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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 4 …

 

 

 本格的な夏を前に、都は新しいさざめきに満ちていた。海底国に点在する集落からは連日新しい宮仕えの者たちが上ってくる。仕事の引き継ぎなどがあるため、入れ替えが一斉に行われると都は人々で溢れてしまう。よってそれぞれの役所(やくどころ)ごとに期間を決めて、順々に行うようにされていた。

 次期竜王・亜樹様の側近として、多矢も次から次から飛び込んでくる雑務に追われて、気付くと寝の刻まで押しやられていることもしばしばだった。

 

*** *** ***

 

 そんな多忙な中のある昼下がりのことであった。

 休憩を終え、お務めに戻ろうとした多矢の元に埜火(ノビ)が慌てた様子でやってきた。いつもそばに置き世話をしているあの少年だ。遠目でも分かるほどに取り乱し、顔も真っ青であった。父・多岐が自分を探していると聞いて、侍従の寄り所の奥にある彼の部屋まで急ぐ。そこで待っていたのは、厳しい表情の人であった。

「これは……どういうことだね?」

 手渡された文書に目を通して、一瞬頭の中が真っ白になった。――まさか、そんなことが。

 

 この朝からもこなしきれないほどの仕事を抱えて、昼餉までは座る暇もなかった。今年の人事に渡っては、亜樹様が采配を振るわれている。と言うことは表だって対処するのはお付きの者である多矢の役目になっていた。もちろん、現竜王の華繻那様や目の前にいるその一の侍従の父が、後ろから支えてくれてはいる。だが、亜樹様に任されたとあらば、その責任までこちらで負うことになるのだ。
 華繻那様はまだまだ退位をお考えになるにはお歳が若すぎる様に思える。しかし、亜樹様にいよいよお世継ぎ様ご誕生となろうという今、御自らが代替わりを強く望んでおられるのだ。考えてみれば一の侍従と言われる父ももう老齢の域に入っている。いつまでも甘えてばかりはいられないのだ。

 

 自分に課せられた責務は重々承知していた。その上で出来る限りのお務めで期待に応えようと頑張ってきたのだ。しかし……この状況は何としたことか。

「あのっ、……父上。これは何かの間違いでは? 私の記憶ではここは五十ではなく十五と記したと――」

 こんな時に返答返しなど論外だとは知っていた。でも、どうしても、言い返さずにはいられなかった。いくら忙しかったとは言っても、この文書の下書きをしたためたのはほんの半月前だ。どのように綴ったのかもきちんと覚えがある。

「今更、何を言う」
 しかし。父はぴしゃりとはねつけてきた。まあ、彼の態度ももっともだと思う。あってはならないことだ、どうしてこのような事態になったのか分からない。

「言い訳など、聞きたくない。事がこのように大きくなってしまったのだ。聞けば、これを清書したのはそこにいる埜火だと言うでないか。どうして、もう一度、きちんと改めてみなかったのだ?」

「そっ…、それはっ……! …ですからっ…」

 言葉に詰まりながら、ちらと斜め後方を見る。自分がここに来る前にまずは彼が先に呼ばれたのだろう。そしてこの竜王様一の侍従に厳しく問いただされたに違いない。まだまだ装束も身体に合わないほどの頼りない姿で、埜火はすっかりとうなだれていた。今にも泣き出しそうだ。

 責め立てるのは良策ではないと悟った。父の言う通りだ、起こってしまったことをあれこれと議論しても仕方ない。早急にこの先のことを考えねばならない。

 

 十五名を五十名と誤って記してしまった――、一言で言えば、それだけのことだ。文面上の事なら修正すれば済む。だがもはや、この数はそれだけのものではないのだ。

 父が問いただしてきたのは、各集落に送った文書。今年の最終的な宮仕えの人数を記したものだった。集落の広さやそこに住まう人々の数、そして今までの都での功績などから、毎年その数は変わっていく。全体の人数をいたずらに増やすことは出来ないので、一番気を遣うところになる。
 問題の文書は、南峰の集落の、ある地区に送られたもの。そこを治める村長(むらおさ)に向けたものだった。僻地ではあるが、玻璃の多く産出される土地柄で栄えており、都での評判も良かった。昨年はそこから二十人を募ったが、今年は他の地区との兼ね合いもあり、五人削らなくてはならなかった。
 増やす分には楽なのだが、一度増えた人数を減らすのには気を遣う。それようの文面を用意して、埜火とふたりで手分けして書いていたが、どうしてこのようなことになったのだろう。

 

「こちらに村長からの書状がある。いきなりの増員に驚いて、まず三十人まで用意した。だがあとの二十名については今しばらく猶予を頂きたい、とあった」

 父は厳しい表情を崩さず、明確な数字を述べた。それを聞いて、震え上がったのは多矢ではなくて埜火の方だった。ひぃっ、と声を上げて、なおも額を床にすりつけている。

 

