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澪と沙耶とは同じ年に産まれた、言うなれば同級生である。そのふたりが同じ時を刻み、成長していく。この当然だとばかり思っていた事実さえも、時空の歪みがもたらした副産物であったのだ。 かつて、「陸」と「海底」はことなる時間の流れを持っていた。長い間お互いが相容れないままで気付くことはなかったが、沙耶の祖母が海底に「落ちてきた」ことからそれが明らかになる。 「陸」には「浦島太郎」という昔話があった。子供たちに苛められていた亀を助けた若者が海の底の竜宮城でしばしの楽しいもてなしを受ける。だがしかし、「陸」に戻った彼はとんでもない時間が過ぎ去っていたことに気付く……という内容だった。 同じことであるなら、沙耶が海底の地で過ごしている数ヶ月のうちに「陸」では何年もの時が過ぎていても何ら不思議ではない。今頃、澪は立派な大人になっていたはず。だが、不規則に響き出す沙耶の体内時計が時を告げ懐かしい地に上がれば、自分と同じだけの時を過ごした彼と再会することになった。 「遠い場所に住んでいる、親戚の子供」――澪や泉美の口からも直接語られることがあったが、沙耶は本当にそのような存在だったのだろう。多少は世間に疎く、ずれたことを言い出すことはある。でもそれも「個性」として語られる範囲に収まっていたはず。 特別視されないことが嬉しかった、当然のように受け入れてもらえる澪の家族が好きだった。でも……時間の流れは同じであっても、やはりふたつの世界は全く同様にはいかないのである。
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今回、こちらに来るほんの少し前の出来事。 静かな夕べ、前触れもなく館奥の部屋をわざわざ両親が揃って訪れた。突然の訪問に慌てて茶の支度などをする侍女たちに命じて人払いをしたのちに切り出された話。父の神妙な面持ちとは裏腹に「とうとう来たか」と心の中にすでに準備された感情で受け止めることが出来た。 「婚礼……の支度に、ございますか?」 弟の華楠が元服を迎えてから、一年以上になっていた。この地では13で男女ともに成人を迎える。姉としての沙耶の目から見ても、凛々しく成長した彼は次期竜王としての気質を十分に備えていると思える。それは海底国の全ての民も同意見であろう。 その弟である。ちらちらと后を娶る話が出ているのは知っていた。父の故郷である西南の集落の大臣家はその筆頭であったし、他にも我が娘をと名乗り出る者は後を絶たないだろう。ほとんど人前に出ない沙耶はどこどこの重臣の息女、と聞かされても父の方の顔すら思い浮かべることが出来ない。政(まつりごと)などにも関わったことはなく、あまり情報も多くはなかった。 ――早く姉姫様が片づいて下さらなければ、話が進まないであろう……。 誰からともなく、そんな話が囁かれているのも承知していた。まあ、物事にはすべからく順序があるとは言え、多少の「追い越し」はやむを得ないと思う。そう言う事例が過去にいくらでもあるのだから。だが、沙耶の場合は少し立場が違う。 次期竜王の最有力候補である弟が正妃を迎える……それは暗に王家の世代交代を意味していた。あの偉大な王と言われた祖父にあっても、沙耶の両親が婚礼の儀を迎えた後は徐々に隠居の生活に移っていったと聞いている。今や立派に海底の全土を治め、結界を司る父であっても持て余すほどの深窓の姫君を年若い次代が引き継ぐにはいささか荷が重すぎると言えよう。 「そなたは、王族の姫。本来ならば、しかるべき集落の大臣家などに降嫁するのが慣例。だがやはり……都から遠くにやってしまうのは心配だ。不本意であるとは思うが、少し身分の低い者でも我慢して貰うことになるが……」 父が幾人かの名を挙げていく。かねてより内々に選び出されていたのだろう。まるで何度も反芻した言葉のようにすらすらと告げられた。この竜王の御館で重臣として仕える者たちの子息。顔を良く知る者も知らない者もいた。 沙耶は口を結んだまま、静かに俯いた。