…「秘色の語り夢・沙耶の章」…

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 墨色に覆われた空の果てが時折光る。今夜の雷雲はだいぶ沖の方にあるらしく、轟く音も遠い。ひとつ、またひとつ。一瞬瞬いては消える白い閃光を窓際でひとり数えていた。

 

「そんな、省エネすることもないのに。変なの〜!」

 暗がりの部屋で電気も付けずにいることが多い沙耶(さや)を、泉美(いずみ)は理解出来ないようであった。ノックの音も聞こえないほどの勢いで、時折部屋を訪れる。その遠慮のなさには母親である渚も眉をひそめていたが、沙耶にとってはそれほど厭うこともない。かえって目新しくて嬉しい驚きに思えていた。

 ――館の弟妹たちは、こんな風に突然やって来たりはしないし。

 まず先に彼らの侍女が部屋先まで来て、こちらの様子を沙耶付きの侍女にうかがう。それから、あちらの部屋に戻り、さらに衣装替えなどのお支度を済ませてから、当人が供の者を引き連れ訪れる。そのやりとりだけで一刻以上の暇がかかるのだ。
 時計に秒針が付いている世の中で生きている者たちにはきっと理解出来ないことだろう。その状況を普段味わっている沙耶ですら、「陸」に上がってしまえばぼんやりと記憶の彼方の出来事のように思える。

 

 今夜はベッドの上でクッションを抱えてごろごろする泉美の姿も見えない。夕方の話では、新しいボーイフレンドと盛り上がっている最中らしいから、今夜も長々と携帯で話し続けているのだろうか。

 こちらに来た初めは「灯りを付ける」という行為すら思いつかなかった。それまで住まっていた館では、辺りが夕闇に染まり、薄暗くなってくると部屋のあちこちにある燭台に灯が灯される。暗くなれば自然に灯り、就寝時には音もなく消えるものなのだと思っていた。
 泉美のようには行かないものの、自分の意志で部屋を明るくしたり暗くしたりすることが自由に出来るのは何と楽しいことなのだろう。目新しいばかりの出来事が息つく暇もなく起こっていく生活が沙耶に生きる息吹を与えてくれた。

 だから――深い深い水底の、さらに奥まった部屋で。夜も昼も分からなくなるほどぼんやりと過ごしながら、待っていた。「その時」を。

 

◆◆◆◆◆


 初めてこの地に訪れたのは、「変化(へんげ)」が起きてすぐのことであった。最悪のこととして恐れていた事態。大人たちの間で、どういう話がなされたのか。死の淵に引きずり込まれそうになりながら必死で闇と戦っていた沙耶には知るよしもなかった。
 ただひとつ分かっていたのは、今まで大人たちが必死で隠し通そうとしていた「秘密」が確実のものとなって沙耶の身に訪れた、と言うことだ。

「……ごめんなさい、姫。このように辛い想いをさせて」

 母が、泣いた。産まれながらの姫君として、いつも自分を崩すことなく静かに微笑んでいらっしゃる御方だったのに。押し殺した嗚咽を上げながら、幼い沙耶の身を抱きしめる。その傍らにはやはり蒼白の面持ちの父がいた。

「しばらくの、……しばらくの辛抱ですから。大丈夫、何も怖がることなどないのですよ」
 そう告げる母の声が震えていた。

 目立たない色の衣に替えられて、舌の先がぴりっとする緑色の薬湯を飲まされた。そのことをおぼろにしか思い出せない。何よりも母の嘆きぶりばかりが記憶に新しい。もしも、かの人の憂いが晴れるなら、どんなことでも成し得なければならない。五つになるには月が足りぬ沙耶でもそれだけは分かった。母の白くて滑らかな指が触れたのは、異形の姿をした我が耳であった。

「……渚さんと、湊さんに宜しく申し上げてね。一緒に行ってあげられなくて……ごめんなさい」

 白く流れる気の中をくぐり抜け、乾いた浜に辿り着いた。気付けばお付きの者たちの姿も消えている。天の色が見たこともないほど澄み切っていて、とても高く感じられた。

 

 ――何処……?

