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「ここを……渡っていくの?」 思わず、そう聞いてしまった。それくらい、足がすくんでいる。 さらさらと背の高い草が揺れていた。田植え後の水田を思わせる沼地に人の背丈ほどの板きれが奥の方まで細く続いている。丁度、あぜ道のように。幅は両手を広げた程だろうか。 「うん、地元の人しか使わない近道なんだよ。だからそんなに整備されてないんだ、昔の自然のままでさ」 澪はさらりとそう説明して、先に板の道に乗った。上背の割には細身の彼であるが、ひとり分の体重を支えるだけで、下から伸びている支えの細木が揺れる。沙耶は思わず身震いした。そんな姿を眺めていた澪がまたくすくすと笑う。
そう言えば、先ほど三叉路を折れたときから、人影はほとんどなくなった。皆の進んでいったあちらの道が散策路の本道なんだろう。 湿原を保全するのは大変だと聞いていた。深く水分を含んだ大地はやわらかく全てを受け止めるように見えて、実はとても壊れやすいものなのだ。高原の湿地にしか生息しない珍しい草花を求めて、訪れる人は後を絶たない。踏み荒らされてしまった場所は元には戻らないのだ。マイカー規制をしたり、立ち入り区域を制限したりと地元の団体も工夫しているようだが、やはり難しいらしい。
「大丈夫だよ、ただ渡るだけなら。別に入っちゃいけない場所でもないんだし」 ぽんぽんと軽い足取りで柱のある部分を選んで足を降ろしていく。そうしないと不安定な板が跳ね上がって、足場がぐらつくのだ。しばらく進むと彼は振り向いて、お出でお出でと促す。沙耶は覚えず息を飲んだ。 ――服、汚さないかな? 大丈夫かな……? 今日は歩きやすいウォーキングシューズを履いている。華奢なデザインで一見はおしゃれ靴に見えるような感じのもの。足のサイズが同じな泉美が貸してくれた。そして、昨日「似合う」と言われたあの服も借りる。野歩きにはパンツルックの方がいいとも考えたが、やはり最後にはこちらに決めていた。 ふわふわと揺れるやわらかな薄青のキャミソールドレス。肩を出すのは恥ずかしかったから、上からカーディガンを羽織って。それでも七分袖から見える腕の長さにさえ戸惑っていた。だけどそんな風に躊躇する方が、こちらの世界では滑稽なのだ。肩や背中は当たり前で、時にはおなかの部分まで露出する。それも水場のスイムウエアではなく、普通の街中で。 「沙耶、早く。戻りのバスの時間も決まっているんだから、急がないと……」 澪が、眩しかった。 秋の訪れを告げる風景に、ひなびた日差しがよく似合う。透き通った空気、涼しい風。どこまでもまっすぐで、一点の曇りも見えない笑顔。未来とか、希望とか。そんな言葉がよく似合う。 「うん、今行くわ」 思い切って、一歩踏み出してみた。そして、また一歩。 思ったよりも歩きにくくはなかった。それはそうだろう。地元の人が当たり前に使っている道なのだ。そんなに足場が悪いわけもない。でも、外側から眺めているとき、そこはとても危険な場所に見えた。 あっという間に、待っていてくれた人のところまで辿り着く。澪はねぎらうような笑顔で沙耶を迎えた。 「……ほら、思い悩んでいるよりもやっちまったほうが簡単だろ」 その先は直角に折れて、板が二枚並んで連なっていた。あちら側からとこちら側。もしもぶつかりそうになったときにはすれ違えるように工夫されている。並んで歩けるようになると、何気ない仕草で手を差し出された。 「お前、いつも歩きづらそうだから。片方は俺に任せていいぞ」 知らないうちに、大きくなった手のひら。骨張っていて、ごつごつしていて、沙耶の知っている澪のものとは違う。でもそこに頼りない自分の手を重ねることにそれほどの躊躇はなくなっていた。 ふわっと、右手を包み込まれて。また澪が歩き出す。ゆっくりゆっくりと沙耶の歩幅に合わせて。 「大丈夫じゃないか、今日の沙耶は顔色もいいし。うちの母親も心配しすぎなんだよ、具合が悪くなったらって、起こってもいないことを気に病んで。あんな風だから白髪が増えるんだよなあ……」 そんな風に憎まれ口を叩いたりする。でもぶっきらぼうに振る舞いながらも、彼が家族を深く想っていることはちゃんと分かっていた。
