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遠くで気流のうねる音がする。ごうごうと、地の底からうねり来る声。ガサガサと舞い上がる音、哀しい悲鳴のような突風…。 瞼の裏側に、めまぐるしく、自分の体験した自然の姿が浮かんでは消えた。もう泣くこともなかった。人間はあまりに絶望が強いともう何も考えられなくなってしまうのかも知れない。
…青真は、夫に何を語ったのだろう。それを考えると絶望的な気分になった。
そもそも、始まり方が普通じゃなかった。 そうなのだ、その通りなのだ。姫様の御子の乳母になりたかった。だから、そのためには早く結婚して、姫様よりも先に子供を産まなければならなかった。 乳母と言っても乳を与えるだけが務めではない。多分、沙羅自身が御子に母乳を与えるだろう。だから乳母は同じ幼子を持つ者としての良き相談相手であれば良い。
本当にそれだけだったはずなのだ。
だから、自分の感情に驚いている。沙羅様よりも、青汰の方が大切で…青汰のために生きたいと願う自分がとても不思議だった。自分がいい加減な気持ちで、相手を選んだのに…愛されたいと思うなんて。 青真を抱きしめる彼を見て、負けたと思った。 あんな風に抱きしめて貰った事なんて、もうずっとなかった。子供が出来て…それ以来、自分の身体に触れようとしない夫。どうして気付かなかったのだろう…? 彼に愛されていると思ったのは錯覚でしかなかったことに。
『…お兄様は、おかわいそうだわ。多岐様のご命令だから仕方なくあなたをお嫁さまに頂いたのよ…多岐様と青の民のために、犠牲になられたのよ…?』 その通りなのかも知れない。青の民が…多奈の嫁入りに伴って、勢力を拡大した。「多の一族」と姻戚関係を結ぶことは本当に大きなことだったのだ。そのために青汰は…決まっていた縁組みを白紙に戻して、自分を娶ることにした。それだけだったのだ。
『あなたなんて…あなたの事なんて…お兄様はこれっぽっちも愛してなんかない! 仕方なくお世話してるんだから…』
馬鹿だったと思う、愛して欲しいだなんて。自分が好きになったから、相手にもそれを求めるのは間違いだっただろう。
青汰は…しとねで自分を抱いている瞬間に、何を思っていたのだろうか? この、おなかの子供のことは…愛してくれているのだろうか? 本当なら、青真と自分の間に産まれた子を自分の、青の民の跡取りにしたかったのではないだろうか。
ふわっと、何かに包まれた。重く閉じたままの瞼がすぐには開かない。舞夕花の爽やかな香りが鼻を突く…自分の頬を柔らかいものがそっと触れていく。 「…起きて、多奈さん」 「青汰…」
新しい涙が頬を伝う。自分の腕を青汰の脇の下に滑り込ませて、存在を確かめるために強くかき抱く。 「私…青汰のことが好きなの、大好きなの…青汰と一緒にいたかったの…青汰がいないと…」 …駄目なの。青汰じゃないと。そう言いたかったけど、喉が詰まって言葉が出てこなかった。 「うん、それは知ってる。多奈さんは俺のこと、好きだって。好きでいてくれてるって…いつも思ってたよ?」 抱きすくめて貰うにはおなかが邪魔だ。首に腕を回されて、青汰の胸に額を押し当てる。随分リアルな夢である。 「だから、帰ろう? 耕地の方はもう大丈夫だから」
「…え?」 「多奈さん?」 …何なんだ? これは…もしかして? これは夢じゃなくて、本物の青汰? …嘘でしょう?
