…沙緒の章番外編その4 「浅い夢」…
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 父の滞在する居室を訪れたときはまだ朝の早い時間であったが、今はもうすっかり靄も晴れ渡りすっきりした陽気になっている。

 気持ちいい気を吸い込むと、この頃になく気分が良い気がした。この数日、体調が優れず、産まれたばかりの乳飲み子をずっと乳母の元に預けていた。今日は迎えに行けるかも知れない。

 

「…多紋(タモン)様…っ!」
 多香は居室の引き戸を引くと、明るい声で叫んだ。

「お帰りなさい、多香様」
 その人は静かに立ち上がると自分の手にしていた湯飲みを置く。そして、多香の分の茶を注いでくれた。

「急いで走って来ましたね? あまり急に身体を動かすと、また具合が悪くなります。お気を付け下さらないと…」
 言葉そのものはぴしゃりと言い放っているようだが、その口調はやわらかく、表情も穏やかだ。全てを包み込むような笑顔で多香を見つめる。黒い瞳、「北の集落」の民特有の闇の色だ。

「でも、わたくし…」

 どうして急がずにいられるものですか、心が浮き立っていたのですもの。そう心の中で反芻しながら、しかし、やはりたしなめられたのが恥ずかしくて俯いてしまった。ふせっていた間、家のことはみんな任せきりだった。急に動いてまた体調を崩したら、迷惑をかけてしまうのだ。

「いいお話だったでしょう…?」
 朝の冷えた気に湯飲みからはふわふわと湯気が立つ。その向こうで、微笑んだ人がゆっくりと訊ねてくる。

「ご存じだったのですか? それならば、どうして先ほどお話し下さらなかったのです?」
 その言葉には少なからず驚いた。椅子に腰を下ろすと、湯飲みを両手で包む。少し恨みがましい顔で目の前の人を見つめた。

 

 朝、珍しく揺り起こされた。この人が自分を無理に起こそうとするなんて、そうないことだ。

「多香様、昨日の夜遅くに多岐様がお戻りになられたんですよ。すぐに長の居室まで来るようにと申しつかったので…御支度なさってください」

 その声は寝起きのせいか、とても遠く聞こえた。

 支度を終えて、居室の戸に手をかける。そこで、おかしいなと思って振り返った。

「…あの。多紋様はご一緒に行かれないのですか?」

 歩いてそう距離のない目的地だ。でも自分が外を歩くとき、いつでも心配そうに付いてきてくれる人だった。特に産後の肥立ちが良くなくて、ふせっていたのである。こんなときに一人歩きをさせられたことなどなかったのに…。

「私は、差し迫った仕事がございますので。多香様、おひとりでいらっしゃってください。御父上様にお目にかかるのですから、水入らずが宜しいのではないですか?」
 彼は棚からいくつかの陶器の器を取りだしていた。頼まれものの薬の調合でもあるのか。そんな感じだった。多香はあまり気にも止めずに、都から戻ったという父の居室に向かったのだ。

 

「でも、良いお話は直接伺った方が宜しいかと思いまして…」
 彼はゆっくりと多香に向き直った。この人は視線で包み込んでしまうのだ。多香の細い身体など、すぐにふんわりと暖かくなってしまう。

 太い指が湯飲みをテーブルに置いて、すっと立ち上がる。どこかに出掛ける用事があるのだろうか? それならば、御支度を手伝わなければ…。

 多香は椅子から立ち上がりかけたが、すぐにやわらかい視線に制されてしまう。自分のことなど何でもひとりで出来る人だ。それどころか、家回りのことも、家事も、多香よりも数段上手い。敵うものと言ったら、針仕事くらいだが、彼とて繕い物くらいは出来る。

 ふうとため息を付いて座り直す。そして次の間に消えた人の気配をそっと伺った。よくよく見るとテーブルには小さな布包みがある。これをどこかに届けるのかも知れない。

 彼の仕事は薬師なのだ。と言っても、集落には彼よりも偉い地位のある薬師様がいくらでもいる。その様な方に頼まれて薬の調合などを請け負っていた。そのために庭先で薬草を栽培し、時には村の外れの山まで材料を探しに行く。乳鉢の中で様々な物をすりつぶし調合していく。その時のやわらかい音が多香はとても好きだった。

 

