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ふわりと意識が舞い上がる。 長い長い夢を見ていたような気がする。どこかを深く漂っていた感覚を額の辺りに残しながら瞼を開くと、見慣れた自室の天井が目に映った。
自分が今、何処にいるかを確認して、目覚めてしまったことを後悔した。
夜の気が漆黒の帯になって窓から流れ込んでくる。とはいえ、まだ寝の刻にはよほどあるはず。それにしては静かすぎる。 ……ああ、そうだったのだわ。 少し考えて思い当たる。今夜は山裾の社で祈祷があると言っていた。月に何度かそのような行事があり、決まった装束で参列する。館の者のほとんどがそちらに行ってしまったのだろう。王族に生まれた者として当然のお務めすら、沙耶には縁遠いものであった。 指先がしんしんと冷たい。身体を覆い尽くすけだるさが続いていた。でも、昼間よりはまた少し楽になったようにも思える。朝まで休めば、だいぶ良くなるだろう……そう思ってもう一度眠りの淵に辿り着こうとしたとき、耳の端でコトリと物音を捉えた。
「……誰?」 気配はほとんど感じられなかった。不思議に思いながら、そちらに首を回す。身を起こすのはまだすぐには無理だった。沙耶の唇がかすかに動く。美しい彫り文様の柱の側。幾重にも漂う闇の向こうに立っていたのは、少し意外な人物であった。 「宜しいのですか、……皆が忙しくしているときに、このようなところにいて」 美しい織り目の深い青の装束をまとったその人が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。たなびく重ねの袖、袴の裾。部屋の暗さに黒ずんだ髪が静かになびいていた。寝台近くまで来れば、窓の外の月明かりが差し込むようになる。その時に赤毛は本来の美しいきらめきを取り戻すことが出来た。 「御気分は如何ですか……、なかなか体調が戻られないと聞いたので心配しておりました」 その顔に月の化身と見紛う微笑みを浮かべている。彼はすぐには沙耶の質問に答えず、反対にこちらの様子を訊ねてきた。そして沙耶の表情が何を訴えてるのか知ったのだろう、くすっと照れ笑いを漏らす。 「このような時でなければ、こちらにはゆっくりとお邪魔することも叶いません。俺は他の者たちのように、ただ待つだけなのは嫌ですから」 手みやげに、と言うことなのだろうか。彼の手には野の花があった。いつもそうだ、仰々しくはないが心のこもった贈り物をしてくれる。幼き頃から少しも変わらない。自分の足で参上できないときは馴染みの侍女に託して。春から夏にへの移ろいが、淡い紫色の花弁に宿っていた。 今摘み取ったばかりの姿をした花に改めて教えられる。目に見えない誤差がふたつの世界に現れていた。「陸」ではもう夏の終わりであったが、こちらではまだ夏を迎える前になる。何がそうさせているのかは知らない。でも確実に「扉」は閉ざされようとしているのだ。 「……春霖」 沙耶はほうっと溜息をついた。それから、ゆっくりと時間を掛けて身を起こす。本調子ではないが、あまり楽をしていてはもっと動けなくなる。それに彼とは「病人」ではなく普通の姿で話がしたかった。 「父上から……お話があったのですね?」 窓際まで歩いて行って外の様子を眺めていた人が、ゆっくりと振り返った。
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あの日。 そう訊ねられるまで、我を忘れていた。まるでふたりだけの空間に封印されてしまったかのようで、現実と身体が切り離された気分になっている。温かな腕に包まれて。じんわりと安堵感が胸の中に満ちて、泣きたくなった。 先に立ち上がった人が身をかがめる。ゆっくりと差し出される手のひら。躊躇なく乗せることが出来る自分の頼りないぬくもり。もう……それだけで十分だった。それきり、澪は魔法が解けたようにいつも通りになってしまったし、小さな旅が終わるまで、何の変化が表れることもなかった。あの一瞬が、嘘のように。 心が通じた、と思ったのは沙耶の勝手な思いこみだったのだろうか。……そう、そうに違いない。
