TopNovel秘色の語り夢・扉>傾…君の夢まで・3



…沙羅の章・番外編…

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 「青の一族」の者が、多奈(たな)と青汰(アオタ)の縁組みを期に、様々な優遇を受ける事になったのは先に言ったとおりだ。女子にあっても、侍女として竜王様の御館に新しく仕える者が何名もいた。

 その一人…青汰の従妹に当たるという少女が多奈の元で修行の最中である。

 青真(あおま)と言う名のこの娘はとても利発で飲み込みも早い。青の両親からもくれぐれも宜しくと申しつかっていたし、多奈としても目を掛けてやりたいと思っていた。

 しかし。

 この娘…何故か多奈に対して、とても反抗的なのだ。

 今年14になったと言うからそう言う年頃なのかも知れない。でも、初めて顔を合わせたときから「あれ?」と違和感を感じていた。

 

………

 

 青真に初めて逢ったのは…婚礼の夜から一夜明けたその時だった。

 どれくらいの刻限かは分からなかったが、もう日が高く上がっていたことは確かだ。

 軽く、入り口の木戸を叩く音がする。

 その時、多奈も青汰もまだ寝台の上で休んでいた。昨日の丸一日の儀式の疲れはまだ身体にまとわりついている。出来ることなら一日中このまま休んでいたいぐらいだった。

 

「…お兄様〜おはようございます!!」
 愛らしい声が戸の向こうから聞こえてくる。

「…あれ?」

 多奈を抱きしめていた腕を解いて。目をこすりながら、青汰が起きあがる。小袖の前を手で合わせながら、戸口を開けた。

「何? …青真か」

「何、じゃないでしょう? もう皆様お揃いよ。お兄様たちがいらっしゃらないと始まらないでしょう…? 私はお嫁さまの御支度をお手伝いするように言われて来たの…お嫁さまは? 中にいらっしゃるの?」

 その会話を聞いていた多奈はぎょっとして身を起こした。自分も小袖を羽織っているだけだ。慌てて寝台を降りて草履を履いたところで、もう少女が入ってきた。

「…あ、あの…」

 こんなあられもない格好では、昨晩何があったか無言で語っているようなものだ。まあ、当たり前のことではあるが、それでも年若い娘にこんな姿を見せるのは気恥ずかしい。

 顔を赤らめた多奈に対して、彼女を見上げた視線は驚くほど冷たかった。

「おはようございます…さすがに長の一族の女子さまですね。朝もごゆっくりで…青の女子は夜明けと供に起きるものですわ。これは新婚さまであっても例外ではないです。初っぱなからこんな常識のないようじゃ…呆れてものも言えませんわ」

 その時。青汰は次の間に入っていて、この言葉を耳にすることもなかった。それが分かっていて少女は言い放ったのだろう。さっき、青汰に対してしゃべっていた言葉とは全然違う声色だ。

 唖然とする多奈など気にも留めず、少女は今日の装束を次々に並べる。それからまたきつい視線でこちらを見た。

「早くその小袖をお脱ぎになって? …あああ、嫌だ。どうしてよそ様なんて頂いたのかしら? お兄様も酔狂ね…物好きにも程があるわ…」

 それから。着替えの最中、髪を整えてくれる最中、ずっとこんな感じだった。

 

 まあ、寝坊したのは自分の失態である。腹を立てることではない。子供の言うことだ、いちいち気にしていても仕方ないだろう。だから、このことはもちろん青汰にも言わなかった。多奈一人の腹のうちにしまい込むことになる。

 

 でも、哀しかった。歯に衣を着せぬ少女は本心を言うことが出来るのかも知れない。もしかして…自分がここに嫁いできたことは…迷惑だったのではないだろうか。みんな、腹のうちではこの少女と同じように考えているのかと思うと切なかった。

 

………


 その後も…竜王の御館に戻っても、この娘は何かにつけて多奈たちの新居を訪れた。青の両親もことのほか可愛がっている様子で、色々と用事を申しつけているらしい。

 初めて来た日には、袋にいっぱいの紫貝を持ってきた。

 

「これ、お兄様の好物なの」
 そう言いつつ、見上げた視線が突き刺さる。それから口元が少し上向く…皮肉を込めて。

「おばさまから…貝のお料理の仕方をきちんとお教えするようにと申しつかってきたの…でも…まさかと思うけど…多のお嫁さまともあろうお方が…紫貝も扱えないのではないでしょうね? 多奈様は…青にはもったいないくらい高貴なお方ですもの…全てに長けていらっしゃるはずですもの…ね」

