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ゆったりとした変わり映えのない時間が過ぎていった。 何の義理もないのに身を寄せさせて貰っている手前、自分の出来る範囲での手伝いはする。とは言っても、普段はここの家の主婦である渚がひとりで切り盛り出来る量の家事に少しばかり手を出す程度。診療所の仕事などは知識のない者にはどうにも出来ないし、あちらにはたくさんの人が出入りするのでどうしても人目に付きやすい。 ここの住人たちに面と向かって何か言われたわけではない。だけど、だんだんしっかりと周囲が見えてくる年齢になれば、いつかしら湧いてきてひとときの間に消えていく自分は誰から見ても不可思議な存在と映ると言うことに気付いていた。 ――いつからこんな風に、ひとりの時間を多く過ごすようになったのだろう。 「陸」での日常はめまぐるしい。海底では代々受け継がれる物語の絵巻や難しい漢語を連ねた糸綴じや巻物の書などが全てであるが、ここでは比べものにならないほどの多種多様な情報が日々、発信されている。「雑誌」と呼ばれる冊子は毎日のように新しいものが店頭に並ぶし、家まで届けられる「新聞」という紙束もある。
幼い頃は、「陸」に上がればいつも澪が一緒にいた。 就学前の彼は「保育園」というところに行っていたので、沙耶がこちらに来たときには休ませるなどの方法で寂しくないように計らってくれていた。彼が「学校」と言うところに通い出すようになると、今度は妹の泉美と遊ぶようになる。 海底の館では小さな咳をひとつしただけで侍女が数名飛んできて、申し訳ない気分でいっぱいになってしまうのだから。別にお付きの彼らに悪意などあるはずもない。でも四六時中監視されているような窮屈さは子供心に嫌だなと思っていた。 「ただいまっ! ……沙耶は? どこっ!?」 ランドセルをガタガタと揺らしながら澪が戻ってくるのは夕刻。学年が上がるに連れて、その時刻がどんどん遅くなる。それでも沙耶がこちらに来ているときには、友達との約束も断って急いで帰宅して来てくれた。 「今日は、浜に降りてみようよ?」 宿題だけは片づけないと渚がうるさいので、速攻でやり終える。鉛筆をせわしなく動かしながらも、澪は今日の「遊び」の予定を口にしていた。 彼は沙耶がいない間も、色々と新しい発見をしている。波に削られて出来た新しい洞窟、珍しい草花、小川を辿っていった先にある野生の木イチゴ畑。髪を短く刈り上げて、どこから見ても近所の悪ガキ風なのに、身近に接する彼はとても世話焼きで「陸」の生活に戸惑う沙耶に優しくしてくれた。 「沙耶に見せたかったんだ、ふたりだけの秘密だよ?」 こっそりと耳打ちされるとき耳たぶの辺りがくすぐったくて、首をすくめた。目新しいものを見つけるのは楽しい。「陸」は全ての風景が色鮮やかな輝きを見せる。水色に滲む海底の暮らしに慣れきっている沙耶にはとても新鮮で胸の高鳴りが隠せなかった。見るもの聞くもの全てが珍しい。でも、それよりも澪の心遣いが嬉しかった。 海底の都にいれば、頻繁に体調を崩してしまう自分に周囲の者たちが始終張りつめた心で接しているのが分かる。持ち回りで部屋付きになった侍女などは、少し発熱しただけであからさまに嫌な顔をしたりした。子供だから気付かないと思ったのだろうか、もしも熱にうなされていたとしても肌から伝わってくるもので全てが分かるのに。 澪やその家族たちは、いつでも沙耶を快く受け入れてくれる。その心には一点の濁りもなく。それが嬉しくて仕方なかった。
