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青汰(アオタ)と自分を会わせたものの。 祖父・多岐(タキ)は二人を娶せることを正式に決定した訳ではなかった。他にも候補は何人もいたらしい。青汰とは同列の、同じ歳くらいの青年は「北の集落」にも…他からこの竜王の御館にお務めに来ている者にもたくさんいたのだ。
「…多奈(たな)さん…!」 御館で様々な人々にもまれて生活していながら、多奈には自分と同じくらいの歳の殿方と親しく語り合うことなどなかった。親兄弟以外で…いたのだろうか? 今でこそ、沙羅(さら)の夫君である亜樹(アジュ)とはぽんぽんと言葉を投げ合う仲だが、あれは誰がどう見ても口げんかである。 「このような場所に…どういたしましたか?」 顔合わせをして間もない頃だ。 もともと黙っていると無愛想に見えるという自分だ。その時も、心の映らない表情をしていたであろう。でもそんなことにはお構いなしに、青汰は舞夕花の群生の中に自分を招き入れた。 「足場が滑りやすいですので…注意してくださいね?」 その背中が遠ざかるので必死に後を追った。広大な耕地はまだグリーンの波の中。花はまだまだ遠いという感じだ。糸のように伸びた茎に付いたつぼみたちはどれも固く閉じていた。
「…こちらです」 「…花?」 そっと壊れ物を包むように青汰の手のひらが捉えたのは、辺りでただ一つ花開いた紫色の花弁だった。確かに珍しいのかも知れない。でも舞夕花そのものは毎年鑑賞している、取り立てて驚くほどのものでもない。 それを本当に宝物のように包み込む青汰の仕草の方が不思議に思えた。 「今年、最初に咲きました…俺の花です」 「皆様には同じ草の繰り返しに思われるのでしょうね? でも香料の耕地は…本当に細かく区画が分けられてます。そのおのおのに担当する者がいて…皆、自分の区画が早く美しい花を咲かせることを心がけて頑張っております。美しい花からは美しい香が採取できます…結構奥が深いのですよ。私の区画は今年とみに成長も早く、花も素晴らしい出来になりそうです。本当に嬉しいです」 そう告げて、もう一度先の花を優しくなでる。その手つきの優しさがこちらまで伝わってきそうだった。
香料の原料になる植物の栽培など、多奈は全く知らなかった。香あわせは大叔母の多尾より教授されていたが、自分たちが用いるのはきちんと精製されたものだ。 その時、多奈の心を揺らしていたのは、他に先駆けて花開いた一輪の花の美しさではなかった。その花を愛でる手のひらと見つめる視線の暖かさだった。
もしかしたら。この人はとても暖かい人間なのかも知れない。
春と呼ぶにはまだ気の冷たい耕地で、自分の心がほんのり色づくのを感じていた。
天井を覆い尽くす天寿花の薄桃色、辺りに漂うかぐわしい香り。 涙が止まらなかった。取り返しの付かないことをしてしまった。誰も面と向かって自分を責め立てることはない。そうは言っても、事の真相は誰より自分が知っている。 ひときわ美しい幹にもたれかかったまましゃがみ込んで、このまま樹木の一部になってしまえばいいとすら思っていた。
「…多奈さん」 「あの…心配になって。多岐様にこちらにいるとうかがって…」 かさかさかさ。 花びらを踏みしめながら近づいてくる足音。耳に届いていても面を上げることなど出来ない。あとからあとから流れてくるもの。自分が自分を責め立てる心内。どうにかなってしまいそうだった。
だから、言ってしまったのだろう。…唐突に。
「青汰…私たちの婚儀の話は…なかったことにしましょう…」 「え…?」 ごくごく近くで、足音が止まる。 彼が驚くのは無理はない。昨日までの沙羅と亜樹の婚礼の儀が執り行われた後…故郷である「北の集落」にて、自分たちの婚礼が行われることになっていた。多分、村ではもう、その準備が整いつつあるだろう。
集落一番の勢力者の家の娘を頂く、とあっては「青の一族」の民の皆が奮い立っていた。もちろん彼らに異存はない。多奈たちの間に何の約束もなかったのだが…気が付くとそう言う運びになっていた。 正直、どうかな、と言う気がしないわけではなかった。 青汰は確かに真面目で働き者だ。しかし、御館での生活が長い多奈にとっては何だか物足りない気がしていた。風流なことも分かってないようだし、読み書きも…多奈よりおぼつかない。これは青汰のせいではなく、竜王の娘・沙羅と一緒に全ての手ほどきを受けた多奈が特に秀でていたわけだが。 控えめに優しい言葉はかけてくれるが…未だに手を握られた事すらない。こんな感じで婚礼に至っていいのかと悩むこともあった。でも、他に候補を探すのは時間のロスだ、姫様より早く子供をもうけるには、やはり相手がいなければ始まらない。 …でもこの人。御子の作り方、知っているのかしら…? さすがの多奈も面と向かってそのことを聞くことは出来なかった。それに彼女自身、よく分かっていなかった節がある。大体のことは侍女たちの話から分かっていたが…このものすごくおくてらしい男では…大丈夫かなあと思うこともあった。
「多奈さん…?」 「あの…俺のこと…嫌になったの? 何か、気の触ることでも…」 「そ、そうじゃないけど…だって、…沙羅様がいなくなってしまわれて。それを追って亜樹様まで…これじゃあもう…」 そのことの発端が自分の言葉だった。それに…彼らがいなくなってしまった今、子供を作るとか、乳母になるとか…そう言う必然性がなくなってしまったのだ。本当に多奈にとって、結婚とはそれだけのものだった。
「多奈さん、…沙羅様が失踪されて…君が取り乱すのはよく分かる。でも…そうだからと言って…多奈さんが幸せになっちゃいけないということはないでしょう…?」 人の良い青汰は…多奈がものすごくいい加減な気持ちで結婚を思い立ったことなど知らない。知るはずもない…いくら何でもそこまでは多奈も言ったことがなかった。 「でも…とても…そんな気持ちにはなれないし…」 「多奈さん!!」
…え?
