…沙緒の章番外編その4 「浅い夢」…
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「…え?」

 悪い冗談なのだろうか? そんなはずないじゃないか。身分のある役人であれば、集落を離れ辛いと言うのもあるだろう。でも夫の場合、そんなこともない。身分上、妻について都に上がることを厭うものは何もないはずだ。

「多紋様…? それはどういう…」

 彼の腕がすうっと多香に伸びる。そして、急な動きで乱れた髪を整えてくれた。手櫛で綺麗にしてくれる。美しい妻の姿を感慨深げに見つめていた彼は、静かにこう言った。

「多香様、あなた様は乳母としてだけのお立場で御館に上がるのではないのですよ? もっと重要なお役目がございます…そのためには私は無用…むしろ邪魔な存在なのですから」

 何が何だか分からない。先ほどまでの夫とは全然違う人になってしまっている。まるで出逢った頃のあのよそよそしさが戻ってきたように…。多香は必死で食い下がった。

「何を仰るのですっ!! ご一緒に上がってくださるのでしょう? …多紋様がお出でにならないなら…わたくしだって…」

「…その様なこと、仰ってはなりません。あなた様と私はもはや立場も異なるのです…」

「…多紋様?」

 見つめる瞳が遠い。そんな、信じられないっ!! 多香は頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった気がした。早く嘘だと言って笑って欲しい。そう言う願いでいっぱいだった。

「多岐様は、あなた様を竜王様の側女にされるおつもりなのです。…竜王様の正妃様は御子様が難しい方です。このたびであっても、無事に御出産されるか知れません…そうなれば、もはや海底国の大事になってしまいます」

 確かに。今まで正妃様は御輿入れの後、流産と死産でお二人の御子を失っている。しかも華繻那様は他に側女は決しておとりにならないと仰る。それでは国がどうなってしまうのか…? そう危ぶむ者も少なくない。華繻那様のお側に仕える多香の父・多岐にしてもそうである。娘の多香を前に、父は悩める心中を苦しそうに話したこともある。

 …でも、それが? どうして、そう言うことに? 自分はもはや多紋という夫のいる身、しかも二人の子を産みあげている。それなのに…どうして? まさか、そんなことがあるわけも…!?

 全く信じられないおかしな話であるのに。多紋は真顔だ。嘘なら嘘と、冗談なら冗談と言って欲しいのにっ!!

「多香様。…竜王様は正妃様以外に愛する御方はいないと仰ったそうです。…しかし。あなた様はどうでしょう。御館でご一緒に大きくなられ、稀に見るほどお美しく…そして聡明で。畏れ多くも華繻那様はあなた様に並々ならぬ御心を抱いていらっしゃるとか。それならば…あなた様が側女となり、やがては御子をお産みになり、国母となられるのもそう難しくないことではないでしょうか? あなた様が側女として上がるためには私の存在は邪魔なのですから…離縁という形を取ることになるでしょう」

「…やっ!! 待って下さいっ、多紋様っ!! そんなことを仰って…多紋様はどうなさるのです? 本当にわたくしと縁を切るおつもりなんですか? そんな…」

「私のことなど、御心配には及びませんよ?」
 多紋の声は穏やかな色を戻していた。とてもそんな状況ではないのに、彼の中では全てがもう終わってしまったことのように…。

 多香は背中を冷たいものが流れるのを感じていた。それでもその場から動けず、立ち尽くすしかなかったのだ。

「あなた様を送り出したら、村に戻ろうと思います。そして…縁があれば、新しく妻を娶り、その者と暮らしますよ…」

「………そ…」

 絶句、と言うのはこういう状況を言うのであろうか。声が喉に張り付いて、出てこない。目の前の風景がガラガラと崩れ落ちる。確かに多香が包まれていた暖かい空間が、壊れていく。そんなことが…本当に…。

「では、私は急ぎますので…」

 そそくさと話を切り上げて、戸の向こうに消える。そんなはずないのに、まさか、こんなはずは。

 多香の中には無数の疑問符と感嘆符が弾け飛ぶ。夫の言葉をしっかり耳にしてもなお、事実を受け入れることが出来ない。そんなこと、…何故!?

