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窓の外を流れる風景は、夏から秋への移ろいを感じさせる。 右も左も手に届くほどに間近まで木々の枝が伸びてきていた。山の中を滑るように走る高山電車。鬱蒼と茂る森に視線をやれば、今自分が一体どちらの世界にいるのかも曖昧になってくる。 「……疲れない?」 「う、ううん。大丈夫よ」 沙耶は慌ててそう答える。すると澪は「無理するなよ」と言い残して、また帽子のつばを深くおろした。
夜明けと共に出発するスケジュールだった。心配して駅まで車を出してくれた渚に見送られたのが5時前。始発の各駅停車は人影もまばらであった。 ――電車なんて、長いこと乗ったこともなかったな。 ゆっくりと頭を巡らす。まだ泉美が小さかった頃、子供向けの映画に連れて行ったことがある。他の家族の予定が合わなくて、あまりに泉美がぐずるので沙耶は自分が行くと申し出た。その時もかなり反対されたのを覚えている。人や車の多い街は空気も悪く、沙耶の身体に障るのではないかと心配されたのだ。 それ以来、かも知れない。そうなれば、昨夜の澪の両親の難しい顔も頷ける。信じられない澪の申し出に一度は心躍らせた沙耶も、これでは小旅行の実現はあり得ないと早々に諦めてしまったほどだった。
「そんな山奥まで……、もしも何かあったらどうするつもりなの?」 渚の表情はひときわ険しかった。彼女には「大切なお嬢さんをお預かりしている」という認識が絶えずあるようだ。海底では保たない身体だから「陸」に上がる訳であるが、その滞在中はかなり神経をとがらせているらしい。沙耶がいるときといないときでは顔つきが違う、と以前誰かに言われたことがあった。 心配するのも当然だ。どんな「大都会」であっても、そこが海の近くであればいい。それならば沙耶はすぐに海底の地に戻ることが出来る。いつもこちらに来るときには首から提げている護り袋。その中に入っている石が必ずや故郷の地へといざなってくれるのだから。 その大切な石が昔よりもずっと小さくなっていることも知っている。効力も永遠には続かないのであろう。さらに東の祠のおばばが作っている薬にもこれを削り取った粉末を用いているようだ。いつか指の先ほどになってしまった石はもうそろそろその役目を終えようとしている。 急な発作があったとしても、人里離れたような山でどうするのだ。沙耶は普通の人間とは違う。すぐに救急車でもよりの病院まで連れて行くことも出来ないのだから。外見上はほとんど違いはない、だが身体の内側をくまなく調べられたら、大変なことになる。医学に携わる澪の両親もそれを一番恐れていた。 「大丈夫だから」 澪はどこまでも頑なだった。それも沙耶にとっては信じがたいことで、ハラハラさせられる。自分の存在がこの家族に亀裂を生じさせることなどあっていいはずもない。諦めることなんて慣れているのだ、いつものようにごくりと感情を飲み込めばそこでおしまい。造作ないことだ。 「どうしていつも『駄目、駄目』って全て摘み取るんだよ。そんなの、つまらないじゃないか」 そうきっぱりと言い切られてしまうと、誰も言い返せなくなる。最近では沙耶はこちらに厄介になるときでも、ひとりでぼんやりと部屋にいることが多くなっていた。不服であるような態度を取った記憶もないが、誰もがその状況をいいものとは思っていなかったのだろう。 「何かあったって、俺が絶対に沙耶を守る。だから、いいだろう」
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「ほら、急がないと。あのバスに乗るんだ、もうちょっと山を登るからな」 早めの秋を散策に出掛けるのだろうか。平日の山の駅にも少なくない人影が見えた。皆、帽子を深く被り、ナップザックなどを背中に背負っている。パンツルックで颯爽と歩く姿は、年齢に関係なくとても若々しく見えた。
「陸」での人々の暮らしはとても忙しく見える。文字通り「時間に追われる」日々、コマ送りに多種多様な事柄を消化していき、車の中でまで携帯出来る電話で話をするような有様だ。ひとつの物事を進めるにも幾度となく文のやりとりをして話を煮詰めていく海底の仕様とはどんなにか違うだろう。政務に関わったことのない沙耶でも、何となく明らかな違いがあることは分かっていた。 こちらから見たら、まるで時間が止まっているかのように見える故郷の地。そこにもうすぐ自分は閉じこめられようとしている。そんな言い方をしてはならないと分かっているのだが、どうしてもそう言う風に思えてならない。こんな風にふたつの世界を行き来する生活の方がよっぽど異質なのに。 目の前を楽しそうに会話しながら歩いていく初老の夫婦。自分も何十年後かにああいう姿になれるのだろうか。とても想像が出来ない。感情を押し込めて過ごした日々の中で、いつか夢を見ることすら忘れていた。何かを強く願うことは、自分には許させることではない。ただ流されるままに進むしかないのだから。 「扉」が永遠の封印をされるとき。その瞬間に自分の人生も幕を下ろすような気がした。