何が起こったのか、分からなかった。身体がふわりと浮いたような気がした後、強い力に包み込まれていた。 自分が誰の腕に抱かれているのか、それを理解するのにとても時間がかかった。 「…ごめんなさい」 この言葉は…浅はかだった自分を詫びる意味で発したのであった。 軽い気持ちで、相手の心など考えなく自分の都合だけで選んでいた。一生の問題を…自分たちの問題、に留まらず…一族の、集落全体の大切なことを自分の勝手な思いで…。 どうして私はこんななのであろう? もっと深く考えなかったのだろう…?
この先は巫女にでもなって、一生涯を神に捧げてしまおう…明日にでも禊ぎを済ませようとこの瞬間、決意した。
「多奈さん、…分かるから。今すぐにショックから立ち直れないのは当然だよ…なら、君の気持ちが収まるまで…待つから。何年でも、待ってるから…」 一方、青汰の方も。全然違う視点で考えていた。 彼は多奈が沙羅のいなくなってしまったショックのあまり心を乱しているのだと信じていた。…と言うか、そう考えるのが妥当だろう。誰もまさか自分が子づくりのためだけに選ばれたとは思わないだろうから。 「あの…青汰…」
でも…次の瞬間。
彼女の目に映ったのは、どこまでもまっすぐなきれいな瞳だった。思わず、喉まで出かかった言葉が止まる。青汰の手が多奈の肩を両方から掴んで、天寿花の幹にその身を強く押しつけた。 「あお…」 動きかけた唇が止まる。 つい、と吸い付いてくる青汰の…柔らかな感触。最初は探るように…一度離れて今度はもっと深く…重ね合わせられる。 多奈の頭の中はもう真っ白になってしまった。言おうと思ったはずの言葉などどこかに吹き飛んでいってしまう。
どれくらい長い時間を重ね合わせられていたのか…頭がぼおっとして考えることも出来なかった。
「多奈さん…」 「俺のお嫁さまになるのは…多奈さんだからね。多奈さんだけだからね…待っているから。いつまでも、いつまでも待っているから…」 さっきより乱暴に抱き寄せられた。 自分の髪を結っていた細紐がほどけて、黒い帯がそこら中に浮遊する。自分の髪のことなど…気にも留めたことがなかったが、この時初めて…美しいなと感じた。 降りしきる花びらの中…薄水色の水干の袖に絡みつく…自分の髪が…世界中で一番きれいだと思った。
………
「わあ、般若の面だって、そんなに怖くないから…どこぞの名手に彫らせた面かと思えば…」 「…そんなにおっしゃるなら…この御衣装の始末、ご自分でなさいますか? 何ですか! 東の池は水苔がたくさん生えているのですからね。このようにまとわりついては取れないんです!」 美しい刺し文様を痛めないように。細心の注意を払って水苔をぬぐい取っていく。 綿くずの飛ばない真綿に特殊のシミ抜き剤を含ませて…色落ちに気を付けながら丹念に。ああ、おなかが邪魔だ。前屈みになるととても苦しい。 「お〜怖い!! 嫌だねえ…カリカリしちゃってさ…」 チラリと見やると、横目でこちらを伺っている。長めの前髪をかき上げて…口惜しいけどきれいな顔立ちだ。 「西南の集落」の人々は別名「陽の民」と呼ばれる。褐色の肌に赤がかった豊かな頭髪。濃緑の瞳。その目尻は涼しく流れている。この豪華な御衣装がしっくりくるのもお育ちなんだろう。
「あらまあ…どうしちゃったのよ。また仲違い? …困った方々ね…」 「おやおや…これは…」 「お帰りなさいませ…お后様」 「あら、嫌だ! 何やっているのよ〜」 亜樹はそのまま自分ですっと立ち上がると、おもむろに妻を抱き寄せる。挨拶の短い口づけ。沙羅の深い牡丹色の重ねがゆっくりと流れた…キラキラと刺し文様が輝く。薄茶の髪が気流に乗って、二人を取り巻く。 そちらを見ないようにして、多奈は黙々と自分の作業を続けた。
…まったく、高貴な人々は…自分たちの睦みごとをお付きの者に見られるのを何とも思わないのだから、嫌になる。こう言うのは隠れてするからいいのではないか、どうして見せつけるんだ…?