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 都から、故郷であるここ「北の集落」に帰り着く。故郷と言っても、年のほとんどを都の竜王様の御館で過ごしていた多香だ。あまり馴染みのない土地だった。多香は集落の長たる一族の直系である。父の多岐は先年、先代の長…要するに多香の祖父に当たる人であるが…からその地位を引き継いで、集落の長となっていた。

 多の一族本家は集落の中心部、一番開けた明るい豊かな土地にその邸宅を構えていた。

 海底の暮らしは「居室(いむろ)」と呼ばれる小さな建物がたくさん寄り添って出来ている。多岐の居室は部屋数も多く立派な造りであるが、それは公の場所としての意味を兼ねているからであった。多岐は通常は都で華繻那様の侍従として仕えている。だから、長の居室には多香の叔父に当たる人が留守を守って住んでいた。

 

「里に戻るか?」

 父親である多岐はそう告げた。でも一緒に戻ろうという意味ではない。それくらいは多香にも分かっていた。父が華繻那様の侍従を辞めるわけはないのだ。多香は慣れない土地でひとりぼっちになってしまうことになる。長の娘として、民は皆、気遣ってくれるだろう。でも、優しかった母は亡くなってしまっている。心を許せる者など存在しないのだ。

 そして、集落に戻った翌日、長の居室の客座で父から多紋を紹介された。

 若い娘がひとりきりで生きていける筈もない。当座のことであれば、叔父の住まう長の居室に身を寄せても良いだろう。でもそれではお互いに気を遣い合うことになる。多香は集落の長の娘、それにただひとりの正妻の子なのである。女子とは言っても、現段階では父に継いで地位が高くなる。

 里に戻るか、と言う意味が何であるか、多香にも薄々は気付いていた。そうであっても、もう都にはいられない、仕方のない選択だったのだ。

 

 多香の目の前に現れた人は、簡素な衣装に身を包んだ村男だった。まあ無理もない。きらびやかな都で殿上人の中で生活していたのだ。ひなびた田舎に住む者はみんな垢抜けない様に目に映る。それをあからさまに表情に浮かべるほど、気の利かない女子ではなかったが、それでも次の言葉を失っていた。

「多紋」と言う名から全てが分かる。「多」の文字が付くのだから、多の一族の者には違いない。しかし直系であれば、呼び名を二音にするのが決まりである。「タモン」と三音になることから、直系よりは地位が下の分家の存在であることが伺えた。長の邸宅から、少し離れた山間の村にある一族で、しかも跡取りではない。多紋の家はもう兄が跡を取っていた。

 

「…あの御方が、わたくしの夫になるのですか?」

 大人しい性格の多香も、多紋が退出したあとに父に尋ねずにはいられなかった。多の一族の長の娘なのである。どうして自分よりも地位が下の男に縁付かなくてはならないのであろう。納得がいかなかった。分家筋の次男坊と言うなら、あまりに多香とは身分が違いすぎる。

 眉をひそめた娘を多岐は何とも言えない瞳で見つめた。そして、静かにこう言う。

「多香、許せ…これはそなたの母の遺言であってな…」

「え…?」
 父の口から、亡き母の話題が出てきて、多香は少なからず動揺した。

「母上が? 何と仰ったのですか…?」
 生前、母とその様な話は一切したことがなかった。だから母が父に何と言ったのか想像も付かない。腑に落ちない顔で見つめてくる娘を多岐は静かに受け止めていた。

「そなたの心内は私にも分かるよ。そうであろう、北の集落の長たる一族の直系の娘なのだ。どんなに高貴な御方の元にも縁付けよう。…もちろん、身分は正妻だ。お前が側女にならなくてはいけないとしたら、かの御方くらいだろうな…」

 かの御方、他の誰でもない…華繻那様だ。多香は再三に渡る側女の話を拒んだ。本当ならそう言うお話に異を唱えること自体が畏れ多いこと。罪に値する。多の一族の者でなかったら、追放の身の上になっても仕方ない。

 父の言葉は過ぎたことをなじる様子もなかったが、多香としてはやはり後ろめたさを拭えなかった。

「しかし、それではお前が真の幸せを得られぬと母は申してな。お前は身分や地位に関係のない男と一緒になるべきだと。あの男の出身地は母にゆかりのある里だ。…それに彼の心映えは言うに及ばず。純朴な優しい男だ。集落じゅう探しても彼以上の者はないと思う」

