる。いつの間にかぼんやりと、その行方を目で追っていたらしい。こほん、と小さな咳払いがすぐに傍らで聞こえて、ハッと我に返った。

「……沙羅(さら)様、先ほどからお手元がお留守になっていらっしゃいますよ」
  とは言ってもそれほど非難がましくもない口調だ、むしろ軽い笑いすら含んでいるような。先ほどから自分の手仕事を手伝ってくれている、腹心の侍女・多奈(たな)の声に相違ない。何しろ、人払いをしたこの部屋には今ふたりのほかには誰の姿もないのだから。

「まあ、……無理もございませんわ。このように素晴らしい日和ですもの」
  そう告げたあと、彼女自身も手を休めて外の風景に視線を向けた。

 ここは竜王の住まう御館の中でも一番東の端に当たる場所。寝所奥の沙羅の自室であった。大きく開かれた窓から外を見れば、そこは色とりどりの花々が咲き誇る父・竜王自慢の庭園であった。いくら手仕事に熱中しようと心がけても、花はその姿だけには留まらずかぐわしい薫りをも漂わせて誘ってくる。特に向こうに広がる「天寿花(てんじゅか)」は薄紅の幾重にも重なった愛らしいその花弁からたとえようのない甘い香りを放っていた。

 

 沙羅はこの春で15を迎えたばかり。
  背丈より長く伸ばした茶色がかった髪は柔らかく流れ、肌は透けるように白い。その辺りは亡き母君譲りだと皆が口を揃えて囁きあうが、切れ長の目や勝ち気そうな口元はどちらかと言えば父君に近い…とも言われていた。海底人の皆がそうであるように、彼女の耳もエラのように大きく広がっている。それにより希薄な水底の世界でも魚のごとく生きながらえることが出来るのだ。

 一方の多奈の方は今年、18……女主人の沙羅よりも3歳年長になる。多奈の母親が弟を産んだとき、丁度、竜王様の正妃であった人がご懐妊あそばしたので縁あって乳母に選ばれた。体を壊したその母親が都を後にしてからも、彼女は身の回りの世話をする侍女のひとりとして残ってくれていた。あまり親しい供を多く持たない沙羅に取っては有り難いばかりである。
  沙羅付きの侍女長が多奈の祖父――今なお、竜王の一の侍従である「多岐(タキ)」の末の妹に当たることも心強い。この女性・多尾(たお)は沙羅の母君の一番の理解者だったと言われている。それだけに竜王様の唯一の御子である沙羅のことを何かと気に掛けてくれていた。

 

「これ、このままいけば大丈夫よね?」
  沙羅は、ふと呟いていた。その視線は彼女の膝の上に広げられた、衣装に向けられている。ひとつひとつ刺し終わった文様を目で追いながら、その眼差しはどこか不安げだ。

 濃緑の光沢の美しい布地は「上掛け」のかたちにすっかり仕立て上げられている。「上掛け」とはこの地では高貴な御身分の方が特別の政(まつりごと)の際に身につけるもので、幾重にも重ね着される衣の一番上に羽織る衣装であった。その裾から腰の辺りまでと胸から肩に掛かる辺りには、大きな鳳凰の刺し模様が大きく羽を広げている。
  この見る者誰もを魅了するほどの手仕事がどんなにか気の遠くなる歳月を経て仕上げられることであろうか。一通りの刺しものの手習いを受けた者なら想像しただけで肩が凝りそうな具合である。これほど間近で始終拝見してきた多奈も、もちろん例外ではなかった。

「誠に……今更ではございますが、沙羅様の御針の腕は素晴らしい限りですわ」
  その言葉にも他意はないようである。殿上人にお仕えする者としての礼儀を越えた感嘆の意がそこにあった。

「もう、多奈はまたそんな風に言って……」
  そう答えて当惑した表情になる沙羅の方には余り自覚がない。

 御館の内からほとんど出たことのない彼女である。よって他の者との交流も希薄であったし、自分を誰かと比較しようとする考えも浮かんでこないのだ。
  もともと「竜王様の姫君」という御身分であれば、御立場上おのずと引きこもりがちになる。その上彼女の場合、その生い立ちがいささか複雑であった。

