…沙緒の章番外編その4 「浅い夢」…
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「多香(たか)、そなたは今一度、都に上がる気はないか?」

 それは突然の問いかけだった。正月明けのまだ寒さの厳しい頃。だが暦の上ではもう春の節を迎えている。朝靄の晴れきらない居室。先日までは正月飾りのあった床にこんもりと活けられたユキヤナギが揺れている。それを背にした父の言葉を不思議な気持ちで多香は聞いていた。

「え…でも。お父様、わたくしは…」
 都、と聞いた瞬間に胸が高鳴った。もう二度と踏むことはないと思っていたかの地。徒歩(かち)で1日で辿り着くとは言っても、こうして山奥に引っ込んでしまうと出向こうとは思えない。しかし、彼女は艶やかな黒髪をやわらかな気の流れに乗せながら、心内を悟られないように俯いた。

「何を申す、話に聞いていた以上に産後の肥立ちも宜しい様子。これなら立派にお務めも果たせるぞ、案じるでない」
 ここ「北の集落」の長として、また都にあっては現竜王であられる華繻那様の一の侍従として飛ぶ鳥を落とす勢いの父・多岐(タキ)。しかし、自分にも周囲にも厳しいとされる彼も愛娘である多香を前にすると普通の優しい父親の顔になる。普段は都にいて、こうして対面するのも久しぶりだ。白髪を置いた髪を後ろでくくり、にこやかに微笑んでいた。

「…お務め?」
 それも懐かしい言葉だった。故郷であるここに戻ってから早いもので4年にもなる。正月に二人目の子を産んだばかり。二月まではまだならないが、慌ただしい日々を過ごしていた。もちろん長たる一族の直系の娘である多香にはちゃんと乳母(めのと)が付いている。それでも上の娘と産まれたばかりの息子、そしてあまり丈夫でない自分の身体をもてあましていた。

 父の真意が分からずぼうっとしている娘に対して、多岐はやわらかい声で話を続けた。

「そなたは、華繻那(カシュナ)様の正妃・沙緒(さお)様がもうすぐ御出産を迎えられることを知っておるな?」

「はい…それは」
 海底国全土を支配統一する竜王・華繻那様。その正妃様の御子である。世襲制である次の竜王様に一番近いお人と言えるだろう。おなかにいらっしゃるときから、国中の者の噂に上るのは当然のことである。

「このたび、乳母を選出する運びになってな。そなたの名が挙がったのだ。北の集落の出身であるし、何より華繻那様とは面識もある。そう申し上げたところ、上様もそなたなら、と仰ってくださって――」

「上様…あの、華繻那様が直々に…で、ございますか?」
 胸の震えが唇を支配する。かの方のお美しいお姿と深いお声を思い出す。忘れられるはずもない、生まれ落ちてからずっと、その方は多香の一番大切なところにいらっしゃるのだから。

「上様は折に触れて、そなたのことを聞いてくださる。今回も、正妃様が乳母を使うことに難色をお示しになって…ご自分でお育てになると仰って、上様のお言葉にもなかなか首を縦になさらなくて…だからこそ、そなたなら、と言うことになったのだ。それだけ、高く評価してくださっているのだ、有り難いことではないか…」

「…華繻那様が…」
 覚えず動悸が激しくなった。侍従の娘である自分のことをそれほどまでに気にかけてくださっていたなんて。身を切られるように辛い想いで都を離れたが、上様のことは1日たりとも忘れたことはなかった。忙しい日常で一日中思っているわけではない。でも、ふっと家事の合間に優しいお言葉やお顔を思い出してしまう。そんな時間が多香の幸せだった。

 …もう一度。あの御方のお側に上がれるのだろうか? そして、華繻那様の大切な御子様をお世話申し上げる…夢のような話だった。

 それにしても。どういうことだろう? 正妃様は乳母を取ることに難色をお示しになったと言うのか? 高貴な御方が一体何と言うことだろう…? 正妃様は「陸」の人間で、自分たち海底人とは全てが違っている。本当なら華繻那様の正妃様には一番遠い方。それなのに、華繻那様は周囲の反対を押し切って強引に妃に迎えられたのだ。正妃様としての何も備えていない御方。でも…華繻那様の寵の全てを独り占めしている。

