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離れている間、ふたりの間を繋ぐものは時折交わす文だけだった。 文使いに頼むと、どんなに遠くの土地でも届けてくれる。ただし、早馬を使うとその分金を多く支払わなければならない。頻繁にやり取りするためには、たとえ半月戻ってこなくても、普通の使いを頼むしかなかった。 ――元気にやっております。どうぞ、ご心配なさらないで。こちらでは珍しい花がたくさん咲きます、先日も花びらの色がひとつの花の中で違っているという不思議な花を見ました… 手習いは多矢がつけたのだが、それにしても美しい文字だった。指で手のひらに書く文字では、たどたどしく想いを短い単語で伝えてくる少女が、文になるといきなり大人びる。まるで違った姿を見せつけられた様な気がしてしまう。 綺麗な薄様紙にしたためられた言葉が嬉しくて、肌身離さず持ち歩いた。もしもそんな自分の行動がまた人目に触れたら、何と言いふらされるであろう。だが、人になんと言われようと、父になんとたしなめられようと、多杖を見限ることなんて出来るはずもない。
あのまま、あの地に残してくることも出来たのに、無理矢理にここまで連れてきてしまった。それは多杖のためと言うよりも自分のための気がしてしまう。 その人のために、と自分に言い聞かせる。その態度自体が傲慢だと言えよう。情けは人のためならず、と言うではないか。そうなのだ、いつでも自分のために、自分の満足のために、人は行動する。
この地に来て5年経っても、多杖はなかなか周囲とうち解けられないままだった。もちろん、相手が臆するせいもある。だが、それだけが原因とも言えない。「あんな辛気くさい者」と第三者から初めて言われた時は本当に驚いた。そんなはずはないと言う言葉を飲み込む。でも、心の中では疑問の念が渦を巻いていた。 『ひとが、こわい』 いつだっただろう。多杖がいつものように、多矢の手を取ってそう記した。その言葉とそれに込められた想いを感じ取って、思わず彼女の顔をのぞき込んだ。すると、多杖は心細そうに揺れる瞳でじっとこちらを見つめていた。 人里を離れて暮らしていても、元々は竜王様の侍従である父が住みかを与えた者だ。「多」の名を与えたところで一族と見なされるわけもないが、それでもないがしろには出来ない。多矢がお務めで余所に出かけてしまえば、他の者が届け物をすることもある。そんなとき、彼女は自分の庵の戸口から少しだけ顔を覗かせて、凍った瞳で相手を見るのだという。 あまりにも人の出入りが激しくなると、多杖は決まって体調を崩し、見舞いに来た多矢に悲しげな目で何かを訴えるのだった。
大人しい性格であったから、そんな父の態度も受け流すことが出来た。もしも、血の気の多い気性だったら、とっくにぶつかり合っていただろう。 ――どうして、そこまでするのか。 もちろん、多の一族の直系としての自分を思わないわけではない。ただ、そこまで否定される理由が分からない。
「ゆくゆくは一族の長となるべき者として…」 「そろそろ良き伴侶を迎えねばならないであろう」 まるで多矢の心の中を覗くように、父は言う。その時に押し黙るしかない自分がとても情けなかった。
*** *** ***
突然声を掛けられて、ハッとする。大切なお務めの最中にもの思いに耽っていた自分にようやく気付いて、多矢は自分の失態を恥じた。
昼餉のあと。 所用があって、南所を訪れてみると部屋はもぬけの殻。あまり慌てて探しては他の者を心配させるだろうと、しばしお帰りをお待ちすることにしたのだ。手にした書物などを眺めているうちに、ついまどろんでしまった。
