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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 5 …

 

 

 馬を走らせるためには、ただがむしゃらに鞭を使えばいいというものでもない。人が自分の限界を顧みずに無理をすれば、目的を果たす前に事切れてしまうのと同様に、適度の休息が必要なのだ。

 

 ――とりあえず、3日。

 

 多矢は頭の中でそう計算した。途中の宿場で二晩を過ごせば、明後日の夕刻には目的の地に辿り着くのではないか。厩で用意してもらった馬は若々しく毛並みが素晴らしく良い。その割に注意深く、足場の悪いところでは無理をしないと聞いた。海底国の地理には明るい。街道のことも良く承知していた。もちろん、抜け道なども分かっている。

 

 目が利かなくなるほど辺りを闇が覆い尽くすまで、必死で進んだ。ちらちらと宿場の灯りが見えてくる。休む部屋はすぐに見つかった。竜王様の使者となれば、いつでも宿の手配をしてもらえる。今回も例外ではなかった。

 そんなときも多矢は宿で世話をしてくれる使用人たちの身なりや接待の全てを詳しく観察してしまう。こんなせっぱ詰まった時くらい、お務めのことは忘れたいのにそうも行かない。宿場の民のことをよく知ることも大切なのだ。あまりに民衆がギスギスとゆとりのない暮らしをしていれば、都における政(まつりごと)そのものを見直す必要が出てくる。
 自分は次期竜王・亜樹様の側近だ。いくら優れたお人だとは言っても、亜樹様おひとりでは全てを見渡すことは出来ない。そのために自分は存在する。我が眼は亜樹様のもの、亜樹様の手となり足となって生きる者。何時でも分身のようにこの国全土を見つめ続けなければならない。口で言うのは容易い、だが実際にこなしていくのは大変だ。

 父は……始終こんな想いをして生きてきたのか。

 しとねに横たわっても、疲労した身体に反比例するように、頭だけが妙に冴えている。首から下はどっぷりと眠りの淵に落ちていこうとしているのに、額の辺りだけがはっきりしていて駄目だ。畳の上に低めの台を置き、しとねをしつらえてある。寝台の生活に慣れている身としてはそれも落ち着かない。野営でもしている気分になる。

 

 父との関わりはあまり深くないように思える。まあ、他の目から見れば、そんな風には思えないだろう。公私ともにいつでも近くにいる存在なのだから。

 しかし。

 多矢の中にはどうしても父に対する遠慮があった。もちろん人としての格差もある。父は誰から見ても素晴らしい気質の持ち主であり、竜王様のお近くに仕える他のどんな官僚よりも優れていた。問題はそれを実の息子として「誇らしい」と思うよりもどこか引け目を感じてしまうことだろう。

 最後まで日陰の存在でしかなかった母。穏やかで思慮深い人ではあったが、時折見せる悲しげな横顔に幼い多矢も胸が締め付けられた。

 ……もしも、誠の夫婦(めおと)であらば。

 母は父とはだいぶ年が違っている。ふたりが並んでいてもまるで父娘のようにさえ見えた。使用人たちが噂をしていたのを小耳に挟んだことがある。どうも母は持ち回りで側女(そばめ)を差し出すことになっていた順が里に回ってきたときに、丁度良い歳だったからと言う理由だけで父の元に上がったのだ。
 慣れない多の一族の里に移り住み、いつ戻るかも分からない主を待つ生活。年若くして母が儚く散ってしまったのも当然のことなのかも知れない。もしも泣いて生まれ里に戻りたいと思っても、自分の立場がそれを許さなかった。側女を差し出したことで、村の立場は良くなる。ましてや男君を産んだと言えば、尚更だ。

 近所に暮らす、自分よりもずっと身分の低い民たち。だが、どんなに裕福な生活をして、たくさんの者から宝物の大切にされようと、自分たちは真に幸せではなかったように思える。母だって、添い遂げられる人の元に嫁ぎ、夫婦仲むつまじく暮らしたかったのではないだろうか。

「……お父様は素晴らしい御方ですから。息子として、恥ずかしくないようにしなくてはなりませんよ」

 まるで庭の隅にひっそりと咲く花のように、母はいつでも静かに微笑んでいた。少女のまま時を止めてしまったかのように、その亡骸までも愛らしく、どこかこの世のものではないように見えた。

 父はそれなりに自分のことを評価していてくれるのだと思う。次期の一族の長としての立場を渡してくれようとしていることからもそれが伺える。もともと身分や地位にはあまり重きを置かない人だ。そうでなかったら、他にもいる腹違いの兄たちや、また自分から見れば甥の立場になる父の孫たちの中から選んでくれることはない。