ぐらり、身体が揺らいで、木に幹に背中が当たった。この感触もリアルだ。やっぱり、夢じゃないらしい。
「何、ボーっとしているの? こんな嵐の中にいても仕方ないでしょう、早く家に帰ろうよ」
「…帰れないわ!」 「多奈さん? どうしたの…?」 「だって、青汰は私のこと好きじゃないでしょう? お祖父様がおっしゃったから、仕方なく私を貰ってくれたんでしょう…? 本当なら…」
「青真と、祝言を挙げるはずだったって…?」 そう言った青汰はくすくすとおかしそうに笑った。でもそのあと、ふっとすまなそうな微笑みに変わる。 「お后様に…沙羅様にお話を聞いたよ、随分あいつが迷惑かけたんだってね…もっと早くに言ってくれれば良かったのに」 その言葉に多奈は黙って俯いた。 「俺さ、ハタチまでにはお嫁さまを迎えろって言われてて。以前から青真はその気だったらしいんだけど…年も離れているし、どうかなと思っていたんだ。夏が誕生月だからあいつの方はそう信じきっていたみたいだね。でも多奈さんに当たるなんて、おかしいよね」 それでも。 青真の目は真剣だった。自分と同じくらい、真剣だと思った。笑っていいことじゃないと思う。もしも自分が彼女の立場だったら、同じようにしたかも知れない。 「それに…多岐様の申し出だからって、俺が断れないって事はないんだよ? 多岐様、最初におっしゃったよ、多奈さんは沙羅様にお仕えしてる身で…普通の夫婦のようには行かないって、それでもいいかって…」 「でも、青汰には夢が…」 夫婦で一緒に香料の耕地を守る…二人で助け合って、最高の香料を…。 「そうだよね」 「でも、多奈さんならいいかなって、そう思ったんだ」
…え?
多奈は信じられない心持ちで、夫の姿を見た。 「…ね、帰ろう、身体に触るよ…?」
………
「うん、元気よ…」 「俺、一番上の姉上をお産で亡くしてるんだ…」 「離の集落に嫁いで…そのまま。二度とお目にかかれなかった…ああ、赤さんってただごとじゃいかないんだなあってその時、ショックだった」 「…そうなの」
「ねえ、青汰。赤さんと…私と、どっちが大切?」 言ってしまってから、しまったと思う。凄く変な質問だった。
それなのに。 青汰は何だか嬉しそうに笑って、多奈を抱き寄せた。 「…赤さんには悪いけど。多奈さん、赤さんはまた作れるかも知れないけど…多奈さんは一人しかいないんだよ? どっちが大切かなんて…愚問だと、思うな…」 耳に青汰の鼓動が響く。それが何だかいつもより早い気がする。ずっとずっと早い気がする。 「まずいんだよな…」 「こうやって、多奈さんに触っちゃうと…その次に行きたくなっちゃうんだ」 「え…?」 「いいのに…」 「おなかに赤さんいたって、大丈夫よ? …つぶさないように気を付けてくれれば…」
………
「着物…汚れたね…」 嵐の中の気は地から砂埃が舞い上がり、生地の中に入り込んでいる。 「俺の上掛け…もう駄目だな…色が薄いから、黒っぽく見える…」 これからどんどん寒くなる。外歩きの上着になる上掛けは、これからの季節、なくてはならないものだった。 「あの、…なら、これを」 「お正月用に作ったの、少し早いんだけど、もしも気に入ってくださったら…」 「へえ…凄い…」 「暖かいね…なのに、とても軽いや…」 はしゃぐ姿。鼻の奥がツンとした。嬉しい、がじんわりと胸から身体全体に広がってくる。 「真綿を使ったの、軽いけど暖かいから…文様の方も、派手じゃない? いつもお屋敷で王族の方のものばかり刺しているから勝手が分からなくて…」 耳の先まで赤くなってしまう。 青汰はそんな多奈をゆっくりと見つめて、肩から上掛けを取る。それを椅子の背にかけると、多奈の隣りに座った。 「多奈さんは…やっぱり、すごいお嫁さまかも知れないね…でも」 遠目に刺し文様を見つめて、言った。 「…多奈さん、何がそんなに悲しかったの…?」
「…え?」 「何で、そんなこと言うの?」
すると、青汰は当たり前じゃない? と言うように多奈を見つめた。 「…だって、針目が泣いてるよ? 何だか寂しそうだもの…」