そのあと案内された花畑も、また違う可愛らしい花が辺りを埋め尽くしていた。薄紫のそれはどこか浜辺の矢車草に似ている。ほっそりとした茎にやわらかな花びらを無数に重ねた花弁を持ち、淡い紫の色が心にしみいるようだった。 ――でも。 沙耶にはもう、周りの風景に心を奪われる余裕などなかった。ただ、大切なのは隣に澪がいること。手のひらから伝わってくる熱が、彼の全てを伝えてくれる。 どこまでもどこまでも。地平線の彼方まで続く花畑。こんな風に、道が続いていれば良かったのに。ただ願うことすら出来ないなんて。……この想いを叶えようとすれば、たくさんの大切な人たちを不幸にしてしまう。そう思えば、強くその手を握り返すことすら出来ない。 もしも、真実をきちんと伝えたら、どうなるだろう。そんなことは無理と知っているのに、心はあり得ない期待ばかりで満たされてしまう。何て浅はかなんだろう、己のことしか考えないような自分であっていいはずはない。今まで心配を掛けて来た皆を、早く安心させてあげなくては。 こちらの想いなど知るはずもない笑顔が眩しすぎて、沙耶はどんどん無口になっていった。
夜遅く、浜辺の駅までたどり着いたふたりを車で出迎えた渚は、神妙な面持ちで告げる。 「あのね、沙耶ちゃん。あちらの使者の方が見えているの。――すぐに、御両親の元に戻るようにって」 戸惑いを含んだ声を聞いたとき、沙耶はもう全てを悟っていた。
以前、東の祠のおばばから聞いたことがある。 沙耶の身体をひとつに戻す生薬は三日と保たない気難しいものだと。調合が出来れば、すぐさま飲用しなければその効力を失う。もしも期を逃せば、それはそのまま沙耶の死を意味するのだと。きしみ始めた身体、どちらの世界にも上手く融合できなくなってきた。このままの状態が続けば、ただですら抵抗力の弱い身体は持ちこたえられる訳もない。 今までの場合、こちらの「変化」を察した海底からの迎えが来るのが常だった。ただ人では分からぬことも、不思議な力を宿したおばばであれば容易に感じ取ることが出来る。だが、今回はそうではない。沙耶としてはまだこの地に留まりたい気持ちが強かった。昼間の発作のことを内密にすればそれも叶うと信じていたのに。 人目に付く人里までわざわざ海底の民が訪れるなど、訓練を積んだ侍従であっても危険な行為だ。いつもは温厚でそこまでのことはさせない父が命じたこと。その意味を考えれば察しが付く。
「……沙耶?」 澪に声を掛けられるまで、自分がどうしているかすら分からなかった。足元ががらがらと崩れていく。もうお前はここにはいなくていい存在だと、乾いた空気が告げる。
どこまでもどこまでも、沈んでいく。深く深く飲み込まれていく。 「帰りたくない」のひとことを告げることが、竜王の姫君としての己にはどうしても出来なかった。それが永遠の終わりを意味しているとしても。
◆◆◆◆◆
その上、やっとの思いで竜王の館まで辿り着けば、そこには東の祠のおばばが待ちかまえていた。すぐに薬を飲むように言われる。海底の民の身体をしていれば造作のないことであったが、急に強い刺激を加えられたことでさらに体力を消耗し、かなり高い熱も出た。ただそれは、最初から分かっていたことらしく、周囲の者もそれほど慌てた様子もなかったが。 真っ白になった視界の向こうに、ゆらゆらと揺れる人影。触れることすら許されない存在が、すぐそこにある。苦しかった、……こんなに辛くて、どうしてこの先を生きていけるかと思うほどに。