 数字だけを聞いても、あまりに事が大きすぎる。にわかには考えも浮かばない。ただ、事実としてあるのは十五の定員に今の段階で三十の人間が上がってきてしまっていると言うことだ。しかも、今もかの地では新たな人員を募っているに違いない。まあ、ギリギリまで増やせても五人が限度だろう。過剰分の十人と、まだこちらには向かっていない二十人を、取り消すためにどうにかしなくてはならない。

 今年だけでもこれまでに、ふたり、三人の人数を減らしたことで、該当の集落の人間から嫌味を言われたり、理由をきちんとするように問いただされたりしてきた。皆、ひとりでも多くの人間を都に送りたいと思っている。宮仕えの多い集落はそれだけ栄えていると見なされるのだ。だからこそ、躍起になる。

 ――それが、いきなりこんなことになるとは。

 混乱した頭をかろうじて整理しながら、多矢はこれからの策を練っていた。もちろん、仕事上では上役にある父・多岐には親子ではあるが跪き、礼を尽くした姿勢で。

 

 南峰の……崗(おか)と呼ばれる地区の村長。多矢も何度か顔を合わせ、面識のある人だった。南峰の民の温厚でおおらかな気質そのままの彼は、穏やかで他の者たちが騒ぎ立てるような場面でもおっとりと構えている。聞けば、まだ見習い官僚であった頃の父とは寮でも一緒になったことのある古なじみだと言う。

 気むずかしい気性の者に比べれば、幾分扱いは楽だろう。だが、そうは言っても、今回のような場面ではどうなることか。南峰の民はおおらかであるが、その一方で規律をしっかり守る生真面目な一面もある。自分に厳しい者は他人も容赦しない。人間なんてそんなものだ。
 もしかすると、西南の集落の民のように血の気の多く逆上しやすい輩の方が扱いは楽かも知れない。そう言う人間の方が根は単純なのだから。

 

「まずはお詫びを入れなければなりませんが……早馬の書状で宜しいでしょうか?」

 自分ひとりでは考えがまとまらない。相手をよく知っている父に考えを聞くしかないだろう。自分で出した結論を、口にし、答えを待った。ここはまず、何よりも先に詫びを入れなければならない。その文面も十分練り込む必要があるが、かといっていたずらに時間を掛けられるものでもないだろう。

「何を申す、そのような甘い考えで済むと思っているのかっ!?」

 だが、父・多岐は厳しい表情を崩すこともなく、言った。多矢はハッとして顔を上げて、その顔をまじまじと見る。このごろ、ようやくしっかりと見つめることが出来るようになった。だが、この人を父と認識するには未だに遠すぎる。お互いの間には確立した主従関係があり、それを突き崩すことは一生を掛けても無理だと思う。

「この文書は、亜樹様の御名を頂いていると言うことを忘れたのか? 亜樹様の印のあるものは、亜樹様のお言葉として通されるのだ。お前たち下の者の過ちも、全て亜樹様が被ることになるのだぞ?」

 

 その通りであった。だが、詫び状で済まないなら、どうしろと? ……まさか。

 

「即刻、南峰の崗まで、馬を走らせろ。お前の腕を持ってすれば、容易いことだ。こちらでの人事の雑務など、他の者に任せれば良い。ここはお前自身が最高の誠意を尽くすしかないだろう」

 父の言葉は、聞く前に予想が付いた。さもあろう、こちらが心底詫びているとはっきりと示すには、直接頭を下げに行くしかない。だが……近場ならともかく、南峰は遠い。更に奥まった地であれば、なおさらだ。馬を飛ばしても、往復に数日は掛かる。まあ、考えている暇もないのだ。こう言うことは早いほうがいい。

「お前はすぐに支度をしろ。亜樹様には私からお伝えしておく。お前が出立するまでに詫び状を用意しておくから急ぐのだ」

 

*** *** ***


 どうして。何故このようなことが起こるのだ。

 いくら思い起こしても、分からなかった。確かに忙しかった。細かい人数の配分だけでも気を遣ったのに、さらに一通ずつ書状をしたためて。とても自分ひとりの手には負えず、かといってあまり大勢でやれば収拾が付かなくなる。それに口の軽い人間が色々と情報を流してしまうとも考えられる。
 幸い、埜火は北の集落の習いで幼い頃から習字に親しんでいた。都に上がってきた時、冴えない村の少年が流麗な毛筆をしたためるのに驚いた。だから今回清書の折に手を借りたのだ。

 ――だが、やはり……疲れていたのだろうか。何か手落ちがあったに違いない。人事にも区切りがついた。最後まで残っていた上役の顔も出そろった。これでようやく一息つくことが出来て、ゆっくり出来ると思っていた矢先のことであった。

