…「秘色の語り夢・沙耶の章」…

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 祖父の死が沙耶に与えた影響は大きかった。

 近代稀に見る優れた気質を持っていると言われていた彼は、生まれ落ちてからずっと海底の地に馴染まない孫娘を見えない力で護っていてくださったのだから。お側に仕える者は皆、うすうす感づいていながらも知らぬ振りをしていた。祈りにも似たその想いを無下にしないために。

 幼い頃は、そのような大人の事情まで感じ取ることが出来るはずもない。自分の意志とは関係なく、ふたつの世界を行き交う。もしかしたら、誰かが自分に対して意地悪をしてこのような病を引き起こしているのではないだろうか。そんなふうにすら思えてきた。

 

「沙耶ちゃんのお祖母様は、ここの家で産まれた方だったんですって」

 まだまだ、あどけない頃であった。

 楽しい「陸」での暮らし。昼間のうちは楽しいばかりで過ごしていても、夜布団に入れば里心が付くこともある。枕を涙で濡らして耐えていると、やさしい渚はすぐに気付いてくれた。そして、眠れないでいる沙耶に色々な話を聞かせてくれたのである。祖母の話もそのひとつだった。

 

 沙耶の祖母は「陸」の人間であった。それが不思議な巡り合わせで、海底の国の王であった祖父と出会うことになる。ふたりが結ばれ、産まれたのが沙耶の母だ。澪の祖父と沙耶の祖母は姉弟であったと言うから、本当に親戚同志と言ってもいいのだろう。
 若くして亡くなった祖母は、最後まで海底の地に馴染むことが出来なかった。さもあろう、「陸」に暮らす人間が海底のねっとりとした「気」に耐えられるはずはないのだ。普通ならほんの数分で死に至るという。同様なことが陸に上がった海底の民にも言えることで、半日ほどで悶え苦しみ息絶えると聞いている。
 祖母が海底の地に留まることが出来たのは、祖父の竜王としての大きな「力」であった。そして再び、その力を沙耶に与えてくださったのだ。その命が途切れる瞬間まで。

 父の元に輿入れする前の母は、一時期「陸」で過ごしたことがあったらしい。それも初耳であった。色々と話を聞いていくうちに今まで自分に対しては頑なに閉ざされていた過去への扉が開いていくように思える。

 そんな明るい心地も、沙耶が「陸」の地を好きだと思う理由のひとつであった。

 

◆◆◆◆◆


 ――奥に住まう一の姫様の行く末は如何なものなのであろう……。

 皆、口になど出さぬが、心に抱いた想いは同じであるようであった。海底に住まう全ての民、誰もが良縁と信じて疑わなかった両親の婚儀。やわらかな春の日差しが降り注ぐような温かな愛情に育まれて、沙耶は生を受けた。誰よりも何よりも幸せになるように。そんな願いで全身を包み込まれて。

 だが、しかし。

 その想いが時として、辛くなることもある。厄介者の姫君として邪険にされた方がどんなにか気が楽だったであろうか。どこまでが本心でどこまでが建前なのであるか、それも分からない。時にはやさしい微笑を浮かべる母の眼差しですら、苦痛に思えてくることすらあった。

 

「陸」での暮らしを終え、久方ぶりに我が家に戻ってきたと言うのに。また奥の部屋に押し込められ、薬湯の香りに包まれた生活が始まるだけ。目新しいことなどひとつもなく、気は滅入るばかりだ。

 辺りは春の盛り。やわらかな光が降り注ぐ風景はどんなにか素晴らしいだろう。そんな中、表に出ることすら許されない自分。

 澪は、今年の春に「小学生」になるのだと言っていた。渚の実家の祖父に買って貰ったという、真っ黒なランドセルという鞄も見せてくれる。つやつやと光る牛革はとても美しくて、柔らかい手触りも心地よかった。聞けば、女子は赤い鞄を持つのだという。

「沙耶も、ずっとこっちにいられればいいのにね。そしたら、一緒に通えるのに」

 希望に満ちた笑顔は眩しすぎて、何も答えられなくなった。

 もしもそのようなことが叶うなら、どんなにか素晴らしいことだろう。「陸」にいれば、身体が軽くて、何処へでも自由に行き来出来る。食べ物も美味しい。おなかの底から笑うことも初めて知った。

 だけど――違うのだ。「陸」は沙耶が生きるべき場所ではない。一時はあんなにやさしく受け入れてくれながら、ある時期が来ると恐ろしいほどの態度で突き放される。その時に沙耶は改めて思い知るのだ、自分の真実を。これは、海底の国の姫君として背負った宿命。

