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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 6 …

 

 

 ――これは、一体、どういう……?

 

 すぐにそう問いかけなくてはならなかったのかも知れない。だが、こちらが言葉に詰まっているその間に、音もなく開かれた戸を後ろで戻し、白い影は音もなく近づいてきた。あたかもそれが当たり前の行為のように少しの迷いも感じられない。

 

「あなたは……」

 顔を伺える距離まで来たとき、ようやく声を上げることが出来た。多矢の言葉ににっこりと微笑んだ人が、静かに傍らに座る。跪く、のではなくて、きちんと正座して姿勢を落とす。畳での生活ではこんな風に礼を尽くすのだ。まとめられていない髪が、さらさらと金の流れになって、辺りに漂った。

 ――この女子(おなご)は……。

 酒宴の席で酔いは回っていたが、それでも覚えがあった。この娘はこの館の主・村長の末娘だと聞いた気がする。それとはなしに紹介されたが、この後も自分の隣にぴったりと座して、かいがいしく世話をしてくれた。健康的なピンク色の頬が良く動き、軽やかに様々な問いかけをするのが少しばかりうるさくも感じたが、村長の手前、邪険にすることも出来なかった。

 間違いはない、その娘だ。だが……どうして?

 あるはずのない事態に、多矢は何度も瞬きをして額に手を当てた。自分ではそれほど酔った心地もなかったが、もしかしたら慣れない地酒で悪酔いしているのかも知れない。そう思ったのだ。

 年若い娘が、男の寝所に足を踏み入れるなど。これでは渡りの遊女と同じではないか。そう思って、穴が開くほどその顔を見つめてみたが、相手はただ微笑むばかりだった。

「嬉しゅうございますわ」

 幻影だと信じたい人は、それでもはっきりとした口調で言った。燭台の炎が促されるように流れ、壁に映った二つの影が揺らぐ。いくつかの灯りが置かれているためにそれは幾重にも広がり、美しい幻想絵の世界を展開している。ただ、それを眺めるゆとりなどなかった。

「はるばるこうしてお越し頂けるなどと……父から話を聞いたときから夢心地でおりましたの」

「は……?」

 全く話は見えなかった。何が何だか分からない。何故、このようにいきなりやってくるんだ。これではまるで……まるで?

 

 多矢はハッとして、娘の身につけていた装束を見た。

 それは燭台の明かりに黄金色に輝いていたが、よくよく見れば、純白の寝着である。そのあと、自分のものも改めた。先ほどは何の気なしに身につけたので頓着しなかったが、これは……。

 その瞬間、まるで冷水を頭からかけられたように、強引に現実が戻ってきた。

 

 ……そうか、そうであったのか。

 

 夜が更けてもなお、暑さが身体に残るような地で、多矢の回りだけがしんしんと深く冷え込んでいった。指先が、ちりちりと痛い。冬の冷たい朝に、川の水に浸したときの感じだ。ぎちぎちと身体の関節が音を立てる。

 震える指でこれもまた純白の上掛けを掴む。そして、一気にそれを娘の前に投げつけた。

「……失せろっ!!」

 どこから、そんな大声が出たのか分からない。だが、全てを悟ってしまった多矢にとっては、そうするのが怒りを静める唯一の手段だった。

「なっ……何をなさいますっ! 如何致しましたか、多矢様っ……?」

 慌てて取り繕うとする娘の言葉にも耳を貸さなかった。そのまま、荒々しく立ち上がると、脱いでまとめてあった自分の衣を手にする。そして、わずかばかりの旅の荷も一緒に抱えた。

「村長様にお伝えするように。私はこのような話を聞いてはいない。こんな……人を辱めるような行為をなさるお人とは思わなかったのにっ……!」

 両の腕に衣と荷を抱えたまま、盗人のように表に飛び出す。後ろを振り返ることは二度となかった。

「どうしてっ!? 父の言っていたのと話が違いますっ! わたくしはっ、わたくしは多矢様の元に上がることに決まっているのでしょう? 正式に話が付いてると聞いていますっ……! だから――」

 気の流れに乗って、娘の叫びが追いかけてくる。それを振り払うように、必死で走った。

 


 厩の前まで来ると番の男を無理矢理たたき起こして支度させた。勝手の全く分かっていないその者は、慌てながらも手早く整えてくれた。いくらかの銭を渡す。眠りを妨げてしまったせめてもの罪滅ぼしだった。