数日前から軽い発作が起こるようになっていたが、両親の来訪にあってどうにか上体を上げることが出来た。膝に掛けた上掛けを両の手で握りしめる。細くて何の力もない自分の指が恨めしい。 ――もしも、人並みに生きることが叶うのならば……。 何度それを願ったことであろう。心許ない自分の存在が哀しい。東の祠のおばばが誠心誠意を込めて作っている薬だ。きっと良い結果になると信じたい。でも、そうであっても、当たり前に生活が出来るのであろうか。 扉は閉まる、もう永遠に道は拓けない。 「どれも良縁と皆が認める優れた若者ばかりだ。……まあ中には多少目に余るような行動を取る者もあるが、それでも誠の夫となれば姫をしっかりと支えてくれるはず。だが、姫も遠慮などはいらぬぞ。もしも今、私が挙げたほかにこれぞと思う者があれば、遠慮なく申せ」 夫として、生涯の伴侶として添い遂げる相手――いきなりひとり選べと言われてもこちらの一存で決められることではない。まあ、父の性格を考えれば、それほど横暴なことをするとは思えないのではあるが。ひとりひとりにきちんと了解を取って納得させた上で名を挙げたに違いない。 沙耶の乳母(めのと)・多奈の子である青樹(アオキ)、弟の華楠の乳母の子である春霖(シュンリン)などは幼き頃は野遊びなどを一緒にした仲であった。今このように病床にあっても、暇を見つけては足を運んでくれる。もちろん互いに成人の式を迎えてしまえば、昔のように親しくすることは出来ない。表向きは沙耶の弟君の訪れと共に傍に控えるに留まっていた。 だが、何時の頃からか気付くようになる。 彼らの目に、幼なじみの親しさを越えたものが息づいていることを。直接言葉として耳に届いたわけではない。しかし、たとえようのない熱さが胸に届き、知らず動悸が激しくなった。 時が目に見えないほどの速さで転がり始めている。その流れは必死になって追いかけても辿り着けないほどに急ぎ足だ。周囲の者たちが当然の如く受け入れていくことなのに、自分ばかりが取り残される。皆、当たり前に大人になってゆく。 でも……そんな自分を任される者には、申し訳ない気持ちで一杯になる。どんなに周囲の者を欺いても、己を欺くことは出来ぬのだから。
自分が真に添い遂げたいと願う者の名を両親の前で口にすることは、どうしても出来なかった。
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こうしている今も、海底の地では婚礼の宴の準備が着々と進んでいるのだ。そのことをこの家の家族に告げることはどうしても出来ないでいる。もはや薬は完成しているかも知れない。次に「変化」が起こったとき……もう再び「陸」の人となることはないのだ。 けれど。いつものように当たり前の喧噪の中に置かれてみると、どうしても気後れしてしまう。いつも別れの挨拶を告げることすら叶わず、追い立てられるように海底に戻されていた。そんな風にして最初からいない存在として、いつか彼らの記憶からも消え失せるのではないか。そうなるなら、それでいい。自分で終止符を打つのは怖かった。
「……沙耶ちゃん、いい?」 遠慮がちにノックの音がして、少し開いたドアの隙間から泉美がぴょこんと顔を覗かせた。先ほどと同じ体操着姿。時計を確認すると半刻ほどの時も過ごしていなかった。 「急にいなくなっちゃうから、どうしようかと思っちゃった。部屋もあんまり静かだから、何か声を掛けずらくて……具合でも悪くなった? うなされてた様子はないけど、ママがすごく心配していたから」 沙耶はうつぶせに横たわっていた身体をゆっくりと起こしながら、片手で頬を拭った。大丈夫、濡れていない。それを確認してから笑顔で向き直る。 「ううん、もう大丈夫よ。ちょっと目眩がしたの、心配かけてごめんなさい」 詳しく説明する必要はないと判断した。多分、澪は何も気付いていない。ここは自分ひとりが感情を飲み込めばいいのだから。 「そう? ならいいんだけど……沙耶ちゃんがもう戻っちゃうのは嫌だなあって思ったの。何かホッとしちゃった。でも、あの服は脱いじゃったんだね。すっごくよく似合ってたのになあ、もったいない」 泉美は人なつっこそうないつもの顔でベッドの端に腰掛けると、傍にあった服を拾い上げた。