 

「……そのように、浮かないお顔をなさっていては、御気分も良くなられませんわ」

 その頃。沙耶の身の回りの世話をしていてくれたのは、乳母(めのと)の多奈ではなく、もっと年若い侍女であった。
 沙耶の乳母になる人は、もともとは母の乳兄弟であった者である。明るく口も手も良く出る女子であった。だが、乳母とはいえ、始終沙耶の元にいてくれる訳ではない。新しく子を身籠もれば、しばらくは休みがちになるのは避けられないことだ。それを責め立てる者もない。そのような時のために、たくさんの侍女がいるのだから。

 乳母は北の集落の者であったが、今ここにいる侍女は西南の集落の者。この地の民は出身の地によってその外見も気質も異なる。以前は「犬猿の仲」などと噂されたふたつの集落であったが、沙耶にとっては同じくらい親しみの持てる場所に思えていた。

「本日は、とても心地よい日和でありますよ。戸も開けましょう、御庭は花の盛りですよ。ご覧になれば、きっと御心も晴れますわ」

 侍女がゆっくりと戸を開け放っていく。そこからゆるりと気が流れ込み、沙耶の髪を揺らした。

 なるほど、言われるだけのことはある。祖父の残した美しい庭は、何も人目に付く表の方だけが素晴らしい訳ではない。こんな風に人目に付かぬ様な裏手にも、季節を彩る美しい花々が咲き乱れていた。

「……あ、天真花(てんしんか)」

 沙耶の視線の止まったのは、小さな虹色の手鞠花の群衆であった。裏山から流れ落ちてくる気は、柔らかく低木の花枝を揺らす。そのたびに、芳しい香りがここまで届いてくるようであった。

「ひと枝、手折って参りましょうか? ……お待ち下さいませ」
 赤毛の侍女はそう告げると、庭に降りていった。そしてすぐに、丁度見頃の枝を持って戻ってくる。それを沙耶が身を起こす寝台の上に置いた。

 紫陽花をもう少し小さくしたような、小手毬をもう少し大きくしたような……、丁度手のひらに乗る大きさ。小さな花弁が折り重なるように鞠のかたちを作り、その花びらの一枚一枚が異なる色彩を放つ。紫から青へ、橙から黄へ……美しい濃淡を描くその姿が美しいばかりではない。こうしてひと枝でもむせかえるほどに豊潤な香りを放っていた。

 海底の王族は、ひとりひとりが決められた香を持つ。天真花は沙耶の祖父・華繻那の身に付けていた香であった。祖父の元に呼ばれ、その腕に抱きしめられるとき、いつもやさしい香りが沙耶を包んでくれた。香は身に付けるその人によっても、香りを変える。天真花香を受け継ぐのは、沙耶のすぐ下の弟・華楠であったが、まだまだ年若い彼に祖父の姿を探すことは出来ない。

「良い香りでございますね」

 沙耶の明るい表情を見て取ったのだろう、侍女も嬉しそうな声を上げた。その時、沙耶の胸はまたちくりと痛む。こんなにも……こんなにも容易いことなのだ。ただ、微笑んでいればいい、静かに時を待てばいい。

 ――姫は、幸せになるのだよ?

 懐かしい声が、心の中で反芻される。そうだ、そうなのだ。自分が心安く生きるだけで、周りの者たちは救われる。「陸」に暮らす者ならば、ようやく学齢期を迎えたばかりの年の頃。沙耶はどこまでも悟りきった子供であった。寝台の上で、他に何もすることがなく、ただぼんやりと一日を過ごしているから、いらぬことまで考えてしまうのか。

 だけど、分からない。「幸せ」とは何であろうか? ただ、静かに笑っていればいいのだろうか。

 

 そろそろ気の流れも涼しげに変わり始め、戸を閉めようと侍女が立ち上がる。その時、にわかに庭先の方が騒がしくなった。

「おーい、柚。そこにいるんでしょう……!?」

 飼い慣らした水鳥たちが鳴き声を上げている。誰かが、庭に入り込んだのだ。傍らの侍女がすぐに気付き、戸口から覗いた。

「ま、まああ! 春霖様……! お行儀が悪い、こちらからいらしてはならないといつも申し上げているでしょう……! 竜王様の姫君の御部屋ですよ」

 そんなたしなめる声にもひるむ様子はない。声の主は侍女の制するのも聞かず、ひょっこりと戸口から入ってきた。足元は袴の裾が膝の辺りまで泥だらけになっている。白い床に足跡を付ける様に、侍女は悲鳴を上げていた。艶やかな赤毛のすらりと背の高い少年である。彼は沙耶を見て、にっこりと微笑んだ。

