…「秘色の語り夢・沙耶の章」…

-10-

 

 

 澪の言葉の通り。

 二度目か三度目に「陸」に上がったとき、遊びに夢中になって護り袋をなくしてしまったことがある。あのときは日の落ちるまで、泣きながら浜をさまよった。さすがの澪も尋常ではない沙耶の態度に驚いて、一緒に探してくれた。名残の朱が波間に落ちる頃、ようやく草むらの中にそれを見つけた。安心して、またわんわん泣いてしまったことを思い出す。

 だけど……そんなこと。忘れてしまったと思っていたのに。

 澪の日常はとても忙しそうで、自分とのささやかな思い出など、いちいち覚えてはいないと諦めていた。だから、こんな状況なのに、嬉しさが最初にこみ上げてくる。彼の中で、少しでも自分がこうして思い起こされる瞬間があれば、それでいい。

 

「だい……じょうぶ、だもの。そんなの、なくたって」

 相変わらず腕は掴まれたままだったが、沙耶の声は落ち着いていた。その瞳の色にも迷いはないだろう。大丈夫だと自分に言い聞かせる。

「あのね、澪くん。私は竜王の姫君なのよ? 護りの石の力なんて借りなくても、ちゃんと水底の都に戻れるの。……だから、もう離して。早く帰らないと、皆が心配するんだから」

 自分が発する言葉に、すがっていた。もう願いは叶ったのだ、これ以上は望んではならない。どうしてひとりの人の人生を牛耳ることなど出来るであろう。
 真実など、この際なくていい。大切なのは澪の心に永遠に残る記憶だ。自分という存在のことを、いつまでも覚えていて欲しい。忘れられるのが、一番辛かった。それがどんなにか酷なことであったとしても。

 

 ――そんなに、大切な人がいるのですか。姫様にはこの地に留まるよりも、「陸」での生活を願うのですか。……すべてを捨てるほどのものがあるはずがないですよ。だって、せっかく……。

 どうにか思いとどまらせようとして、春霖が告げた言葉。暖かな背で聞かぬ振りをした。無言の答えと受け取ったのか、それきり彼は繰り返そうとはしなかったが。人を愛することを知っているからこそ、沙耶の心も手に取るように分かるのだろう。これほどに「陸」に執着するのなら、そこに何者にも代え難い存在があるに違いないと悟ったのだ。

 護りの石は、先に海底に舞い戻った折、沙耶の身体をひとつにする薬の最後の材料に使われてしまった。どうしても必要だったものなのか、それも分からない。もしかすると、東の祠のおばばの無言の戒めだったのかも知れない。もう二度と、彼の地に思いを馳せてはなりませんよ、と言う……。他の誰をだませても、あの御方だけは無理であろう。そう思えてならない。

 石を失って、再び陸に上がることなど、出来るはずもないのだから。万が一そんなことがあれば、そのときは――。

 

「沙耶っ……!?」

 必死の思いで腕を振りほどくと、すぐに水際に足を進めた。「陸」の人間は決して水の中では生きられない。だから、彼の手の届かないところまで早く行ってしまわなくてはならないのだ。
 夜の荒波は思いの外激しく、すぐに腰の辺りまで冷たい海水に浸かった。「陸」に上がれば空気に拒絶され、またこうして海に舞い戻ろうとしてもやはり受け入れては貰えない。だけど……進まなければ。

 もう追いかけてはこないだろうと振り向くと、しかし澪は躊躇することもなく、ぴったりと後についてくる。上に出したシャツの裾がゆらゆらと波間を漂っていた。

「何だよっ、話が終わってないだろう? 俺だって、言いたいことはあるんだからなっ! お前は良くても、こっちは良くないんだ。おい、聞いているのか……!?」

 それ以上、先に進むことは出来なかった。後ろから再び腕を回されて捕らえられてしまっては、動けない。沙耶に残されたのは、言葉での反抗のみであった。

「澪くんっ……、離して。大きな波が来たら、あなたの方が危ないでしょう? 海を侮っては駄目って、渚さんにも言われてるはずよ。ねえ、離して……! 私、戻らないと――」

