…「秘色の語り夢・沙耶の章」…

-9-

 

 

 やわらかな水音が耳に流れ込んでくる。遠く近く繰り返す波音。手のひらに砂の感触を確かめながら、ゆっくり身を起こす。わずかな関節のきしみ。

 暗がりの中、辺りを見回して、ホッと胸をなで下ろす。やはり、いつもの岩場の影に辿り着いていた。

 もうだいぶ夜も更けた頃なのであろうか。遠くにちらちらと見える民家の窓灯りもまばらだった。日の中でも人影などほとんど見えない場所である。ひんやりとした夜風の吹く頃ともなれば、一段ともの寂しさが漂う。しっとりと濡れた衣をたぐり寄せ、沙耶はぶるっと身震いした。

 ここに辿り着くときは、いつもひとりだった。先導してくれるお付きの侍従たちも沙耶を浜まで送り届けると人目を恐れてすぐに戻ってしまう。ぼんやりと意識を取り戻して最初に耳にするのは、決まって優しい波音。心細さを慰めて包んでくれるその響きが、「帰ってきた」ことを教えてくれた。

「……急がなくちゃ……」

 水に濡れて鮮やかさを増した花文様の上に、薄茶の髪が張り付いている。立ち上がりながら、肩に重く掛かったそれを砂浜に落とした。あと身につけているものと言ったら、頼りない寝着の上下である。上は丈の短い小袖、下は葡萄茶(えびちゃ)色の袴。海底の名残が肌に吸い付いている。
 やはり用心に越したことはない。気を抜いていて、誰か土地の人に見られでもしたら大変だ。この姿のまま出会えば、誰でも度肝を抜かすだろう。叫び声を上げて逃げてしまうだろうか。それとも捕まえてオリにでも入れようとするか。

 沙耶は少し思案してから、幾重にも重ねていた薄衣の一枚を手に取り、それを頭からかぶった。

 

 崖の影から出てみると、そこはどこまでも広がる砂浜。波が付けた自然の曲線が、砂を白と黒の二つの色に分けながら続いている。
 思い出をたどれば、ここでは何度か出迎えの人が待っていたこともある。そのひとつひとつを思い出して数えることが出来るくらい、少ないことだったが。

「――沙耶、良かった! もうそろそろじゃないかって、思っていたんだ。母さんたちは気のせいだろうって言ってたけど、ほら、僕の方が当たりだったね」

 そう言って、手をさしのべる。明るい笑顔と確かなぬくもり。良かった、また楽しい日々が始まる。今度はどんな冒険が待っているのだろう。わずかに残っていた不安も、その瞬間にどこかへ飛んでいった。出会いと再会と、……別れと。この浜は澪との思い出のすべてが始まって終わる場所だ。

「ねえ、沙耶。電話があればいいのにね」

 何の話の時だっただろう、澪にそんな風に言われたことがある。こちらが何のことかよく分からずに当惑していると、彼はそんなことは気にも留めない様子で続けた。

「東京のおじいちゃんが遊びに来るときは、電話をくれるんだ。だから、前もって準備が出来るんだよ。ごちそうも作れるしね。こっちじゃなかなか手に入らないゲームのソフトだって、お願いすれば持ってきて貰えるんだ。それなのに、沙耶とはなかなか会えないから、つまらないよ。寂しくなったら、すぐに来てって言えればいいのに」

 今になって考えれば。

 それはあまりにも子供じみた無邪気な考えだった。澪にとっては、遠い町に住む祖父母も、海底に住む沙耶も同じ距離の存在に思えたのだろう。――否、それは沙耶も同じこと。澪がこんなに遠い場所にいるとは思えなかった。自分たちの意志で会うことなど出来ない。ましてや「扉」を閉ざせば、もう二度と巡り会うことも許されないなんて。

 今宵は懐かしい迎えの姿はない。それどころか、彼があの頃のように待ち望んでいてくれることも期待できないのだ。だから、自分の足で進むしかない。このまま待っていても何も訪れはしないのだから。