だけど、その温かい手のひらもいつか消える。 最初は同じくらいだった背の高さが、ある時から目に見えて違ってきているのが分かった。詰め襟の制服を澪が着るようになる頃には、もうふたりで連れだって出掛けるどころか、気軽に声を掛けてくれることすら少なくなっていた。廊下ですれ違えば挨拶くらいはするが、それきり会話が弾まない。 ……一体、どうしてしまったのだろう。 最初はその事実がにわかには信じがたく、何か自分が知らないうちに彼の機嫌を損ねてしまったのかとひとりで思い悩んだ。沙耶にとって、澪との時間は何ものにも代え難い大切なひとときであったのだから。 その後も答えをはっきりと本人の口から聞くことはなかったが、そうなった原因は他の家族との何気ない会話から知ることが出来た。 「お兄ちゃんね、沙耶ちゃんと一緒にいるところを同級生に見られたんだって。すごいからかわれたんだって、聞いたよ?」 この家で一番軽く話を告げてくれるのは泉美だ。彼女は屈託のない笑顔で楽しそうに話してくれた。 なんとなくその一言で察しが付いた。見知らぬ女子(おなご)とのことをあれこれ聞かれて、澪は気を悪くしたに違いない。自分といることで、不都合が起こると言うことにも気付いてしまったのだろうか。 いつかはこんな風になるのではないかと恐れていた。だけど、現実はあまりにあっけなくやってくる。自分の存在が澪の中で一番先に切り捨てられたことが辛かった。
年頃になること……沙耶はその頃、裳着(もぎ)を迎えていた。かの地では高貴な家柄に生まれた者は、男子も女子も13を迎える年に成人の祝いを行う。その時から一人前と見なされ、早い者では好いた相手と所帯を持つことも許される。 本来ならば、王家の姫君なのであるから、国中の集落から客人を迎えて盛大なお披露目の宴を催すのが当然。しかしそのような大袈裟な席に沙耶の身体が耐えられるはずもない。大人たちの話し合いの末、ごくごく内輪でひっそりとしたものとなった。 澪も、……そして自分も。変わり始めていることは分かっていた。 何時までも仲の良い関係でいられるはずもない。彼もいつか人並みに恋をして、人を愛することを知るのであろう。そうなったとき、自分はどうなるのか。澪の心が離れていっても、己の身体が「陸」の乾いた気を欲しがる。でも、それもいつまで続けられるのか、誰も答えを出すことは出来ない。 どんなに可愛がって貰っても、本当の家族のように接してくれても――この地は沙耶にとって仮の場所。生涯をまっとう出来るところではないのだ。いつかこの乾いた大気は、自分に永遠の別れを告げる。だから、あまり想いを残しては駄目。 それに気付いたとき、沙耶はいつもとは違う新しい涙を落としていた。扉が閉まることを、皆が望んでいる。そのことが余りにも辛かった。
――だって。「陸」に上がらないと、澪には会えないのだから。
「陸」でも、海底でも。大人たちの話を聞く限り、もっとその「時」は早く訪れるはずであった。どんなに遅くとも、裳着を迎えることには薬もすっかり完成して、姫君としての正式なお披露目が出来ると誰もが思っていただろう。それが思いがけなく手間取って、今に至る。表に出せぬ苛立ちが沙耶にまで伝わってくるようであった。 おばばに直接言われたこともあるし、侍女たちが渡りの方で噂をしているのを聞いてしまったこともある。今のままの中途半端な身体のままでは、いつか海底の結界にも歪みが生ずるのだと。 そうなのだ、もしも凡人であれば、初めから沙耶の祖母のような存在を海底に留めるような真似はしなかっただろう。ただ人ではない、海底の民の全ての安泰を願う立場にあれば、危ない道は選ばないのがまっとうな考え方だ。