 とても、知らないとは言えない状況だった。だから黙って受け取った。御館暮らしが長い多奈は貝など煮たこともなかった。それでも必死で調理してみた。

 でも、それを一口含んだ青汰は不思議そうな顔をする。

「…多奈さん…なんか、アクが抜けてないみたい…きちんと塩水に浸けた? 紫貝はちょっとしつこいから、丁寧にしないとね…まだ残っていたら、教えてあげる」

 優しい笑顔を向けられても…哀しかった。駄目な嫁の烙印を押されたみたいで。

 その時も唇を噛んで俯いて…何も言わなかった。青真に言われた言葉が、胸の奥でくすぶった。

 

………

 


 師走…この時期の侍女のお務めは装束の御準備が主になる。秋装束を仕舞って、その代わりに早くも春の装束を御支度する。

 正月明けからは寒暖に関わらず、春めいた装束が必要な事が多くなる。その日の天候を考えながら、主君のための御衣装を揃えるのが、侍女として大切な務めだったのだ。

 肌着や下着である小袖…それから衣、うす衣を幾重にも重ねて、一番上の重ねと色目を合わせる。寒い次期には外歩き用の上掛けを羽織ることもある。腰から下に身に付けるのは長袴。これも色は身分や役職によってほとんど決まっていたが、刺された文様が一枚ずつ異なる。桜色の重ねには桜葉を散らした長袴が良い。

 そんなことを一通り教えながら、青真に実際に色目合わせをさせてみた。

 

「…大体…宜しいみたいね」

 春の色のグラデーション。重ねの濃いピンクから黄へ、そして黄から若葉色に。素直なのびのびした色使いだった。お后になられた姫様には少し子供っぽい気がしたが、ここは14の娘の素直な表現だ。

 多奈の言葉に、いつもは反抗的な青真が満足そうに微笑んだ。

「…で、どうかしら? この奥の緑の衣は、こちらの藤色に変えるともっと宜しいわ。あえて反対の色を乗せるとハッとした若々しさが表現できるの」

 そんな指摘にも素直に頷く。しかし、口を開いた彼女は、また多奈を一瞥して言った。

「こんな素敵な御衣装…多奈様はずっと合わせられてきたのね。ご自分には到底お似合いにならない装束も…手に触れられるだけで幸せなのでしょうね…」

「…な」
 多奈の顔色がさあっと引いた。

 それを嬉しそうに見つめながら青真は続ける。

「やはりこのように雅な御衣装は、お后様がお召しになってこそ素晴らしいわ。本当に沙羅様は素敵なお方…物腰もゆるやかでお笑いになる瞳がお優しそうで…春を集めたようなお方ね。亜樹様がご執心なさるのも当然だわ。…どこかの誰かさんとは雲泥の差ね…」

「……」

 この5歳も年下の愛らしい唇は…どうしてこうも自分に挑発的なのであろう。いちいち腹を立てるのも大人げないので、聞かない振りをしてそこら辺の片づけをした。

「お兄様もおかわいそうに…一族のためとはいえ、こんな可愛げのない女子さまを頂く羽目になって…お優しいお方だからあなたをお捨てになることはないでしょう。でも青の長ともなれば側女だって取れるご身分よ…せいぜいおつくし遊ばせ…ま、その立ち振る舞いでは青の御子をお産みになるくらいしか芸がなさそうですけど…」

 思わず、無言でキッと睨んでしまった。どうしてここまで言われなくちゃならないのだろう…自分が何をしたというのか。でも目の前の少女はただおかしそうにククッと喉で笑った。

「…おお、怖い。女狐さまの本性が現れましたか…」

 背中に張り付いた視線を逃れて、御衣装の倉を離れた。

 

………

 


 夜になり…だんだん雲行きが怪しくなってきた。

 まだ大荒れにはならないものの、二、三日中には冬の嵐になるかも知れない。ここ海底国は元々が水の中。雨が降ることはない。雨というものを多奈は知らない。
 でも大風の如く、自分たちの周りの「気」が揺らめく。その流れで木々は大きくうねり、葉は落ちる。陸の上にも今日は月がないらしい。燭台を手に、家路についた。

 

「…青真、頑張ってる? 近いうち、お務めしているところを見に行こうかと思っているんだ…」
 夕餉のテーブルで、何気なく聞かれる。多奈の表情がちょっと曇った。

 