「最後にお決めになるのは、姫様ご本人だと伺いましたので。ここ数日、仲間たちの間の空気もギスギスとしております。婚礼のお支度も整って参りましたから、後はあなた様のひとことで全てが動き出すのですよ?」 ……そんなこと、分かっている。誰に言われなくたって、最初から。 無事におばばの薬が仕上がり、それが沙耶に施されたことで、都は安堵の色に包まれていた。今まで皆の悩みの種であった一の姫がどうにか「まとも」になるらしい。方々から祝いの品や文が届き、館にお仕えするものたちも今までにないほどの晴れ晴れとした表情をしている。 「あなたには、これから十分に幸せになって頂かなくてはね……?」 分かってる、……分かってるのだ。だけど――姿こそは海底のものに戻りながら、心はまだ彼の地に取り残されていた。 父も無理強いをするつもりはないのだろう。もともとがそのように鷹揚な人ではなく、温厚な人の良い性格だ。その優しさが時として災いし、上手くいかなくなることすらある。そんな父だから、夫となる人も沙耶が決めればいいと言ってくれた。 今の沙耶に出来ること。それは己の気持ちを封印することだけだ。急なことで、きちんと別れを告げることも出来なかった。もう二度と会うことも叶わないという事実を伝えることも。 「……そのように、悲しそうなお顔をなさらないでください。こちらまで辛くなります」 澪のことを思い出すだけで、泣きたい気持ちになる。その表情をどう解釈したのか、春霖は静かに言った。 「我々の中で、誰が姫様の夫となっても、必ずや生涯を掛けて大切にお守り申し上げますよ。ひとりにお決めになるのが心苦しいのは分かります、でもあとは姫様のお気持ちだけ。だから、俺は代表してこうして参ったのではないですか」 沙耶は不思議な心地がした。ああ、そうなのだ。皆はそのように考えているのか。あまたの夫候補の中からただひとりを選ぶことが難しいから、自分がこんなに思い悩んでいるのだと。何と美しい誤解だろう。余りのことに不謹慎ながら、くすりと笑ってしまった。 「そうなの……? でもそれにしては、一番不適切な方がいらっしゃったものね……」 少し緊張が解けたのかも知れない。考えなくては考えなくてはと思うと、だんだん追いつめられて行くような気がしていたから。どこからか浮かび上がるように、ふっと気持ちが楽になった。
都でも随一の美男とうたわれているこの春霖が、多くの女子たちと浮き名を流していることはとっくに沙耶の耳にも入っている。弟の華楠の乳母である秋茜も息子の醜態には頭を悩ませていたようだ。 まあ、仕方ないだろう、高い教養があり楽の才もあり、宴などには必ず借り出されるという逸材だ。笛も琴も素晴らしいが、何より舞の美しさは右に出る者がないという。これだけの男を女子たちが放っておく訳がない。遊女小屋での女遊びも盛んだが、他にも決まって通う居室がいくつもあると聞いていた。父が何度も夫候補から外そうとしたのも無理はない。
沙耶の言葉に、春霖はふてくされたように髪をかき上げた。彼は西南の集落の民だから、沙耶の父である竜王と同郷の出身となる。それだけに姿はよく似ていたし、さらさらと美しく光る赤毛などは親しみを覚えるものだった。 海底の民は集落によりそれぞれ異なった姿をしている。それはあまりにも分かりやすいため見紛うはずもない。混血も確かにいるが、それでも強い血筋の方が多く出る。沙耶の弟や妹のほとんども西南の血を受け継いでいた。だけど……沙耶だけが、違う。幼き頃から言われていたことであったが、こうして成長してみると古なじみの侍女たちの自分を見る目が変わる。皆、驚きを隠せない様子だ。 ――こんなにも、似ていらっしゃるなんてことがあるのだろうか……。 異境の地から落ちてきたという祖母。若き竜王であった祖父に愛され、短い生涯を過ごしたと言う。その人が何を思い、何を憂えたのか。それも知らぬままに全ての者たちの複雑な視線に晒されることになる。やわらかな薄茶の髪、淡い色の瞳、乳白色の肌。エラの耳さえなかったら、「陸」でも違和感なく溶け込むことが出来る。 だからこそ「鍵」となったのだろう。祖母が開けてしまった「扉」を今度こそ、永遠に封印するための。