「……私も、今しばらくもちこたえよう。薬はもう程なく完成する、それまで姫も辛抱しておくれ」 時折部屋を訪れる父は、出来る限りの微笑みを浮かべてそう告げた。誰にも気付かれぬように、東所の寝所の奥で胸を押さえていることがあるという。優美な衣の上からでは伺うことも出来ないが、かなりやつれて衰弱しているに違いない。 自分はこんなに父を、そして周囲の者たちを苦しめている。出来ることならこのまま捨て置いて欲しい。次に「変化」の発作が起きても、皆そしらぬふりをしていてはくれないか。飼い犬が綱をかみ切って、最後の時を誰にも邪魔されずに迎えるように。 ――否、そのようなこと。 両親が胸を痛めながらも、それでも望んでいることを知っていた。沙耶の身体が他の者と同じように安定すること。そして、幸せな生涯を送ること。分かっていた、痛いほど感じ取っているからこそ、辛かった。
考えなくてはならないことはたくさんある。それに、本当に期限を決められて答えを出さねばならぬ事柄もあった。 だけど、沙耶が今回「陸」に上がってひと月余り。やわらかな波音に耳を澄ませながら、ただぼんやりとした時間を過ごしているままだった。
◆◆◆◆◆
珍しくちゃんとノックしてから泉美が入って来る。 夏休みの部活帰りなんだろう、ネームプリントのされた体操服とジャージ姿。両手にいくつもの洋服をハンガーに掛けたまま抱えていた。よっこらしょと手にしたそれらを沙耶のベッドの上に投げ出す。オフホワイトのベッドカバーの上が、あっという間に色とりどりの花畑に変身した。 「あのねえ、今夜、野外ライブに誘われたの。地元のアマチュアを集めてやる奴なんだけど、マコトくんのお兄ちゃんが出るんだって。クラスの子たちもたくさん行くし、パパもママも許してくれたんだよ〜っ!」 たった今、了解を取ったばかりなのだろうか。勢い込んでまくし立てる。ここの医師夫妻は子供のしつけについてはかなり厳しかったが、この頃では頭から押さえつけるだけではどうにもならないことも悟ったらしい。先日も泉美は同級生と電車に乗って、遠い街の映画館に行ったのだ。 マコトくん、と言うのが彼女の恋のお相手。今回浜に上がってから、何度その名を聞いたことか。娘の素行が気になる父親の湊があれこれ口うるさいので、台所などでは話しにくいのだろう。時折、沙耶の部屋にふらりとやって来ては話をしていく。 「野外」だの、「ライブ」だの。ひとつひとつの言葉を自分の頭の中で組み立てていった。これが渚だったりすると、いちいち沙耶に分かる言葉に置き換えて説明してくれるのだが、それを泉美に要求することは出来ない。こうして気軽に話しかけてくれるだけで、よしとしなければ。 「でねでねっ、何着ていこうかとすっごーく迷っちゃって。浴衣でもいいかなーと思ったけど、アレはこの前の夏祭りで着ちゃったし、同じメンツに会うのに着た切りじゃ嫌だなーって思うのよね、格好悪いし。かえって、洋服にした方が目立つかもとか思ったんだっ! ……どれがいいかなあ?」 いつの間にか日が傾き始めている。窓からの風がひんやりとして、目の前に広がる風景が茜色に染まっていた。このところ夕方に天気が崩れることが多かったが、今宵は満天の星空が望めそうである。 「……そうねえ」 沙耶は次々と差し出される服を眺めた。見たことのあるものもあれば、初めて目にするものもある。 中学に入学してからと言うもの、学校に部活に忙しい泉美はプライベートで出掛ける時間がぐっと減ったらしい。しかし渚の話では、珍しく一緒に買い物に出掛けたときなどには次々と新しい服を欲しがるのだと聞いた。そんな風にして袖を通したこともない服がクローゼットにたくさんしまわれているのだと。
その話を聞いたとき、沙耶は何だか自分と似てるなと心の隅で思った。 海底にいる母は、竜王の后という高貴な身分にありながらも手仕事がとても好きだ。特に刺しものの腕はかなりのもので、その道の熟練に少しも引けを取らないと聞いている。実際、母の刺した花文様は今にも優美に薫って来そうな仕上がり。仕事は速く正確で、次々に美しい作品を仕上げている。 一枚、また一枚。新しい衣が仕上がるたびに、沙耶は母の愛を深く感じた。あまりしつこく口にしないまでも、どんなにか自分の身体が普通になることを望んでくれているということも。 「あまりに幼い色目になってしまったのなら、あなたがいずれ産む子に残しておけば宜しいわ」 そんな風にありもしないような未来までを語られたりする。明るく振る舞う母の話を寝台の上で聞きながら、沙耶はもうどうしていいか分からなかった。