 あまり取り乱したりしては、傍らで肩を落としてうなだれる埜火がますます落ち込むだろう。父の部屋を退出して、ふたりきりになってからも、彼は余りの落ち込みようのためか声も出ない様子であった。気を落とさずに、留守の間宜しく頼む……静かにそう言って彼を仕事に戻した。かの地にはひとりで行くべきだと思っていたし、埜火の手綱さばきではかえって時間を取ってしまう。

 

 途中、厩に寄り、遠乗りに耐える馬を用意するように頼んだ。幸い、丁度いいものがあると聞き、ホッとする。
 自分の部屋に戻り、手早く荷造りした。男の旅支度などあっという間に終わる。荷をまとめるとそれを寮に残したまま、多矢は亜樹様の元へではなく、東に足を向けていた。

 

*** *** ***


 日に日に夏色が濃くなっていく東の果て。日の高い時間に、彼女は外に出ることは少ない。薄い気を通り越して肌を刺す光が毒なのだと聞いた。何もかもが壊れやすく出来ているのか。神に近い民だと言ういわれはそんなところから来ているのかも知れない。

 開け放った窓から、淡い色の布が見え隠れし、裏のかまどから細く煙が上がっている。小さな庵に人の気配がすることを確認しながら、足を進めた。

 

「…多杖?」

 戸口に立って中を伺う。軽やかな機織りの音がすぐに止まり、中からぱたぱたと足音が聞こえた。入り口に掛けられた布を持ち上げて不思議そうにこちらを見る。しかし、彼の前に現れた多杖はすぐに何かに気付いたように悲しげな瞳を揺らした。

「しばらく、また、留守にしなくてはならない。寂しくさせるが、許しておくれ」
 視線を感じながら、ようやくそれだけのことを口にする。それ以上はどうしても言葉にならなかった。

 

 半年ぶりに多杖が戻ってきたのだ。時間が空いたら、あちこち連れて行ってやろうと考えていた。こんな場所に籠もりっぱなしでは、息が詰まるし変わり映えのしない毎日になってしまう。せめて、竜王様の耕地や野をまわり、季節の美しい花を一緒に愛でたかった。
 もちろん、多杖には言葉がない。だが、音にして想いを伝えることが出来なくても、小さな身体の中には溢れんばかりの感性が宿っているのだ。もしも、会話が出来たなら――と、幾度思ったことだろう。たどたどしい手のひらに書いた指文字ではなく。かといって、硯と筆を出して書かねばならない改まった文字でもなく。もっとありふれた手段でふたりの時間を過ごしたかった。

 

『どうしたの ですか』

 いつものように、多杖は静かに多矢の手を取ると、読みやすいようにゆっくりと言葉を指で書いた。そこまでで一度指を止めると、また心配そうにこちらの顔をのぞき込む。彼女がここを離れているうちに身丈が少し伸びて、ふたりの視線が少し近くなっていた。

『たやさま ないている』

「え……?」
 思わず、声を上げていた。何を言い出すんだ、どうして。思わず頬に手を当てて、確認してしまった。自分は泣いてなどいない、それなりに衝撃は受けているが、かといって泣きたいなどと。情けない気分で満たされていても、子供のようにその感情を無邪気に表すことは出来ないと知っていた。

「大丈夫だ、何を言っているの? 私は泣いてなど、いないよ」

 多矢は少女の手を取ると、必死で笑顔を作った。しばらく離ればなれになるのに、別れ際に悲しみなど残したくない。

 だが、多杖はそんな彼をじっと見つめると、大きくかぶりを振った。ふわりふわりと辺りに銀の帯が広がっていく。普通の銀髪よりも色が淡く、頼りない。そんな髪に編み込んだ細い紐の先についた飾り珠がしゃらしゃらと音を立てた。

 

『ちがう たやさま ないてる』
 そう書いた多杖の方が泣き出しそうだった。大きな薄紫の瞳を悲しげに揺らしながら、多矢の旅装束にそっと指を伸ばす。何かの染料に染まったピンクの指が、胸先に届いた。

『ここが ないてる』

 そう指で語って、次の瞬間、その目からぽろぽろと涙をこぼした。

 

「……多杖? どうした?」

 これには多矢の方が慌ててしまった。少女がこのように心を揺らして感情を露わにすることなど少ない。怯えた時に、訳の分からないうなり声を上げながら、泣きじゃくることはあったが、それももうこの何年も見たことのない姿だ。いつでも静かに、自分の心などどちらかに置き忘れてしまったかのように、穏やかであった。

 