「ご心配には及びませんわ」
  多奈は未だ不安げな主人を励ますように、にっこりと微笑んだ。

「あまり根を詰められるまでもなく……もう幾日も掛かりませんでしょう。この多奈が保証します、必ずや素晴らしい仕上がりになりますわ。ご列席なさる皆様の驚かれる滑稽なお顔が目に浮かんで……ああ早く実際に拝見したいものですわ」

 挑発とも思えるその言葉に、沙羅は大きく目を見開いた。このように目に見えるほどに驚く姿も彼女にしてみれば珍しいことである。心を許したこの侍女の前でなかったら、とても叶うことではない。

「……多奈が今想像したのは、美莢(みざや)のお顔ではないかしら?」

 沙羅は、何かというと多奈が天敵のように思っている侍女長の名を挙げた。ようやく浮かんだいたずらっぽい表情もとても愛らしい。生まれながらの姫君としての気品がそこに漂っていた。

「あら、そうは申しておりませんわ?」
  多奈の方は涼しい顔でそう言うと、自分の膝にあった道具をさっさと脇に片づけた。

「ああ、だいぶ進みましたね。姫様もお疲れになられたことでしょう、もう今日は仕舞いにしませんか? 私は片づけをしてから参りますので、先に御庭の方にお出でになってはいかがです? 東の御庭だけなら、今日は庭師なども出てはいないようですし……気兼ねもございませんでしょう」

 その提案は、沙羅を少なからず驚かせた。普段ならば、何もかもをさしおいてでも後に付いてくるような侍女なのに。

「え……、大丈夫かしら?」

 急き立てられてもまだ躊躇している女主人の支度を手伝いながら、多奈はいつか侍女長である大叔母から言われた言葉を思い出していた。

 ――姫様はこの先も決してお幸せになられるとは思えません。残り少ない時間を、私たちの手で、出来るだけ安らかなものにして差し上げなくては……。

「……これから先のしばらくは、姫様にはお忙しい行事が立て込んでございます。今のうちにごゆっくり慣れ親しんだ御庭を存分にご堪能ください」

 

 自分の年若い女主人の後ろ姿が天寿花の林の中に消えていくのを確認してから、先の上掛けを広げてもう一度まじまじと眺めた多奈は先ほどまでとは全く違う顔つきになった。

 ……哀れなことだと思う。何故、この上なく高貴な御身分であられながら、茨の道を歩まれることになられるのだ。聡明な竜王様の采配とも思えぬ成り行きに、それを翻すだけの力もないままにただ憤ることしか出来ない。そんな非力な自分も情けない限りであった。

「……本当に、あちらさんときたら」
  思い出すだけで忌々しいと言うように彼女は大きく頭を振った。

「ああ、あの美莢の憎らしいこと! 本当に姫様のどこが気に入らないとおっしゃるのかしら! 当てつけがましいにも程があるというものだわ……!」

 手にした上掛けを羽織る方のことを思えば、無意識のうちに扱いがぞんざいになってしまう。ばさばさと手荒に何度か叩いたあと、彼女は諦めたようにそれを丁寧に畳み直した。

 

◆◆◆


 天寿花は丁度、八重の桜のような花である。でも似ているのはその姿だけ、香しい香を思えばむしろ梅に近いかも知れない。色も桜のそれよりは紅梅に程近いと思われる。
  天――この世界では見上げれば遥か遠くにユラユラと「水面」を見上げることになるのだが……が仰げないほどの枝達が覆い尽くした林の中を、慣れた足取りで沙羅は進んでいった。自室からすぐのこの庭だけが彼女が自由に出来る場所。知らず足取りも軽やかになる。

 ふと、気の流れに乗って、御館の方から拍子木の音が響いてきた。この都には「時計」というものは存在せず、全てが沙羅の父である竜王のその日の行程によって人々の動きが定められている。昼餉には今少し早いこの合図は、何か特別の政(まつりごと)が東所の詰め所で行われたことを示していた。

「今日は何かあったのかしら……?」

 竜王のただひとりの姫君とはいえ、沙羅にはその世継ぎなる何もなかった。初めから蚊帳の外と見なされていて、人々の話にも上がらない。父の元で何が行われていて、今国がどのように動いているのかすら、知ることは出来なかった。