いつもそうだった。 「陸」の暮らしにとけ込めない沙耶はどうしても動作がゆったりしてしまい、居候をしている家族たちとも上手に合わせられなかった。もどかしくて情けなくて、それだけで泣きたくなって。親元から離された心細さも相まって、小さな沙耶は戸惑うばかりだった。 だけど、そんな時は隣に澪がいた。自分と変わらない子供のはずなのに、彼がいるとそれだけで安心できる。澪と一緒なら怖くなかったから、小さな冒険にも出掛けられた。 ――何だか、懐かしい。もう忘れかけていたあの頃に戻って行くみたいだわ、と思う。 追い立てられるように周囲が騒がしくなって、ゆっくりと物思いに耽ることすら忘れていた。斜め前を歩く広い背中に、まだ小さかった頃のあどけない姿が重なる。こんな風にふたりで連れ立ってどこまでも歩いて行けた頃。ちょうどこんな風に腕を引かれて。 「沙耶、もう少し先まで行こう。綺麗な花が咲いているんだよ?」 もう夕暮れ、戻らないと渚が心配する。そうは思っても、胸の高鳴りを押さえることなんて出来ない。羽目を外してはしゃぐことも、小さな約束を破ることも、みんなみんな澪と一緒だから大丈夫。目の前に現れる新しい風景が、心を自由にしてくれた。
「まあなあ、人のことばっか悪くは言えないか。俺も同じだもんなあ……」 「……え?」 急にぽつりと言い出すから驚いて顔を上げた。足場がぐらつくと、ついつい視線が下がってしまう。手のひらから感じ取るぬくもりでしか、澪を確認できないでいた。自嘲気味な笑顔、口元が歪む。 「せっかく夏休みに合わせて沙耶が来たのに、何か忙しくてついつい後回しになっちまって。部活だって、休もうと思えばある程度はどうにかなるんだよ。でも、……明日でいいやとか、その繰り返しで」 休みに入った頃に短く切りそろえた髪が少し伸びて、前髪が額に掛かってる。中途半端に隠れた額が何だか懐かしくて、目を細めた。 「……別に、本当、気にしてないのに。変なの」 いつもそそくさと出掛けてしまう澪が、そんな風に思っていてくれていたなんて意外だった。自分なんて水槽の中の金魚のようなもの。ただそこに飾られているだけでいいと思っていたのに。 「みんなが忙しくしていてくれたから、刺しものも進んだわ。感謝したいくらいよ」 澪の気持ちが嬉しかった。だから自然に笑みがこぼれる。少し戸惑った視線が沙耶の輪郭を縁取っていった。 「……終わったのか?」 うん、とひとつ頷いてみせる。 たくさんたくさん、数え切れないほどの糸を使って、鮮やかな花束を刺し終えた。渚が診療所の壁に飾ってくれるという。「陸」のものは海底へは持ち帰れない。もしもそれが叶ったとしても色あせてみすぼらしくなってしまうだろう。 花は咲くべき場所で咲けばいい、人は生きるべき場所で生きればいい。……皆、与えられたひとつの場所で。そんな風に、最後の気持ちを閉じこめてきた。完成すれば、未練も消えると信じていたけど。 「何だ、だからすっきりしてるのかな? 晴れ晴れした表情だもんなあ……」 自分の手柄だと思っていたのに拍子抜けだと彼は笑う。それからまたゆっくりと歩き出した。
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どうして、おしまいが来るのだろう。時の流れが、無理矢理自分を変えようとしている。ゆっくりゆっくり自由な歩幅で進んでいくことが許されない。皆が何を望んでいるのかは分かっている。……でも。 もう少し、……もう少しだけ。 何を望むわけじゃない、この人の心が欲しいなんて言わない。でも、時の流れを少し止めて、大人になりかけた自分たちを押しとどめたい。
……離れたく、ない。
「ほら、着いたぞ」 澪が自分よりも背の高い草をかき分けながら進んでいく。そっと放たれた沙耶の手のひらは、その次の瞬間、しっとりした地面についていた。視界が、ぐるりと回転する。 「沙耶……?」 姿は見えない、声だけが自分を呼んでいる。 早く答えなくちゃ、何か言わなくちゃ。そう思って唇を開いた瞬間、沙耶は激しく咳き込んでいた。慌てて口を押さえようとして、自分が心許ない「陸」の服装をしていることに気付く。海底にいればこんな時、大きな袂で口を塞げば皆に悟られなくて済むのに。 「沙耶? ……どうした、大丈夫か!?」 一番悟られたくなかった人が、こちらに戻ってくる。でももう顔を上げることすら出来なかった。きっと、ひどいなりをしているはずだ、こんな姿を見られたくない。 「……だ、いじょう……ぶ」 どうにかして痛みを逃したくて、自分で自分の胸ぐらを掴んだ。苦しい、身体が心が何かを求めている。――海底の「気」? ……ううん、違う。もっと別のもの。だらりと冷たい汗が額を流れ落ちてくる。 「馬鹿、無理するなよ。大丈夫なわけないだろ? すげー、苦しそうじゃないかっ!」 声が、とても近くから聞こえてくる。きっと彼も身をかがめてこちらを覗き込んでいるに違いない。……でも嫌、見ないで。近くに来ないで。……駄目、来ないで……! どうにかして身体を背けたいのに、全身を覆い尽くす震えが動作を妨げる。近頃では用心していたから、こんなに急な発作は来なかった。感覚としてはそろそろ「戻る」頃かとは思っていたが、なかなかその兆候は現れて来なかったし、迂闊だった。 「冷たい……、困ったな。こう言うときは温めた方がいいんだっけ? 何か……って、何もないよなあ」 大好きな人の手のひらが自分の頬に掛かっていても、もう何も感じることが出来ない。何かひとこと言わなくてはと思うが、口を開けばそのまま空気に咳き込んでしまう。 こんな時に原因の分かっている病気ならば、何らかの処方された薬を与えられるはずだ。それは「陸」にあっても、海底でも変わらない。だが、沙耶のこの身体には何も施すものはない。苦しむだけ苦しんで、その果てに生命に危険が及ぶと判断されれば、ふたつの世界を行き来して時しのぎをするのみだった。 「……澪、く……」 これ以上、この人を困らせてはならない。沙耶はそれだけを強く感じていた。とっさに握りしめたのは何だったのだろうか。気をしっかり保とうと思った瞬間に、がくっと身体が落ちた。