 刹那。

 激しい熱が身体の奥から沸き立ってきた。足元をすくわれる。そのまま多香は床の上に崩れ落ちた。

 

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「…多香様っ!! 多香様っ!!」
 どこか遠くで声がする。良く知っている声、でも今はその声を聞きたくなかった。身体が揺れる。

「多香様っ…!!」

 ぐっと身が浮く。ゆっくりと瞼を開けた。重くて身体が動かない。ねっとりした気が身体を包み込む。視界の向こう、自分を覗き込む人。

「…多紋…さま…?」

 何? 何がどうなっているんだろう。多香には分からなかった。多紋の肩ごしに見える窓の外の風景はもう夕暮れ。多紋を送り出してからの記憶が一切なかった。

「何が…どうして…ああっ!! 多香様っ…」

 熱い、この人の身体は熱くて…。

 多香はその時、それが自分の熱であることにすら気付かなかった。だるい身体を抱き上げられて、寝台に横たえられる。多紋が慣れた手つきで身体を診断していく。とても難しい、せっぱ詰まった表情。その後、はあっと大きく息を吐いた。

「…どうしてっ!! こんな日に限ってっ…!」

 

 騒ぎを聞きつけて、近所の者たちが集まってきた。寝所の向こうの部屋で皆の話す声が聞こえてくる。やがて、その群衆を分けるように父・多岐が入ってきた。

「多香…!?」

 熱に浮かされる身体で、夢のようにその声を聞いた。口の中がカラカラに乾く。父には何か言いたいことがあったはずなのに、それも浮かばない。でも、心の中にはひとつだけの感情が残っていた。

「…多紋様…、あの、多紋様は…?」

「…あ、ああ…」
 多岐はようやく気付いたように、頷いた。

「実は今日、薬師が皆出掛けておってな。多紋がその留守を預かっていたんだ。まさかこのようなときにお前が病に倒れるとは…これは母が生前良く患った病だ。そなたのように体力の落ちてる者がかかったら、それこそ命に関わる…早く熱を下げなければならないのだが、多紋はお前の薬は調合できないと言うのだ。それで、薬師の館に使いにやっているのだが…」

 父の声が半分くらいしか聞き取れない。頭がぼうっとしてしまう。でもその隅の方で、多紋がどこに行ってしまったのかと、叫んでいる。ずずっと熱の中に意識が引きずり込まれていく。

 苦しかった、ひとりになるのが。多紋が消えてしまうのは嫌だった。

「…多香様っ…!!」
 その声の方向を見る。慌てて髪も乱れた人が転がり込んできた。

「如何であったか?」
 多岐がすぐに多紋に問うた。しかし、その問いに彼は力無くかぶりを振る。

「…作り置きはないようです。保存のきかない生薬ですので。幸い材料は揃いました。今から、どうにか致します。本日は皆様には申し訳ございませんが、お引き取りいただいて…」

「…出来るのか?」

「やってみます」

 一族の長を前にしても、きっぱりと言い放つ夫。頼もしいな、と思いつつもふうっと意識が遠のいた。


 次に意識が戻ったとき、辺りはすっかり闇に包まれていた。ごりごりと乳鉢で薬草をすりつぶす音。隣りの部屋に多紋がいる、それを証明していた。ふうっと、小さく吐息を漏らす。起きあがろうとしても頭がぐらぐらして自由がきかない。やがて隣りの部屋の音が止まった。

「…多香様?」
 戸口からそっとこちらを覗いている人。それを確かめただけで、多香の瞳にじんわりと熱いものが浮かんできた。届くはずもないのに、そっと手を伸ばす。指の先が震える。身体の表面にもう一枚薄皮を着たように熱い。辺りの気がもったりとまとわりついてくる。

「良かった…意識が戻りましたか?」
 湯気の出た湯飲み。それを片手に持って、多紋が入ってきた。奥にある多香の寝台の前まで来て、そっとこちらを見る。大きな手のひらが額に触れた。それから頬、耳の後ろ、うなじ。

 鈍い感覚の中にも多紋の感触を感じで胸が熱い。ああ、良かった、本当にこの人だと思う。ただ、自分の体温を確かめているのだとは分かっていたが、心地よさにふっと意識が遠のきそうになる。