 竜王様の御館にいても「お父君に良く似てこられて……」と言われることがたびたびある。自分ではそうも思わないが、立ち姿や歩き方などが父に通じるらしいのだ。言った相手はきっと誉めようとしてくれているのであろう。だが……多矢としてはそれは微妙に受け止められた。

 ――父のようにはなれない、いやなりたくない。

 そんなこと、とても公言できるものではない。ただひとりとして、多矢のその言葉を聞いた者はいなかった。だが、彼はいつでも父を遠い存在を思うと同時に、相容れない異の者として認識していたのだ。

 ……多杖は、今どうしているのであろう。

 寝返りを打つと腕がしとねに触れて、その存在を思い出す。

 彼の袖の奥の腕には、しっかりと渡された細帯が巻き付けられていた。その裏にびっしりと編み込まれた銀糸が彼女自身の髪であることも、聞かずとも分かった。いつの間に、どこでそんな話を聞いたのだろう。想い人の無事を祈る古来からの伝統だ。伝わってくる滑らかな感触が、かの人のぬくもりを思い起こさせた。

 

 父と自分との隔たりの最たるものが、多杖の存在だろう。頭のいい人だ、とっくに多矢の気持ちなど分かっていたはずだ。多矢ですら気づかなかったこの想いを、父はもっと以前から察していたのではないかとすら思う。まるで手のひらの上で全てを監視されているみたいに。

 ――父は、多杖のどこが気に入らないと言うのだ。面と向かって問う勇気が出なかった。父も多矢のそんな弱さを承知していたのではないか。

 

 だが、もう違う。自分は変わるのだ。

 

 心に芽生えたものは勇気だった。父とは同じでない、自分が望む幸福を得るために彼は大きな決意をしようとしていた。それにより、どんなに困難が待ち受けていようとも、もう恐れることはない。

 ――父が、成し得なかったことをしてやる。そんな想いに、ようやく彼はとろとろと浅い眠りについた。

 

*** *** ***


 翌日は街道を外れ、深い山道を行った。

 山脈の切れ目を通るため大きく迂回する道に比べ、半分以下の距離で済む。ただ、気が薄いのは否めなかったし、足場も悪い。馬の良さに助けられた部分が大きかった。南峰の入り口にある宿に泊まり、夜明けを待って出発した。眩しすぎる南国の日差しに、目眩を覚えたが、休む気にはならなかった。

 北の地とは異なる、鮮やかな風景。濃い緑の草原、くっきりと浮かび上がる山々。きらびやかに心を誘う花たち。その全てがあまりに遠い道のりを来たことを示していた。

 

 ……多杖がいたのは、あの山の裾野か。

 都から離れているので、この地もそれほど気は濃くない。だが、これだけの日差しだ、どんなにか辛かったであろう。だが、彼女はそんなことをひとことも言わなかった。空の青さ、そこに広がる大地の活気に満ちたこと、人々の伸びやかで温かい心。彼女が多矢に伝えてくれた「南峰」の印象はそういうものばかりだった。飾らない暖かな気だての人々に迎えられ、それなりに楽しい日々を送っていたと信じたい。

 馬を休め、草原に腰を下ろすとその場所をゆっくりと眺めた。多杖が過ごした地だと思えば、それだけで親しみを感じる。いつの間にか、あの娘と自分がどこかで繋がっているような気がしてきた。遠く離れていたとしても、たとえふたりを結ぶものがとぎれとぎれの文であったとしても、いつでも近くにいた。

 一服した後、また馬に乗る。ここから目的の村まではまっすぐな一本道だ。早く全てを済ませたい、そして都に戻りたい。これから迎える困難を思うと沈みそうな心をその先の希望で奮い起こし、多矢は手綱を強く握った。

 

*** *** ***


 西の空が鮮やかに焼け、辺りが夕闇に染まる頃、ようやく村はずれの塚まで辿り着く。彼は馬を止めてそこから降りた。

 一目で都からの使者と分かる装束の多矢を、畑仕事から戻る民たちが不思議そうに見守る。そのひとりに声を掛け、村長(むらおさ)の屋敷を訊ねると、快く教えてくれた。

 

 長い道を進み、一番奥まった山の裾にそれはあった。竜をかたどった屋根の瓦などが、やはり異境に来たことを伝えている。ひなびた農村であっても、やはり財があり豊かな暮らしぶりなのだ。山では玻璃も産出されると言うから、それも大きな収入源になっているのだろう。
 誰もが「都へ、都へ」と憧れるが、全てにおいてかの地が優れていると言うわけではない。食事の内容などを見ても、新鮮な食材の調達できる地の方が、よっぽど恵まれていると思う。実際に、南峰の地から上がってきた者は、任期が終わると例外なく里に戻っていく。中には優れた人材もいて引き留めることもあるが、彼らは地位や名誉に頓着しない。