「あ、…いえ。申し訳ございません、正妃様」 「あらあら、そんなにかしこまらないで。それに、その『正妃様』と言う呼び名もやめてと言ってるでしょう…?」 くすくすと笑い声がこぼれ落ちてくる。静かに面を上げると、そこに佇むのは、多矢がお仕えする次期竜王・亜樹様の正妃・沙羅様であった。ふわりと柔らかい肌色。色白、とひとことに言うが、多矢たち「北の集落」の民の青光りする陶器のような白さとは違う。甘やかな暖かみのある乳白色。明るい薄茶の髪を流れるように床に流し、橙の美しい重ねを羽織って。 「本日は…お体の具合は宜しいのですか? 誰もいないところで、いきなり産気づかれては大変です。外出される時は、必ず伴の者を付けて下さい。そのためにたくさんの侍女や女の童がいるのではないですか」 そう告げながら、お座りになりやすいように椅子の向きを変える。そこにゆっくりと腰を下ろしながら、沙羅様はまた声を立てて笑う。その微かな振動で辺りの気が緩やかに流れ、美しい髪が帯になって流れる。それは、もう一度下に落ちて収まるまで見とれてしまうほど見事だ。 「多矢は心配性ね。そんなことを言っても、昔は遠くの野山までこっそりと探索に行ったじゃないの。野歩きなど慣れているわ」 「それは…そうですが」
このように昔話をされてしまうと、こちらとしても立つ瀬がない。この御方はこうして正妃となる前は、現竜王様の姫君として、ここ竜王の御館の東所の一室で退屈に過ごされていた。元々は明るい御気性であったが、とにかく置かれたお立場が悪い。それでもあまりに息詰まってしまわれた時などは、請われて野歩きのお供をすることもあった。もちろん、竜王様の侍従である多矢の父には内密に。 誰の力も借りずに自由に咲き誇る野の花を見ていらっしゃる時の沙羅様は、御館での様子が嘘のように生き生きとしていた。その明るい笑顔を拝見したくて、危ない橋を渡っていたと言っても過言ではない。もしも行く先で刺客などに襲われたらひとたまりもない。それだけの危険が伴った御方だったのだ。
まるで小さな弟君と妹君が出来たようで、多矢にとっては忙しくも楽しい日々だった。
それが、数年後に亜樹様が元服なさって南所に移られた頃から、様子が変わってくる。沙羅様も塞ぎがちになられ、多矢としても心が痛んだ。 西南の集落と竜王家との確執は聞き及んでいた。沙羅様の母君はこの地とは縁のない「陸」の人間…いわゆる異な者であった。しかも竜王様はその御方をご寵愛なさるあまりに、西南からお輿入れをなさるはずだった大臣のご息女を拒んだのである。このことにより、沙羅様のお立場が微妙になったのだと言えるだろう。 秘密の野歩きはそんな日々のわずかばかりの楽しみであったはずだ。
もちろん、今、目の前にいらっしゃる沙羅様に、そんなかつての影はない。様々な困難はあったが、こうして亜樹様の正妃としての幸せに包まれていらっしゃる。まぶしいほどに大切にされて、程なく初めての御子様もご誕生になるのだ。 「ほら、…見て。綺麗でしょう…」 美しい細帯は、女子たちが髪に飾ったり、草履の鼻緒に使ったりと楽しむものだ。この地では官職に就く男子も髪を後ろで高く結うので、それにも用いる。金や銀の色を配したそれは、多矢の目にも珍しく映る斬新なものであった。 「多杖にお願いしておいたの。だから、取りに行ったのよ」 「もともと織物には優れたもののある子だと思っていたけど、また一段と素晴らしくなったのではないかしら? 西の文化はきっと私たちの想像を超えたものがあるのでしょうね。きっと天性のものなんだわ」 さりげなく仰るそのお言葉に、多矢は違うことを思いながら耳を傾けていた。 「…東の果てまで…、いらっしゃったのですか?」 いくら耕地に人の少ない時期だとは言っても、正妃様がひとりで出歩かれたりしたら、人目に付くのではないか。以前と違い、西南の者たちも沙羅様に面と向かって何かを仕掛けるようなことはなくなったが、油断は禁物だ。それに……。 沙羅様は静かに微笑まれると、言葉を続けた。その御手には光り輝く帯を持ったまま。 「あんなところで、ひとりでいたら可哀想じゃないの。たまには話し相手も必要だわ。あなたはあまり通えないようだし…あの子は人慣れしていないのだから」 静かに告げるその眼差しに、ふうっと悲しげな色が宿る。…そうか、と多矢は思う。この地で、多杖のことを心から思っているのは自分と…そして、畏れ多くも目の前にいるこの正妃様だけだと思う。