「待って下さい、多香様。お休みになられるのは、薬湯を召し上がってください…」

 そう促されて、起きあがろうとしたが身体が動かない、横たわったままでは湯飲みの薬湯を口に含むことは不可能だ。多香は悲しそうな目で夫を見つめた。多紋はふっと顔を崩すと背中に腕を入れて起きあがらせてくれた。

 ツンときつい香りがする。子供の頃、大嫌いだった熱冷ましの匂いだ。多香は顔をしかめてしまう。でもそんな彼女に遠慮なく夫は湯飲みを傾ける。
 多香はぐっと目を閉じると、それを一気に流し込んだ。けふけふ、と咳き込むと、多紋はゆっくりと背をさすってくれた。

「良かった、残さず飲めましたね。そうしたら、少し横になると宜しいですよ、だいぶ楽になるはずです…」
 ホッとした表情に変わった人に元通り横たえられる。掛け布団替わりの重ねを直してくれる袖をそっと掴んだ。

「…多香様?」
 引きつれる感覚に、多紋がそちらを見る。揺れる袖の向こうから、潤んだ瞳が覗いている。熱のためにカサカサに乾いた唇が、何度も空を切りながら辛そうに声を出した。

「多紋様、ここにいて下さい。どこかに行かないで…」

 その声に彼は困った笑みを浮かべて応えた。

「後片付けがございます。隣りの部屋におりますよ? お離しになって下さい」

「…いや…!」
 多香はもう片方の腕も伸ばし、袖をさらにしっかりと掴んだ。

「ここにいて下さい、どこにも行かないでっ…!」
 熱く湧き出る息と共に、緩んだ涙腺から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 多紋は観念したように椅子を引いてきて、寝台の傍に腰掛けた。そして、いつものままの優しい瞳でこちらを見つめる。腕を多香に預けたままで。

 多香はようやく緊張が解けて、ふっと意識を手放した。頬に当てた多紋の手がじんわりと存在感を保っている。それを信じて、眠りに落ちていった。


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 熱はなかなか引かなかった。その上、薬師も戻ってこない。都の端の祠で祈祷が行われるのに参加したのだが、こちらとを繋ぐ街道にかかる橋が増水で落ちたのだ。立ち往生していると連絡があった。

 春先の気の揺らぎがこんなところまで影響する。お陰で多岐も都に戻れなかったのであるが…もう正妃様の御出産も近いので気が気ではないらしい。
 しかし、どちらにせよ、多香の熱も引かないままでは一緒に連れていくことも出来ない。日に日に体力が落ちて衰弱していく娘はまるで都であの頃見たのと同じ様子だった。


 多香はずっと意識と無意識の境を浮遊していた。眠りに落ちるかな、と思った瞬間に、恐ろしくなる。目覚めたら多紋がいないのではないか。里に戻ると言っていた。自分とは離縁して、新しい妻を娶るとも。こうしているうちにも、そうしてしまうかも知れない。そう思うと、ゆっくり休むことも出来なかった。

「…多紋様、多紋様…?」
 必死に意識を戻すと、力無く叫ぶ。自分では叫んでいるつもりなのであるが、もうほとんど息しか出てこない。一時よりは熱も下がったが、それでも辛い。多紋が寝台の傍にいてこちらを見つめていた。潤んだ目でそれを見つめ、手を伸ばす。絡みついてきた指を引いて、自分の頬に押し当てた。

「行かないで、多紋様。私を捨ててしまわないで…」
 確かに夫のものである手のひら。それに頬をすりつける。傍にいてくれないと不安だった。どこかに行ってしまいそうで。

 どうして一番になれないのだろう、どうして誰よりも大切な人にしていただけないのだろう…? 華繻那様の元にいた頃、絶えず心を締め付けていた想い。場所が変わっても相手が変わっても、やはり同じなのか。

 あの朝、「離縁」という言葉を口にされて。あの瞬間に多香の周りをしっかりと取り巻いていた空間が壊れてしまった。暖かく包み込んでくれていた腕が振り払われ、春を待つばかりの時節に木枯らしが吹き荒れていた。「絶望」の二文字だけに支配されて、もうこのぬくもりにすがるしかなかった。

 じわりじわりと。長い時間をかけて、築き上げた幸せの砦。一生懸命守れば、きっとこのままいられると信じていた。多紋の瞳はいつでも穏やかで、見つめられているだけで幸せだった。娘をあやすときの優しい声、下がった目尻。

