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ふと気が付けば、窓の外には鈍色の空が広がっていた。つい先ほどまでは、限りないほど高く澄み渡った青が広がっていたはずなのに、湿った風に誘われるように低く雲がそれを覆い尽くしている。 一雨来るのかな、と沙耶(さや)は思った。少し伸び上がって庭先を覗けば、はためいていたはずの洗濯物はいつの間にか全て取り込まれている。これならば、乾いた大地を潤すものを待つだけだ。彼女はその心地よい瞬間を胸の隅で待つことにして、また手元に視線を落とした。 膝の上に広げられた布は木枠にはめられ、色とりどりに咲き誇った花の束が美しく描き出されている。少し刺すごとに糸を変え、まるで筆で溶いた絵の具を落としたように美しい濃淡を作り出す。額に入れて遠目に見るとさながら絵画のように見える様に仕上げるのが彼女の得意だった。 数年前に新しく建て替えられたそのこぢんまりとした家屋は、部分的に二階がある変則的な造りになっている。海に続く通りに面した部分は診療所の看板が掲げられていた。彼女のいる部屋はそことは一番離れた西側の少し丘に突き出た部分にある。ひとり用のベッドと小さな机、そしてテラスに続く窓辺には彼女のお気に入りの揺り椅子が置かれていた。今もそこに座り、ゆっくりと流れる夕べの時間を過ごしている。 針を持つしなやかな指は細く長い。その先には珊瑚の色を映したような、綺麗なかたちの爪がある。ミルクの色に似た淡い肌色は手のひらからほっそりとした腕に続き、やはり華奢な体躯はごくごく淡い藤色のシンプルなワンピースで覆われている。流行を追わない定番のデザインのそれは、よく目をこらさないと確かめられないほどの小花模様があり、彼女の好む一枚であった。 刺しものが好きか、と聞かれてもよくは分からない。幼い頃から、あまり身体を動かすこともなく、寝台に横になっているか静かに座っていることが常だった。そう言う状態で出来ることと言えば、書を読むか、こうして手仕事をするかくらいである。糸と針さえあれば何時間でも大人しくしていたので、周囲の者たちは色々と珍しい糸やお道具などを取り揃えてくれた。 もっとも――、好むものがなかったと言っても、いたずらに騒ぎ立てたりして周囲の者の手を煩わせることもないのであるが。この部屋にいろと言われれば、もう良いと言われるまでそこで過ごす。自我のない大人しすぎる性格だと囁かれていた。 丘の向こうは切り立った崖の下、遠く水平線まで続く海原がある。空の色と同じに輝きを変える水飛沫は、今はグレイに染まっている。でも、おどろおどろしいその色も、沙耶にとっては懐かしいものに見えた。この窓の外に広がる風景は、とても好きだ。軽い風になびいて揺れる夏草も、水面すれすれに飛行するカモメの群れも。海鳥たちは赤子のような鳴き声を上げながら、ねぐらへと戻っていった。
「あ〜っ、沙耶ちゃん! ここにいたんだ。あまり静かだから、どこかに出掛けてるのかと思った!」 ふいに奥のドアが開き、髪を後ろでひとつに結った少女が飛び込んできた。帰宅してすぐにここに直行したのだろう。薄い水色のセーラー服は夏仕様。白い衿のテープが目に眩しい。 「ママがね、患者さんが終わったから、お夕食の買い物に行ってくるって。今日は、お肉とお魚とどっちにしようかって迷ってたよ」 こちらが何も言わないうちに、鞄を放り投げて、ベッドに仰向けに倒れ込む。疲れた〜! と大袈裟に声をあげるその姿を、沙耶は目を細めて見つめた。 「お帰りなさい、泉美(いずみ)ちゃん」 そう言いながら、辺りを片づけ始める。糸を巻き付けた細木を丁寧に箱に並べ、布を木枠から外す。ピンと張りつめていた心までがふっと緩む気がして、小さく吐息をついた。 「もう、沙耶ちゃんってば、赤ちゃんみたい! いっつも初めの頃はそうなんだよね〜! 見た目はどっから見ても綺麗なお姉さんなのに。でも、そのアンバランスさが魅力かな?」 今年の春、中学生になったばかりの泉美は、こうして並んでみても沙耶よりもずっと幼く見える。姉のように慕われて来たが、年を重ねるごとに利発な彼女に全てが追い越されていくような気がしていた。……まあ、仕方がないことなのかも知れない。ふたりの間には、流れている時間が違うのだ。 「そんなの、八十歳のおばあちゃんだって知ってるわよ。