 乾いた「陸」の空気はあっという間に海から上がった沙耶の髪をさらさらにほぐし、肌もささやかな湿り気を残すのみになっていた。ひとつひとつの成り行きが、いつもとは確かに違っている。今はこうして心地よいと思えても、数時間後はどうなっているか分からない。沙耶にとって初めて感じる「違和感」であった。

 海底の民が「陸」で生きながらえられないのは様々な要因が重なってのことだと聞く。いくら逆らおうとしても、出来ることではない。沙耶の父である現竜王などは昔、母をこの地に迎えに来て、死に損なったことがあると言う。――「陸」には魔物が住んでいる……そう信じて疑わぬのが海底のほとんどの者なのだ。

 

 ――私、魔物に巣喰われたって皆に言われるんだろうな……。頬にちくりと痛みが走り、沙耶はそれを吹っ切るように足を速めた。

 

◆◆◆◆◆


「そのような……、姫様は本当にそれで宜しいのですか」

 夜半の部屋で。沈黙の時間が流れた後、春霖は未だに信じられないと言った口調で告げた。その顔はひどく青ざめている。

 気の毒だなとは思った。こんなことを頼んでしまうなんて、自分はなんとひどい者なのだろう。もう少しで手の届く幸せを自らで振り払おうとしている。誰に聞いてもあまりに馬鹿げてると答えるに違いない。

 しかし、沙耶はただ静かに頷いた。春霖の力ない瞳が視線を泳がせて、ゆるゆるとこちらに辿り着く。

「姫様……」

 小さく、ひとりごとのようにそう言って、彼は辛そうに息を飲んだ。

「分かりました。今夜の扉の警護は親しい侍従が当番に当たっているはず。館もほとんどの者が出払っておりますので、どうにかなるでしょう。すべては俺にお任せください、姫様の願いとあらば、この命に代えても必ずや叶えてみせますから」

 

 彼の言葉に嘘はなかった。

 一度退座し、一刻足らずで舞い戻って来た彼は、先ほどとは打って変わって下男のようないでたちになっていた。短時間のうちにどうして確かめたのかは分からないが、人目に付かない渡りを選んで導いてくれる。広い館をようやく抜け出したとき、彼はそっと膝をついて沙耶に背を向けた。

「ここからは急ぎませんと……、俺の背に乗ってください。姫様のおみ足では東の祠は遠すぎますでしょう」

 背負われて進む夜の街道は、どす黒い気が太い帯のようになって漂い、行く手を阻んでいるかのようであった。だが、春霖は臆することもなくまっすぐに進んでいく。普通に歩めば片道一刻半は掛かるという道のりを、すでにあれから一往復してしまったと言うから驚いた。物音は立てられぬから、もちろん馬などは使えない。

 いつもは冗談ばかりが飛び出す陽気な口元が一文字に結ばれ、緊張した面持ちが伝わってくる。もしもことが明らかになれば、どうなるのか。誰よりも彼は良く存知でいるはず。いくら身軽な遊び人で通っていても、その辺はしっかりとわきまえているのだ。すべてを承知の上で引き受けてくれた心の痛みが、しんしんと沙耶の胸まで届いた。

 

「……ごめんなさい、春霖」

 人気の消えた「扉」まで辿り着いたとき、沙耶は胸の中で数えきれぬほど反芻してきた言葉を告げた。このほかになんと言えるだろうか。目の前の男は大罪を背負ってもなお、静かな微笑みを浮かべている。あれほどの道のりを駆け抜けたのに、息も上がってはいなかった。

「礼には及びませんよ。……姫様の願いを叶えることが出来れば本望というもの。それ以上に大切なことは俺にはありませんから」

 清々しい言葉が、沙耶の心に消えない痛みを残していく。きっと、事切れるその瞬間までこの響きを忘れずにいるだろうと沙耶は思った。

 

◆◆◆◆◆


 砂浜から、なだらかな坂道を上り、崖の上に出る。そこまでくれば、見慣れた診療所はすぐだ。振り向いた沙耶は、ハッと息を飲んだ。

 ……どういうこと?