 …でも。

 言いたい言葉は飲み込んでしまった。自分では受け入れることの出来ない事態だ。あのような男の妻になれば使用人を雇うのも難しい。確かに身分から言って、側女を抱えることなど出来ない。それは誰の目からも明らかだ。次男であれば、多香があちらの集落に嫁ぐのではなく、男が婿入りする形になる。それにしても格段の出世になるのだろう。

「お前は、本当に、幸せにならなくてはいけない。母が望んだように…」

「はい…」
 多香は長いまつげをふせて、俯いた。その美しい横顔はもはや何も映してはいなかった。


 多の一族の華やかな祝言が執り行われる。集落の各地から、そして他のあまたの集落からも祝いの客が訪れた。

 何しろ現地点では多香は次期長の筆頭なのだ。もちろん、都からもたくさんのお祝いの品が届けられた。その中には畏れ多くも竜王・華繻那その人からのものもあった。華繻那様の乳母である美守様、そしてあまたの御館の方が祝ってくれている。それは嬉しかった。

 でも宴の最中も雛壇に座っていながら、実感がない。自分のために皆が祝ってくれているという気分もなくて、他人事のように思えてしまう。生気の抜けた人形の様だった。まあ、ある時期から多香は心をなくしていたと行っても良い。時々、ちらと隣りを盗み見た。
 真っ白な装束で再び目の前に現れた多香の夫は、始終俯いて恥ずかしそうにしていた。自分の置かれた立場に臆している様にすら見える。一通りの作法は身に付けており、失態など犯すこともなかった。それでもまっすぐに多香を見つめることすらない。言葉も必要以上に交わさなかった。

 このような者と、この先暮らしていけるのか、心内では大いに不安であった。華繻那様であれば、大人しい多香が黙っていても、次から次へと穏やかに話題を提供してくださる。にこやかに微笑まれて、多香をまっすぐに見つめられて…その御姿以上に大きく凛々しい御方だ。離れてみて改めてそれが強く感じられた。
 その上、自分の夫はただ人なのである。どうしても較べてしまう。村人としては何の不足もない者でも華繻那様と較べられたらひとたまりもない。そんなことは失礼だ。そうは思っても辞めることは出来なかった。


 長の居室からほんの少し離れた場所に新居である居室をしつらえられた。部屋が4つほどある、集落の中では大きいものだ。そこにふたりで暮らし始める。当時は会話も少なくて、どうしようかと不安になった。

 多岐はもちろん、新しい夫婦の居室に使用人を置こうと提案した。

 御館のお務めが長く、家のことはあまり明るくない多香だ。身体もそれほど丈夫な訳ではない。人を雇って手を貸して貰う必要があった。でもその話には多香より先に多紋が待ったをかけた。彼は立場もあってか、おずおずと父に申し上げる。多香様の身の回りの御世話なら、自分一人で充分です。とても人を雇って手を煩わせるような真似は出来ません。お許し下さいませ…と。

 この言葉には多香も異存はなかった。誰かを使うことなど想像も付かない。だから多紋の申し出は有り難かった。でも実際に暮らし始めてみると戸惑うことばかりだ。何しろ会話がない。多紋も多香も大人しい性格で自分が主導権を取るような感じではない。会話も弾まないのは当たり前だ。「おはよう」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」と言う挨拶の他は、本当に必要なこと以外は話をしなかった。

 

 多紋は家にいることが多い。多紋の家は薬の調合を手がける集落にあったから、彼もその道には明るかった。自分で薬草を育て、色々見聞きしては新薬を調合する。身体の弱い多香にとって、薬師である彼は心強いだろうと他人の目には映っただろう。
 でも実際、多香が多紋の作った薬を使うことはなかった。それは多香がそうしたわけではなくて、多紋自身が…多香に必要なものは全て、一族一番の長に整えて貰うように取りはからっていたのだ。同じ薬草を使えば誰が調合しようと変わらぬ気がする。それでも彼はその方針を貫いていた。

 言葉もなく、薬を調合してはすりつぶす音を聞きながら、多香も静かに針仕事をした。水汲みも洗濯も夫がしてくれる。かまどの火を起こすのも、燭台の火を灯すのも全てやってくれた。ほとんど腰を下ろしたままで、居室の中にもうひとりの人の気配を感じ取りながら、ひがな1日をのんびりと過ごしていった。

