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「針目が浮かないようにね…? ほら、ひとつ刺したら…良く糸を引いて…」 翌日。 やはり、青真(あおま)の教育をすることになる。本当に、誰かにこのお役目は代わってもらいたかった。 沙羅(さら)や亜樹(アジュ)が同席しているときはいいのだが、ふっとふたりになった瞬間に、青真の口からは、多奈(たな)への罵声が溢れてくる。
「…大体いいかしら? でも、この辺りは気を抜いたわね…御針仕事は心映えが表れるから…お気をつけないと…高貴な方はすぐにお分かりになるわ」 「じゃあ、私の針目にあれこれ難癖付ける…多奈様はご自分が高貴だと、そうおっしゃりたいのね!?」 「…え? 別にそう言うつもりじゃあ…」 本当に愛らしい顔立ちの少女なのに。どうしてこんなに…自分に対してだけ。
青汰(アオタ)の身内なのだ、これから長い付き合いになるのは免れない。それだったら、いつまでもいがみ合っていたらいけないだろう。多奈は今日は思い切って彼女と向き合ってみようと思っていた。
「ねえ、青真?」 「あなた、私のどこが気に入らないの? …そんなにいつもカリカリしていてはいけないでしょう? もしも私に及ばない点があれば直すように努力するわ。…言ってちょうだい」
すると意外そうに面を上げた青真が…次の瞬間、意地悪い微笑みを浮かべた。
「…全部。あなたの全部が嫌いよ、存在自体が嫌なの!」
「…え?」 子供らしいと言えば子供らしいが。 あまりに直接的な返答だった。 今まで、ここまであからさまに自分が嫌われたことはない。亜樹とは口げんかをする、でもそれはひとつの挨拶みたいなものだ。亜樹もそれを楽しんでからかってくるのだから。でも青真のそれは違う。悪意に満ちている。どうしてなのか多奈には分からなかった。
すると青真は思い切ったように刺し物の道具をテーブルに置き、じっとこちらを見た。
「…お兄様は、おかわいそうだわ。多岐様のご命令だから仕方なくあなたをお嫁さまに頂いたのよ…多岐様と青の民のために、犠牲になられたのよ…? お兄様には…大切な…夢があったのに…」 「……」 「あなたは…よそ者のあなたはご存じないでしょうけど! 普通、香料の耕地の仕事は夫婦で行うのよ? お兄様以外の既婚者の方は皆仲良くお務めしているわ…あなたは耕地にだってほどんど行かないんでしょう? そんなことも知らなかったでしょうね? お兄様はお嫁さまと…二人で舞夕花を育てて、最高の香料を作ることを願っていらしゃったわ…それを…あなたなんかが…」
…知らなかった、誰も教えてくれなかったじゃないか? そうならそうと…どうして先に言ってくれなかったんだ…お祖父様は…ご存じなかったのだろうか? そんな…大切なことを。
驚く多奈に、更に追い打ちをかけるように青真の言葉が飛んだ。 「…お兄様は…私と…私と一緒になるはずだったのよ? 私がお兄様のお嫁さまになって、一緒に夢を叶えようと…そう言って下さっていたのに。本当なら、この夏に私たちは祝言を挙げるはずだったのよ!!」 ぐらりと、地面が揺らいだ。慌ててテーブルに手をつく。
「…私、知っているんだから…」 「…え? 何…?」 「多奈様、亜樹様と沙羅様の御子の乳母になりたくて…それで慌てて結婚しようとしたんでしょう? 多岐様に頼み込んで」
何故? どうして、それを知っているの?