 門番に自分の名を告げる。しばらくここで待つように言われ、その者はさっと中に入っていった。

 

 多矢は迎えの者が来るまで、そこで佇んでいた。門のそばにもたくさんの季節の花が植えられている。ここの主も花が好きなのだろうか、なかなかの風流人なのかも知れない。その中に「玻璃」の花があるのを見つけた。野生種のものであるらしく、多矢が知っているそれよりもかなり小振りだ。

 ……多杖も、これを見たのだろうか?

 そう思うと、まっすぐに伸びたその花の姿までが彼女に見えてきそうだった。

 


「おおう、これはこれは……よくぞおいでくださいました!」

 やがて奥から、草履の音が響いてくる。現れた人の姿を一目見て、多矢は身を固くした。

 満面の笑みを浮かべて招き入れてくれたのは、彼が一番詫びを入れなければならない相手だったのだ。何度か、顔を合わせたことはある。だが、面識はあると言っても、今回は内容が内容だ。この態度から察するに、未だ事実を全く知っていないのだろうか?

 もちろん、決定するのは多矢が運んだ詫び状だ。だが、どこからか噂のようなものは入っていると思っていた。

「ささ、……遠路はるばるありがとうございます。まずは中にお入りください、何もないところですが、どうぞどうぞ……遠慮なさらずに」

 袖を捕まれ、強引に中に引き込まれそうになる。多矢は自分のここに来た理由を十分に心得ているから、どうしてもそれには素直に従うことが出来なかった。失礼にならないように相手の手を解くと、その場に跪いた。

「申し訳ございません、……村長様。私は、このようにして頂く立場ではございません。どうかお気遣いなく……すぐにおいとまいたしますので、まずはこちらをご覧ください」

 決意してここまで来てみたものの、やはり本人を前にしては恐ろしいものがある。どんな風に罵倒されるのであろう、もしかしたらこのような書状は受け取れないと突き返されるのだろうか。

 亜樹様の御名の入った詫び状を懐から出して差し出しながら、多矢は生きた心地もしなかった。

 

 かさり、かさり。しばらくは紙のこすれ合う音だけが庭先の気に溶けていく。

 さらりと薄く軽い気だ。西の果ては同じ薄さでも、もっと湿り気を含んでいた。頬をなでる乾いた流れが、多矢の後ろでまとめた髪をも揺らしていく。目の前にいる父よりは幾分年若い男は、南峰特有の金の髪にそのまま霜を降らしたように美しく白髪に変わっていた。

 

「……そうでありましたか」

 その返事を聞くまでの時間が、永遠にも思えた。だが、その先に何が待っているのか、更に不安が募る。相手の発した思いがけずに穏やかな口調が、多矢を惑わせた。

「このようなことではないかと……最初から思っておりましたよ。どうかお顔をあげてくださいませ、こんな風にわざわざ次期竜王様の側近の方がこうして足を運んでくださるなどと。それだけで、こちらの村の格が上がるというものです」

 その信じられない言葉に、多矢はゆっくりと面を上げた。想像していたような怒りの色は、その人の顔には浮かんでおらず、その代わりに親愛に満ちた暖かさだけが宿っていた。

「そ、それでは……」

 これほど、すんなりとことが運ぶとは思っていなかった。未だに事実を受け止められない多矢に、村長は静かに告げた。

「こちらのことはすぐに手配いたします。なに……どうしても都に上がりたいと息巻いている者など多くはおりません。すぐに納得してくれるでしょう、ご心配には及びませんよ」

 その濃紫の瞳の奥を伺っても、彼の言葉に嘘があるなどとは到底思えない。ただ一通の書状だけで全てが片づいてしまったのだ。これを幸いと呼ぶべきか。

「左様で……でも、本当に宜しいのでしょうか。全てはこちらの不手際に寄ることですから、どうか何なりと仰ってください」

 せっかくここまで来たのだ。こんなにあっさりと許してもらっては、何だか申し訳ない。そう思えてならなかった。姿勢を崩せない多矢に、村長は軽く声を立てて笑った。

「そう……かたくならずとも。聞き及んだ通りの御方だ、なんと慎み深い。ささ、どうぞどうぞ、こちらの希望を聞いてくださるなら、どうか私どものもてなしを受けてくださいませ。何もせずに戻したとあっては、私の顔が立ちません。ここは手前どもを助けると思って、どうかよしなに……」