 不思議なくらい息が楽だ。いつでも肩を震わせながら、必死で取り込み吐き出さなくてはならなかったそれが、自然に行うことが出来ることに沙耶は驚いた。背後に、おおらかでやわらかな鼓動が響いている。その大きなものは何であろうかと振り向くと、そこは白いしぶきを上げる水面であった。
 沙耶にとって、水の溜まっている場所で知っているのは、海底の館、自分が住まう南所の表にある遣り水くらいだった。それとは比べようのない程の壮大さ。寄せては返す青い流れ白い飛沫は左右に見渡す限り広がり、奥は何処までも、地平の果てまで続いている。

 ふわふわと舞い上がる髪、衣。腰を下ろしたその下に広がる白い砂。きっと、すぐに迎えが来るのだ。皆、何か用事があって他に行っているだけなのだから。見ず知らずの場所にひとり置かれても、不思議と恐ろしさはなかった。

 

 しばらく指で砂を掻いたりしながら過ごしていると、目の前に白い鞠のようなものが転がってきた。卵のような色をして、あまり細工はなくただつるんとした表面だ。ふわんふわんと弾みながら、それは沙耶の目の前まで来て止まった。

 ――なんだろう、これ。

 腕を伸ばしてみたけれど、届かない。仕方なく立ち上がって前に出ようとしたら、余りの身の軽さに足を砂に取られて躓いてしまった。

「……あ、動いた」

 そんな声が聞こえる。白いものの転がってきた方向から。沙耶はうずくまった身体を起こすとそちらを見た。

「さっきから、ずっと見ていたんだけど。全然動かないから何かと思った。誰かが置き忘れたマネキン人形かなと思ったけど、それにしては良くできてるし……」

 沙耶は声が出なかった。

 そこにいたのは「異形」の者。まだ子供、年の頃は自分と同じくらいだろうか。姿も変わっていれば、身に付けているものも見たことのないかたちだ。丈の短い上着は肌着のようなかたちだが前は閉じていて、肌着のようなものを履いている。髪は頭のてっぺんで短く切りそろえられ、前髪がつんつんと額の上でとんがっていた。

「あなた、誰……?」

 ようやく、それだけ口にした。他にも訊ねたいことはたくさんあったけど、頭の中で言葉がまとまらない。先ほどの白い鞠を手にした少年は、それを軽い動作で天に放り投げながら言った。

「澪(みお)、そこの崖の上の診療所の息子」
 両手で鞠を受け止めて、彼は答える。口元から白い歯がこぼれた。

 

 あとから聞いた話によると、この時は澪の方も沙耶のことを不思議な存在だと思っていたと言う。今時着物なんて身につけて、ぼんやりと辺りをうかがっている。何を訊ねても気の利いた返答も戻ってこない代わりに、迷子になって泣いたりする様子もない。厄介な拾いものをしてしまったと、沙耶の手を引き自宅に戻った。

 奇遇なことに彼の両親こそが、母の話していた「渚さんと湊さん」。預かってきた文を沙耶が差し出すと、迎え入れてくれた女性はそれを真剣な面持ちで見入っていた。

「……しばらく、あなたをこちらでお預かりすることになったわ。よろしくね、沙耶ちゃん」

 そう告げられた時にもそれほど驚いた記憶がない。知る人の誰もいない異郷にひとり置かれても、居心地の良さが沙耶を和ませていた。身体を動かしても息が苦しくならない、周囲の風景もきらきらと眩しくて美しい。同い年であるという澪にはようやく歩き始めた妹がいて、その存在も嬉しかった。

 産まれたばかりの妹に母親を横取りされて拗ねていたという澪も、いきなりやってきた居候をとても快く受け入れてくれた。朝食をかきこむやいなや、沙耶の手を引く。

「今日はあっちの丘に行こう、草原に小鳥の巣を見つけたんだ」

診療所の近くの浜や森を巡って日が落ちるまで遊んだ。沙耶にとってそれは久々に子供らしい当たり前の時間。あのねっとりした気の中では自由のきかなかった身体がすんなりと動く。もう楽しくて仕方ない。
 あまりに帰りが遅くなり、心配して探しに出た渚にふたりして叱られたことも一度や二度ではない。声を荒げて本気で怒鳴られることに最初はびっくりしてしまったが、いつかそれにも慣れてしまった。反省してうなだれている振りをしながらふたりでこっそり目配せする。小さな秘密にどきどきと胸が高鳴る瞬間だった。