 秋の花々が咲き乱れる庭の向こう、部分的に二階建ての建物。そこは玄関先の常夜灯を除いては、ともされる灯りもなくひっそりと静まりかえっていた。さらにガレージの中には夫婦の車がない。もう寝静まっている、というよりは皆が出払っていて不在だと考える方が妥当である。
 週末ともなれば、家族で出かけることもあるだろうし、澪の両親は町の病院の宿直もある。それは分かっていたのだが……よりによって今夜じゃなくても、と恨めしくなった。

 

 ――そうか、そう言うことなのかも知れない。

 

 冷たいものが胸に流れ込んでくる。

 自分のしでかしたことへの後悔の気持ちは全くない。だが、「今夜会えない」と言うことが何を示しているかは明らかだ。にわかにきしみ始める身体の節々。最後の砦だと信じていた世界が自分に背を向けて去っていこうとしている――それを目の当たりにして。

「……電話をかけなかったからかな……」
 あのときの澪の言葉を思い出して、ひとりでそうつぶやいてしまう。口元に自嘲気味の笑みが浮かび、しかし声を立てて笑うまでには至らなかった。

 すると。

 まるでその声に反応したかのように、真っ暗だった家屋の一角にパッと灯りがともった。頬に感じた暖かさに顔を上げると、それは患者を受け入れる診療室の辺り。そして、窓の向こうで人影が揺れる。

「……あ……」
 乾ききった沙耶の頬に、つうと一筋の雫が流れた。

 

「――沙耶……!?」

 窓を開けた人は、すぐさま驚きの声を放った。どうしてこんなところにいるんだと言わんばかりだ。髪の先から雫が垂れている、先ほどまで入浴中だったのかも知れない。すれ違わずにすんだことに感謝しなくてはならないだろう。日に焼けた逞しい腕からも白い湯気が上がっていた。

「あ……、あのな。親戚で不幸があって、みんなはまだそっちに行ってるんだ。俺は模試があるから先に戻ってきたんだけど……どうした? 何か、あったのか? だって、お前……」

 彼が驚くのも無理はない。こんな風に海底の姿のままで「陸」にあがってくることなどかつてなかったのだから。いつも「変化」が起こってから、慌てて身を移される。まあ、逆の場合もしかりなので、澪にとっては沙耶のこの姿も馴染みがある。だから違和感を覚えることはあっても、それ以上に騒ぎ立てることはないのだ。

 見開いた黒い瞳の中に、自分が映っている。手のひらを広げたほどに大きく裂けたエラの耳。薄紫のそれが、海の底の民であるすべての証。他の何をなくしても、沙耶が海底の姫君であるという事実は消すことが出来なかった。自らが「陸の人」となる術はない。――すべては天命であるから。

「ごめんね、……急に」

 沙耶はそれだけ言うと、乾いた唇を結んだ。次のひとことが続かない。想いばかりが先走って夢中だったから、何の言葉も考えていなかったのだ。

「と、とにかくあがれよ。そんな格好のままじゃ風邪ひくぞ。部屋に行けば何か着替えもあるだろうし、……あ、母親たちにも連絡を――」

 澪の方は、相変わらず落ち着きがない。仕方ないことだ、何しろ突然の訪問なのだから。沙耶自身だって今こうして、ここにいるのが信じられない。もう二度と、会うことは叶わないと諦めていた澪が目の前にいる。そして自分に向かって言葉をかけてくれているのだ。そう思うだけで、胸がいっぱいになってしまう。

 こんな風に再び巡り会えることをどんなにか望んだだろう。その強い想いだけを抱いて、ここまでやってきた。記憶の底に残る彼なんていらない。欲しいのは、この瞬間に目の前にいてくれる彼。自分を見つめてくれる瞳と淡い微笑みと。それ以上はいらなかった。

 ……けれど、時間がないのだ。

「ううん、いいの。すぐに戻るから……」

 そう言って静かに頭を振ると、沙耶は窓の桟のところに置かれていた澪の手を取った。片方だけを自分の両手に包み込む。暖かいぬくもりが乾きかけた手のひらから伝わってきた。彼にも伝わるのだろうか、自分の存在が確かなものであると。幻などではない真の姿であると、分かってくれるだろうか。