多杖を西の果てから連れ帰った時に、誰もが気味悪がって相手にしようとしなかった。そんな中で、沙羅様だけは違っていた。もちろんお立場上、あからさまには出来なかったが、時々お忍びであの庵を訪ねて下さっていたらしい。多杖も他の者は駄目でも、沙羅様だけは大丈夫だった。 それはそうだろう。同じ年頃だった、と言うわけではないはずだ。 沙羅様も多杖も…この地において、異分子的存在に見なされている。いくら高貴なお生まれであっても、母君の身分の低さで沙羅様は微妙なお立場に置かれることが多かった。
多矢にとっても、沙羅様のそんなお気遣いは有り難かった。こんな風に多杖のことを心おきなく話せる相手は他にない。誰もが父を恐れ、気になっても口に出来ないのだ。 「これは…多杖の織ったものなのですか…」 職人の下について技術を習得していたと聞いてはいたが、その品を見たことはなかった。見せてくれと多杖に言っても、恥ずかしがって隠してしまうのだ。 「姫のお道具に使おうかと思っているの…、ほらとても美しいわ」 おなかの御子は姫君ではないかと東の祠のおばばが占ったと言う。それにより、お仕えする者たちからはいくらかの落胆の声が上がったが、どちらにせよご無事に産まれて下されば言うことはない。お側に仕える多矢としてもそれを祈るばかりであった。 漆塗りのお道具に、金糸の帯を重ねる。その細い指先を見つめていた多矢は、この御方の数奇な生い立ちと、それに伴う自分の運命を感じ取っていた。
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何事かと思った。田舎暮らしからいきなり雅やかな場所に出て、右も左も分からない状態。もちろん昼となく夜となく父の部屋に呼ばれ、細々としたこの地の習いを学んでいた。だから父の部屋に出向くことなど当たり前のことなのだ。なのに、何故そのように言い含めるのか。
夜半、就寝の拍子木の音が響き渡る頃。燭台の灯りも暗くなった渡りを隠れるように父の元へ向かった。部屋の奥、窓辺から竜王様の美しい御庭を眺めていた父は振り向くと緊張感を隠せない強ばった笑顔を作った。そして、多矢に酒の入った杯をすすめたのだ。 「今から申すことは、誰にも漏らしてはならぬ。生涯、お前の腹の内に収めるように」 多矢は誰かに後ろから引っ張られたように、ぴりりと緊張した。
里では母とふたりで暮らしていた。多矢の母は何人もいる父の側女(そばめ)のひとりで正妻ではなかった。都暮らしの父は、年に何度しか里に戻らない。そうやって戻った時も、数ある側女の居室を回るので、多矢の母の元に留まるのは滞在中、一晩か二晩だけのことであった。 何度か拝謁した竜王様などは、まるで目もくらむようなお美しさであったが、父もそれほどではないにせよ、多矢にとっては自分とは数段違う地位の人のように思えた。
そんな父が、内密に自分を呼び寄せて杯を交わす。一体何が起こるのだろうと恐ろしくさえなった。ごくり、と息を飲む音が、部屋中に響き渡るほど、気の流れの静かな夜であった。 「これは…私と竜王様だけの話である。他の者には決して話していないことだが……この先、もしものことがあり、沙羅様が亜樹様の正妃の座に就かなくなる事態となるやも知れぬ。その時には、沙羅様にとって生涯心安らかにお過ごしになれるよう、畏れ多くも我が多の一族で御守り申し上げると言うことになっているのだ」 多矢は父の言葉がにわかには信じられなかった。ひとことも漏らさぬよう、細心の注意を払って耳を傾けているつもりであったが、もしや我が耳はまがいごとを聞きつけてはいないだろうか。