くっきりと日に焼けた泉美の肌には、鮮やかな色目が似合うと思う。たとえば、オレンジ、そして空の濃い青。模様もはっきりと大きな柄の方がいい。そんな風に思いつつ、布の山を崩していたら、あちら側の泉美が不意に叫んだ。 「ああ、これ〜っ! 沙耶ちゃんに似合いそうだと思ったんだ」 そう言って彼女が手にしたのは、水に青のインクを落としたような透明なブルーのワンピース。透ける素材の下にもう一枚短めのワンピースを着るように仕立てられていた。肩の辺りは細い紐があるだけで、大きく肌が露出する。胸元には柔らかいギャザーが寄って、そこに控えめにレース飾りが付いていた。まるで波飛沫のように。 「あのね、あのね。たまには大人っぽくしたいなと思って買ってみたの、でも何だか全然私には似合わないんだもの。沙耶ちゃん、私よりもずっと背は高いけど細身だから。……ねえ、ちょっと着てみて? 下着も貸したげるっ!」 彼女は自分が身に付けるために持ってきたものを差し出した。普段、沙耶が締め付ける下着を身につけないことを泉美は知っている。「陸」と海底では身に付ける衣がだいぶ異なるが、下着も全く違うのだ。身体のラインに沿ってぴったりと肌に吸い付くそれを初めて見たときは仰天した。 「ほらあ、寄せて上げるブラだよ〜っ! いつも上から押さえつけてるんだもの、かたちが崩れてもったいないよ」 何だか、いつの間にか立場が逆転している。泉美は自分の支度など忘れてしまったかのように、沙耶を飾り立てる行為を楽しんでいた。長い髪をすくい上げて編み込みをしたり、毛先に熱をあててカールさせたりする。挙げ句、おしろい粉をはたかれて、薄く紅まで引く。まったく、こんなものまでいつの間にか泉美は自在に使いこなしているのだ。 そうして。鏡の前に現れたのは、どこから見ても「陸」の若い娘にしか見えない沙耶の姿だった。
「うわあ、すっごく綺麗っ! ねえねえっ、もう診療時間終わるし、ママに見せてこようよっ! 私の会心作、崩れる前に自慢したい〜!」 泉美は沙耶の手を取ると、ぐいぐいと引っ張る。「え、いいから」とか言うこっちの言葉は全く受け取ってもらえない。自宅用の玄関のところまで来ると、ようやく掴まれていた手が解かれた。 「もう、患者さんがいないかどうか見てくる! ちょっと待ってて」
診療所に通じる廊下に泉美が走り去るのと同時に、玄関の引き戸ががらりと開いた。 「……あ」 赤く色づいた風景を背にそこに立っていたのは、本当に久しぶりに見る姿だった。ここ一週間ほど「合宿」と言うものに出掛けていて留守にしていたのである。沙耶は耳にしたことのない遠い土地の地名を渚から聞いていた。 「お、おかえりなさい。……お疲れ様」 彼は肩から大きな鞄を背負っている。そこに着替えなどが詰まっているのだ。真ん中に突っ立っていたら通りにくいだろうと、沙耶はそっと身体を端に寄せた。 「……」 澪は「ただいま」も何も言わずにひも靴を脱ぐと、沙耶の隣を通り過ぎる。そのままシャワーでも浴びるつもりなのだろう、風呂場の方に足を向けた。そのまま行ってしまうのかな、そう思ったとき。風呂場のドアを開けかけた彼が振り向いた。 「……なんだよ、めかしこんで。馬鹿じゃねーの?」
開けっ放しの玄関から吹き込んでくる風がふんわりと沙耶の髪を揺らすのを、澪が見ることはなかった。ぱたん、と閉じたドア。だから、その瞬間に白い頬を伝った雫は、気付かれずに済んだ。
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