「姫、お目覚めでしたか? ほら、皆で山に遊びに行ったんです。こちらを早くご覧に入れたくて」

 そう告げると、先ほどの天真花の隣に、うす桃色の花の束を差し出す。先ほどまでとはまた違う、ほのかな甘い香りが辺りに漂っていく。

「まあ、……薄桜(うすざくら)。もう、咲いていたのね」

 思わず叫んで、それを手にする。傍らの少年も満足げだ。慌てているのは、床を拭いたり彼の草履を無理矢理脱がせたりしている侍女だけである。

「姫様はこの花がお好きでしょう……って、いいだろ柚。面倒なんだよ、表から色々と話を付けてるとあっという間に夜になって、花が枯れてしまうだろう? 全く、お上のすることって面倒でならないよ。――あ、母上には内緒だからな、また叱られてしまうから」

 時折、あまり行儀良くなくこうして部屋を訪れるのが、沙耶の弟君の乳母の子であるこの少年・春霖(シュンリン)であった。この者の母は元々は沙耶の父の側女であったという巡り合わせであり、御館にも明るい。品が良くしっかりとした心映えで、皆の信頼も厚かった。ちなみに今傍らにいてくれる侍女は、その乳母が連れてきた者である。

「私が黙っていたところで、いつかは秋茜様のお耳に入りますよ。こちらにはたくさんの者が仕えているのですから、きちんとして下さらないと、御両親が笑われることになりますわ。……若様も、そろそろ色々なことを承知して頂かないとなりません。いくらお歳が同じとは言え、沙耶様は竜王様の姫君。臣下の者が気安くお目にかかれる御方ではございませんよ」

 春霖が肩から羽織っていた重ねも剥ぎ取り、庭先で叩いたりしている。親子と言うよりも、姉弟のように見えるふたりであったが、いつでも軽やかなやりとりで、見ていて小気味が良かった。

「だってさ〜、お可哀想だよ、姫様は。前はもっと、表に出て遊んだりしたじゃないか。今日だって、他の皆も来たいと言ったけど、奴らはトロ臭いからさ。途中で御庭番の者に捕まると面倒だから置いてきた」

 彼が野歩きをしていたという顔ぶれは、きっと沙耶もよく知っている仲間たちだろう。御館には、仕える侍女たちの子も多く出入りしていて、時には王族の御子とも一緒になって遊ぶ。対等と言うわけにはいかないが、それこそ何も分からぬ頃は遠慮などないし、さながら兄弟のようであった。

「それは……、姫様は今はお戻りになったばかりで、お疲れですから。東の祠のお薬を頂けば、また良くなられますから、それまではいけません。次は、きちんと表からお出でくださいませ」

 侍女が困り果てた様に辺りをうかがう。こうしているうちにも誰かが部屋に来るかも知れないのだ。表の庭から人を上げたと分かれば、口うるさい侍女長などが何と言い出すか知れない。

「姫様、しばし失礼致します。この悪者を、こっそりとつまみ出して参りますわ」

 

 賑やかなやりとりを繰り返しつつ、ふたりが去っていくと。後に残ったのはふたつの芳しい香りだった。小さな小花が細い茎に連なって咲く草を手に取る。細い葉の先も光に透かすとほんのり桃色に見えるのだ。薄桜、という名前そのものの、儚い姿である。透き通った控えめな香りが、沙耶は好きだった。

 この花は、沙耶の香に使われている。もっとも薄桜だけでは香にするには弱く、他の材料も調合してゆくのだと聞いているが。山裾のじめじめした日陰にしか育たず、そう言うところも自分に似てるなと思うこともあった。可愛らしい花ではあるが、細い茎が耐えきれず、花が咲くほどに首を垂れる。

 遠くに鳥の声を聞き、こうして季節の花を愛でる。これだけで……これだけでいいのだ。他に何を望もうというのだ。最後に自分を受け入れてくれるのはこの地なのだ。どんなにか「陸」が恋しくなっても、あれはつかの間の土地。海底の姫君の自分が生きる場所ではない。

 

 そう……思うのに。

 どうして、哀しくなるのだろう。今度は何時、あの場所に行けるのかとそればかりを考えてしまう。こんな風に、不意にひとりに戻った時などは、気付くと冷たい雫が頬をこぼれた。

 