 必死にもがけば、周りの海水がしぶきになって襲いかかってくる。いつかふたりとも頭の上までぐっしょりと濡れて、息も上がっていた。

「ど、どうして逃げるんだよ!? おしまいです、さようならって、そんなのありかよ……! 俺は嫌だからな、そんなの。絶対に、許さないからな……!」

 子供の頃とは何もかもが違っていた。それは分かっている。背丈もだいぶ違ってきて、腕の太さなどはもう倍ほど違うのではないだろうか。

 それでも澪はまだこれからたくさんの選択肢のある未来を進む若者だ。まさか、沙耶の希望など押しつけるわけにはいかない。それだけはどんなに望んでも果たしてはならない夢だった。断ち切るのは辛い、でもそれこそが想いの深さだと己を納得させた。

「澪く……」

 このまま、すがってしまえたらどんなに幸せだろう。真実を告げれば、果たして貰えるかも知れない。だけど、駄目。それだけは駄目。沙耶の必死の想いが頬を静かに濡らしていく。そんなとき、海鳴りよりも深く重い声が耳元に聞こえた。

「……連れて行けよ」

 思わず振り向いて、その顔を見てしまう。冗談かと思ったのに、その表情はあまりにも真剣だった。

「海の底に戻るなら、一緒に連れて行けよ。お前のおばあさんだって、そういう風にしてそこへ行ったんだろ? 俺だって子孫なんだから大丈夫なはずだよな? 父親たちに代わって墓参りをしてやってもいいし、沙耶の生まれた土地ならこの目で確かめてみたい。なあ、連れて行けよ。……出来るんだろう?」

「そんな……」

 

 まさかこんな風に言い出すとは思わなかった。

 予期せぬことに、次の言葉が出てこない。これは自分の望んでいた願いではないのだから。ただ、最後にひと目会いたかっただけ、ひとこと話をしたかっただけ。海底に留まって、他の男の妻になるなんて、やはり出来なかった。自分の心がただひとりの人を思い続けているなら、こうするほかなかった。

 澪を海底の国へ連れて行くことなんて出来るはずがない。……その前に、沙耶自身が海底に戻る術もない。もう扉は閉ざされた。二度と開くことはない。中からも外からも、どんなことがあっても。祖母が解いてしまった「封印」は再び堅く結ばれたのだ。

「扉」の外に出てしまえば、あとは我が身が朽ち果てるだけ。分かっているのに、諦めきれなかった。最後にひと目でも会えるなら、それでいいと望んだ。もちろん、導いてくれた春霖にすら、そんなことを告げることは出来なかったが。

 ――薬を飲んでしまったこの身体を保つ道はひとつだけ。

 

「それを約束できないなら、帰るな。二度と来ないって言うなら、このまま帰さないからな。沙耶を海底に戻すのは、もう一度来ると約束してくれるからだ。そうじゃなかったら……許さない」

 畳みかけるように澪の言葉は止まらない。しかし、だんだんその声が震えてくる。さすがに冷えてきたのだろう。そろそろこちらでは秋の深まり始めた時節らしい。先ほどの崖の上でも、コスモスがもう咲き終わっていた。扉が閉ざされることでまたふたつの世界は異なる時間を刻み始めたのだろうか。

 答えのないことにとうとう苛立ったのか、澪は沙耶の腕を引くと、自ら先に立って深みに進んでいこうとした。

「さあ、戻るというなら一緒に行こう。この手だけは何があっても離さないぞ。お前にこの命は預けるからな、……きちんと連れて行くんだぞ……!」

 沙耶は必死に腕を引いて抵抗したが、澪の力が勝っている。だんだん潮の流れが速くなる。これ以上進めば、ふたりとも波にのまれてしまうだろう。

「まっ……待ってっ! 澪くんっ……、駄目! もう、これ以上は行かないで……死んじゃうっ、溺れちゃうから、駄目!」

 片方の腕に両腕でしがみついて、沙耶は必死に訴えた。自分の意志とは関係なく、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。怖かった、澪がいなくなるなんて、そんなのは駄目。澪の未来を守るために、すべてを諦めようとしたのに。

「……沙耶……」

 そのとき。ようやく澪が顔を崩した。沙耶の一番好きだった笑顔でこちらを見る。その瞬間だけ、波音すら遠ざかった。

「じゃあ、お前も馬鹿な考えはよせよ。おとなしいなりをして、とんだじゃじゃ馬だな。……まあ、そんなところが気に入ってるんだから、俺も同類か――」

 