「この子は多香様に本当にそっくりですね。どんなにかお美しく成長されるだろう…」
 そんな風に呟きながら、言葉も通じない小さな手を取る。

「多奈…、お母様の様にお美しく賢い女子様になるんだぞ…」

 そんな彼の傍らにいて、どんなにか心が安らいだか。ここにいればもう背伸びをすることもない。何をしても包み込んでくれる。自分だけを愛して、守ってくれる人。この人がいれば、大丈夫。

 まさか、離縁を言い渡されるなんて。その上、里に帰って他の女子に縁付くと告げられるなんて…。優しく力強く自分を抱いた腕が、他の女子を愛するなんて。そんなことがあっていいのだろうか? …幸せなんて、やはりこの世には存在しないのであろうか…?

 

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「…仕方ない、私は先に戻るよ。多香、早く元気になりなさい、都でお待ちしているからね…」

 橋が修復されるとすぐに多岐は竜王様の御館に戻っていった。

 薬師も戻り、彼らにも薬湯をこしらえて貰ったが、それでも多香はなかなか回復できなかった。多紋も変わらず、付きっきりで看病してくれる。何しろ、少しでも席を外せば、泣きながら名を呼ばれるのだ。何ともしんどい束縛だろう、それでも彼は音を上げることはなかった。

 

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 何かに押された気がして。ふっと目を開けた。身体が軽い…熱が下がったのだろうか? 久しぶりに自分の力だけで、起きあがることが出来た。でも身体を持ち上げると節々がギシギシと痛む。

「…多紋様?」
 ぐるりと寝所を見渡した。しかし夫の姿はない。隣りの部屋だろうか? だが物音ひとつしないのだ。

 辺りは闇に包まれていた。今は何時なのだろう? 枕元にひとつだけ燭台がある。その淡い光。部屋の隅からパチパチと火鉢のはぜる音。夜なのは確かだ。でも宵なのか、明け方なのかは察しが付かない。

「多紋様…?」

 もう一度、名を呼ぶ。ぞくり、とした。使われていない多紋の寝台が綺麗に整えられたまま目の前にある。多香はゆっくりと寝台から降りると、燭台を手に壁伝いに進んでいった。

 やはり隣りの部屋も真っ暗で誰の姿もなかった。灯りをかざしてみると全てが綺麗に片づいている。多紋がいつも薬を調合する出窓もさっぱりとして何も出ていない。テーブルの上も指の跡も付かぬほどすっきりと拭かれていた。
 上の娘も生まれたての赤子も乳母の元に預けていたから、子供の部屋も空だった。ささやかな入り口の客座にも人気がない。

 …うそ。

 多香は信じられない思いで進んでいった。今夜は体が軽い、熱も引いてきたのだろう…だからといって、まさか? 別れも告げずにいなくなってしまったというのか?

 確かに。側女となることを前提として、御館に上がるのなら、夫のいる身では難しいであろう。華繻那様にしても夫から離縁された哀れな女子だと思えば、情けを掛けられるかも知れない。そんなことまで父は計算したのだろうか…そうだとしたら、あんまりだ。

 多香はものではない。こんな風にあっちからこっちへと流されていていいはずはない。「幸せにならなければ」と言ってくれたのは他でもない父ではないか。そのために多紋を選んで夫としてくれたのではないのか?

 そして。

 一族の長の言葉とはいえ、命令により妻を娶り、さらに離縁できるものなのか?

 以前の多香であれば、父の言葉に従えたかも知れない。でも、今は違う。多紋と過ごした確かな時間を思えば、そんな簡単に思い切れるものでもない。どうにかして、繋ぎ止めることは出来ないか。多香の想いは全て多紋に向いていた。父を説得するよりも、多紋の心を取り戻す方が難しいと思った。

「…多紋様…」
 目の前が霞む。もう、自分には何も残ってない。一族の長である父の命に従おうとする夫を、つなぎ止めるものは何もない。でも嫌だ、このままお別れしてしまうのは。多紋様の本当のお心を知りたい。あの暖かい瞳は嘘だったのか…?