 

 婚礼から幾日が過ぎたのかも分からなくなるほどのゆるやかな時が流れていく。でも、半月ほどがたった頃、多香にはひとつの不安が沸き上がっていた。

 …多紋との、夜の生活がないのである。

 初めは慣れない里暮らしに戸惑う自分を気遣ってくれているのかと思った。でも寝所とした部屋で寝台を並べて休むのに、何もないというのはどういうことであろう。彼が下男であるというなら分かる。でもそうではないのだ。他の何者でもない、多香の夫なのだ。

 同じしとねで休まなければ、身体の関係を持たなければ、いつまでも婚礼の夜の衣を改めることが出来ない。多香は純白の寝着を夜が来ると身に付け、朝が来ると改める――そんな生活をずっと続けていた。それは多紋も同じである。このようなことで、あからさまに夫婦の実状が分かってしまうと言うのも恥ずかしいことだ。

 この時ばかりは、使用人がいなくて良かったと、心底思った。

 当たり前のように、「お休みなさいませ」と寝台に横になってしまう夫。多香は日常のリズムが戻ってくるに付け、集落での自分の立場がとても心許ないものに思えてきた。

 

 心を打ち解け合う友人もない、親もない。誰もが多香を高貴な身の上として大切にしてくれる。でも、それでは寂しくなってくる。

 何もない毎日では、窓の外を行く、村人たちが嫌でも目に付いてくる。その中には新婚の夫婦もいた。ふたりで連れだって、手を繋いだり、肩を寄せ合ったりしている。小鳥がさえずり合うように言葉を絶えず交わして。人目を憚らない醜態というほどのものではない。でもくすぐったくて微笑ましい日溜まりのように見えた。

 それを知らず羨ましいと思っている自分。本当なら自分だって同じ立場なのに。

 多紋は本当に穏やかに接してくれる。慣れない家事で多香がひどい失敗をしても、決して声を荒げて叱りつける様なことはない。うなだれる多香の心中を察しているようにゆったりとした口調でやり方を教えてくれる。それは有り難かったし、傍目から見ても大切にされていると思われているだろう。それでも、一度湧いてきた疑問は二度と拭い去ることが出来なかった。

 腕に抱くどころか、手も握らない。この人のぬくもりなど一度も感じたことがない。そうなってくると優しい言葉すら、ただの型どおりのものの様に思えてきてしまう。心に迷い込んだ感情が日々大きくなり、いつか嵐のように吹き荒れ始めた。


「…多紋様…?」

 ある夜。いつものように隣りの寝台で休んでいる夫に、多香は意を決して声をかけた。しとねに横たわっていた身体をゆっくりと起こして。自分に背を向けている人に話しかけたのだ。

「はい?」
 まだ完全に眠ってはいなかったらしい。すぐに反応した多紋が寝返りを打ってこちらを向き直る。そして、多香が上体を起こしているのを見て、自分も慌てて起きあがった。

 多香も、そして彼も全身が白装束だ。衣から冷ややかな気が滲み出てくる気がする。汚れのない色は同時に何者も寄せ付けない強い力を持っている。いつもは草木染めの暖かい色調の衣を付けている夫がとても遠く見えた。

「如何致しましたか? 御気分がすぐれませんか?」

 秋から冬へ、北の集落では厳しい季節の到来だ。ここよりも温暖な地で過ごしてきた多香にとってはいくら衣を掛けても寒々しい夜だった。それを知っている彼は心配してくれたのだろう。

 しかし、多香は。小さくため息を付くと、ふっと俯いてしまった。恥ずかしくてどうやって話を切り出したらいいのかも分からない。女子がこうして先に立って行動することではないと思う。でも、夫からの働きかけを期待しても無理な気もした。膝の上にかかってる寝具代わりの重ねをきゅっと握りしめる。