 直接はお目にかかったことはない。彼女が竜王様の御館に身を寄せたのは多香が都を離れた後だ。でも良い噂は聞かなかった。異郷の者である彼女には後ろ盾もなく、孤独なのである。海底の者を捕らえて見せ物にしたこともあるという「陸」の住人。好意的に思う者がいるわけない。

 ただ、立場上…多香の叔母である多尾がその方の侍女になっている。北の集落の民として、表だって毛嫌いし出来ない微妙な立場にあった。それが口惜しかった。

 その様な御方にお仕えするのは少し気が重い。でもそのことがあっても華繻那様の御許でお務めを行えると思えば嬉しい。

「引き受けてくれるな、多香。お前が華繻那様の御子の乳母になれば、一族にも集落にも栄えあることになる。重い任だが…大丈夫だな…?」

「…はい、頑張りますっ…」
 多香はキリキリと痛いほどに高鳴る胸を両手で押さえながら、夢中で頷いた。

「では…私はここにしばらく滞在することとなった。その間に荷造りを済ませなさい。そうすれば一緒に上がれるからね。体調を整えて…急ぎなさい」

 父親の声を背中に受けながら、多香は「多の一族」の長の居室を後にしていた。

 

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 物心が付いた頃、多香はもう一年のほとんどを竜王様の御館で過ごしていた。父は幼いお世継ぎ様のご教育係、母は当時の竜王様(華繻那の父君)の御子のおひとりの乳母を申しつかっていた。
 竜王様にはたくさんの側女(そばめ)がおり、母のお仕えした方は立場上は華繻那様の御妹君に当たられるが、側女腹であった。正妃様からお生まれになった華繻那様とは半年しか違わない。両親が御館にいるので、多香も当然始終そこで過ごすことになった。
 北の集落の民は代々竜王家にとって有能な侍従・侍女としてお仕えするのが習わしとなっていた。決して出過ぎた真似はせず、しかしいつもお側にいて手助けをする。まるで身体を流れる血潮からその精神が流れているように思えた。

 同じ御館で過ごしながらも、多香は幼心に華繻那様や御妹君、あまたの竜王様の御子方とは立場が違うことを悟っていた。一歩引いて、出過ぎた真似はしないように心がける。誰から注意を受けたわけでもないのに、自然にそう振る舞うことが出来た。大人の多い場所で、そんな礼をわきまえた幼子はとても可愛がられた。

 恐れ多くも竜王様やお后様方にもお目をかけられ、高貴な方々に混ざって生活する。多香の子供時代は全てがきらびやかなものに溢れていた。

 特に華繻那は月齢もあまり変わらない多香を妹のようにも友人のようにも可愛がってくれた。幼き頃から、竜王家特有の漆黒の髪に墨色の瞳…北の集落の民と似ていながら、更に高貴な感じだ。

 華繻那様の御母上・正妃様は竜王様の3人目のお后様であられたが、他の正妃様同様に「西南の集落」の筋の御方だった。西南は赤毛で濃緑の瞳。だが、そんな御母上の御子にあっても、華繻那様は竜王家のお姿をなさっていた。

 

 そんな幸せな幼年時代にも影はある。大人たちや華繻那様から並々ならぬご寵愛を受けてしまう多香は、竜王様の他の御子方から疎んじられていた。乳兄弟の姫君とはご一緒に御針や手習いを受ける。しかし、何をしても多香の方が秀でてしまう。それにお気付きになる姫君の忌々しげな御顔が悲しくて、わざと手を抜いたりした。

 それでも姫君は多香を快くは思ってくださらない。兄君である華繻那様が2人が並んでいても多香に声をお掛け下さるのが気に入らないようであった。手習い用の筆を隠されたり、大切にしていた人形を捨てられたりと陰湿ないじめは続いた。色々と分別が付くようになっていたのだから、もう7つ8つになっていただろうか。

 とうとう大人しい性格の多香も御館に上がるのが嫌になり、御庭の先にある家族の居室に籠もりがちになってしまった。

 

 いつものように朝、両親が御館のお務めに行ってしまうと、やることがなくなる。一応、宿題として色々言いつかっていたが、そんなのは多香にとって簡単すぎる。御庭をぶらぶら歩いて、綺麗なお花を眺めたりしていた。寂しかった。

「…多香?」
 不意に背後から声をかけられる。ハッとして振り向いた。

「こ、これは…、どうなされましたか? 華繻那様。ただ今はご教育の時間では…?」

 昼の拍子木はまだ鳴らない。この地は竜王様の日程により、時が告げられていく。華繻那様は次期の竜王様として、たくさんのことを学ばれなければならない。それは主に御父君である現竜王様が直々に行われていた。朝餉が済んでからの数時間は大きな行事がない限りはそのために当てられていた。