『たやさま ないてる。たやさま かなしい』

 綺麗な雫を幾重にもその白い頬に落としながら、彼女は不安げな顔で自分をのぞき込んだ多矢の頬に手のひらを当てた。

『たやさま かなしい。わたし かなしい』

 言葉ではなかった。微かな唇の動き。お互いをよく見ていなかったら、届かない心。

 

「多杖っ……!」

 その瞬間に。がくっと、膝が落ちた。廃材を寄せて作った床に手をつくと、ふたりの位置が変わる。驚いて身をかがめた少女を、知らずに強く抱きしめていた。

「泣いて……くれているのか。私のために、お前は泣いてくれているのだな…?」

 がんじがらめの緊張感がふっと緩んだ。胸に包んだぬくもりが、静かに心を満たしてくれる。自分でも気付かぬうちに、心が渇ききっていた。それも知らずに、自分は張りつめすぎていたのだ。

「多杖……、多杖っ…!」
 すがりつくにはあまりにか細い身体だと思っていた。まだまだ少女のままの、拾ってきたままの小さな存在だと。だが違う、そうではない。月日は幼かった面影を変えていく。こんなにあたたかく、こんなに伸びやかに、そして深い。まるで降り注ぎ辺りを満たしていく天からの光のようだ。

 多杖の腕が、後ろに回る。多矢の背の衣をしっかりとたぐり寄せていた。

 

 ――泣かないで、私がいるから。

 まるで、そんな風に言ってくれてるみたいに。音のない声が、多矢を満たしていく。

 

 こんなふうに取り乱してしまったのは、何も先ほどの事柄があまりに打撃だった為だけではないのだ。今まで、知らずに自分の中に降り積もっていったもの。行き場のない心たち。それがとうとう警戒水位を超えるように溢れそうになっていた。

 竜王様の一の侍従の息子であり、次期竜王様の側近としての立場がある。さらに北の集落の長たる「多の一族」の次期後継者としての重責。何事もそつなくこなす、だが言葉の過ぎない穏やかな気性の持ち主だと誰からも評されていた。主としてお仕えする亜樹様にも絶対的な信頼を寄せられている。身に余る光栄というものだ。
 亜樹様は西南の出身であるから、本来なら同郷の者がこの地位に就くのが妥当だろう。なのに、どうして彼が……という周囲の戸惑いにも気付いていた、当然の事ながら。だがそれは自分の働きで示せばいいことだ。いちいち言い訳するまでもない。

 とても上手くやっているつもりだった。自分としても最良の道を選んでいた。だが、いつも不安でたまらなかった。もしも失敗したらと言う恐怖は始終付きまとっていた。

 それを……一時でも忘れるために、ここを訪れていた気がする。どこか懐かしい風景、小さな頃に見た天の色。どこまでも続く草原。

 

 守られていたのは自分の方だったのかも知れない、支えられていたのはこちらの方だったのだ。ただ、ここにいてくれるだけで、どんなにか安心出来たか。待ってくれる人がいることが、嬉しかった。

 もう……自分をこんな風に待ち望んでくれる人はこの世にいないと、思った瞬間に失ったものが押し寄せてくる。何年ぶりだろう、こんなに心が穏やかに静まるのは。

 

「ああ……行かないと」

 離したくなかった、でも自分で自分に言い聞かせて腕を解く。たっぷりと自分を覆い尽くしていたはずの存在はまた元通り小さな少女に戻っていた。

 だが、今の多矢には分かる。ここにいる娘の奥深さを。悲しみも憂いも全てを包み込んで浄化してくれるような不思議な心を。そして、それに気付いてしまった自分が、何を望んでいるかも。

「出来るだけ、早く戻ろう。そうだ、お前が喜ぶような土産を探してこようね。何がいいだろう、玻璃細工かな、それとも南峰の紅か?」

 そう語る多矢を見ていた娘の目が、ふっと細くなっていく。そして、また静かに首を横に振った。

『なにも いらない』

 短く指文字で返すと、ハッと気付いたように部屋の奥に入っていった。そして、手早く何かを探し当てるとすぐに戻ってくる。

『これを おきをつけて』

 

 手渡されたのは、肘から手の先ほどの長さの細い帯。細かい飾り珠が数え切れぬほど織り込まれている。これほどのものは長い時間を掛けた手作業でなければ施せない技だ。自分の身を災いから守るために、腕や足首に巻き付けて使う。裏に目立たぬようにたくさんの銀糸が織り込んであった。

「お前が、作ってくれたの? 私のために」

 信じられない気分で訊ねると、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。その肩に腕をまわして、もう一度軽く抱きしめた。

「ありがとう、大切にするよ」

 

 想う心が同じ色をしていると知った。だから、もう憂うことはない。二度と得ることの出来ないと思っていた穏やかな心地を、手に入れることが出来たのだから。

続く(031110)

 

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