「……くっ……、くふっ……!」 その時。沙耶の周りで、何かが変化した。たとえようのない、その感覚。乾いた「陸」の空気がしっとりと湿り気を帯びていく。懐かしいぬくもりが胸を温めてくれる。ようやく、荒い呼吸を思い出すことが出来た。 「大丈夫か……、沙耶? 苦しいか……!?」 どこからか、懐かしい声がする。……どうして、懐かしいなんて思うんだろう。たった今もすぐに近くにいた人なのに。遠いところからようやく戻ってきてくれた気がするなんて。 「……うん……」 どくどくと早い鼓動が耳を震わせる。激しく血潮が送り出される音、生きているから聞こえる音。同じ音が自分の中からも響いて、共鳴する。
自分が今、澪の腕の中にいるのだと知った。本当ならば、こんな風にしているなんてみっともない。戯れ合う子供じゃないんだから、早く離れなくては。そうは思っても自由になれない。……なりたくないとすら、思う。 一体、どんな風に思われてるのか、それが怖かった。やっぱりやめれば良かった、連れ出さなければ良かったとか後悔しているのだろうか。
「ごめんね……、もう少しだけこうしていさせて」 呼吸が徐々に穏やかなものに戻っていく。身体中にしみ渡っていく生気。がさがさしたシャツの感触が頬をくすぐる。くすぐったい、という心地すら戻ってきた。 「あ……、ああ」
しばらくの間、また静寂が続いた。ふたりの相手に聞かせないようにと気遣う呼吸のみが行き交う。 「……あ」 やがて、沈黙を破ったのは澪の方だった。かすれるような声を絞り出す。沙耶はそっと顔を上げた。 「あまり、動くなよ」 片手で動きを止められる。ぴくっと反応すると、澪は少し口元を緩めて、顎で示した。 「ほら、……俺の靴の先。赤蜻蛉が止まってる」 その場所に触れないように、ゆっくりと振り向く。 投げ出された足の先、ひも靴のてっぺんに一匹のトンボが休んでいた。見上げれば、数え切れないほどの数が群れて行き交っている。なのに、その一匹だけがはぐれてぼんやりと仲間たちを見ていた。 どうするのかな、と思う。このままはぐれてしまうのだろうか。疲れてもう、動けなくなってしまったのだろうか。どれも同じように見えるトンボではあるが、一匹ずつにそれぞれ小さな命が宿っている。こんな風に周りと合わせることが出来ない者がいてもおかしくはない。 息を飲んで見守っていると、右手がふわっとぬくもりに包まれた。その場所をみると、澪の手がある。震えていた手のひらが温かくなっていった。 「……大丈夫だよ、そんな顔、するなよ?」 まるで沙耶を励ましてくれるかのように澪が呟いた次の瞬間、群れを離れた一匹がすぐに近くまで降りてきた。カサカサと羽が震える音。互いに見合っているように見えて、実際はどうしているのか分からないが。 やがて、二匹は連れだって、空へ戻っていった。
「馬鹿だな、トンボのことより自分の心配が先だろ? ……もう、いいのか」 群れに紛れて消えていくまで見送っていると、澪が呆れた声を上げる。そう言えば、先ほどまでの苦しさが嘘のようだ。大きな波が寄せて帰ったあとのように、何もかもが元通りになっている。 「うん……、ごめ――」 慌てて、身を剥がそうとした。その時、澪の手のひらが沙耶の頬に触れる。幾度となく強く咳き込んだため、知らないうちに溢れ出た雫で濡れている場所を指先が辿った。 「あまり、無理するなよ。……もう少し、大人しくしていた方がいいんじゃないか?」
立ち上がることは出来なかった。 澪が傍にいて、自分に触れていて。それだけで、もう何もいらないと思う。言葉には出来ない、自分の大切な思いを口にしてはならないと知っている。人の心を無理矢理に押さえつけるなんて、そんなことは駄目だから。 気付けば、驚くほど近くに澪の顔がある。ただ、覗き込まれているのかなと思ったその時に、唇が触れ合った。初めてのぬくもりを、沙耶は当たり前のように受け入れていく。胸に広がっていく温かさが、何かの終わりを強く告げていた。
閉じた瞼の奥が赤く染まる。空の羽音が一斉に降り注いでくる気がした。
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