「…で、どうしたの? これ…」 「亜樹様の…寒中水泳だそうです…」 「まあ…?」 「竜王様のとこのお務めを終えて…戻りすがら…ぼーっと考えごとしててさ…足を踏み外しちゃって…」 「だって、…毎日通る道でしょう? 足元も忘れるぐらい、何を考えていたというの…?」 すると亜樹は沙羅の背後に回ると、脇の下から両手を回してきた。そしておなかの辺りを包み込む。 「若姫の御名を」 「…亜樹…」 「あのね…今は師走…冬の初め。この子が生まれるのは来年の夏よ。それに…おばば様だって、まだどちらかは占えないとおっしゃったでしょう…?」 「でも、姫がいいんだよ〜」 「しょうがない人ねえ…」 多奈にしても姫様のお幸せなお姿は嬉しい。悲しみを奥に隠した曖昧の微笑みを浮かべていた…長い月日を思えば今の晴れやかな笑顔は夢のようだ。しかもとうとう待望のご懐妊だ。お二人の間には更に甘い空気が濃くなった気がする。
ほうっと、ため息ひとつ。 幸いなことにお二人は自分たちの会話に夢中で、多奈のことなど構っていない。ようやく水苔を拭い取った御衣装を手にすると告げた。 「…こちらの始末をして参ります…どうぞごゆっくり」
………
どこに行っているのか…問いつめる気にもならない。本人は仕事だと言うし…香料のお務めのことは本当に知らないが、大変なことには違いないらしい。 おなかの子はもう8ヶ月目に入っていた。 元々が頑丈な身体で病気らしいものもしたことはない。妊娠中もとても順調だ。だんだん、おなかの子が上に上がってくる気がする。そうなると胃が圧迫されて、食欲が落ちる。そのくせすぐに胃が空になって気分が悪くなる。寝台に横になっても上向きだと眠れない。 …嫌になっちゃう…。 まだ10代なのに…年寄り臭いったらない…。自分で腰をさすってみる、知らない間に涙が出て来た。
こう言うとき、亜樹様だったらどうするだろう…あの調子で考えれば、一晩中、沙羅様のご面倒を見ている気がする。青汰のように身重の妻を残して仕事に没頭する事もないだろう。お務めなんてほっぽり出してしまいそうだ(それはそれで、ものすごく問題だ)。
………
儀式は夜遅くまで行われた。浴びるような最高級のお酒が振る舞われて、「青の一族」と「多の一族」…両方の料理が床を埋め尽くすぐらい並んでいた。 多奈は沙羅の失踪もあり…ギリギリまで「北の集落」に戻ることが出来なかった。御衣装あわせもそこそこにほとんどぶっつけ本番で全ての御式を済ませることになった。 緊張で、朝から晩まで何も喉を通らない状態。親戚も「青の一族」の者はもちろん…「多の一族」であっても知らない者が多かった。皆が「多のお嫁さま」だと注目する中で…寝の刻の頃…ようやく解放された。 もちろん、出席した者たちはまだまだにぎやかに盛り上がっている。夜通し飲み明かすそうだ。それに付き合ったら…身体がバラバラに壊れてしまったかも知れない。
「…大丈夫? 多奈さん」 放心状態でぼーっと部屋の隅の寝台に座り込んでいた。御衣装を改めて、寝着になっている。まばゆいほどの純白の…そう、特別の着物。婚礼の夜だけに身に付ける白い長袴。きつい束縛を解かれて…ホッとしたが、その分どっと疲労感が襲ってきた。 「……」 声を出す気力もない。ふうっと振り返る。ほの暗い燭台の灯りの下、解かれた髪がゆらゆらと辺りを漂った。 「…お疲れだね」 振る舞われた酒も少しは嗜んだのであろう。でも彼の身体から、それほど酒の香は感じられなかった。真新しい御衣装の独特の繊維の匂い…
話には聞いていた。婚礼の儀で一番疲れるのはお嫁さまだ…聞いてはいても実際に体験するとその言葉が身にしみる。感動に胸を躍らせる、何て事はまるでなく…ただ、早く過ぎてくれないかなあと思っていた。 儀式の最中もやりかけた仕事が気になって仕方ない。仕立て途中の小袖…冬物の上掛けの刺し文様の図案に糸の選出…寝具の手入れもある。こんなところで油を売っている暇はないのだ…早く竜王様の御館に戻りたかった。