 

 都の中央、竜王の御館はいわゆる寝殿造りで、いくつかの区画に別れた間を渡りと呼ばれる通路でつないだ迷うほどに広い邸宅である。そこには何百とも何千とも言われる者たちがお仕えしており、その華やかな居住まいは国中の民の憧れの的となっていた。遠き地から都に上がる幸運を与えられた者たちは、競って高い位を目指して行く。その姿がさらにこの地を活気づかせていた。

 中央に位置している宴を催す中心となる大広間「客座」を基に、来訪者の為の仮部屋がある「西所」、神座のある「北所」。そして今、沙羅達が住まっているのが「東所」である。
  ここは歴代の「竜王」が住まう寝所が置かれ、一番重要な場所と言われていた。一番客座に近い「詰め所」と言われる場所では国中の政の全てが取り決められている。現竜王である沙羅の父君と沙羅を主人としてたくさんのお付きの者が出入りしていた。

 ……そして。

 沙羅は顔を上げると天寿花の林の向こうにある一角を眺めた。南側の庭に大きくせり出した対。視線の先にある「南所」に今、住まうのは……。

 

「何だ、誰がいるのかと思えば」

 不意に乱暴な言葉をかけられて、沙羅はハッと息を飲んだ。無理もない、思ってもない背後からいきなり声が飛んではこちらは構えようもないのだから。しばしののち意を決してゆっくりと振り返るその動きに合わせて、髪が空を切って静かに流れる。辺り一面が空気よりも重い「気」で満たされた空間であるから、何もかもが陸上とは違って感じられる。物の動きも水流に揺れて漂っているようであるし、音もどことなくくぐもって聞こえる気がした。

「……亜樹(アジュ)」
  視線の先に立っているのは、やはり予想通りの人物だった。声を聞いたときからそれは分かっている。自分をこんな風にぞんざいに呼ぶのは、ひとりしか考えられないのだから。彼こそが「南所」の主――沙羅の顔はにわかに強ばってゆく。

「今の拍子木は竜王ご教育の終了の合図だったのね」
  抱えられた何冊もの糸綴じの書物を見て、表情を崩さぬまま沙羅は声の主を睨んだ。そこにはもう、先ほどまでのおっとりした姫君の影はない。そのたおやかな姿であっても全身で敵に挑む、それだけの気迫が辺りに漂っていた。

「このように気楽に花を愛でられている姫君とは違いましてね、あいにくこちらは多忙ですので」

 彼は軽くあしらうように薄い口元で微笑む。こちらの威嚇など、最初から何とも思っていない様子だ。

「まるでこちらが怠けているかのように仰らないで欲しいわ、……馬鹿にしないで」

 ここで引いてなるものかと、沙羅は必死で言葉を繋ぐ。だが、普段から決まった相手以外とはやりとりのない身の上では、初めから勝敗は見えているというものだ。それは男の不敵な笑いにすでに証明されている。

「俺は見たままを申し上げたまでのこと、誰だって呆けて天寿花を見上げているあなたを拝見すればそう思うでしょう。皆、あなたの為に忙しい日程をこなしている所なんですから。このようにうろついていては、また悪い評判が立ちますよ?」

 声の主…亜樹は沙羅にに睨みつけられても、全く臆することない様子だ。
  薄紫の重ね。すらりと伸びた背丈は沙羅よりも頭ひとつ分は高い。沙羅であっても御館に出入りする侍女と比べて上背はある方なのだが、この亜樹を前にすると見事なほどに見下ろさせてしまう。
  その髪は赤味がかっており、腰の辺りまで伸ばしていた。肌の色は彼の出身地である「西南の集落」の民の特徴でもある健康そうな褐色で、髪の色と相まって「陽の民」と呼ばれる容姿を余すことなく備えている。
その勝ち気で雄々しい見てくれに対抗するとなると……沙羅はこんな風にこわばった表情で睨み付けるしかないのだ。