 もう少しで届く、と思った時、目の前の引き戸ががらりと開いた。

「…あ…」
 目の前に現れた人に多香は言葉を失っていた。身体がぐらりと揺れて、危ないところで抱きとめられる。

「どうしたのですか!? 多香様…駄目です、起きあがったりしては…!」
 そう言いつつ、当たり前のように抱き上げてくれる。元々が小柄で細い身体の多香だ。夫の腕にすっぽりと収まった。

「…どちらにいらしていたのです…わたくし、多紋様がいらっしゃらないから…」
 広い胸にしっかりと顔を埋めて、多香はもう涙混じりになって言った。久しぶりにしっかりと抱かれて、夢のような気がした。でも本当に夢だったらどうしよう。怖くなって、さらにぎゅっとしがみついてしまった。

「申し訳ございません。…薪と炭がなくなったので、多香様のお体に触ると行けないと思って納屋まで…」

 多紋がそう答えるうちに、あっと言う間に元の寝台に辿り着いていた。静かに下ろされる。

「もう、今宵はどこにも参りません。ずっとここにおりますから、ご安心して――」

 多紋の言葉が驚きを放って途切れた。多香は彼の胸ぐらをしっかりと掴んだままだったから。引っ張られるように、そのまま多香の傍らに腰を下ろした。ずしりと寝台がきしむ。

「…多香様? あの、お離し下さい…」

 困り果ててそう告げられても、多香の手は離れなかった。背に腕を回し、更にきつくしがみつく。

「多紋様…」
 甘い鼻にかかった声。すがる身体全体から、多香は叫んでいた。それが何を意味しているのか、長い生活の中で夫にも分かるはずだ。未だにこちらから誘いかけないと行動を起こしてくれない人。それでも多香は、それに願いを繋ぐしかなかった。

「…多香様」
 たしなめるように、多紋が首を横に振った。

「申し訳ございませんが…お許し下さいませ」

「嫌っ…!」
 多香は顔を上げて、多紋を見つめた。涙が頬を伝って流れていく。彼が小さくため息を付く。そして、観念したように多香の輪郭を両方から大きな手のひらで包み込んだ。

 そっと唇が重なり合う。温かいぬくもりが多香の心のすきまを埋めていく。多香は安心して、身体の力を抜いた。

 …そうだわ。大丈夫なのよ。こんな風に、私はまだ愛されることが出来る。これから起こることを期待して、身体の奥から湧いてくる幸福感。夫の熱い吐息が頬にかかる。

 しかし、その後、彼女の腕はあっさりとほどかれてしまった。

「…え?」 

「お許し下さいませ…私には…もう…」

 多香はあまりの驚きに凍り付いた顔で夫を見た。多紋は素早く寝台から逃れると多香の手の届かない場所に立つ。そして苦しそうに瞳を閉じた。

「…多紋様っ…!!」
 掴むぬくもりを失った手が、しとねを握りしめる。そうしながら、泣き濡れた瞳で彼を捉えた。

「そんな…どうして…」
 多香の肩が大きく波打った。今まで、こんなことはなかったのに、自分が求めれば、夫は必ず応えてくれた。腕が振りほどかれることなど決してなかったのに…。

 大きく首を左右に振る。それに伴って、多香の豊かな髪が彼女を覆い尽くす。さらさらと気の中を流れて、やがて元のように下に落ちて収まった。

「…多紋様は…もう、離縁すると決まった女子には情も湧かないと仰るのですね…」

 このまま我が身が八つ裂きになってしまう気がする。もう何も信じられなかった。与えられるぬくもりはない、抱いてくれる腕もない。振り払われて、打ち捨てられて…そうしてひとり、都に上がるのか? 信じていた物語の結末はあまりに過酷だ。

 

 どうして一番になれないのだろう、どうして誰よりも大切な人にしていただけないのだろう…?

 

 …やはり、そうなのだ。自分の様な女子では、何人も心の底から愛してはくれない。今まで自分は幻想に抱かれていたのか。形のない曖昧なものに支えられ、守られていると錯覚していただけなのか…?