先ほどと同じように服が散乱している。今まで部屋に入るに入れず、今夜の服を取りに来られたなかったのであろう。明るいオレンジの花柄の服を胸に当てて「これでいい?」と聞いてきた。 「……あ、そうだ」 手早く着替えを終えた泉美は運んできた服を全部抱えたところで振り返る。 「ゴメン、これ。渡してくれって言われてたの、忘れてた」 手渡されたのは小さな紙包み。手のひらに乗るほどの板状で、手触りは固かった。紫の包み紙に白く花模様が浮き出している。 「絵はがき……?」 こういう土産物は、以前にも何度か受け取ったことがあった。海底の地にはないのだが、こちらには見る風景をそのままの姿で収めることが出来る機械がある。それで写しだした風景は沙耶にとって珍しいばかりの鮮やかさ。特に四角く切り取られた葉書はかさばらずに有り難かった。 かつて、父との婚儀を迎える前の母がこの地を訪れたとき、身に付けてきた衣をそのままにして戻ったのだという。しばらくは保管してあったと言うが、だんだん糸がほつれて見る影もなくなってしまったらしい。幼かった沙耶がその話を聞いたとき、もう現物は残っていなかった。 「自分で渡せばいいのにね。お兄ちゃん、シャワー浴びたらすぐに電話が来て飛び出して行っちゃった。何か、女の人の声だったんだよ、びっくりしたわ〜!」 泉美の言葉よりも、目の前に現れたいくつもの風景に沙耶は魅了されていた。一面に広がる花畑。すうっと伸びた赤紫色のもの、柔らかい薄紫のもの、どれも今まで見たことのない花々だった。 「イマドキ、こんなもの流行らないよね〜。何で気の利いたアクセサリーでも見繕って来れないのかなあ……まあ、いいよね。後の家族にはおまんじゅうだったんだから、沙耶ちゃんだけ特別だよ?」 軽やかな笑い声に励まされるように、包み紙をそっと指で辿る。ここに触れた人の存在を思うとき、心が少しだけ熱くなる。それは分かっていた。
――恋なんて、人ごとだと思っていたのに……。
海底の父に直接尋ねられて初めて気付いた、自分の気持ちが誰に向いているのか。どうしてこんなにも「陸」に憧れて焦がれ続けたのか。 乾いた心地よい風、思い通りにすんなりと動く手足、だるくならない身体。そして迎え入れてくれる澪の家族の優しさ。どれも沙耶にとって何物にも代え難い大切なものだった。でも、それだけではなかったのだ。沙耶を絶えず揺り動かした一番の存在――それが、澪だった。 会うたびに次第に疎遠になっていく幼なじみ。ぶっきらぼうな物言いに、嫌われているのかと気に病んだこともあった。 ――こちらでは、時計がのんびりと進みすぎている。そう感じずにはいられない。己ひとりが自由に行き来出来るふたつの世界が、目に見えない微妙な部分でずれを生じている。綱渡りのように過ごす時間。切り張りされた綴れ織りのような道を進みながら、どちらにも属すことの出来ない自分が孤独だった。 一方が夢で、一方が現実ならば……どちらに降り立ちたいだろうか? 海底の国の姫である自分は、かの地で生きるのが筋というもの。それを疑う者などいない。自分を愛し、心から幸せを望んでくれている父や母ですら、信じ切っているであろう。 数年後のことは分からない。でも、今の澪に何を願っても無理だと思う。自分が、海底の古なじみたちの心の変化に戸惑うように、もしも強く望めば驚かせてしまうだけ。……時計を早送りすることは出来ない。自然の摂理にあらがうことなど叶うことではないのだから。
そろそろ出掛けるという泉美を見送ってから、沙耶も裏口から外に出た。 もう夏も終わりに近い。崖の下の浜は夕暮れには人影もまばらになる。そんな時、ひとりで涼みに行くのが好きだった。大きな麦わらの帽子。少し深めに被れば、自分が何処の誰かなんて誰も気付かない。ただ、風景の一部になって、涼風に吹かれたかった。