「全く、……御優秀な跡継ぎ様でいらっしゃること」

 勝ち目はないと分かっていても、ここで白旗を揚げるのは腹立たしい。吐き捨てるようにそう告げてくるりときびすを返せば、背中からさらに言葉が返ってくる。

「お褒めにあずかりまして、光栄です」

 お互いに売り言葉に買い言葉、ひとこと言えばひとことが返ってくる。どこまでもキリがない疲れる会話。沙羅はこれ以上は相手にせず、そのまま林の奥の方に歩いていった。

ざっ、ざっ、ざっ……と枝をかき分けながら幾らか歩いて振り向くと、亜樹は未だ今まで沙羅が居た場所に佇んでいる。目が合うと。彼は睨み付ける沙羅に対して、余裕の微笑みを返してきた。

「何がそんなにおかしいのよ」
  もう相手はしないと決めていたのに、気付けばまた声を上げていた。挑発されていることが分かっていても、止まらない。

「その顔を見ているだけで、気分が悪くなるわ。お勤めが終わったのなら、早くご自分のお部屋にお戻りになれば宜しいのに」

「……言われずとも」

 そう告げた言葉とは裏腹に、亜樹は先ほどの沙羅より余程身軽に枝々をかき分けて進んでくる。そして、あっという間に沙羅の目前まで辿り着いた。

「私は、お戻りになればと申し上げたのよっ……!」
  どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。強い口調でそう告げて、また距離を置こうと試みる。だが、沙羅の今居るのは天寿花の林の一番奥、寄りかかった御神木の向こうは深い堀になっていた。要するにもうこれ以上は進めぬ行き止まりなのである。

「そんなに邪険にされるとは……心外ですね」
  そう言うが早いが、亜樹は御神木に左の手を置き、こともあろうに息が掛かるくらい顔を近づけて沙羅を覗き込んだ。

 ――何てこと……!

 亜樹のもう一方の右の手が自分の頬をかすめたとき、沙羅は反射的に払いのけていた。

「汚らわしい! そんな手で触らないで!」

 払った際に、少し爪痕を付けてしまったらしい。赤く筋が付いた腕を彼はさすった。

「……おやおや。これはまた、嫌われたものですね」
  亜樹はそれまでの行為が嘘のように、さっさとその場を離れる。

「今日は何をお話しても無駄なようですね、またご機嫌の良いときに参りましょう。……とは言っても」
  歩き去りながら、もう一度足を止めて首だけこちらに向く。

「あなたがいくらそのように俺を毛嫌いされても――程なく、始終、顔をつき合わせていなければならない御立場になられるのですよ? それは、ご承知でしょうね」

 そう言い残すと、彼は後ろ手にヒラヒラと手を振る仕草までして去っていった。

 

「……忌々しい」

 その背中に穴が空くほどに睨み付けていた沙羅は、彼の姿が視界の向こうに消えた瞬間にその場にぺたんと座り込んでしまった。外歩きように改めて貰ったとは言っても、こんな風に地に付いてしまえばその甲斐もない。肩に羽織った重ねも下にまとった正絹の衣も下に履いた長い袴も地に付いて良いような物ではなかったが、がっくりと膝から力が抜けてそれきり動けなくなってしまった。

 ちり、と頬が痛む。ほんの一瞬、指の先がかすめただけのそこが、火傷したように熱を帯びている。そのことが一層、腹立たしかった。
  座したままの姿勢で見上げれば、遥か頭上にまるで桃色の天井のように天寿花の枝が重なり合っている。

 ――本当だったら……。

 ふと、胸奥に想いが過ぎる。

 今の自分の立場ならば、皆、この天寿花の花の色のような幸せに包まれているのではないかしら? ――なのに、私は。

 何時の頃からか。亜樹は現竜王と同じ天真花(てんしんか)から作られた香を身に付けるようになっていた。沙羅にとって、その花の香は父君の薫りそのものである。あのような男が我が物顔で用いるなど、主君に対する冒涜と言えるのではないか。どうして、父上はそれをお許しになるのだろう……?