 

 いつまでこの異境の地に留まっているのか、それを誰も教えてくれなかった。否、実は誰も教えることが出来なかったというのが本当なのだ。
 半月ほどを崖の上の診療所で過ごすと、夜半、再び「変化」が起こる。今まで自分を快く受け入れてくれていたはずの乾いた空気が一転して刃を向けて来たのだ。身体の奥から水を欲する。喉から入る水分ではとても足りない。

 別れを惜しむ間もない慌ただしさで、沙耶は生まれた地に戻された。両親を始めたくさんの者が出迎え、無事を喜んでくれたが、心は晴れなかった。また、館奥の部屋での生活が始まる。「陸」から弾き出されたとはいえ、こちらのぬるい気に身体がしっかりと融合することもなく、変わり映えのしない日々であった。

 

「陸」と水底の生まれ故郷。ふたつの土地を行き交う。「水」に耐えられなくなれば「陸」へと導かれ、また「水」が恋しくなると水底に戻される。根無し草のように安定しない身体。

 それを、幾度繰り返したのだろう。いつか居候する診療所は建て替えられ、そこの住人たちも年を重ねた。そして、沙耶自身も……気付けば十六の歳にまで成長していたのである。

 

◆◆◆◆◆


「何してんだよ、また。そんな暗がりで」

 ぶっきらぼうな声がして、表の方から人影が近づいてきた。遠くの輝きを見ていた沙耶には、暗い闇の中に埋もれた姿が見えない。あちらからはこちらが良く見えるようだ。……もっとも、その声を聞けば誰かは容易に見当が付く。

「……澪くんこそ。こんな時間にどこに行っていたの?」
 時計は夜の11時を回っている。診療所は朝が早いため、渚たちはもう休んでいるだろう。沙耶の知っている限りでは「寝の刻」を過ぎて外を歩き回るのは御庭番の侍従くらいだ。もっとも、こちらの地ではそうでもないらしいが。

「コンビニ、喉かわいたから」
 彼はペットボトルののぞく白い買い物袋を面倒くさそうに掲げて見せた。

 

 そう言えば、少し歩いた場所にコンビニエンスストアという一昼夜閉まることのない店が出来たと泉美が話してくれた。

 この浜辺の小さな町にも気が付くとぽつりぽつりとそんな新しい存在が増えてきている。もう少し時期があとになれば、土地の人々の都会に行った家族の他にも観光客が訪れて、浜も賑わいを見せる。それに伴って、色々な風景が変わり始めていた。

 

「飲むか?」
 その一言が合図になったように、彼はテラスの手すりをひょいと乗り越えて、窓枠のすぐ際までやって来た。

 情けない話ではあるが、ペットボトルの蓋というものを沙耶はひとりでは開けられない。一度封をきったものを再び開けるなら出来るのだが、最初のぴったりくっついた状態では太刀打ち出来ないのだ。長い付き合いになる澪はそれをとっくに知っているから、黄緑色の容器の蓋を軽く開けてからこちらに差し出してくる。

「髪、伸びたな」

 受け取る瞬間に、そう言われた。沙耶の胸がそれだけでぴくんと跳ね上がる。指先からそんな心の揺らぎが伝わらないように、息を飲んだ。

「澪くんこそ……また、背が伸びたみたい」

 先ほど、台所ですれ違ったときに分かった。初めは沙耶の方が高かったくらいなのに、気付けば頭ひとつ分も追い抜かされている。こちらの地ではさんさんと降り注ぐ太陽の光を直に浴びることが出来るのだ。だからだろうと、沙耶は考えていた。産まれた地にも同じくらいの年頃の者たちはいるが、そのどれもが澪ほどの体格はない。