 青汰には詳しいことを話したことはない。

 何しろ、青真が反抗的なのは自分に対してだけなのだ。それも皆が出払って二人きりの時を選んでいる。だから「南所」の皆にも可愛がられていたし、評判も良い。亜樹などはきちんと学ばせて、ゆくゆくは自分たちの御子の侍女にしたいとまで言っている。

 

「良くやっているわ、飲み込みもとても早いし…皆にも良い子だと言われて」

 無理に微笑んだ多奈の言葉に、青汰は満足そうに頷く。顔にこそ出さなかったが、それがとても切なかった。

 

 この頃、だんだん青汰が遠くなって行く気がする。身体を触れ合わないでいると…心まで遠くなるものなのか。別に閨でどうの、と言うのでなくてもいい。たとえば肩を抱いてくれるとか…痛む腰をさすってくれるとか。せめて優しく口づけてくれるとか。

 自分の方からそんなことを求めることは出来なかった。恥ずかしくて…何と思われるか怖くて。

『赤さんに触るでしょう…?』
と言って、家事もほとんどやってくれる。しんどくなってきた身重の身としては有り難かったが…何か違う気がしていた。

 懐妊して以来…傍目からもまぶしいぐらい大切にされて…それは嬉しい。でも、それが皆…おなかの子への愛情な気がする。自分は青汰の、青の跡取りを産むことの道具なんではないだろうか? そんなことまで考え始めていた。毎日のように浴びせられる青真の罵声もそれに拍車を掛けた。

 

 自分でも知らないうちに、限界が来ているのかも知れない。だから、ふとこんな言葉が口をついて出た。

「…ねえ、青汰?」

「なに? 多奈さん」

「…青汰、私と結婚してて、楽しい?」
 すがるような目をしていたと思う。自分の心の中に浮かんでいる、ただ一つの言葉。それを言って欲しかった、他の言葉は何も欲しくなかった。

「…え?」

 とても意外な言葉だったのだろう。そんなこと今まで訊ねたことなどなかったし、多奈自身も自分がこんな物言いをするのには驚いていた。

 

 青汰は驚いた目でしばらく多奈を見つめていたが、やがてふっと微笑むとゆっくり言った。

「俺…多のお嫁さまを頂けるなんて思ってなかったから…本当にもったいないぐらい、嬉しいよ」

 

 静かに優しく見つめられて。ふんわりと言葉を重ねられて…多奈は静かに俯いた。青汰の言葉に嘘はない、まっすぐに自分を見つめてくれる暖かさ…でも。

 青汰にとっても…自分は『多のお嫁さま』でしかないのか? ショックだった、泣き出してしまいたいほどに。大声で子供のように泣いてしまいたい。…多の娘なら…自分じゃなくても、他の娘でも構わなかったのか。

 でも、涙は出てこなかった。泣くことすら出来なかった。

 

「…多奈さん? あ、そうだ」
 俯いたままの多奈を不思議に思った青汰が声を掛けてきた。そして何かに気付いたらしい。

 やがて多奈の前にことりと音がし、て何かが置かれた。

「これ、多奈さんに…お土産」
 一抱えもある、酒瓶ぐらいの大きさの壺。中は液体らしい。どん、と置かれたものにゆるゆると視線を上げた。

「…何だと思う?」
 嬉しそうな笑顔。

 蓋を開けてみたが、なみなみと入っている黒っぽい液体が何であるか、多奈には分からなかった。

「…舞夕花の…香液…知ってるでしょう? 香の香りの部分を精製した残りなんだ。もうほとんど匂いは残ってないけどね、染料になるんだ。特別にきれいな色が出るんだよ」

「…へえ…」

 聞いたことがある。でも王族の染め物に珍重されていて、庶民の手には入らなかったはずだ。華繻那様などは小袖等にこの染め物を用いていたが。うす紫なのに何とも言えない深みと光沢がある。

 ほのかな香りを楽しんでいるうちに、心が躍り出した。

「どうしよう…嬉しいな。姫様の…何に染めればいいかしら? ねえ、どれくらいの量が染められるかしら? 生地は何がいいの? 正絹? 木綿…?」

 胸がドキドキした。そんな珍しい染料、自分で染め上げてみたい。きれいに美しく…。

 