「やっぱ、疲れたんじゃないのか。だからいっただろ、電車の中では寝てろって」 電車とは異なり、バスではふたりがけのシートに腰掛けていた。澪が気を利かせて窓際の席に沙耶を座らせてくれる。車内の冷房はなく、半分開いた窓から吹き込む秋風が涼しさを乗客に届けていた。舞い上がる髪を手で押さえたときに耳元に囁かれる。その声がいつもよりもずっと近く感じることに驚いた。 「まあ、花畑のハイキングコースは2時間かそこらで回れるから。帰りはしっかり休まなきゃ駄目だからな」 ここで振り向けば、すぐそこに澪の顔があるのだろうか。そう思うと何だか妙に意識してしまって、身体が固くなってしまう。ゆとりのあるシートだから、無意識に身体が触れ合うことはない。でもこんな些細なことですら胸をときめかせている自分が滑稽であった。澪が全く意識してないと分かっているだけに、ひとりで舞い上がっている自分が情けない。 山歩き用のカジュアルな装いをした彼はいつもよりも少し子供っぽく見えた。出会った頃に良く着ていたのと似た柄のシャツを上から羽織っているせいもあるのだろう。見つめる眼差しですらいつもよりも親密な気がしてたまらなかった。 「……沙耶はやっぱ、お姫様なのかも知れないな」 突然そんなふうに話題を振られて、ハッと顔を上げた。でも澪の視線は反対側の窓の外を眺めている。 「どういうこと……?」 のんびりしすぎていると言いたいのだろうか、それとも受け答えが鷹揚であっただろうか。何だか色々考えると気になって仕方ない。考えがまとまらないままにそう訊ねてしまうと、その声に次の停留所を知らせる運転手のアナウンスが重なった。 「降りるぞ」
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「うわ……、すごい」 下界よりもずっと早く穂を出したススキ、見たこともない小さな草花。目に映るその全てがあまりにも物珍しくて、しばらくは言葉もなく見入っていた。 そんな沙耶がようやく声をあげたのは、辿り着いた一面の花畑。想像を絶するくらい、とにかく向こうが見えないほど。視界の全てが赤紫色の花の絨毯に覆われていた。そよそよと風に吹かれると、それがさながら海の波のようにさざめく。 生命の息吹を感じさせる流れに息を飲んでいると、背後で小さく咳払いが聞こえた。 「これは、ヤナギラン。夏を代表する高山植物なんだ。日本では中部地方から北でよく見られる花で、葉のかたちが柳によく似ているからそう呼ばれるらしいよ」 前もって調べてあったのだろうか、説明する澪の手にガイドブックはない。小さい頃は自然や植物に親しんでいた彼であったが、中学高校と進むに従ってそのようなものには興味を無くしたのだと思っていた。この花だけではない、ここまで来る道すがらで沙耶が足を止めるたびに花の名前を教えてくれたことを思い出す。 「ほとんど紅に近い紫だわ。……こんな色、初めて見た。とても、綺麗」 せっかくの風景を前にしても、言葉が上手く繋がらない。胸がどきどきと高鳴って、それに支配されてしまうのだ。 すうっとまっすぐに伸びた茎は長いものでは大人の背丈ほどある。そのてっぺんに赤い花がびっしりと咲いている。咲き方としてはぺんぺん草のよう……と言ったらいいのだろうか。茎を中心にぐるりと周囲に花枝が広がっている。下から順に花開いていくそれは、名前の通り蘭の花によく似ていた。 海底の地にも一面の花畑は存在する。沙耶も気分の良い日には侍女を連れ立って訪れることもあった。だが、海底の花はこちらのものとは色彩が異なる気がする。何となくくすんで、ぼんやりと見えてしまうのだ。「陸」の風景が好きなのはそんな理由もあると思う。 「良かったろ、来てみて。こういうのは生で見ないと分からないからな……、写真にいくら残しても駄目だって思ったんだ。絶対に沙耶に見せてやろうって」 不思議なことに、今日の澪はとても饒舌だ。こんなに良くしゃべる彼を見るのも久しぶり。この頃では家族相手にもほとんど話をしないと渚がこぼしていた。 「澪くん……」 何もかもが、昔に戻ってしまったように思える。あの「また今度」という言葉が当たり前に思えた頃に。海底からの迎えの侍従が来ていても帰りたくなくて、いつも駄々をこねていた。最後に大人たちが説得するのは、決まってこの言葉だったのだ。 水色をぐっと薄くした色の空に、ぽつんぽつんと秋の雲が浮かんでいる。湿地だと言うからどこかに生息地があるのだろうか。まだ今年は見たことのなかった赤蜻蛉が群れて飛んでいく。 「今日の沙耶は、とても嬉しそうだ。