 とはいえ、香という物は身につける者によって同じ物を用いても微妙に違ってくる。亜樹のそれは父である現竜王の香とは明らかに違っていた。今の沙羅にはもしも目を閉じていたとしても2人のどちらが近づいてきたかすぐに当てられる自信があった。

 ……亜樹は天真花の香より、この前まで付けていた実香弥(みかや)の香の方が合っている気がするけれど……。

 沙羅は大きな溜息を付いて、そんなことを考えていた。

 

◆◆◆


「――あら、沙羅様。こんな奥までいらしゃったのですか?」
  幾らかの時間が過ぎてから、多奈が探しにやってきた。

「今、林の入り口の辺りで、亜樹様とすれ違いました。またあの御方が失礼なことを仰ったのでしょう……?」

 ぷりぷりと身体を震わせながら、彼女は言い捨てる。いつの間にか自分の怒りが側にいる彼女の方にも映ってきたのだろうか。そんな気がしてならない。でも、こんな風に同じ気持ちで憤ってくれる存在が、とても嬉しかった。ようやく、頬に少し笑みが戻ってくる。

「……分かるの?」

「分かりますとも!」
  多奈は思い切り胸を張った姿で言った。

「亜樹様は楽しそうに口笛など吹いておられましたもの。ああいう態度をなさるときは大体、姫様とやり合った後でしょう……。全く何を考えていらっしゃるのか、分かりませんわ」

 そう言いながらも、座り込んだままの沙羅に手を添えて立ち上がらせてくれる。もともと王族の衣装はその全面に豪華な刺繍が施されているだけあって、きちんと身につけるとずしりと重い。一度腰を下ろしてしまうと、沙羅のようにこの衣装に慣れ親しんだ者ですら、自力では立ち上がるのも難しくなるのだ。

 刹那。沙羅の重ねから透き通った薫りが漂う。 
  舞夕花(まゆか)と言う花の根から採れる香であった。スッと伸びたなめらかな葉の中で糸のような茎の先に清楚な花を付ける…野草に近い植物。鈴のように並んで開く指の先ほどの小さな花の色は丁度、沙羅の瞳と同じ濃紫だった。

「ああ、そうですわ、姫様」
  多奈は主人の衣を直しながら、ようやくここまでやってきた理由を思い出したようである。

「上様が、お昼のお膳をご一緒にとおっしゃったそうです。今、あちらの侍女がお迎えに来ておりますので……。お召し物もお取り替えになられた方が宜しいですね、お急ぎにならないと」

 多奈は当然のように主に手を差し出し、足場の良いところを探り当てながら花びらの中を先に立って進み出した。

 

「……姫様」
  いくらか歩いてから。多奈は朝から何回も心の中で反芻してきた言葉をとうとう口にした。

「亜樹様は……本日また、新しく側女(そばめ)をお迎えになられるそうですよ」

 そう言ったあと、ごくりと自分が息を飲む音が胸を震わせる。すぐには恐ろしくて後ろを振り向くことすら出来ない。大切な場面でこのように臆病になる自分も情けないと多奈は思った。

「……そう」

 静かに答える沙羅の表情は、伏せ目がちで心内は見えない。受け答えも淡々としたものである。それでも多奈の心はひどく痛んだ。 

 

 ……本当だったら、私だってこんなことを申し上げたくはないわ……。

 だが、そうもいかない。黙っていたところで、いずれは侍女達の噂話から面白可笑しく興味本位で広がってしまうのだ。その前にきちんと真実をお伝えしなければ。心ない者たちの言葉に自分の大切な女主人がこれ以上お心を乱されるお姿を見るのは忍びなかった。

 自分や大叔母がお守り申し上げようとしたところで限りがあった。この御館、いや都全体が竜王様を中心とする変化に乏しい空間である。浅ましい話題とは知りつつも、お上の方々の醜聞をまことしやかに語り合うのは侍女達のこの上ない娯楽なのだ。そう言うたぐいの話は尾ひれを付けてメダカが鮎になり…何時しか大魚に成りうる。

「竜王様の唯一の御子」という御立場を誰もが存じ上げている姫君ではあられるが……どうしてもその立場が曖昧で、噂話の標的には真っ先に上がってしまう。

 

「美莢様も……一体どういうおつもりなんだか」
  聞かせるでも聞かせないでもないような感じで、多奈はまたポツリと呟いた。


「鴇色(ときいろ)」…トキ(鴇・朱鷺・桃花鳥)の風切羽や尾羽の色による名。うすい紫みの赤。【色の手帖(小学館)より引用】
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