「…あの、わたくしは…多紋様の妻なのですよね…?」
 消えそうな声で訊ねる。こう言うだけで、もう身が焼けてしまうくらい、恥ずかしい。心臓がどくどくと波打つ。

「多香様?」
 彼の方も何が何だか分からないように、こちらを覗き込んでくる。ふわりと薬草の香りがする。それだけで心が穏やかになるような優しい匂いだ。

 多香は自分の心を少しも察してくれない彼に苛立ちを覚えつつ、話を続けた。

「わたくしたちは誠の夫婦(めおと)でありがなら…どうして同じしとねで休まないのでしょうか? このままではこの衣を別の色に染め上げることも出来ませんわ…」

 重ねを握りしめたままの手が震えている。その上に、ぽたんと雫が落ちた。身体の奥底から悲しみが湧いてくる。ぽたぽたとどんどん雫は降りしきる。

「…多香様?」
 細い肩を震わせて泣きじゃくる妻に多紋が声をかけてくる。戸惑いを隠せない感じで。

「あの…多香様。その様なこと…」
 自分の寝台を降りた多紋はふたつの寝台の間の空間にそっと跪いた。その姿勢で多香を見上げる。

「その様なこと、仰ってはなりません。あなた様は竜王様の側女に上がられるお立場にあられた、高貴な身の上…私など、手に届く御方ではございません。お側で御世話をさせて頂くだけで、光栄です。…それ以上のことは…とても…」

 多香は我が耳を疑った。何と言うことだろう、夫は初めから自分とまみえるつもりなどなかったのだ。ただ、傍に仕えて侍従の様に世話をする者として、ここにいるつもりなのだ。期待していた夫ではない。でも多香としても夫婦となるからにはそれなりの覚悟をしていた。御館務めの侍女として、男女のことは一通り見聞きしていた。詳しい知識はないものの、誰かの元に娶られればそう言う行為に及ぶことは承知していた。

「…ひどい…」
 多香はこれ以上耐えきれず、両の手で顔を覆ってしまった。

「わたくしでは、多紋様の御相手など務まらないと…そう仰るんですね? あなた様が、そんな御方だったなんて…」

 男が欲しいとかそう言う浅はかな感情はなかった。しかし、世の常として、男は女子と寝所を共にすればおのずとそう言う感情が芽生えるものだと聞いていた。それなのに、今までも、そしてこれからも…この男はそう言う気にならないと言うのか。自分は女子として、どうにもならない存在だというのか…!?

 ひとりきりだと思った。たくさんの民がいるのに。都ほどの賑わいはないにせよ、大きな力のある集落である。いつでも活気に溢れて、心が浮き立つような覇気があった。
 
 でも多香の心の中には冷たい風が吹き荒れている。このまま、誰からも顧みられず、寂しいまま生涯を終えるのか? 一人っ子のせいか、姉妹のように友達のように親しくしていた母が亡くなってから、ずっと満たされない想いを抱いていた。身体がだんだん冷たくなって、心が動かなくなる。そう言う人形になって生きろと言うのか? 父が選んだこの男は。

「そ、その様なことは決して…!! しかし、多香様はお美しくて…眩しくて…とても、私など…」
 大きくかぶりを振りながら、でもどうにかして慰めようと言葉を探す。でも、彼の性格では気の利いた言葉など出てくるわけもない。震える言葉が宙を切る。

 多香はふうっと顔を上げた。泣き濡れた瞳で夫と言う立場の男を見つめる。きゅっと唇を噛みしめた。

「お願い…多紋様…」

 そっと。その人の衣の襟を捉える。細い指、頼りない腕。だから愛して貰えないのか、母がみまかった今、もう誰も自分になど見向きもしないのか。あまりにも深い絶望に身体が堕ちていくようだ。

「いけません、多香様…」
 いつも見つめていた大きな手のひらが多香の手首に絡みつく。そこから感じ取れる熱。太くて弾力のある指が痛くはない力で束縛してくる。でも、彼を捉えた手を離すことは出来なかった。多香はおなかにぐっと力を込めた。

「多紋様」
 まっすぐにその人を見て。涙がぼろぼろと落ちていくのも構わず、詰め寄った。

「この地では、多の一族の長の家は絶対な力を持っているのだと聞きました。今の段階ではわたくしは次期の長に一番近い立場にあります。父が都に戻られた今、この地で一番の権力者はわたくしのはずです」

「…多香様?」

 いつになく強い口調に多紋が息を飲む。多香としても恐ろしかった、こんな風に権力を振りかざしたのは生まれて初めてだ。心地よいものではなかった。それどころか吐き気すら覚える。でも、必死で言葉を絞り出す。