やっぱ、我慢のしすぎは良くないと思うぜ。お前、物わかりが良すぎて、時々気味が悪いよ」 「そう……かな」 伸びやかに、しなやかに。目の前の澪は、沙耶にとって眩しすぎた。自分の「夢」を実現するために、どんどん道を切り拓いて行こうとするその姿。世間体とかそういうものに囚われることもなく、どこまでも自然体に見えた。 海底の地は、世襲制である。言うなれば、親の身分をそのまま受け継ぐということ。都での役人の身分はそうではないが、それでもある一定の歳になると「見習い」と称して上役の子息たちがやってくる。経験を積めば、なんの後ろ盾もない者たちよりはずっと容易に高い地位に就くことが出来るのだ。 そんな中にあっても。男子に比べれば、女子はそれでも自由がきくと思う。もしも沙耶が普通の身体であったなら、相手がただ人であったとしても好いた者の元に嫁ぐことが出来ただろう。だがやはり、王家の名を汚すようなことは出来なかったし、しようとも思わなかった。父と母が歩んだように、自分もまっすぐに進んでいけばいいと信じている。……信じてしまいたかった。 一方、澪はどうだろう。診療所を経営する両親の元で育ったのだ、医師を目指すのが当然の道であっただろう。でも、中学に入学した彼は、学業はそっちのけでバスケットボールに打ち込んでいた。自由に育って欲しいと願っていた渚ですら、何度か注意をしたと聞く。それでも結局は、部活を引退したあとに必死で馬力を出し、地元でも指折りの進学校にゆうゆうの合格をした。 「医者になると、決めたわけでもないから」――いつでもそんな風に悪ぶるが、多分本心は言葉ほどはひねていないと思う。きっと何十年後かに、丘の上の診療所をしっかりと守っていることだろう。 「欲しいものは欲しいって、行きたい場所には行きたいって。言葉に出してくれなかったら、ほとんどの相手は気付かないんだよ? ……つまんねえだろ、そんなのって」 不思議なことを言うんだなと思った。沙耶から見れば、がつんがつんと感情を露わにする澪の方が、よっぽど危なっかしいし、見ているだけで怖くて仕方ない。何か障害にぶち当たった彼を見ていると、自分までが追いつめられていくような気がしてしまうのだ。動くから、問題が起こる。怖くないのだろうか、彼自身は。結果として誰かを傷つけてしまう人生など、沙耶には信じられない。 「でも、……私はこのままだから。それでいいと思うの」 本当に望んでいること、それは口に出してはならない。いつになく感情を波立たせるような発言をしてくる澪に対して、沙耶はただ口をつぐんだ。 「まあ、なあ……。お前はそうかもしれないな」 次、行こうか。そんな風に顎で促して、彼は歩き始める。名残惜しい風景を後に、沙耶も慌てて続いた。
「……沙耶は、平気なんだよなぁ」 しばらく歩いて。またぽつりと澪が切り出す。感情が先で説明があとの話し方だから、聞く方は戸惑うばかりだ。 「お前、気付いてるのか? 結構、ちらちらと視線を感じているんだけど」 「え……?」 「朝、駅に着いたときから――周りの人間たちが何か違うんだよな。最初は何事かと思ったけど、ようやく分かったよ。みんな沙耶のことを見てるんだって。お前って、あっちでは特別の存在なんだろ? そんなの全然分からないけどな。注目されるのに慣れてる人間って、すげえなって思ったよ」 思わず、耳元を指で触れた。何か違った空気を感じたときの沙耶の癖だ。知らぬ間に、海底の民の形(なり)に戻ってしまったのだろうか。そんなはずはない、変化(へんげ)には身体を締め付けられる様な痛みを伴うのだから。 「……馬鹿、そうじゃないって」 澪は今度こそ声をあげて笑った。ムッとして黙り込む沙耶のことなどお構いなく。 「沙耶はやっぱ誰から見ても綺麗なんだろ? 他の女とはどこか違うもんな、目を引くんだよ。……昨日の女子の表情もすごかっただろ。女って敵対心が強いからなあ。絶対に敵わない相手に出会って、腹が立ったんだろうな」
言葉を返すことは出来なかった。自分の容姿のことについては、言われるのに慣れている。ただどんなに「お可愛らしい」「お美しい」と言われようが、心がこのように動くことはなかった。 生まれ故郷によく似た土地で、澪がどんどん透明になっていく気がする。今日の彼は、自分の心が望んだ幻影なのではないだろうか。こんな彼になって欲しいと切に望んだから、神様が叶えてくれた泡沫の夢。こんなに透き通ったら、最後にはシャボン玉のように割れてしまうのではないか。 ――思い出も、全て一緒に。
「この向こうの板橋を渡って、そしたら戻ろう。風景ががらりと変わるからな、また驚かせてやるよ」 慌ててそらした視線の端に、口元からきらりとこぼれた歯の白い色が残った。
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