 その時、ごうっと地鳴りのような響きが轟いた。

 彼の後ろに、何メートルもありそうな波が盛り上がって、襲いかかってくる。叫び声を上げる前に、ふたりして頭からそれをかぶっていた。

 

「うー、やられた……」

 波が引いて、その声を腕の中で聞く。波打ち際まで流されて、流木のように打ち上げられていた。お互いに濡れネズミになって、情けない限りだ。一頻り笑いあって、それから急に澪が真顔になった。

「俺さ、あれからずっと沙耶のことばっか考えていた。自分でもどうしちまったんだろうって思うくらい、会いたかった。今日だって、みんなより先に戻ってきたのは、もしかして沙耶がやってくるんじゃないかと思ったから。まさかこんなに早くとは思ったけど……でも、待ちきれなかったんだ。目の前にお前がいきなり現れて、本当に驚いたんだからな。あまりにも仰天して、すぐには反応できなかっただろ?」

 沙耶は信じられない面持ちで、言葉の主をまじまじと見た。恥ずかしそうに頬を染めたその人が、とてもこの前と同じ人間とは思えない。このしばらくの間に、一体何が起こったというのだろう……?

「沙耶……」

 砂の付いた指先が、凍えた頬をたどる。かすかな震えは寒さのせいだろうか、……それとも?

「なんて言ったらいいのか分からないんだけど……言いたいことがごちゃごちゃして絡まっちまってる感じなんだけど……、俺さ――」

 

 あまりのくすぐったさに、沙耶は首をすくめた。

 暖かい手のひらに自分の手を添える。小さな声で「ごめんね」といってから。こみ上げてくる感情をこぼさないように気をつけながら伸び上がって、そっと口づけた。

 

「……あ?」

 しばらくは呆けていた人が、さすがにその変化に気付いて声を上げる。

「何で?」

 言葉はなく、ただ微笑み返した。

 澪の指先が輪郭を顎の辺りからたどって、耳元に辿り着く。苦しみも痛みも伴わない「変化」を沙耶は生まれて初めて経験した。

 

◆◆◆◆◆


「あーあ、これじゃまた、風呂に入り直しだな。沙耶も風邪ひくなよ?」

 月明かりに照らされた砂浜。ふたりの足跡が後に続いていく。あの瞬間から、元通り沙耶を受け入れてくれた「陸」の空気は、今もひんやりと湿り気を帯びて辺りに漂っていた。

「でも、驚いたな」
 そう言って、澪が振り向く。顔の半分だけが金色に輝いて、いつもの彼とは全然別の存在に思えた。お互いの身体に残る潮の香り。海風になぞられた頬がひりひりと痛む。

「沙耶をこの地に留める方法が、あんなに簡単なことだったなんて。俺さ、沙耶を完全な人間体にするのは一生掛かっても無理なんだろうと思ってた。だから……、今はまだウチの両親が現役だからいいけど、やっぱあの人たちも年を取るだろうし。そしたら、その先は自分がどうにかしなくちゃなと覚悟を決めていたんだ」

 ――今まで真面目に進路のことなんて考えたことはなかった。でも、やはりあの丘の上の診療所を継ぐことを決意したという。これから医学を学ぶ大学に進んで、どんなに時間が掛かってもきちんとした知識と実績を身につけようと覚悟を決めたのだと。

「もしも沙耶がこっちでの生活を選んでくれるなら、頑張るからと言いたかったんだ。沙耶のこと、守ることが出来ないから、毎回海に帰すしかなかったんだからな。待つことは慣れたつもりだったけど、やっぱ辛かったな。……でも、こんなに簡単に変われるなら、平気じゃん」

 沙耶は黙ったまま顔を上げた。すぐには言葉がまとまらなくて。ようやくつなぎ止めた手のひらが温かくて、でもやはり怖くて。もう今は……振り向くことは出来ないのだけど。

「あのね、……その。そうじゃないの」

 きちんと伝えなくてはならないことは分かってる。でも、どうやって言葉にしたらいいの? 当たり前の事実なのに、上手くいかない。

「私……、今のままではきちんと『陸』の人間に変われた訳じゃないのよ。効力が切れたら、戻っちゃうと思う。その……、もっとちゃんと手順を……踏まないと……」

 これ以上はどうしても口にすることが出来なかった。沙耶はそのまま、頬を赤く染めてうつむくしかない。

 