「どこで誰が聞いているのか分からないのよ。お兄様がもしこのことをお知りになったら、どうなさるかしらね。きっとどんなにかあなたを軽蔑なさるでしょうよ。まあ、自業自得と…そう言うことでしょうけど」 「あなた…一体何を…」 怖かった、目の前の少女が本当に怖かった。そして…もう、どうしていいのか分からなかった。 「お兄様を返してよ! あなたの欲しいのは乳母になる身体だけでしょう? 子供を産めば乳は出るわ、おなかの子はお兄様の子ですもの、私が育ててあげる…」 「い…やよ、嫌よ! そんな…」 そんなの、駄目! この子は私の子なんだから…青汰がくれた命なんだから…。
…ぱあん!! 自分で何が起こったのか…分からなかった。次の瞬間、頬を押さえた青真がこちらを睨んでるのが見えた。信じられないほど、体中が波打っている。頭がぐらぐらする。 「…ち、ちょっと、二人とも?」 いつから聞いていたのだろう、慌てた沙羅が二人の間に割って入ってきた。多奈はそんな女主人を大きく肩で息をしながら見た。
その時…ためらいがちに、戸口の方から声がした。 「…あの。青真…? …多奈さん?」
ゆっくりと、声の方向を見た。 驚いて目を見開いた、青汰が立っている…その胸に…頬を押さえた少女が飛び込んでいく。
やがて、青汰は腕の中の青真に何か囁くと、こちらに向き直った。そして憮然とした表情でこう言った。 「…多奈さん? こういう教え方はないでしょう? ちょっと、ひどいよ…」 言葉を返す気力もなかった。両手で口元を覆うと、どっと涙が溢れてきた。
そのまま、二人の脇をすり抜けて。どこをどう走ったのか分からない。 自分の心がずたずたに引きちぎられて、それでも、それでも…消せない想いがあった。自分を支えていた足元の土がみんな崩れても…それでも叶えたい希望がある。自分はとてつもなく馬鹿だと思った。こういう結果になるのは当然だった。 …なのに…。
………
灯りも付けないままの闇の中。気付くと自宅の寝台の上に横になっていた。 結局はここしか戻るところがなかったのだ。身重の体を庇えば、無理することも出来ない。時折、元気良くおなかを蹴られる。この子だけは、守りたい。元気に産んでやりたい…青汰の子だから。嘘でもいい、偽りでもいい、青汰に愛された証なのだから。 青汰の声は、ホッとした安堵の色だった。灯りが付いていない部屋を見て、一瞬どきりとしたのかも知れない。
重ねを頭まで被ったまま、返事をすることも出来なかった。
「…戻っているんなら、良かった。…これから天候が荒れると言うから、ちょっと耕地の点検に行ってくる。きっと覆いをかけなくちゃならないと思うんだ。あの…戻ったら、ちゃんと話を―」
ふわりと。 重ねの上から、手のひらの感触がした。それだけで泣きたくなる。でもかろうじて声を殺して耐えた。
「…いってくるね?」
青汰の気配が部屋から消えると…ゆっくりと起きあがった。身体が石のように重い。でも自分の身体に鞭を打つように寝台を出る。草履を履くと、上掛けを手にした。
………
燭台もすぐに吹き消されて役に立たない。落ち葉が舞い上がって頬に当たる。それほど気の流れが激しいのだ。正面からうねってくる強い気流。目も開けられない勢い…袖も衣も…髪も全てが後ろに引かれていく。でも、ただ一つの場所を目指して、ひたすらに歩いた。
耕地では何人かの人影が忙しく作業を行っている。 吹きさらしの東の先は特に気流の流れが激しく変わりやすいところだ。しかし、舞夕花を美しく育てるためにはこの寒暖の差が不可欠なのだと言う。最高のものを産出するための困難…自分たちが吹き飛んでしまいそうな気の中で、必死に作業をする者たち。 遠目で必死に愛しい人の姿を探す。人々に指示を与えながら、忙しく走り回る姿が目に飛び込んできた。
…青汰…。
もしかしたら、青真が来ているかもと思ったが、それはなかった。胸をなでおろす。 やがて、向こうが多奈の存在に気付いた。驚いて、自分の目を疑っている表情。皆にいくつか指示すると、足早にこちらに走ってきた。
「…多奈さん…どうして!」 両肩を強く掴まれる。多奈は道すがら、何度も何度も繰り返して来た言葉をそのまま告げた。 「…耕地のお務めは夫婦でするものだと聞きました。私はあなたの妻です…お手伝いをさせてくださいまし…」 しっかり束ねて置いたはずの髪が乱れて舞い上がる。震える唇で、かろうじてそれだけ口にした。 「そんな、無理だよ。素人に出来る仕事じゃないんだ、足場も悪いし…すぐ終わるから、ね、戻っていて…」 「…嫌です!!」 「…妻らしいことを…させてください。私はあなたに何もして差し上げてない…本当に頂くばかりで。どんなことでもいいです、お手伝いを―」 「駄目だよ!! 君は、多奈さんは普通の身体じゃないでしょう? 赤さんに何かあったらどうするんだよ!? …我が儘言わないで…」 「子供は、大丈夫だから! …お願いだから!」 「多奈さん!!」 次の瞬間。 左の頬が火を噴いた。信じられなかった、慌てて顔を上げると青汰は別の人みたいに怖い顔をしていた。 「…あお…」 つい、と視線が逸らされる。背中を押されて、大きな木の幹の所まで連れて行かれた。 「一人で帰すのも心配だから、ちょっと待っていて。程なく終わるから…ちゃんとここにいるんだよ?」 緊張が一気に解けて、膝からがくんと落ちた。 何度も振り返りながら、戻っていく背中。全てが終わった、そんな気がした。青汰が手の届かない遠く遠くに行ってしまった気がして…意識まで遠くなっていった。 |