 それでも今、自分の目の前におられるのは華繻那様に間違いない。見まがうはずもないじゃないか。多香は慌ててひざまずくと頭を垂れてご挨拶の姿勢を取った。そんな彼女の頭上にに華繻那の軽い笑い声が響いてくる。

「…もう良い。顔を上げなさい。お前は本当に礼に正しくて…少し寂しくなるほどだね」

 華繻那様はそんな風に仰いながら、きらびやかな御衣装が汚れるのも構わず、多香の座っていた樹の根元に腰を下ろした。自分の重ねを取って敷いて差し上げなければならないところだが、それも間に合わなかった。

「…稜(りょう)の君がまた何か申したのだろう?」
 稜の君、と言うのは多香の母が乳母になっている姫君の御名、要するに多香の乳兄弟だ。華繻那様は何もかもお見通しである。その洞察力の鋭さには多香も舌を巻いていた。

 それでも力無くかぶりを振る。姫君の悪口は言いたくなかった。

「…多香」
 華繻那様は困った御顔で微笑まれると、袂から何か白い包みを差し出された。

「珍しいものを手に入れたのでな、お前と一緒に頂こうかと思って探しに来たんだよ?」
 そう仰りながら、長くて綺麗な指が包みを開く。中からはとても美しい形の砂糖菓子が出てきた。宝石のように細かい造形を施されている。見ているだけでどきどきするほど素敵だった。

「多香、どれでも好きなものを取りなさい」
 何も言わず黙って眺めている多香を華繻那様はお優しい御声で促した。

「…え、でも」

 せっかくそう仰っていただいても、手を伸ばすことが出来ない。奥ゆかしすぎる多香を眺めていた華繻那は小さくため息を付いた。それから、すっと多香の手をお取りになる。産まれ月もあまり変わらない御方なのに、こうして目の前にすると、いくつも年長者のように思えてしまう。それくらい華繻那様は落ち着いていらっしゃった。

「そう遠慮するな。多香は甘いものでも食して、少しはふっくらしないとな…また熱が出るぞ」
 多香の手のひらの上に、菊の形をした綺麗な造形菓子が置かれた。花びらの外側は明るいピンク色で、中の方は白。ちょこんと葉も付いていて、それは黄緑。花びらの一枚一枚が今にも揺らめきそうで。まるで手の中で咲き誇る生花の様だった。

「綺麗…こんなもの、もったいなくて食べることなんて出来ませんわ…」
 多香は息を飲んだ。口に入れたらすうっと溶けてしまう砂糖菓子。舌の先に乗る大きさだ。咲き誇る花の命を摘み取ることがどうしても出来なくて、多香は黙り込んだ。

「そんなことを申しても。時間が経てば形を留めておけず、朽ちてしまうのだよ? 美しいうちに食した方が菓子も幸せなのだから…」
 華繻那様は紅葉の形の菓子をつまみ上げて、ご自分のお口に放り込む。さくさくと音を立てながらかみ砕いてしまう。

 砂糖菓子なんて、特別の行事の時か季節の節目の祭りの日にしか口に出来ない。王族の方はしょっちゅう口にしているのかも知れないが、多香にとっては特別のご馳走であった。優しい瞳が自分の動向を見つめていらっしゃる。華繻那様が勧めてくださるのだから、食べなくちゃ。もったいないなという気持ちをぐぐっと押し殺して、多香は花の一輪をそっと舌に乗せた。

 ふんわりと甘さが広がっていく。心までが温かく満たされていく気がして。それは菓子の甘さだけでなく、華繻那様のお心の暖かさのように思えた。

「多香」
 表情が少し緩んだのが分かったのだろう、華繻那様がやわらかく名を呼んでくださる。そっと顔を上げてそちらを見た。

「明日からはちゃんと館に来なさい、お前がいないと皆が寂しがるぞ」

 昼の拍子木の音が聞こえる。華繻那様はそっと立ち上がられた。慌てて続こうとする多香にさりげなく手を添えてくださる。触れた手のひらのひんやりとした感触に覚えず胸が高鳴った。

 その言葉に答える代わりに、じっとその御顔を見つめると。もったいないくらい素敵な笑顔で微笑んだ御方がそっと耳打ちされた。

「でも、一番寂しく思っているのは私だからね」

 