 海底の館では皆が承知していたことである。

 かつて「陸」の人間であった沙耶の祖母が、どうしてそのまま海底に留まることが出来たのか。そして、今回。こんなにも婚礼の儀が急がれたのか。

 おばばの調合した薬により無駄なしがらみのすべて取り除かれた身体は、ひとつに戻ることを待ち望んでいた。早く安定させないと、その効力すら消えてしまうかも知れないのだから。どちらかというと、初めから沙耶の身体は「陸」に適合していた。身も心も海底の姫君に戻るために、決められた相手と契りを交わす必要があったのである。

 

「え……、嘘。ちょっと待てよ、それって――」

 キスだけじゃ、不完全。もっときちんと……といえば、さすがに澪にもピンと来たらしい。つないだ手がじんわりと汗ばんでくるのが分かった。それが自分でも分かったのか、彼は慌てて振りほどく。

「そっ、そうなのかっ……!? あの、沙耶がこのままの姿でずっとここで暮らせるようになるためには、……その……」

 何を言われても、答えることが出来ない。もう恥ずかしくて消えてしまいたい気分だ。海底の地なら良かった、みんながそれを知っていながら知らぬ振りをしてくれたのだから。まあ、あちらでは結婚の年齢自体が早いし、何ら不思議なこともなかった。だけど、場所が変われば……。

「うわぁ、……どうすりゃ。でも、なあ……もしかしてこれって……」

 澪は赤くなったり青くなったり、とんでもない事実を突きつけられて慌てている。沙耶としてもどう取りなしたらいいものか分からない。一緒になって戸惑うことしか出来なかった。

「う……、でもっ。これも偶然の一致って奴なのかな? そうかぁ、……うん……」

 彼は静かに顔を上げた。そして、一階の診療所の部分以外は明かりの消えた自宅を見上げる。

「だ、大丈夫だよ、沙耶。俺が人間にしてやる。そしたら、お前はもうどこにも行かなくて済むんだろ? いっ、いいよな。他の奴とするくらいなら、俺……」

 肩に置かれた手が震えてる。こちらは頼りない衣一枚を身につけているだけだから、そのすべてが直接触れているが如く伝わってきた。その手のひらが背中に滑り落ちて、そのまま強く抱きしめられる。

「え……、いいよ。すぐにどうなるわけでもないと思うし、今は気分もいいし。……そんな、無理しないで」

 なんだかいきなり状況が変わって、沙耶の方もついていけない。慌てて頭を振って見せたが、澪の束縛は解けなかった。

「むっ、無理なんてしてないしっ! もしも、その、沙耶と出来るなら、それって正直嬉しいし――」

 澪の言葉は相変わらず、宙を浮いている感じだ。顎もがくがくと震えているみたいで、声全体が震えている。胸の鼓動が早くて、耳を押しつけると胸元から飛び出してくるほど打ち付けて来た。

 

 ――もう、海底には戻れない。それは分かっていた。

 もしも澪の心と未来を手にすることが出来たなら、沙耶は生き延びることが出来る。でも、それが叶わないときは、海底の民が陸に上がったのと同じ状況で、ボロボロに朽ち果ててしまうしかなかった。
 だけど、それが分かっていても澪を自分の食い物にすることなんて出来ないと思った。実際に目の当たりにしたわけではないので分からないが、海底には異境の民との契りに関わる忌まわしい呪いが語り継がれていたのだ。

「互いの心の途切れることがあれば、その時は助けた者の命はない」

 ――単なる迷信であると信じたかった。だが、その古語りにかこつけて、沙耶の祖母を悪く言う輩も多くいたと聞く。あんな者と情を交わしたから、祖父は海底の王としての道を外してしまったのだ、と。

 

 故郷を捨てたことに後悔はない。でも……、怖いのだ。澪の心も自分の心も、永遠に変わることがないなんて思えない。そうはいっても、この溢れ来る愛しさはどうして止めることが出来るだろう。止まらない、止まりたくない。明日をいたずらに憂うよりも、今このときのささやかな幸せが欲しい。

「澪くん、あの……」

 沙耶はそっと顔を上げた。瞳に映ったのは、どうにかして暴走しそうになる心を押しとどめようと必死になっている表情。若い男は心より身体が先に反応するとどこかで聞いた気がする。