「でしたら、あなた様はわたくしの欲求は聞かなくてはならないはずだわ。そうでしょう? 長の言葉を裏切るわけにはいかない…」

 唇が大きく震える。息があがって喉を圧迫する。目眩がするほど苦しい。

「…お願いっ…」

 崩れ行くように多紋の胸に飛び込んだ。

「わたくしを、ひとりにしないで…」

 

「多香…様…っ!」

 その時、多紋の腕が多香の背にふんわりと巻き付いてきた。気が付くと多香は夫の胸に強く抱きすくめられていた。淡々とした口調に反して、そこは煮えたぎるように熱くて。震える身体全体が大きな炎の如く思えた。

 逃れられないものに捕らえられて、初めて自分のしたことの重大さに気付く。そのまま多香は後悔という言葉も浮かばないままに、大きな波の中に飲み込まれていった。

 

「…大丈夫ですか…?」
 けだるくて身体が動かない。腰の奥が重くて声を出すのもしんどい。そんな自分を夫は湯桶に浸した手ぬぐいで清めてくれている。それを感じ取りながら、それでもなすがままになっているしかなかった。裸体を晒していることも、誰にも見せない場所を見られてしまったことも触れられてしまったことも、とても我が身に起こった出来事とは思えなかった。

 やがて、始末を終えて、多香に新しい寝着を着せてくれた人が、そっと寄り添ってくる。その気配から自分を持ち上げて、寝台に返そうとしているのだと知った。多香は力の入らない腕で、必死に多紋の衣を握りしめる。そして、小さくかぶりを振った。

「…多香様?」

 その問いには答えず、そっと身を寄せる。その意味が分かったのか、多紋は小さく息を吐くと、そのまま寄り添って身体を横たえた。そして、先ほどまでの荒々しさが信じられないくらい、やわらかく抱きすくめてくれる。多香の細い身体はすっぽりと彼の腕に収まり、鼻をくすぐる薬草の香が心地よい眠りを誘ってきた。

 その夜、多香は本当に久しぶりに暖かな眠りについた。母を亡くしてからずっと味わったことのない穏やかな波が絶えず傍にある。ようやく居場所を見つけた、曖昧な風景が少しだけ色を付けていく。自分の生きる意味が少しだけ分かった気がした。

 

 その後も。多紋は決して夜のことに対して強く出ることはなかった。多香がそうして欲しいと何となく誘いかけない限りは行為に及ばない。こちらとしても恥ずかしいから、どうにかして向こうから来てくれないかと待つ。でも日が過ぎるとどうしてもあのぬくもりが恋しくて仕方なくなるのだ。多紋が自分を胸に抱いて眠ってくれるのはそう言うことの後だけだったから。

 夫として多香を組み敷くその時以外は、変わらずにそのままの穏やかすぎる人だった。

 

 

 そんなふたりの関係に変化が訪れる。その瞬間を多香は戸惑いを隠せずに迎えていた。

 所帯を持って、半年が過ぎて。月のものが来ないことに気付く。それが何の兆候であるか。半信半疑で知り合いの薬師の元を訪ねた。どうしても多紋に直接言うことが出来なくて。

 懐妊。

 事実を受け止めなければならないのに、少しも実感が湧かなかった。ほんのわずかに、湧いてきたかと思うと、それは大きな不安に繋がる。自分のように心許ない身体で、子を産み育てることが出来るのだろうか?

 その日に限って、多紋は歩いて半日ほどの実家に戻っていた。夕闇が辺りを覆い尽くしてからようやく戻ってくる。家用の衣に改めている夫の背後に立つ。多香はどんな顔をしていいのかも分からず、震える唇で事実を告げた。

「――本当、に?」
 俯いたままでおずおずと語った多香を覗き込むように、多紋は今までに聞いたことのないほどの明るい、弾けるような声を上げた。あまりの意外さに、多香も顔を上げてしまった。

「多香様、本当なんですね? 薬師様は間違いはないと仰いました? …ああ、もう。何も宜しいですから早くお座りになってください。身体を大事にしてくださらないと。赤さまに何かあったらどうするんです? いいから、いいから…さあっ」
 強引に肩を押さえつけられて、椅子に沈められる。まだ何の兆候もなく、身体はいつもと変わらない。それよりも驚くほどにはしゃいでいる夫の姿が信じられず、多香は呆然としてしまった。