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 ゆるやかに、でも確実に時は流れていく。華繻那様は慣例通り13で元服を迎えられ、「南所」に移られる。「南所」とは次期竜王様がお住まいになる場所だ。それまでは御父君であられる竜王様と他のご兄弟方と共に「東所」で過ごされていた。

 多香は母親が華繻那様の御妹君の乳母であるから、そのまま東所にいるべきだった。でも適当な侍女がいなかったことから、華繻那様の身の回りのお世話をする者として、南所に移る。まあ、父親である多岐はそのまま華繻那様付きの侍従になっていたから、慣れない場所で心細いということはなかった。

 それどころか、華繻那様が元服のための行事を全て終え、その副臥(そいぶし)に上がったのは多香だった。副臥とは王族の御方が元服の夜、初めて閨に女子を召す行為である。こう言うと生々しいが、まだ幼いばかりのふたりであるから、ただ枕を並べて休んだだけのこと。それでも多香にとっては畏れ多いことであり、一族にとっては誉れ高いことであった。

 華繻那様の正妃様はもう早くから決まっていて、西南の集落の大臣様のご息女だった。ただ、その御方はまだ年若で心許ない。それでも才のある侍女を伴って輿入れをしても良かったのだが、大臣家の方から「待った」がかかった。次期竜王様に召される者として恥ずかしくないよう、もっと教育をしてからにしたいという意向である。竜王家としても異存はなく、それに従っていた。
 もちろん竜王様というこの上ない高貴な御身分ともなれば、妻はひとりではない。華繻那様の御父君である現竜王様は常に10名近い側女(そばめ)を抱えられていた。御子様も多い。ただ世の常として高貴な御方の御子は病弱であられ、華繻那様は3人目の正妃様の御子。元服までお育ちになった最初の男君であられる。

 華繻那様にもたくさんの側女がいて当然である。まあ、「側女」と銘打って御館に上がる女子はほとんどなく、寝所を共にして初めてそう呼ばれる。最初は侍女としてお側にお仕えすることになる。だから、華繻那様のお住まいになる「南所」にも様々な集落から集まったたくさんの侍女がいた。その誰もが側女候補であり、将来の国母ともなりうる者たちだ。
 その者たちがそれぞれにきらびやかに装い、華繻那様のお気を引こうと躍起になっている傍で、多香はいつも一歩下がって静かにお務めをこなしていた。そんな多香を華繻那様は一段と可愛がってくださる。

 

「多香、若様のことをお慕い申し上げておるな?」
 そんなことは言われるまでもないのに、折に触れて父である多岐はそう聞いてきた。

 多香は答えることが出来ずに真っ赤になって俯く。だって、あんなにお美しくて素晴らしい方、お慕い申し上げない変わり者がいるなら会ってみたい。どなたでもひとめで心を奪われるはず。

 そして、とうとうある日、父はいつもの言葉に続けてこんなことを言い出した。

「お前さえ良ければ、若様の側女にしていただこう」

「…え?」
 顔を上げた多香の表情がみるみる曇っていく。それを目の前にいる父も感じ取っていた。

「多香、側女に召されることだけでも光栄ではないか。お前は幼き頃からお側に仕えて、打ち解けている。若様の乳母である美守(みもり)様はとても厳しく気むずかしい御方だが、お前のことは可愛がってくださる。側女とはいえ、お前が若様にとって一番の理解者となり支えになることは間違いないのだよ…?」
 ひとことひとこと、言い含めるような言い方だった。きつい、押しつけた物言いはしない父だ。お心の中では強いものを持っていたとしても、やわらかく諭される。

 多香は小さくかぶりを振った。父の言い分は分かっているのに、どうしても納得行かなかったのだ。

 副臥に上がったことからいっても、多香が華繻那様の側女になるのは誰からも当たり前のように見られていた。こうして御館で過ごすとただの使用人であるが、里である「北の集落」に戻れば、長たる一族の一員。過去にもたくさんの側女を差し上げてきた家柄だ。血筋としては申し分ない。
 女子としての適齢期に入った多香はいつかその様に促されると知っていた。でも、どうしても頷けない。