 次の言葉を言いかけたその時に、ふたりは突然の輝きに照らし出された。

 

「なーにが、試験勉強ですか! もう、信じられないわ。片づけが済んだから戻ってみれば、どういうことっ!」

 足下から長く伸びた影。それが慌てて離れていくのを、沙耶はうつむいたままの視線で確認した。

「うわっ! 何だよ、母さんっ! 今日はあっちに泊まるって言ったじゃないかっ……!」

 こちらに正面を向いて止められたワゴン車。運転席のドアも開いて、渚の夫・湊も顔を出す。さすがの澪も突然の両親の登場に驚きを隠せない様子。腕組みをしてこちらを見つめる渚に向かって叫んだ。でもやはり年の功、渚は少しもひるむことなく、今度は医師としての柔らかい笑顔で沙耶を見る。

「駄目よ、沙耶ちゃん。男はみーんなオオカミなんだから。安易にムードに流されると大変なことになるわ。自分を大事にしないと絶対に後悔するわよ?」

 そう言われてしまっては立つ瀬がない。ただですら、心臓がばくばくと鳴っているのだ。沙耶には返す言葉が見つからなかった。

「だけどなー、母さん。これは、その……緊急事態という感じで……」

 澪はしどろもどろになりながら、それでも必死に反論してる。しかし、渚は全く動じず、彼の頭をこつんとつついた。

「話はだいたい分かったわ。でも、駄目よ。あんたはまだ未成年だし、結婚できる年でもないでしょ? 沙耶ちゃんの話の感じだと、それって自然な行為じゃないと駄目らしいし。もしも、間違いがあって大事な娘さんにもしものことがあったらどうするの? 絶対に駄目、どうしてもというなら、せめて高校をきちんと卒業して進路を決めてからにしなさい」

 そして、くるりと向き直り、今度は沙耶に向かう。黒いニットスーツは地味なデザインであったが、それでもきれいな笑顔だった。

「いろいろ、辛かったわね。……でも、大丈夫よ。あなたは戻ってきたんだから。私には難しいことは分からないわ。でもきっと『扉』が閉じるためには、沙耶ちゃんのおばあさんの願いが伝えられる必要があったと思うの。ご両親と離れて寂しいでしょうけど、大丈夫ね。これからはもうずっと、……私たちは家族なのよ」

 

 沙耶はすぐには声が出なかった。ただ、新しい雫が頬を静かに流れ落ちていく。

 長い間、心の中にずっと押さえつけてきた想い。どちらかを手にすればどちらかが消えてしまう泡沫の夢。ひとつのところに留まることが出来なかった心がようやくたどり着いた場所。たくさんの心を傷つけてしまったことは分かっている。でも……、ひとつしか選べないのなら、ここで幸せになりたい。祖母がそうしたように、沙耶もまた想いを勝ち取っていたのだ。

 

「おかえりなさい、沙耶ちゃん」

 泣き崩れた背中に渚は優しく寄り添う。そして、恨めしそうな視線を投げかけてくる息子を一瞥した。

「この子は私の大切な娘なのですからね、半人前の男にはやれません。……ま、体調維持のためにね、キスくらいは許しましょう。でも、一日三回までよ」

 声を上げて笑った後、彼女は沙耶の肩をぽんぽんと叩いて立ち上がらせる。幼い頃、親を恋しがって泣いたときと同じように。手のひらのぬくもりもそのままだった。

「……なんだよ、それ。風邪薬じゃあるまいし」
 唇をとがらせて、澪が言う。すっかりとお株を奪われてむくれているその姿の方が彼らしくて好きだなと思った。

「何言ってるの、沙耶ちゃんにとっては大切な薬よ。あんたはそれだけの存在なの」

 

 ささ、ふたりとも帰るわよ。そう言い残して、渚は丘を上がっていく。
 湊がガレージに車を入れているその赤いテールランプが残像になって漆黒の視界を泳いでいった。すっかり冷え切った身体で、ふたりで見つめ合う。くすぐったい微笑みが互いの頬に浮かんだ。

「――じゃ、行きますか。俺だけの、お姫様」

 おどけるように差し出された手のひらに、自分の手を重ねる。耳に懐かしい波の響きを感じながら、月明かりの輝きの下、沙耶は新しい一歩を踏み出した。

了(041025)



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