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そもそも、始まり方が普通じゃなかった。 そう言われてしまえば、身も蓋もない。その通りなのだ。
「姫様の御輿入れまで…二月かあ…」 多奈の母親は現竜王・華繻那のただ一人の御子、沙羅の乳母であった。母は身体を壊して「北の集落」へ戻っているが、多奈はそのまま沙羅の元に残った。 沙羅の元にいることだけが彼女の幸せだった。常にお側に仕えていたので、主従関係はあるものの誰よりも沙羅のことを理解し、大切に思っていると自負している。今回、次期竜王の亜樹の元に沙羅が御輿入れする事になり、彼女の居住まいもここ「東所」から「南所」に移されることになった。「南所」には元からの侍従・侍女がたくさんいるから、御輿入れに付きそう人数は限られている。でも多奈がそれから外されることはなかった。 姫君に辛く当たる「南所」の面々も、お相手の亜樹も大嫌いだった。「南所」の方角を見やっただけで、暗雲がその空に立ちこめている気がする。時々、お役目で足を踏み入れることもあったが、背筋を冷たいものが流れる気がする。5分といたくない場所だったが、沙羅のお供なら頼まれなくたってご一緒したい。 御輿入れの際には、三日三晩の盛大な婚礼の儀が執り行われる。 その前に居住まい移動の御支度を終えなくてはならない。単なる御支度では済まされない…竜王の姫君なのだ。御衣装も御調度も並々ならぬ質と量だ。沙羅のお側に仕えているからこそ、任される膨大な仕事があった。 …でも。 そう思ったときだった。多奈の手がふっと止まる。…大変なことに気が付いた!
………
「何の前触れもなくやってきたかと思えば…多奈、お前は沙羅様のお付きとしてもう少し節度を持って…」 「だって! 今、たった今、思いついたんですもの! お願いします〜お祖父様〜!!」 「そうは言ってもな…」 「困っていらっしゃる場合じゃないんです〜!」 多岐は…複雑そうな顔をして孫娘の方を向き直ると、静かに言った。 「今まで、私がお前にいくらそう言う話をしても、一向に耳を貸さなかったじゃないか。…で、何だね。いきなり押し掛けてきて『子供が欲しいから相手を捜してくれ』…とは? 何とも順序が違っているんじゃないか?」 …正論である。全くもって正論である。 「でも、でも! お祖父様…」
どうして。どうして、こんな大切なことに気付かなかったのだろう…? 姫様にとって、これから御輿入れされてお世継ぎをお産みになられるであろう姫様にとって、この先一番頼りになり、支えになれるのは…御子の乳母に他ならない。自分の母・多香がそうであったように…。
「多奈…」 最初の勢いはどこへやら、すっかり大人しくなってしまった様だ。病んで竜王の御館を辞した娘・多香からこの孫娘の事をくれぐれも、と頼まれていた。多岐にしてみても、多少の行きすぎはあるものの、彼女はしっかりとお務めをこなしていると思う。年齢も18になっていた。良き伴侶を迎えるには遅すぎる位の年齢だ。 「お前がその気になってくれたのは、私としても嬉しいよ…いささか急ではあったがな。そなたは『北の集落』長の一族…『多の一族』の娘である。他の集落の…そうだな、『西南の集落』は避けるにしても…『離の集落』、『瀬の集落』、『杜の集落』…他にもあまたとある集落の大臣家や長の家に嫁ぐというのが妥当だろう。今までの侍女暮らしではないよ、今度はお付きの者に囲まれて女主人として生きていくのだ。御館住まいで実感も湧かないだろうが…お前はそれだけの器なのだよ」 その言葉に。多奈は信じられないと言うように眼を見開いた。 「…お祖父様! それは困ります…!!」 今度は多岐の方が驚いて目を見張る。 「だって…どこぞの集落に嫁いでしまえば、姫様の侍女としてのお役目が続けられません。私はずっと御館にお務めしたいのです、ですからお祖父様のお目にかなう者を御館の中から選んでいただけませんか…?」 「これは…なんと」 どこの世に、こんな不可解な事を言い出す娘がいるのだろう。大きなお屋敷の女主人になる道を捨て、一生、姫君にお仕えしたいと言い切る。 改めて、目の前の孫娘を見つめる。「北の集落」の民のものであるしっとりとした黒髪、それは背の後ろでくくられているが、長さはくるぶしぐらいまである。さらさらと絹の糸のようだ。真っ白な肌、切れ長の眼…整った顔立ち。それが年頃の娘特有の甘さに包まれている。でも、その自分自身の持ったものには興味もなく、ただ、お仕えする竜王の御娘・沙羅様だけのために生きている。 遥か古より竜王家に仕える者としての人材を育むことが、「北の集落」の民のお務めであった。それは「西南の集落」の様に直接的な勢力で王に圧力を掛けるのとは異なる。我が身、我が集落の繁栄より…第一にお上の安泰。長である多岐自身もそう思って竜王・華繻那に仕えてきた。
しかし…な。
深い深いため息が彼の口元から漏れる。その後、決心したようにこう言い放った。 「よろしい。お前の意を汲んで良きに計らおう…しばし、待たれよ」 ぱあっと晴れた多奈の愛らしい微笑みを、内心複雑な面もちで見つめながら。
………
3日後、改めて侍従の詰め所の奥にある多岐の部屋に呼ばれた。濃い藍色の長袴、薄紫と桜色を合わせた重ね。結わえた髪の後れ毛を海底のうねる気に揺らしながら多奈はやってきた。 「はい、それはもちろん…」 1年のほとんどを竜王の御館で過ごす多奈は、故郷である「北の集落」をとても遠く感じていた。それでも知識として、集落の構成ぐらいはちゃんと知っている。 「北の集落」はその長であるのが「多の一族」…多岐を筆頭に竜王家のお側に仕える者が多くいる。そしてその下に同列の20ほどの一族がいる。その下にまたそれに仕える一族がいる。ピラミッド式の構成になっていた。「青の一族」というのは「多の一族」の直接の傘下に当たる。数多くある「ナンバー2」のひとつだ。 「『青の一族』は香のお務めを主に行う者たちだ。香料になる草や樹木の栽培から…その精製、調合に至るまで。そこの次期長である男が東の栽培所で働いておった。年の頃もお前とは丁度似合っておる…入りなさい、青汰(アオタ)」 次の間に控えていたのだろう、すっと人影が多奈の前に進み出た。 クリーム色の水干に紺の小袴。首の後ろで髪をひとつに結わえて。こざっぱりと清潔ではあるが…御館で雅な装束に見慣れている多奈にとってはあまりに簡素な服を着た青年であった。 「宜しく…青汰と申します。多奈さんですね?」
…この人が…私の夫になるの…?