◆◆◆◆◆


「薬は……順調でありますからな。どうぞ、お気を安らかに。もうじきですぞ、婆は姫君のために頑張っておりますゆえ……」

 夕刻、新しい薬を処方してきたという東の祠の占いおばばが、沙耶の部屋を訪れた。一緒に竜王の后である沙耶の母も付き添ってくる。おばばはもうかなりの高齢でもあり、本人が語るほどに丈夫そうに見えない。だが、ここはこの人にもうひと頑張りしてもらう他にない。後の仕事を引き継ぐ者もいたが、まだ名人の域には至っていないのだ。

「では……こちらを頂いて参りますよ?」

 おばばは皺だらけの手で、沙耶の首の匂い袋を取った。美しい紫色の輝きを放つそれは、父が幼い頃から身に付けていたと言うものである。「陸」に上がるときは必ず持たされた。中には「護りの石」と呼ばれる瑠璃色の鉱石が入っている。大人の親指の先ほどのそれは、かなりの貴重品だと聞いていた。

 

 ――これが……姫様を海底へと導いてくれるもの。大切になさいませ。

 毎回、「陸」へ送り出されるときにはおばばがそう言って、自ら首にかけてくれた。沙耶の「変化(へんげ)」はいつ起こるか知れない。迎えの侍従が間に合えばいいが、それも待つことが出来ないときは、ひとりで海へ帰されることになる。
 竜王の力で張られた結界に護られたかの地は、たとえ王族の姫君とは言っても、自力で辿り着くことなど出来ない。不思議な石の導きに頼るしかないのだ。

 そして、次に渡されるときにそれが、少しずつ小さくなっていくことにも気付いていた。

 

「お薬の効き目も出てきた様子ね。この分だと、裳着の頃までには良くなるかしら? 母は姫の晴れ姿を早く見たいわ……」

 そろそろ臨月を迎えようと言う母は、新しい命の育みに幾分丸くなった頬で、微笑んだ。元気におなかを蹴り上げる様は、男君でないかと言っている。すでに沙耶には世継ぎとなる弟君と、その下にさらに妹君が産まれていた。

「裳着までは、ただいまの御歳の倍以上の間がありますよ。それまでには必ずや良くなられますでしょう、ご案じなされますな、お后様」

「……そうね、ばば様」
 母は沙耶の視線を感じたのであろう。無理をするほどに明るく応えた。

 

 東の祠の奥で。長老のおばばが難しい薬の調合に励んでいることを、国中の者が知っていた。この国の誰よりも優れた占者であり、また薬師である。そんな名高い者であっても、長い時間を掛けなければならないと言う作業。

 ……それこそが、沙耶の祖父がその昔、人知れずおばばに依頼し、だが途中で仕上がりを見ることもなく封印された幻の薬であったのだ。

 

◆◆◆◆◆


「陸」の者であった祖母。そしてその祖母を愛した祖父。

 異なるふたつの血の交わりは、容易く一筋の道に連なることはなかった。祖母には敵も多かった。自らが望んだことではないにせよ、偉大なる竜王の寵愛を一身に受けてしまったのである。他に寵を得ることを望んでいた者は多くいた。妬みやそしりは絶えずついて回る。

 だが、何よりも祖母を苦しめたのは、他の何者でもない。海底の気、そのものであった。ねっとりと絡みつく気は「陸」暮らしの祖母には重く、そこから命を保つための酸素を取り込むことが難しかった。普通、海底の民ならば、肺の呼吸の他に、エラの耳を使うことが出来る。だが、それが祖母にはない。

 日々、弱っていく祖母を見るのが辛く、祖父は幾度となく祖母を「陸」へ戻そうと思ったと聞く。だが、それを祖母は望まなかったし、祖父としても出来ることならば、限られた時間の全てを祖母と共に過ごしたかった。

 

「もう二度と……禁を破ることなどないと思っておりましたが……」

 封印の祠を再び開くとき、重々しい声でおばばは告げたと言う。

 もともと、「陸」と海底との融合は、互いの空間に歪みをもたらす。祖母の存在が疎んじられたのは、単に異形の者だからと言う理由だけではなかったのだ。そして、今回。「偉大なる竜王」が亡き後の世界で、沙耶の存在はさらに微妙なものになっていった。

 

 ――全ての意味で「鍵」となりうる御方……。

「陸」と海底。ふたつの世界に引き裂かれた沙耶の身が、完全に安定してひとつに戻るとき。それは唯一の陸への扉が永遠に閉ざされる瞬間であった。



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