 行ってしまう、もう引き留める術もない。

「わたくし…もう病が治らなくていい…」
 多香は低い声でそう言った。地を這って咲く日陰の花のように生気のない顔で。俯いたまま、言葉を繋げた。

「このまま永遠に熱が下がらなくて…再び元の生活に戻れないようになりたい。そしたら、多紋様はずっとお側にいて下さるのでしょう…? まさか、病床のわたくしを置き去りにして行ってしまったりなさいませんよね?」

「…多香様…」
 多紋は苦しそうに呻いた。振り乱したままの髪が所在なく震える。

「…わたくし、信じていたのに…多紋様と共に過ごして、本当に幸せで。こんな風に生きていけるのだと思っていたのに。…それは浅はかな願いだったのでしょうか…。初めから、多紋様にはわたくしの相手など煩わしいだけでしかなかったのでしょうね? でも…わたくしは。多紋様を失って、この先、どうして生きながらえられましょう…!?」

 激しい物言いに咳が止まらなくなる。息をするのも苦しいほどに。ぜいぜいとする身体をなだめようと、多紋はそっと触れてきた。それを身を千切る思いで振り払う。中途半端な優しさなど、もういらない。その先に待っているのが絶望ならば、二度とすがったりしない。

「…多香様っ!!」
 絶叫に近い叫びにもいやいやと首を振ることしかできない。多香は顔を覆って泣き崩れた。

「違うんです…違うんです、多香様っ!! あなた様はもはや、高貴な御身分になられるのですから…私などには。こんなことならと、本当に後悔しております。あなた様の相手を引き受けてしまったことも、…あなた様を愛してしまったことも…ただ、遠くからお慕いしているだけなら、こんなことには…」

 多紋は床に膝を付いて、寝台に腕を伸ばしてきた。そして丁度おなかの辺りに顔を押し当てて、多香の腰を抱いた。駄々っ子をする子供のように。

 多香は何事かと、顔を覆った手をどけた。すがって、その上泣かれるとは思ってもみなかった。夫がこんな風に取り乱すなんて。あるわけはないと思っていたのに。

「…あなたは、本当に悲しい目をした御方でした。初めてお近くで拝見させていただいて、そのお美しさとともにお心の内が心に突き刺さって。多岐様のお申し付けとは申しましても、大変なことを引き受けてしまったのだと震える心でおりました。あなた様を幸せにする方法なんて知らなかった。でも…少しでも笑って頂きたくて、喜んで頂きたくて…お心の隙を埋めることが出来たならと思っていた数年間でした――」

 多紋は泣きながら訴える。その言葉を信じられない気分で多香は聞いていた。

「でも、…これからはもう、多香様は一番お慕いしている御方の御許に行かれるのです…何も思い煩うことなどないのですよ? 竜王様と私は較べようもございませんでしょう? 多香様がお幸せになられるなら、私は喜んで…」

 多香は自分にすがりつく人の頭をしっかりと抱いた。

「…どうして? どうして…そんなことを仰るの? わたくしがいつ、あなた様と華繻那様を較べたり致しました? お二人はわたくしの中では較べようのない、それぞれに大切な方々ですわ。…でも。わたくしが、今、共に生きたいと願うのは多紋様なのに。お分かりにならないのですか? …こんなにもあなた様で満たされている心を。あなた様がいなくなってしまわれたら、私の心は消えてしまいますわ…」

 ハッとして面を上げた人を我が胸に引き寄せる。赤子を抱くように押し当てて。それから、震える声で告げる。

「聞こえますか…? あなた様を想う音が。わたくしは父上の御命令でも従えません、多紋様とお別れしなくてはならないのなら、都には上がりませんわ…お願い、ずっとお側に置いてください。わたくしはあなた様の妻なのですから…どうか、お側に…」

 ぐらり、と身体が後ろに倒れた。気付くと多紋が寝台の上にいて、自分に覆い被さっていた。

「…あ…」

 求めていたこととはいえ、こうして実際にそう言う体勢なると慌ててしまう。多紋はのどを鳴らしながら、多香の首筋に吸い付いた。

「実は…私は多岐様からあなた様の側女の話を告げられたとき…必死でおすがりして、撤廃してくださるようにお願い申し上げました。あなた様を失うなんて、そんなこと考えられなかった。多岐様は私に、一生をかけて多香様にお尽くしするようにと仰ったのに…信じられませんでした」

「…多紋様…」
 何度も重ね合わせられる唇に思考を遮られながら、それでも多香はその時の彼の心中を思った。

 集落の長である父にたてをつくなんて、あってはならないことだ。人一倍控えめで礼儀正しいこの人がそんな行為に出るとは思えない。

「だけど…多岐様は。『お前の気持ちより、多香の気持ちを考えてやってくれ。あれがどうすれば幸せなのか、考えておくれ』と仰って…」

「…え?」

 多香にとっても信じがたい父の言葉だった。自分にとって、一番大切なこと? 一番幸せなこと…? それが何であるのか、どこにあるのか…父も多紋も知らなかったのか?