「また、そのようにはぐらかそうとする。姫様はいつもそうだ、……人の心を弄んで、そんなに楽しいのですか?」 いつもと同じ、軽やかな口調。 だが、その眼差しがまっすぐと自分に向かっていることに沙耶は驚いた。この者はこんなにも熱い瞳を持っていたのだろうか? 気を漂って、伝わってくる鼓動。 「俺がつまらない女子と遊ぶのは、姫様がお相手下さらないからでしょう? それしか理由はないのですよ。……俺の心の中に棲んでいるのは、ずっと姫様おひとりですから」 さりげなく手を取られる。その仕草も流れるようで、女の扱いになれているとはこのような者のことを言うのかと思った。こんな風に優しい言葉を掛けられたら、普通の女子だったらすぐに堕ちてしまいそうである。……自分以外の女子だったら残らずそうかも知れない、と沙耶は感じていた。 「姫様……、俺を選びませんか?」 掴まれた手が、きりりと痛んだ。彼の指先も震えている。あっさりと告げているようで、実は必死なのだ。頑張っているように見せるのは嫌いな人だ、でもいつも真剣な心を持ち合わせている。幼い頃から特に親しく接してくれていたから、沙耶には良くそれが分かっていた。
……そう、海底にあっては、彼以上に沙耶が頼れる者はないと思う。
ゆっくりと思い描く、未来。 この男と一緒になったら、どんな風になるのだろう。きっと誰もが想像するような幸せを手に入れられるに違いない。女遊びがおさまるかどうかは疑問だが、そこはまあ置いておいて。ここでひとつ頷くことが出来るなら、全てが滑らかに動き出す。 弟の華楠もそれは分かっているのだろう。だから、自分にきちんと付き添って護衛しなければならない立場の春霖を、こうしてひとりでよこした。誰もが竜王の一の姫と呼ばれる自分の幸せを願っている。それを有り難いと言わないで、何とする。
温かい手を、握り返そうとして。その瞬間に、沙耶の胸の奥がちり、と痛んだ。 「……ごめんなさい、春霖」 唇がひとりでに動いていた。驚く視線に耐えきれずに俯くと、その瞬間にほろりと涙が頬を伝っていく。この男が誰よりも頼れる者だと思った瞬間に、沙耶の中で何かが壊れた。それは彼女にとっても予期しないことで、言葉を告げた後に、誰よりも沙耶本人が驚いてしまう。 「え……、姫?」 「ごめんなさい……、ごめんなさい。駄目、やっぱり……駄目なのっ……!」 こんなこと、絶対に言っては駄目。そう思って封印していた想い。それが溢れてくる。誰にも告げられなかった言葉を、初めて音にした。すると、感情が堰を切ったように流れ出てくる。 「ひ……、姫様? どうしましたか、そのようにお泣きにならないで下さい。……姫様――」 顔を覆って泣きじゃくる沙耶に、なすすべもなく春霖がうろたえる。そんな彼を申し訳なく思いながらも、もう自分を留めることなんて出来なかった。しばらくは沙耶のすすり泣く声だけが、そう広くもない部屋に響き渡っていた。
贈られた花が、まだ咲き誇っていた頃のままの香りを放っている。どれくらいの時間が経ったのだろう、沙耶はゆっくりと面を上げた。そして不安げな表情を貼り付けた目の前の顔を見つめる。もう……迷いはなかった。 「……連れて行って、春霖」 え? と彼の口元がかたちを変える。沙耶は泣きはらした目で、それでもにっこりと微笑んだ。
「あなたにしか、頼めない。――私を、東の果ての扉まで導いて」
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