「…側女は、嫌です」
 小さな、でもしっかりとした声で多香は答えた。その目にはもうたくさんの涙が溢れていた。

「…多香」
 多岐は困ったようにため息を付くと娘に向かう。

「分かっているだろう? お前は正妃にはなれない、もうそれは西南の姫が決まっているだろう? 私だって出来る限りはお前を幸せにしてやりたいが、分相応と言うものはある。分かっておくれ…」

 そう言われてしまえば、何も言えない。でも、側女は嫌だった。

 

 多香の母は父の正妻である。だが、集落の長たる一族の次期頭領として、父には何人かの側女がいた。そしてそこにも父の子があった。多香の弟や妹に当たる者たちだ。高貴な身分としては当然のことである。でも、身体の弱い母が帰りを待っているのに、当たり前に他の女子の元に通っていく父をどうしても許せなかった。

 側女として華繻那様の元に上がれば、正妃様を苦しめることになるのだ。それは多香でなくても誰かがすることだし、別に悪いことではないと思う。正妃様だってそのくらいはわきまえていらっしゃるだろう。

 

「父上…私は、側女にはなりません。でも…一生、華繻那様にお仕えいたします」

 夢に見ないことはなかった。華繻那様のことはもうずっと特別の存在として、お慕い申し上げている。本当に眩しいほどに素晴らしい御方。お姿がご立派なだけではなくて、心映えも優れていらっしゃる。下々の者にも偉ぶることがなく、いつでもお優しい。そんな御方に愛されたら、どんなにか幸せだろう。
 でも、今少しで正妃様はいらっしゃる。そうすれば、華繻那様のお心もその方に移ってしまうだろう。そうなっても、または多香ばかりを愛されても、どちらにしても困ることになる。

 誰にでもお優しい華繻那様だ、別に多香に寄せられる暖かさが特別なものと言うわけではない。そう思わなくてはやっていけなかった。

 

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 それからしばらくして、海底国を震撼させるような大事が起こった。

 ――竜王様の御崩御。

 次期竜王様のお立場にあった華繻那様は優れた御方だったので、そのご教育はほとんど完璧なものになっていたという。ただ、あくまでもそれは書物の上のことであり、実践を伴っていなかった。これから竜王様に付いてひとつひとつこなしていく段階に入る矢先のことであった。

 新しく竜王様になられた華繻那様の両肩には信じられないほどの重責が突如のしかかってきた。全てが新しいことの連続。寝ても覚めても気の休まることのない日々。お側に仕えている多香にはそれが自分のように痛々しく思えた。御父上の御崩御の際にも悲しみを隠し、気丈に立ち振る舞われたが、いきなりの出来事に心身共に参っていらっしゃるご様子であった。

 

 その後、数年はただただ御公務をこなされるだけで手一杯の毎日。正妃様の御輿入れの儀も延期されていた。決まった側女も持たず、華繻那様はただただ、必死に全てをこなされていた。多香はお側でただそれを見守ることしか出来なかった。

 

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 気が付くと多香は16を迎えていた。殿方に嫁ぐには最適の年齢になっていたのだ。でも彼女にはそんな気もなく、ただお務めとして華繻那様にお仕えしていた。

 しかし、今度は多香自身にも不幸が降りかかってきた。

 かねてより病床にあった母親が亡くなったのだ。父に仕え、病弱な体を押して都に上がり竜王様の御館にお務めしていた。その無理がたたったのだろう、竜王様御崩御のゴタゴタの後はすっかり床についてしまっていた。多香もお務めの合間を見て、必死で介抱した。でもとうとう秋の花が散るように、静かに逝ってしまった。亡骸と共に里に戻り、盛大な葬儀が行われた。

 しばしの休暇の後、都に戻る。しかし、多香の衝撃はそれだけでは済まない。なんと父が…多岐が里にいた側女のひとりを後添えとして都に連れてきたのだ。その者は今まで母がしてきたように、多香親子の居室で当たり前のように生活をするようになった。
 年頃の多香にとっては許し難い行為であり、最愛の父を裏切り者とすら感じでいた。

 いくら気丈に振る舞っていても、ふっと力が抜けた瞬間、涙が溢れ出る。柱の影に隠れて、人知れず涙することも多かった。

 

「…多香」
 ある日、御衣装部屋でひとり衣の手入れをしていた。すると竜王様となられた華繻那様がそっと入ってこられた。

「…あ、はい。何か御用でしょうか? 上様」

 多香は慌てて顔を袖で拭う。しかし、それに気付かないかの人ではなかった。綺麗な眉を少し歪ませると、そっと歩み寄られた。お美しい髪が辺りに漂い、お使いになっている天真花香の香りがふっと漂ってくる。甘くてやわらかくて、多香の大好きな香だった。