「まあな、まだまだもう少し欲しいところなんだけど」

 そう言うと木製のテラスの床に直に腰を下ろす。戻ったときとはまた違う服を着ている。先ほどのは「高校」の制服なんだろう。沙耶があちらに戻っているうちに泉美も、そしてここにいる澪も進学している。ある年齢になると「学校」と言うところに通うことになっているという制度にも、最初は驚かされた。

「ええと……バスケットボール、だったかしら?」

 直接試合風景を観戦したことはない。だけど、本人や家族の話から、澪が「学校」でやっているスポーツのことは聞いていた。ボールを扱うものは他にもいくつもあるのだが、バスケットボールは屋内競技だ。左右に取り付けられたゴールネットにボールをいれる。遠くからでも自在に小さな穴にいれることが出来る選手たちはすごいと思った。

「陸」の人間なら瞬時に反応出来る話題も、沙耶にとっては必死で記憶をたぐり寄せなくてはならない。そんなもどかしさに額に指をあてているさまを、澪は面白そうな表情で見上げた。

「秋の新人戦ではもしかするとレギュラー入りするかも知れないんだ。二年の先輩を差し置いてメンバーになるのはすげーことなんだぞ。もしも、ユニフォームを貰ったら、見せてやるからな……って。その頃にはもう戻っちまってるんだろうな」

「え……。あ、うん、……そうね」
 あっさりと告げられて、どう答えたらいいのかもとっさには見当が付かない。以前は「別れ」の時が来ると、互いに辛くて泣きわめいたのに。そんなことももう忘れてしまったのだろうか。

 勝ち気な笑顔。まっすぐな瞳。そう言うのを見ていると、変わらないなと思う。懐かしさがにわかに湧き上がってきて、もうひとこと加えそうになるのを必死で堪えた。

「髪は……普通はもっと長いのよ。これじゃあ、館の使用人よりも短いもん、頑張って伸ばさなくちゃいけないの」

 三つの袴着の式が終わった頃から、高貴な身分にある女子(おなご)は生えそろった髪を伸ばし始める。どうしてそう言う風にするのか、もう長い間の慣例となっているので今更誰も不思議に思うことはない。

 ただ、沙耶に限って言えば、ほとんど枕も上がらずに過ごすので長すぎるそれは邪魔になる。ひとつにまとめておいても、乱れて絡まったりして痛んでしまうのだ。さらにいつ「陸」に上がることもあるかもしれぬと思えば、目立ちすぎる姿はひかえなくてはならないだろう。
 今となっては自分より年若い妹たちの方が、よっぽど長くなってしまった。床に流れゆく豊かな輝きはたとえようもないほど美しく、見る者を魅了した。

 もうじき、自分もあの者たちと同じようになる。それはとても喜ばしいことのはずなのに、何故か心が沈んでいく。とはいえ、裳着の式も内輪でひっそりと行ってしまったのだから、一度くらいは晴れ姿を見せて親孝行するのも大切なことだろう。今まであれこれ気を揉ませて来たのだ。早く安心させてさしあげなくては。
 何度も何度も自分に言い聞かせて納得させようとしていた。

「袴着とか、裳着とか。七五三や成人式みたいなもんなんだよな〜。なんかさ、ガキの頃はそんなもんかと納得してたけど、よくよく考えると変な話だよな。沙耶は時々来る親戚の子って感じしかしないのに、こうしていると普通の人間なのにさ」

「……そうね」

 

 墨色の浜辺は、辺りの風景全てを我が色に染めようと言わんばかりに荒々しい波を打ち付けてくる。

 この水底で、準備を整えられていくこと。あちらにいるころは当たり前であったのに、浜に上がった途端にまるで夢の中の出来事のように思える。全てを消し去ることなど出来るわけもないのに、心のどこかでそれを望んでしまうのはどうしてなのだろう。

 

「今度はいつまでいられるんだろうな、夏休みにはいるから少しは付き合えるかも知れないぞ」

 ひょいと立ち上がってそのまま立ち去る澪の最後の言葉に沙耶は思わず目を見開く。だが、その表情を背を向けている彼に悟られることはなかった。



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