 村長はさっと振り向くと、そばに控えていた使用人をせき立てる。

「さあさあ、お客人のご到着だ。都から直々にいらっしゃった御方。おもてなしに不足があってはならぬぞ。皆にも良く申しつけなさい」

 

 ここまで言われては、すぐに戻るわけにも行かなかった。どうせ夜も更けていく。一晩世話になって、翌朝戻ればいいじゃないか、それで相手方の気の済むのなら……。あまりこういう席は得意ではないので少し気が重かったが、これも亜樹様のおそばに仕える者としてのお務めかと考え直す。

 屋敷の中へと導かれて、ふと庭先に目をやれば、そこにも色とりどりの花が迎え入れるように咲き誇っていた。だが、それが多矢にはどこかよそよそしく他人行儀に見えていた。

 

*** *** ***


 用意された部屋で、ようやくひとりに戻る。

 誰かがそばにいるときには、それでも気が張りつめているのだが、こうして解放されると急に身体が疲れを思い出す。こざっぱりと片づけられた趣味の良い離れ部屋に通され、世話の下女はそこで帰した。向こうとしては着替えの世話もしようという感じだったが、そんな扱いには慣れていない。かえって、ひとりの方が気楽だ。

 

 燭台にほんのりと浮かび上がった金色の空間。

 きちんとたたまれていた寝着に着替える。袖を通しただけで分かる品物の良さだ。綺麗に裏打ちされたつくりからも、裕福な暮らしぶりが伺えた。ひとり分にしては贅沢すぎる大きさのしとねに腰を下ろす。あぐらをかいて座った状態で瞼を閉じれば、今日のめまぐるしい一日が脳裏に鮮やかに蘇ってきた。

 

 金色の海。それが、南峰の印象だ。この地に来るのは初めてじゃない、亜樹様についてもっと手前の村になら踏み入れたこともある。だが……その時よりも鮮明に、金色の世界が広がっていた。

 南峰の民は金の髪に彫りの深い顔立ち、さらに濃紫の瞳。ミルク色の肌にがっしりした骨格が特徴的だ。何もかもが多矢の生まれ育った北の集落とは対照的になっている。それだけに落ち着かない。

 

 夕餉の宴は思っても見なかったほどの盛大なものであった。

 数々の贅沢な席に招かれていた多矢も、これには我が目を疑ってしまう。宴席に並んだ顔ぶれも村長の親戚縁者が数え切れないほど。まるで新年の宴のようであった。
 その誰もかもが金の髪を揺らしている。きちんと結い上げた者もあれば、垂らしたままの者もある。村長は珍しい都からの客を方々に紹介して回ったが、途中からは名前を聞いても顔を見ても覚えられなくなっていた。

 並んだ食事も、振る舞われた酒も今まで口にしたこともないような豪勢なものだった。それを口に運びながら、多矢は都に残してきた者たちのことを思って、申し訳なくてならなかった。

 

 埜火(ノビ)はどんなにか辛い夜を過ごしているだろう。あんなに父にきつく言われて、もう里に戻ると言い出すかも知れない。

 それに、多杖は……どんなにか胸を痛めているであろう。こちらの憔悴しきった姿を見ただけで、言葉を交わす間もなく、全てを察してくれた。出来ることなら、大事がなかったことをすぐに伝えたい。こんなところでのんびりしている暇もない、早く戻りたい。

 

 だが……、明朝の出立を告げると、村長はにわかに表情を暗くした。

「そのように、そそくさと戻られては困ります。どうでしょう、これを機に、南峰を深く見て回られるのもいかがなものですか? 何でしたら、私もご一緒いたしましょう。珍しい玻璃の発掘の様子などもご覧頂ければと思います。都の竜王様にもいい土産話が出来るというものです……」

 

 強く出られると、どうしても言いくるめられてしまうのが多矢の弱いところだ。こんな風に自分がないと言うのも良くない。もう少し主体性を持たないと、これからの任務を渡っていけないではないか。だが、こちらにも引け目がある。皺だらけの手の男にこんな風に引き留められて、決心がぐらりと揺れた。

 しかし、まだ残してきた仕事がある。それを片づけなければゆっくりなどしておれないのだ。思いがけずに厄介ごとが早く片づいてしまったため、多矢の心はもう都の方角に向いていた。

 


 さあ、……もう休もうか。

 そう思って、しとねの上に置かれた上掛けに手を掛けたとき。にわかに気の流れが変わったことに気づいた。つうっと燭台の炎があちらへ流れていく。

 何事か。

 そう思って振り向いた多矢は、次の瞬間、さっと顔色を変えた。

続く(031202)

 

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