ホント、沙耶ちゃんって何時代の人間? って感じよね〜っ!」 その言葉には、困った表情を浮かべることしか出来なかった。 娘時代の成長はあまりにも早い。久しぶりにまじまじとみる泉美は、同性である沙耶から見ても驚くほどに色香を感じ取れるように変貌していた。まあ、そうであろう。紅を引かずとも花色の口元からは、前に聞いたのとは違う男の子の名前が出てくる。またボーイフレンドが変わったらしい。 屈託のない笑顔で機関銃のように告げる、色々な事柄。近頃の流行ものから、TVの人気タレントの話まで。こちらがとても追いつけずに苦笑いをしても、気にする素振りもない。 「ほらあ、一番人気はオカヤンなんだけどね。でも、私はアズマっちの方がいいかなと思うんだ〜っ!」 下敷き大のポスターを掲げて、質問してくる。同じような笑顔をこちらに向けている男の子の集団は、沙耶から見ると皆そっくりに見える。でもそう言えばまた、おばさんっぽいだの何だのと言われてしまう。もっとも泉美の明るい笑い声には、嫌な気分にさせられることもないのだが。
やがて。私服に着替えるために自分の部屋に戻るという泉美と一緒に部屋を出る。 ドアのノブに手を掛けて振り向く。薄暗くなり始めた空間の向こう。白く浮かび上がる窓枠。空は先ほどよりもさらに黒ずんで見えた。ほとんど泣き出しそうなまだらな色を見つめながら、沙耶はもう一度小さく吐息を落とす。 ――今度は、いつまでここにいられるのだろう……。
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「ふう、とうとう降り出したわ。ちょっと濡れたわね」 「あら。お洗濯ものをたたんでくれてたのね? 助かるわ〜、沙耶ちゃんが来てくれると一気に家の中が綺麗になって」 「お帰りなさい、渚さん。……あ、お米もしかけておきました」 洗濯物は多い。診療に用いるタオルや手ぬぐい。椅子のカバーも半日に一度付け替えるし、天気のいい日にはカーテンも洗う。それに加えて、家族の身に付けていた衣類もあるのだから。それを大型の洗濯機で回し、瞬く間に干し上げてしまうのが渚だ。彼女はそれだけではない、ここの診療所の外科医師なのだ。 「どう……何も変わったことはない? 具合はいいかな」 温かな手のひらがそっと沙耶の輪郭を辿り、脇の髪を持ち上げる。そこに現れたのは、どこから見ても「陸の人間」としか思えない双の耳。この姿でいるうちは、沙耶はここにいられる。――と言うより、海底には戻れない。控えめな耳たぶに指が触れて、渚が嬉しそうに微笑んだ。 「今日は臨時収入があったの! だから、どーんとステーキにしようかと思って。ねえ、手伝ってちょうだい、またどうせ泉美は試験勉強とか言って二階で長電話でもしてるんでしょ?」 明るく声を立てて笑うこの人が、沙耶は大好きだった。海底の都にいる実の母と同じくらい好きだと思っている。もしも、渚がいてくれなかったら、自分はこんな風に暮らしていられなかったかも知れない。感謝してもしきれないほどだ。 身体が自由に動く、息が苦しくない。「水を得た魚」という言葉があるが、沙耶にとってはこの乾いた空気の方がずっと身体に馴染んだ。 「大丈夫ですか? 高いお肉を焦がすと、また湊さんに叱られてしまうんじゃないでしょうか……?」 「まあ、言うわね。なら、沙耶ちゃんが焼いてみる? お手並み拝見としましょうか……あ、駄目か」 「お嫁入り前の大切なお嬢さんに火傷でもさせたら、沙羅ちゃんに叱られちゃうわね」 さりげなく母の名を聞いて、沙耶の胸の奥がまた少し痛んだ。
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誰が見てもたとえようのない高貴な血を受け継ぎ、産まれてきた最初の子が沙耶だ。もちろん、下には幾人もの弟君や妹君がいる。だが、「一の姫」と言う名で呼ばれるのはひとりだけ。世継ぎかも知れぬと期待された子が女子(おなご)であったことに、落胆した者たちもあったらしい。 だが――、誰よりも父であるその人が、沙耶の誕生をとても喜んでくれた。何でも母が懐妊したことを告げたその瞬間から、腹の子が姫であると言い放ち、外地を回った折りには女子のものばかりを求めていたという。余りにもキリなく買い求めるので、とうとう呆れた母に言われたそうだ。 「もしも男子(おのこ)が産まれようとも、この花色の晴れ着を着せて宜しいのでしょうね?」 