寝台の上で夫となった人の腕にあって…仕事のことを考えてしまう。 情けない話だが、多奈にとっては今までの人生の中でお務めこそが生きる全てだったのだ。姫様がお健やかにいらっしゃるように、穏やかにいらっしゃるように…その心内を察して、自分に出来る全ての事を考える。それが多奈、その人だったのだ。 「大丈夫…?」
「…多奈…」 突然。 青汰の声色が変わった。回された腕に力がこもる。その中で、多奈の身体がきゅっと固くなった。
今までずっと「多奈さん」と呼ばれていたのに…急に人が変わったみたいだ。信じられない。そのまま奪われるままに唇が合わせられ…そうされながら、しとねの上に押し倒された。 思いがけずに…そう、思いがけずに青汰はすんなりとその動作を行っていく。ためらいとか…恥じらいとか…そう言うものもない。 「…多奈」
…そうか、青汰は…男の人だったんだ…
そんなことをぼんやりと考えているうちに…激しさと違和感と…身体を突き抜ける痛みと。それから、しがみつくものもなくどこまでも堕ちてゆく感覚が多奈を襲っていった。
何のために、青汰はこんなことするんだろう…? こんなことして何か楽しいんだろうか…? 疲れ切って何も感じなくなった身体に、ただ、青汰の残していくたくさんの感触が宿った。
初めの数回は本当に…早く終わってくれと言う感じだった。 想像以上に青汰は精力的で、毎夜のように多奈を求めてきた。多奈の方も断る理由もない。よくよく考えてみれば、これは子供を産むために必要な行為なのだ。してくれた方が助かる。とにかく早く子供が欲しいんだから。 そうは思ってもやはり来る、と思えば身体が硬直する。 のぼりつめたあと…満足そうに多奈を抱き寄せて甘い声で名を呼ぶ。それは嫌いじゃないと思った。
そして一月を数える頃には…そう言う行為を自然に受け入れられる様に、身体も心も変化しつつあった。 普段の生活では大人しすぎる位の物足りない夫が、閨の中ではちゃんとしっかり自分をリードする。それが嬉しかった。 動きに合わせて、自分の唇から聞いたことのない不思議な声が漏れる。それを青汰に聞かれるのは本当に恥ずかしい。なのに、彼の方は嬉しいらしく、ふと目を開いたときににっこりと微笑む。もう消えてしまいたくなる…自分が自分でなくなったみたいだ。もっともっと欲しくて…腕を絡める。抱きしめられて耳元で囁かれる「好きだよ」と言うかすれた声。情事の最中じゃなかったら聞くことの出来ない甘い媚薬だ。 自分の中で。 青汰の存在がどんどん大きくなっていった。 今まで沙羅のためだけに生きてきた自分が、夫のために少しでもきれいに着飾り、慣れない手つきで紅を引く。決して広いとは言えない部屋を出来る限り快適に過ごせるよう、工夫してみる。 お務めの最中こそはきちんとお役目を考えるものの、帰路につく頃には息が切れるほど足早になってしまう。 早く会いたかった、一瞬でも長く側にいたかった。仕事柄、二人には決まった休暇もなければ…どちらも多忙な職種だった。だからこそ、何でもない日常の暮らしを大切にしたい。ささやかでもいい、二人でいることが幸せだと思った。 言葉にしたことなどない。でもあの優しい包み込まれるような笑顔に、はにかみながら答える自分は…本当に幸せだと、こんな幸せな人間はこの広い海底国じゅう探してもいないだろうと…思っていた。
三月たって。夏の盛りに懐妊を知る。 どんな顔をしてそれを告げたら良いのか分からずに、俯いてためらいがちに伝えると…恐る恐る面を上げた。子供のように嬉しそうな笑顔が多奈に応えていた。 じわじわと足の裏から目眩が起こりそうに幸せな感情が沸き上がってくる。それが背筋を駆け上がる。やがて一滴の涙となって、多奈の目からこぼれ落ちた。 その後、枕も上がらないほどのひどいつわりに半月ほど苦しむことになった。青の両親や自分の実家の両親が祝いに駆けつけてくれても、満足に接待すら出来なかった。 それなのに…何も身体が受け付けず、どんなに衰弱しても、それでもおなかの中で青汰がくれた命がゆっくりと育っているのだと思えば、嬉しい。
そして。その日を境に…青汰は多奈の身体を求めることはなくなった。 |