「申し訳、ございません…!!」
 多紋はそう言うと、多香の身体を思い切り抱きしめた。そうしながら、震える手が、彼女の寝着の袴帯をほどいていく。

「私には…多香様しかいないんです、多香様と共にいたいんです…許されるものならば」

 その言葉が真実であることを身体全体で受け止めていく。もう何も憂うことはない、多香はようやく岸辺にたどり着いた渡り鳥のように健やかな心地になっていた。

 


「多香様を初めて拝見したのは…まだ、幼い頃のことでした」

 しっかりと胸に抱かれながら、多香はまだ夢心地でいた。目を閉じて、全てが夢だったらどうしよう。そう思うと身体は限りなく重いのに、なかなか眠りに落ちることが出来ないのだ。そんな自分の髪を太い指が梳いていく。

「年賀で、ある年に多香様が御母上様とご一緒に私の村までいらっしゃったのです。まだ童女のお歳だったと記憶しておりますが、あまりにお美しくて…心が吸い寄せられてしまいました」

「そんなことが…」
 正月に集落に戻ることもあった。年賀の挨拶に両親と歩くことも。でも、多香には残念ながら記憶にない出来事だった。

「お戻りになられた後、あなた様は都で若君様のお側にお仕えする御方だと知りました。自分などが思いを寄せることが出来ぬほどの御身分だと。でも諦めきれなくて…宮仕えがしたいと言っては親を困らせておりました。ですから、多岐様からお話を伺ったときは、本当にどうしていいのか分かりませんでした。あなた様はお美しくて、気後れしてしまって…ずいぶんとご迷惑をお掛けいたしましたね…」

 太い指がやがて彼女の小さな輪郭を包む。多香はくすぐったそうに首をすくめると、そっと寄り添った。額に軽く唇が落ちてくる。

「明日、多岐様に文をしたためます。どんなことがあってもご一緒に都に上がれるようにお願い申し上げるつもりです…でも、本当に宜しいのですか? 私と一緒にいてはあなたは…」
 申し訳なさそうに口ごもる。臥せたまつげが震える。

「…いいの…多紋様とご一緒にいたいですわ」
 背に回る温かい腕を感じながら、多香はきっぱりと言った。その後、優しい父の顔が脳裏に甦る。そして、ふと思いついた。

「…もしかして、多紋様…」

 そうだ、そうに違いない。確信を感じて、多香の胸は大きく震えた。

「父上は…多分、わたくしたちを試されたのだと思うのです。そうよ、まさか父上がその様にひどいことを仰るわけはないわ…だから、大丈夫っ! きっとお許しが出るわ。早く荷造りをして、都に上がりましょう…正妃様の御出産に間に合うように…」

 にっこりと微笑む妻を、しかし多紋が心配そうに見つめる。

「…お体は大丈夫なのですか? 無理をなさってはなりませんよ?」

「平気、わたくしは怖いものなどないわ…」
 くすくすとこみ上げてくる笑い。

「だって、わたくしには専属の薬師がおりますもの。そうでしょう?」

 多紋の目がふっと細くなる。そして、もう一度強く抱きしめられた。

「子供たちはちゃんと休んでいるかしら? …多瀬(タセ)、わたくしのこと忘れていたら、どうしましょう? 早くお迎えに行きたいわ」

 やがて柔らかな眠りに落ちていく。多香の瞼の奥に、懐かしい都の情景が浮かんできた。そして、その風景にいるのは自分と子供たちと、そして夫である多紋。それは必ず現実になる、そう信じられる。

 

 どうして一番になれないのだろう、どうして誰よりも大切な人にしていただけないのだろう…?

 

 長い旅だった。それでも、ようやく辿り着いた。自分を包み込んでくれる、ただひとりの人。この腕を離さずに生きていきたい。多香は意識の途切れる前に、もう一度強く願った。

 

了(20021006)

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