そんな昔語りを侍女たちの口から聞くのも楽しい。海底の都の館にいるときは、一番奥の部屋にひとり籠もっていることが多かったから、たまに世話に訪れる者たちとの何気ない会話は沙耶の心の拠り所だった。 何の憂いもない幸せだった時……それが長く続かなかったのも知っている。 沙耶がこの世に生を受けてから、二年後。母は世継ぎである弟君を産んだ。華楠(カナン)と名付けられたその赤子はとても力強い産声を上げ、産所にいた者たち全てを安堵させたと聞く。そのまた二年後には妹君が産まれる。その者も沙耶とは全く違っていた。否――このいい方は適切ではないかも知れない。他の者たちが違うのではない、沙耶ひとりが異なる者だったのであるから。 「いつまでも安定なさらない……これは、いかに」 高齢となっても綽々としている東の祠の占い婆は、幾度となく沙耶を見舞っては難しい表情でそう告げたと聞く。生まれ落ちてから、期間をおかずにたびたび熱を出す。沙耶は月の幾日かは決まって寝台の上で過ごすような子供であった。もっとも、沙耶の母である人も、幼少の頃は同じような身の上だったらしい。その人が父との間に次々に子を産んでいるのを見れば、それほど先々を心配することもないかも知れない。 三つの祝い、袴着を過ぎた頃から、ますます体調の優れぬ日が増えていく。辺りを取り巻く「気」がねっとりとまとわりつき、息苦しくて仕方ない。身体の芯が焼けるほど熱くなったり、かと思うと指の先が氷のように冷たくなったりする。やんごとなき姫君の大病に、国中から名高い薬師(くすし)たちが集められた。だが、誰も有効な手だてを施せず、ただ首をひねるばかり。 そうしているうちに、もう一方、館の東所でも異変が起こった。 かねてより病床にあった現竜王――つまり沙耶の祖父である人が、何ともない胸の病を悪化させ、身罷(みまか)られたのだ。あっけないお最後にあった。 若き頃から周囲の者を驚愕させるほどの神々しさを持ち、それがあまりに完璧すぎたため、かえって孤独な生涯を送られたのだろう。祖父が声を立てて笑ったり、怒りを露わにした姿を沙耶は知らない。いつでも穏やかに凪のように微笑まれて、あたたかい手のひらを頭の上に置いてくれた。 「姫は、幸せになるのだよ? 身体のことなら厭うこともない、爺がお前の行く末を見守って行くのだからな」 やさしく髪を撫でて下さいながら、何度も同じ言葉を繰り返される。そうするときの祖父が、我が身の奥にある違うものをご覧になっている気がしていた。 祖父の最後を誰に聞くこともなく沙耶は我が身を持って知った。何故なら、その同じ頃、彼女は死に至るほどの大きな発作に襲われたのだから。胸がつかえ、いくら息をしようとしても、口から入ってくるのは禍々しい液体ばかり。身体中に紫色の斑点が出来て、みるみるうちに骨と皮ばかりに衰弱していった。 崩御の知らせに東所へ足を運んでいた沙耶付きの侍女が戻ったときには、とうに事切れているのかと信じ切って騒ぎ立ててしまったほどの虫の息にあった。 ――もう……助かる道はない。誰もがそう思ったとき、「変化」は起こった。
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「あら、お帰りなさい――」 テーブルに白い皿を並べていた沙耶は顔を上げた。だが、その瞬間に言葉が喉の奥に貼り付き、止まってしまう。昨夜、ここに上がってきて、まだ一度も顔を見ていないこの家の最後のひとりだった。 「……何だ、また来てたのか?」 彼は呆然と立ちつくす沙耶のことなど気にも留めず、すたすたとスリッパの音を立ててダイニングの奥の扉に消えた。 「ちょっとぉ、澪(みお)!? ただいま、くらい言いなさいよ。何むっつりと格好つけてんのっ!」 フライ返しを手にしたまま、階段下で渚が息子に叫んでいる。返事の代わりに、乱暴にドアの閉まる音がした。 「ああん、もうっ! 可愛くないの〜っ、男の子なんてガタイばっか大きくなっちゃって。ナリばっか大人みたいになったって、何だって言うのよねえ。嫌になっちゃうっ、全く! ……ねえ、沙耶ちゃん?」 返事がすぐに出てこないのはまだ「陸」に馴染んでないからだろう。沙耶は自分に自分で言い聞かせてみた。
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