 なかなか、次の言葉が決まらない。顎ががくがくと震えて、止まらないのだ。無理強いをしようとすれば、今度は目元が緩む。突破口を見つけて噴き出しそうになる想いを押しとどめることだけに必死になっていた。

 瞳を閉じて。大きく息を吸って、吐いて。胸の高鳴りを抑えながら、唇を震わせる。自分が緊張してるのが、白んだ指先で分かった。

「お別れを、言いに来たの。私、……もうここには来られないから。この前、慌てていてきちんとお礼も言えなかったから、もう一度戻ってきたのよ」

 一気にそう告げると、指先にさらに力を込める。そんな風にしても頼りないぬくもりしか伝えることが出来ないのは知っていた。つんと何かが引っ張られる心地がして、涙腺が緩みそうになる。必死でこらえながら、沙耶は静かに微笑んだ。

「え……、沙耶?」

 澪の方は、まるで言葉の意味を上手く飲み込めないと言うように、きょとんとしている。いつもよりも子供っぽいその反応がなんだか可笑しかった。

「私、これからはずっと海底で生きられるようになるの。だから、もうここに来て澪くんや家族のみんなに迷惑をかけることもないわ。最後に会ってお礼が言えなかったのが寂しいけど、渚さんたちにもどうぞよろしくね。本当……今まで、ありがとう。とても、楽しかったわ」

 するり、と手のひらが離れる。

 指先はまだ震えていた。だけど、もうこれだけでいいのだ、これ以上はいらないのだから。何度も何度も自分に言い聞かせながら、必死の微笑みをつくる。それから、沙耶はもう一度顔を上げた。当惑したままの瞳を見つめるために。

「じゃあね、……澪くんもお元気で。勉強の邪魔、しちゃってごめんなさい」

 慌てて背を向ける。いちいち、心を押し留めなければ上手くいかない。もう少し、言葉を考えてからここに来れば良かった。最後まできちんと出来ないのは情けない限りだ。

「あ――、あの。浜まで送るから、靴履いてくる……」

 数歩歩いた頃に、澪の声が背中に届いた。沙耶は呼吸を整えると振り返る。乾いた空気の中、髪が静かに舞い上がった。

「ううん、随分冷えてきたからいいよ。ひとりで行けるから……」

 ひとつひとつの表情が瞳の中で動くのが愛おしい。これでいい、これでいいんだから。もう望むことなんてない、会いたかった人にこうして会えたのだから。 

「え、……でも――」

 その声を振り払うように、足を速める。ずぶずぶと沈み込む砂の上はいつもに増して歩きづらかったが、そんなことは気にしていられなかった。指の先が粉を吹き始める……そろそろ限界だ。

 

「あ、……待てっ、待つんだ。あの――沙耶っ……!?」

 歯を食いしばりながら、また踏み出そうとしたとき。先ほどまでとは違う口調で澪が叫んだ。

「お前、どうしたんだよ……あの、いつもの護り袋。首からぶら下げてるの、どこにやったんだ……!?」

 沙耶はぎくりとして、思わず胸に当てた。何故、そんなことに気付くのだ。ほんの一瞬のことだったのに。

 こちらがきちんと返事をしなかったためだろうか、背後から足音が近づいてきた。その前にがたんと音がしたから、もしかすると窓をそのまま乗り越えたのか。こちらもさらに歩みを進めるが、歩幅も勢いも全く及ぶものではない。あっという間に彼は追いついて、沙耶の腕を掴んだ。

「何だよ、返事くらいしろよ。……だって、あれがないと戻れないっていつも言ってたじゃないか。ほら、ガキの頃、一度浜で落として。あのときは大変だったじゃないか……!」

 黙ったままでうつむいていると、さらにぎりっと腕が締め付けられる。指先が骨に食い込む感触に、かすかな恐怖を覚えた。

 だけど、ひるんではならない。沙耶は必死に平静を保ちながら、頭をぐるりと巡らせて言葉を探した。



<<   >>

 


Novel Top秘色の語り夢・扉>綴れ夢巡り・9