彼を見上げて。噛みきれない…複雑な気持ち…それを表に出すことはなかったが、確かにそう思った。それを昨日のことのように、妙にリアルに心に留めている。
………
そう思いつつ、足早に帰途につく。故郷に戻っての祝言の後、2人は竜王庭園の一角にある離れを新居として頂いていた。独り身であった頃、多奈は御館内の侍女の詰め所で寝起きしていた。相部屋ではあったが食事も出て、結構いい環境だった。夫の方は栽培所の傍らにある独身寮にいたのだという。 しんしんと冷え込む初冬…冴え冴えとした月が多分、水面を照らしているのだろう。ここは遥か海の底…自分たちが天と仰ぐところが海面になり、その先に「陸」があるという。海底人に取ってはそこは禁の場所であり、濃すぎる乾いた気に満ちていると聞く。…縁のない場所であった。 20分ほどの道のりを早足で抜けて、どうにか辿り着いた。…もう灯りが灯されている。 この離れ館も新婚の夫婦が住まうには過分な建物であった。 これも多奈の身分との関係である。「北の集落」長の一族の出であり、祖父は現竜王の一の侍従、大叔母は東所の侍女長、そして自分は母が次期竜王のお后である沙羅の乳母である上に…自分自身がそのお后の侍女。そして立場上、沙羅ともその夫君である次期竜王・亜樹とも…はたまた竜王様の御前にすら、上がる栄誉を与えられている。 多奈を迎えたことで「青の一族」はその他の同列の一族から明らかにひとついでた存在になった。夫の青汰も舞夕花の耕地をまとめるお役目を与えられたと言うし、一族の者たちの地位もおのずと上がった。竜王のお屋敷内に新たにお務めするようになった者もいる。
「ごめんなさい…遅くなりました…」 「お帰り。お疲れさま、多奈さん」 「…夕餉の支度、大体済んでるから。多奈さんも着替えて楽になれば?」 入ってすぐの居間のテーブルに、色とりどりの料理が湯気を立てて並んでいる。 「着替え、ちゃんと手入れしておいたから。寝台の上にあるよ」
二人はいわゆる共働き夫婦になる。
「あの…今日、紫貝を頂いたの。青汰、好きでしょう? 着物を改めたら、煮るから…」 「じゃあ、俺がやっとく。どれかな? 見せてみて…」 それは私が、と言いたかったが…その言葉を飲み込んで、寝所に引き上げた。 正直、貝を煮るのは青汰の方が上手なのだ。
「でも…今日は御支度をして貰ったんだし。何か悪いわ…」 「いいよ」 「多奈さんは普通の身体じゃないんだから。赤さんにさわりがあったらいけないでしょう?」 「そうそう、今日…青の母上からお届け物があったんだよ? …テーブルの上」 「…なあに? これ…」 包みの中から出てきた、少し幅広の帯。小さな肌着、端切れの布地。 「安産の腰帯と…何だろうね? 赤さんの服かなあ…母上も舞い上がっちゃっているから。何でもまた大鍋で雪の魚を煮てるって言っていたよ?」 「…ゆ…雪の魚? それは…」 辞めて欲しい! だって、生臭くてとても人の食べるものとは思えない料理なのだ。 そもそも「雪の魚」という食材自体に原因があるらしく、調理する青の家のものの腕は関係ない。7日煮込んでどろどろになった液を飲むのだ。…安産の願掛けであるらしい。この間の分がようやくなくなってホッとしたと言うのに…。 「ま、それくらい聞いてやってよ。多のお嫁さまが、青の世継ぎを産むんだって…それはそれは喜んでいるんだから」 「そう…」
「…じゃ、俺はもう一度出てくるから。戸締まりはきちんとしておいてね…」 「え? 今日も夜巡りのお当番なの?」 「うん、天真花の耕地を取り仕切っている叔父さんが腰痛を患っていらっしゃってね。もちろん、若い衆はいるんだけど、まだ心許ないから。色々教えないといけないんだ…樹も草も生きているからね、ちゃんとお世話してお育てしないと」 「…あ、あの…」 いってらっしゃいまし、と挨拶しなければ。と思って腰を浮かせた多奈を戸口に立った青汰が手の仕草で制する。 「いい、そのままで。いってくるよ」
「お早い…お帰りを…」 きっと、今夜も自分が休むまで、青汰は戻らない。この所、ずっとそうだ。すれ違ってばかりいる。…自分に触れたのは…さっき肩に一瞬、手を置いた時だけだった。 |