「また、泣いていたのか?」
 お側に寄られると、すっと多香の頬に手を添えられる。

 ひんやりとしているのにどこか温かい長い指。こうして触れていただけるだけで、畏れ多いことだ。女の童(めのわらわ)の頃に戯れていたのとはもう立場が全然違うのだ。この御方は海底国を支える素晴らしい方なのだ。

 多香は黙ったまま首を横に振った。泣いていたのは頬が濡れていたことで丸分かりなのであるが、それでも。

 華繻那様はふうっとため息を漏らされると、そっと多香の肩を抱いた。

「また、やつれたな…食べてないのだろう? お前まで倒れたら、多岐がどんなに嘆くだろう、もう少し自分の身体を大切にしなさい…」

 その声に。多香はゆっくりと泣き顔を上げた。そして、かすれる声でゆっくりと告げる。

「…父上は、私などいなくても…あの方がいればいいんです…」

 ぽろぽろと涙が溢れてくる。当たり前のように新しい妻を居室に迎え入れる、そんな父が信じられなかった。あそこは自分と両親の居室なのに、父の世話だったら自分がいれば充分なのに。どうして、あの人を…。

「多香…」
 そう多香の名をお呼びになる、華繻那様の御声が震えていた。

「そんな風に申すな…お前がいなかったら、どうするのだ。悲しいことを申すでない…」

 そう仰りながら、多香の小さな手を包み込む。そっと御顔を寄せられて。

「早く元気になりなさい…そして、笑っておくれ。お前はずっと、私の傍にいておくれよ?」

 ふたりにしか届かない、秘密の言葉だった。多香はドキリとして、すっと後ずさりする。このまま華繻那様のお側にいたら、どうにかなってしまいそうだ。心がぐらぐらして、自分の意志ではどうにも押さえきれなくて。

 薄暗い部屋にふたりの呼吸だけが響く。やがて、ゆっくり言葉を発したのは多香の方であった。

「そんな…もったいないお言葉を…」

 俯いて自分の重ねを握りしめる。さらさらと髪が流れていく。華繻那様の御衣装がすぐそこに見える。きらびやかな文様を施したそれは、多香のものとは全然違う。それだけで立場の違いを遠く感じてしまう。

 

 どんなにお慕いしていても、華繻那様と自分の間には深くて遠い距離がある。どんなに頑張っても、華繻那様の一番大切な人にはなれない。この御方を愛しても、ずっと満たされないものを抱いていくのだろう。それは正妃様であっても同じことなのである。

 どうして一番になれないのだろう、どうして誰よりも大切な人にしていただけないのだろう…? 多香の心の中には華繻那様だけがいらっしゃるのに、ずっとずっとお慕い申し上げているのに。多香には華繻那様しかいないのに。

 このまま側女に上がっても、きっと辛い日々が待っている。もったいない立場でも、きっと拭いきれない寂しさが付きまとうだろう。そんなことになるのなら、ずっとこのまま侍女としてお側にいたい。それなら一生変わらずにお側にいられるだろう…でも。

 もうあの居室にはいたくない。あそこであの人と共に暮らすのは嫌だ。別に冷たくされるわけではない、心優しい方だ。正妻の子である自分のことをとても大切にしてくれる。でも、母ではない。全然別の人なのだ。

 

 多香の心は千々に乱れた。華繻那様がお気遣い下さるのが分かれば分かるほど、胸が苦しくなった。だんだん体調が悪くなって、お務めも休みがちになっていった。
 元から病弱な母親の血を引いて、身体の線も細く弱々しい娘だった。しかしここまで来ると、父親として多岐も見るに耐えなかったのだろう。ある日、彼は思い詰めた顔をして、床についたままの多香の枕元にやってきた。

「…多香、大丈夫か?」

 その声には黙ったまま、頷くしかできなかった。もう、このまま死んでしまうのかな? とすら考えていたのだ。そうすれば母の元に行けるかも知れない。出来ることなら、本当にそうしたかった。

 多岐はそんな娘を寂しそうに見つめた。そして、何度か咳払いをしたあと、重々しい声で告げた。

「…多香。そなた、里に戻るか…? 私は、もうこんな姿を見てはおれない。天に召された母の為にも幸せにならなければいけないよ…」

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