 にわかに頬を赤らめて、目の前の人を見ると、何故か少し顔を曇らせて寂しそうな顔をしていた。

「…青汰?」

「どうして。沙羅様の御衣装じゃないよ? …これは多奈さんのために頂いてきたんだ。俺の舞夕花で作った香液だから…主任に無理を言って…」

「え…?」
 考えもしなかった。自分が舞夕花の染め物に袖を通すなど、畏れ多い。高貴な方々じゃないと、とても扱えない素材だ。…自分のような…ただ人では…。

「俺が、自分で精製して。染料になるように香液を作るのも大変なんだけど…頑張ったんだよ? 今度、特上の正絹糸を買ってくるから、それを染めて、反物に織って貰おう…仕立ては自分で出来るでしょう? どうせなら、きれいに刺し文様もしなよ…」

 

「…だめよ」
 視線を逸らして、大きくかぶりを振った。

「そんな身の程知らずの衣…笑いものになるだけだわ。私なんかには、似合わないもの…」

「そんなこと―」

「自分にふさわしくない御衣装など…着ちゃ駄目なのよ…」
 今頃になって、聞かない振りをしていた昼間の青真の言葉が胸を突いた。

「…そんなこと、ないよ。きっと多奈さんに似合うよ…外に着ていくのが嫌なら、家の中で着ればいいじゃない」

 青汰の優しい物言いにもただ首を横に振ることしか出来なかった。


 

 しばらく沈黙が続いたが、やがて青汰は立ち上がった。

「じゃあ…今夜も耕地を見回ってくるから。先に休んでいてね…」
 そう言いながら多奈の前を通って、戸口の方に回ろうとした。

 

「…待って…!」
 思わず、上掛けの袖を引いていた。びっくりした目が自分を見つめる。

「…多奈…さん?」

 多奈の手はふるふると大きく波打っていた。潤んだ瞳で…青汰を見つめた。

 

 ―行かないで、と。

 

 今日は行かないでと…言いたかった。唇が震えて言葉にならない。一人で長い夜を過ごすのが寂しい、一緒にいたい…色々話をしたり、そして…今日は、今夜は一人になりたくなかった。

 でも、掴んでいた手を自らするりと解く。

「…何でもない…行ってらっしゃいまし…」

 馬鹿みたい…青汰はお務めなのに。大人げなく我が儘言って困らせちゃいけない。それくらい分かっているのに…分からなくちゃいけないのに…。

「…行ってくるね?」
 俯いたままの自分に優しい声が掛けられ、その後、戸口が閉まる。

 その瞬間、堪えていたものがどっと溢れ出てきた。


 

 泣くだけ泣いて。ようやく顔を拭うと、多奈は寝台の下から籠を出した。

 若草色の上掛け。裾の方が濃くなったきれいなグラデーション。その裾と袖に施された控えめな刺し文様…一人の長い夜にせっせと仕上げてきた多奈の手仕事だった。もうすぐ終わる。正月に間に合った。

 どんな顔をしてくれるだろう…? 自分の作ったものを果たして喜んでくれるだろうか? そう思いながら内緒で隠しながら仕立てていた。

 沙羅様は、いつも本当にお幸せそうに針仕事をされている。夫君である亜樹様のためにこしらえる御衣装…それが愛おしくて仕方ないように。だから自分も…青汰への思いを針に託してみようと思った。

 でも今夜は。

 刺そうとしても文様が霞む。せっかくの生地に涙が落ちては大変だ。慌てて袖でまた新しい涙を拭う。

 

 もう気付いていた。とっくに気付いていた。

 

 青汰のことが好きで好きでたまらない自分を。どうしてなのか分からない、でも側にいたくて、笑いかけて欲しくて…どうにかして…青汰の心をつなぎ止めたくて。

『でも青の長ともなれば側女だって取れるご身分よ』

 あの青真の言葉を聞いた瞬間、心が割れるほど辛かった。自分以外の人を見つめる青汰なんて見たくなかった、絶対に嫌だと思った…そんなことになったら、自分は本当に壊れてしまうかも知れない。

『多のお嫁さまを頂けるなんて思っていなかったから…』

 そうじゃない、多の娘だから嬉しかったなんて言われたくなかった。自分だから、自分だから嬉しいと言って欲しかった。爪の先ほどの愛情で構わない、自分を愛して欲しかった。

 

「青汰…」
 あまりに頼りない感触の衣を胸に抱いて、小さく呟いた。

 外を吹き荒れる風の音に飛ばされそうな音で。

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