――そんなことがあるわけはない。誰もが申しているではないか。現竜王様のただひとりの姫君であらせられる沙羅様は、西南の大臣様のご子息であり次期竜王となることが決まっている亜樹様の正妃の座に就かれるのだ。まあすぐにではない、おふたりともまだまだいたいけなばかりのお年頃。亜樹様が元服を済ませられ、さらに沙羅様が裳着を迎えられて、それからだろうと言われていた。 そして何より。おふたりは本当に仲の宜しい微笑ましいお姿なのだ。どこをどうしたら、父の話のようなことが起こるのか、考えつかない。
その時にどんな目で父を見上げたかは分からない。不審に満ちた目であったのだろうか。そんな多矢の思惑など関係ないように父は話し続けた。 「もしもそのようなことになったとき、沙羅様を表だって御守り申し上げるのは、多矢、お前の役目になる。それを忘れるでないぞ。今後、元服を終えた一族の跡目が妻も迎えずにいると陰口を叩く者があるかも知れぬが、そんなことは軽く受け流せ。…分かったな」 ――何と…? どういうことだろう。父の含みを持たせた言葉は、多矢には容易には感じ取ることの出来ないものだった。何度も頭の中で反芻してようやく気付く。
沙羅様を多の一族にお迎えする……、そしてその時には自分が沙羅様の――。 何と大それたことを。亡き母が聞いたらさぞや仰天なさるだろう。どこまでも思慮深く慎ましやかだった母は、再三の父の願いも聞き入れず、とうとう最後まで都に上がることはなかった。一族の命に流されるままに一生涯を終えた母。その血が多矢には濃く流れているのだ。
父はそれだけ話し終えると、今夜は遅いからもう寮に戻って休めと言った。 それきり、この話は二度と父の口から出ることはなかった。しかし、同じ年頃の者たちがつぎつぎに妻を娶り所帯を持っていくのに、多矢にはそのように色めいた話が上がることはなかった。
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もちろん、沙羅様ご自身も父と竜王様のやりとりなどご存じのはずもない。自分などはお仕えする者のひとりとしてしか認識されていないだろう。なにより、沙羅様のお心には亜樹様おひとりが住まわれていたのだから。 もうすぐお迎えする御子の話を満開の花のような笑顔で話される。そんなお姿を見ることが出来て本当に良かったと思う。しかし…父はどうであろう。一族の栄えとなるならば、姫君様の御降嫁が執り行われた方が良かったと今でも思っているのではなかろうか。
「何か、難しい顔をしているわ。そんなに今年の夏の役職入れ替えは大変? …殿もなかなか東所の父上の元からお戻りにならないんですもの。私、退屈だわ」 また、もの思いに耽ってしまったらしい。気づくと自分の鼻先まで沙羅様のお顔が近づいていて、こちらがハッと気付くと、おかしそうにお笑いになる。 「殿」…とは、他の誰でもない、亜樹様のことだ。最初は恥ずかしそうにその呼び名を使っていたが、このごろでは当たり前になった。それがお輿入れして1年の時が流れたと言うことなのだろう。 「亜樹様はそれはそれは張り切っていらっしゃいますよ。御父君になられることが本当に嬉しいご様子で」 どんな風に言えば、沙羅様がお喜びになるかもとうに知っている。長い間お仕えして、それは重々に承知していた。そして、…沙羅様がどうしたら一番お幸せになれるかも、分かっていた。
恋と呼べるほどの感情ではなかった。だが、ただの主従関係でもない。そんな複雑な立場を多矢の方だけが承知している。 細く長い道のりを歩むために疲れた心を癒してくれるのは、やはりあの場所だけ。言葉ではない心をくれる東の果ての庵だった。 続く(031024) |