「ああ、どうしよう。すぐに多岐様に文をしたためよう。明日、もう一度村まで行って、母上にもお伝えしなければ…!! 身体を冷やしてはならないですね、すぐに薪を運んできましょう…あ、駄目ですよ。多香様は動かないで、赤さまがびっくりなさると可哀想だから…」

「あ、あのっ…。多紋様? わたくし、本当に平気ですから…そんなに騒ぎ立てないで宜しいから…」
 多香はただ慌てて夫を眺めることしか出来なかった。


 次の朝には集落の人々が残らすこのことを知っているほど話が広まっていた。竜王様の御子が出来たときにもこんなには騒ぎにならなかった気がする。そのあまりのスピードに腰が抜けるかと思った。その上、情報源は他の誰でもない、今まで寡黙すぎるくらい寡黙、穏やかすぎるくらい穏やかだった夫、その人だったのだから。

「話は聞いたよ? 多香、おめでとう…」

 午前中には祝いの品を抱え、父の代理として長の居室を守っている叔父本人が居室を訪れた。驚いて迎え入れる多香に叔父は苦笑してこう告げた。

「もう、あの男が信じられないはしゃぎようだね。何でも女子が産まれたら、きっと多香のように美しくて聡明な娘だって、触れ回っているらしいよ。よっぽど嬉しいんだね…」

 多香はもうどうしようかと思うくらい恥ずかしかった。そんなことを口にするような人ではなかったのに。

 

それからというもの、多紋と多香はそれまでの生活が嘘のように親密になった。多紋はいつでも嬉しそうに戻ってきて、留守の間のことを訊ねる。おなかに手を置いて聞こえるはずのない胎児にまで挨拶をして、頬ずりすることすらある。

「子はかすがい」とはよく言ったもので、夫婦ふたりだけなら静かだった暮らしが、懐妊を機にがらりと色を変えていた。それは無事、出産を終えても変わらなかった。変わらない所かますます多紋の態度がひどくなったくらいだ。産まれた子が女の子だったこともその理由のひとつだ。

「ああ、ご覧下さい。…どこから見ても多香様そっくりのお美しい赤さまで。まつげの長いこと、口元の愛らしいこと…どんなにかお美しい御方になられるのでしょう?」

 いくらたしなめても、そう言う物言いをやめてくれない。ふたりきりの居室でも充分恥ずかしかったが、道行く人にも赤子を見せて自慢するのだから困ってしまう。人の父となったその人は以前にも増してよく働き、多香を眩しいくらい大切にしてくれた。

 気が付けば、多香はいつでも日溜まりのような空間に佇んでいた。憂うことなど何もなく、全てが穏やかな春の陽ざしのようだ。この地に舞い戻った当初のあの薄暗い風景が嘘に思える。多紋に見つめられ、暖かい微笑みを身体全体で受け止めて、多香は本当に幸せだった。
そして、今回の出産である。二人目の子は男の子で、産まれおちてすぐに元気の良い声で泣いたので、もう彼の親馬鹿振りは収まるところを知らなかった。

 

●●●       ●●●       ●●●


「父上が、お戻りになる時に一緒に上がりましょうと仰っていますから。早く荷造りをしなければならないわ。乳母は一緒に上がってくれるかしら…多紋様も身の回りを早く片づけてくださいね」

 出掛けようとする夫を追いかけて、多香は明るくそう言った。また、都での生活が始まる。乳母としてのお務めは大変だろうが、多紋がいてふたりの子がいる。子供たちにとっても御館暮らしは悪くないと思う。良き教育が受けられるだろう。竜王様に働きかければ、夫の仕事だっていくらでもあるはずだ。

「…そうですね」

 しかし、そう言って振り向いた人の表情に多香は驚いた。泣き笑いのようなギリギリの笑顔を浮かべている。戸口に手をかけて、出掛けるばかりになっていた彼はすっとこちらを振り向いた。

「そう思って、多奈は乳母様のところに預けておきました。多香様はお体を休めながら、片づけをなさってください。乳母様には私からよく話しておきました。ですから、大丈夫ですよ…そして」

 多紋は凍り付いた表情に無理に笑みを浮かべた。こんな夫の顔を今まで見たことがなかった。どうしてなんだろう? 何故? 驚く妻を視界に捉えながら、多紋は意を決したように告げた。

「私の荷造りは、不要です。私は…都には上がりませんから」

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