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誰もいないはずの浜辺。なにやら言い争う取り込み中のふたつの人影を見たとき、しまったと思った。こちらに背を向けている人物には気付かれていないだろう。だが、それが誰であるのか、沙耶にはすぐに分かってしまった。 すぐに立ち去らなくては。まるで盗み聞きをしに来たみたいで後ろめたい。なのにサンダル履きの足は砂の上にしっかりと固定されてしまっている。こちらを向いていたもうひとりの人物は、ちらりと沙耶を一瞥してすぐに視線を戻した。その時―― 「……あ」 しっかりと押さえていたつもりだったのに、突然の突風に帽子が舞い上がる。思いがけずに高く高く飛んで、あちらのふたりの足元まで届いてしまった。 「沙耶?」 その瞬間、もうひとつの人影がぴくりと反応した。シンプルな開襟のシャツに膝上のプリーツスカートは「制服」と呼ばれるものなのだろう。肩に掛かる髪は軽やかにカールしていて、泉美に見せて貰ったファッション誌に載っていたモデルと似てるなと思った。 「……誰よ、その女。見かけない顔ね、他の高校の生徒なの?」 今度こそ、きびすを返そうとしたのに。いきなり突き刺さる言葉が沙耶の動きを止める。違う、言葉だけじゃない。見たことのない程のとげとげしい視線を全身に感じた。思わず耳元に手が行く。まさか「変化」が起こっているのかと恐れたからだ。それほどに……冷たい身の凍るような眼差しだった。 「いいだろ、別に。――行くぞ、沙耶」 言葉を発する術を忘れた沙耶の代わりに、澪が吐き出すようにそう言い捨てた。相手の女子の眉がキッと上がる。 「ねえっ、聞いてるでしょ? 答えなさいよっ……!」 金切り声が背中を叩いても、澪はそれきり二度と振り向かなかった。
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「あの人、怒ってたよ? このままじゃ、良くないでしょう」 結果として自分の出現がふたりの会話を打ち切ってしまったことになるのだ。何だか申し訳ない気持ちになる。どう見ても、あちらはまだまだ言いたいことがあった様子なのに。 「いーんだよ、勝手に向こうが腹を立ててるんだから……全く、女って奴はぎゃあぎゃあわめき立てるだけで騒々しいったらありゃしない」 足元の石をひとつ拾い上げる。そしてそれを思い切り崖下の海に向かって投げ込んだ。少し荒れてきた波にその存在がかき消される。行く末を見送ることも出来ずに、澪は小さく溜息をついた。 「――それよりさ、アレ。見たのか?」 その言葉に一瞬ぼんやりと頭を巡らせて、ようやく思い出す。ああ、そうか。絵はがきのことだ。せっかく届けてもらたのに、すっかり忘れていた。 「あ、……うん。すごく素敵だったわ。あれ、夏の花なんでしょう? それなのに茎が細くてとても繊細で。やわらかくて優しい色をしていたわ」 どんな言葉で感動を伝えたらいいのか分からない。でも、あの花畑の風景を見たときの気持ちを出来るだけそのまま告げてみた。それほど口達者じゃない沙耶にとって、かなり難しいことなのだが。 「高山植物って言うんだよ、標高の高い山の上に群生する野生の花」 「泊まっていたペンションの近くに湿地帯があって、その周りが一面あんな感じだったんだ。もう赤蜻蛉が群れなしていて、一足早く秋が来てるみたいだった」 その言葉を聞いて、沙耶は胸に留めておいた言葉を口にしないで良かったと思った。 映し出された情景だけでも十分に美しい。でも、本物はどんなにか素晴らしいだろう。たとえば一輪でもいい、あの優しい色の花が咲いているところが見てみたいと思ってしまった。 しかし、いつものように願いを自分の中で打ち消そうと思った瞬間、沙耶は信じられない言葉を聞いた。 「……連れて行ってやろうか?」 最初は、空耳かと思った。それくらい、頼りないひとことだったから。思わず彼の方を向き直ったが、その視線はまっすぐに夕暮れの波間を見つめていた。 「ちょっと遠いけど、朝早く出れば日帰り出来る距離だと思うんだ。……明日、出掛けてみないか? さっきの服、泉美にもう一度貸して貰えよ」
夕焼けが美しく空を染め上げれば、明日もいい天気になるのだという。茜に染まった西の山肌にひときわ美しく燃えさかる朱が静かに沈み始めていた。
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