針目から、刺した人間の心内が分かるのは、その道の熟練だけだと思っていた。どうして刺し物などしない青汰にそれが分かるんだろう…? 呆然としている身体がふわりと引き寄せられる。そのまま胸の中に抱きしめられた。 心の中で、がんじがらめにこんがらがっていた糸が、嘘のようにするすると解けていく。 「…夜、青汰がいないんだもの…一人で心細くて、とても寂しかったの…」 「ごめんね…」 「年末、たくさんお務めをして…その代わり、年明けからは出来るだけ夜出ないようにして貰おうと思っていたんだ。産み月が近くなったら…やっぱり心配だから。多奈さん、頑張りやだから…口で何もいってくれないから分からないよ。随分ため込んでいたんだ」 「あの…刺し直した方がいい? 悲しい上掛けは嫌よね…」 急に不安になってきた。やっぱり申し訳ない。出来ることなら、もっと優しい気持ちで仕上げたいし…。そう言いながら、青汰を見上げた。 「ううん、多奈さんの気持ちが詰まっているから、このままでいい…」 顎にすっと手が伸びてくる。久しぶりでくすぐったい。目を閉じると…青汰が優しく吸い付いてきた。その首に腕を回す。青汰の片手は多奈の背中に回り、もう一方はするするっと長袴の帯を解く。 「本当に…大丈夫かなあ…」 口ではそう言いながら、もうその手は小袖と肌着の下になめらかに入ってくる。 何度も何度も唇が触れ合い、やがて深く差し込ませ…それに気を取られている間に、すっかり衣ははがされている。露わにされた肌を夜の気がひんやりとなでた。 「…あんまり、見ないで。恥ずかしいから…」 「…どうして…? こんなにきれいだよ」 「…赤さん…? 少しの間、大人しくしていて…多奈さんを貸してね?」 つうっと涙が頬を流れた。悲しいのではない、嬉しくて。 もう、どうでもいいと、そう言う気持ちになった。自分がどんな人間であると言うことよりも。多のお嫁さまであるとか、そう言うことはもういい。私は私なんだ…青汰が好きな、ただの女子なんだ。 胸をまさぐられる。舌で転がされて吸い上げられて。その後、口を離した青汰が、くすりと笑った。 「…なあに?」 「まだ出てこないんだなあって、思ったから…」 「やだ、もう!!」 「…怒った?」 「…好きだよ、多奈…」 そうなんだ、疑わなくていいんだ。信じていればいいんだ…久しぶりの行為は勝手が違ったし、少し怖かったけど。それでも心が満たされる幸せの方が大きかった。
………
「…ねえ、青汰?」 「どうして、私があなたのことを好きだって思ったの? 何で分かったの?」 「え? …だって」 「初めの頃、多奈さんとても震えていて…でも、止めてって言わないから…怖くても受け入れてくれようとしているのかなあって。それが凄く嬉しかったんだ…」 …なんだ、そうだったのか。 多奈も何だかおかしくて声を立てて笑った。 あの頃はそんな悠長なこと考えてる暇なかったのに。ただ、こんなこと早く終わらないかなあと考えていたのに…そんな、きれいな誤解をしてくれていたのだ。そう言うものなのかも知れない、夫婦なんて…全ての心が通じるものじゃない。でも…やっぱりあったかいし、幸せだ。 「…私。やっぱり、あの染料でお着物、作ろうかな…」 「そう?」 青汰の育てた舞夕花…その香液で染め上げた衣なら、青汰の心がそのまま伝わる気がする。
目を閉じて。次の春を思う。 自分は薄紫の重ねを着て…傍らに青汰がいて。そして腕の中に小さな赤さんがいて… Fin(20020222) ◇あとがき◇ イロモノ作家の…極み? まさか妊婦でこういう展開にしてしまうとは。じじばばのキスシーンよりある意味怖いです。本当に何でもアリなんですね…AVみたい(←おい?)。 多奈の性格。ついて来られましたか? もしも理解できない方は申し訳ありません。この子は作者と同じ行動パターンをしてます。いい加減に見切り発進します…あとでどつぼにはまりますね〜。本当にずっと書きたかったお話なので、嬉しいです。 イロモノ作家・広瀬…作品コンセプトは「100歳になっても、ダンナとらぶらぶまっしぐら♪」あんまりやると皆さんが引いていきそうなので、しばらくは普通のお話を書こうと思います(…苦笑)。 |