「……ありがとう」

 それが。多矢が南峰の地で発した、最後の言葉だった。

 

*** *** ***


 身体はしとねに触れたあの瞬間に、崩れ落ちていきそうに疲労していたはずなのに。手綱を握った後は、もう無我夢中で暗い山道を走っていた。

 

 世話になった村長にいとまを告げるのが、当然の礼儀だったと思う。だが、どうしてそのようなことが出来よう。あの男は自分を欺いたのだ、年長者の落ち着きでまんまと多矢を丸め込もうとした。それを知ってしまった今、この怒りに燃えた心では何をしでかすか分からない。「乱心」と言う言葉があるが、今の自分に一番近いものに思えた。 

 どこから夜が明けて、どこからが一日の終わりか、それを考えるゆとりすらなかった。頭がガンガンと痛む。何より、今となっては揺るぎがたい事実が多矢を絶望に導いていた。

 

 父が……あの父が、自分を陥れたのだ。

 

 おかしいと思った。最初から気づくべきだったのだ。いきなり呼びつけられてまくしたれられ、気が動転してしまったが、よくよく考えれば分かることではないか。

「十五を五十と」――あの書状も、もしかしたら父が謀ったことなのかも知れない。そんなことをする人だとは到底信じられない。だがしかし、そうじゃなくてどうして起こり得ることだろう。

 確かに。

 何事もなく、いきなり南峰のあの里に行けと言われたら、さすがの多矢も父を疑っていたと思う。だからと言って、こんなやり方はあんまりではないか。

 今の多矢には、父の筋書きがありありと浮かんでくる。まるで思考回路が乗っ取られたかのように、父の立場になって考えれば、今回のことはあまりにも単純で分かりやすいことだったのだ。

 

 まずは。

 多矢にあの村長に対して、動かしようのない引け目を感じさせる。こちらに落ち度があるとすれば、普段なら頑なに断れるはずのことも出来なくなる。知らないうちに相手の出方に従うようになってしまうのだ。

 この縁談の話は、だいぶ前から内々に進んでいたのだろう。気が触れたように叫ぶ娘の声が告げていた。「家同士の間では話が付いている」――彼女は多矢の正妻として都に上がることになっていたのだ。

「北の集落」と「南峰の集落」……少し前だったら、そんな縁組みは考えも付かないことであった。だが今は違う。古い制度や格式には囚われることなく、皆自由になっている。それもこれも竜王様が異境の者を妻として迎えたという事実が大きいのだろう。

 多矢が属する「多の一族」は「北の集落」全体を統治する長たる者たちである。父としても新しい時代が来たのだと言うことを、次期長(おさ)が身をもって示すのが妥当だと見たのだろう。あの娘の父親とは旧知の仲だ。気心が知れている上に、裕福な土地柄で性格もおおらかである。異文化が交じり合うことで、更に海底国の結束が固まっていく。

 多矢にそれを言い含めても、黙って頷くはずもないと知っていた父は、このようにあざとい手段を用いた。昨晩のあの盛大な宴は、いわば婿を迎えるための歓迎の宴。さらに、娘が寝所にはべるのも婚儀を前にして先に身体だけの関係を持つ「足入れ婚」と呼ばれるものだ。
 そうなれば、あの村長が自分を引き留めようとした理由も見えてくる。婚の儀は三晩続けて男が女の元に通うことにより成立する。この縁組みを確実なものにするためには、多矢がしばらくこの地にとどまる必要があったのだ。もしかすると、仮祝言の支度までもしてあったのかも知れない。

 自分だけが知らないままに、全ては周到に準備されていたのだ。

 

 父の考えも分からないではない。どんなにか妻を娶り身を固めることを言われても、多矢は決して首を縦には振らなかったのだから。

 だが、どうして。こんな風に簡単に気持ちを切り替えられるのであろうか。

 

 ほんの1年前までは、自分は沙羅様と亜樹様の婚儀が整わなかったときのためにと、他の女子に縁づくことも許されなかった。決して、沙羅様に特別な感情があったわけではない。あちらは畏れ多くも竜王様の姫君。侍従の立場ではあまりに身分が釣り合わない。代々の竜王様の姫君が縁付く先と言ったら、ほとんど例外なく「西南の集落」であった。だが、今回に至っては、あちらとしても沙羅様を頂きたいとは思わないだろう。

 こうして、沙羅様がお幸せに過ごされているのは、とても喜ばしいことだ。多矢にとっても次の時代を支えるおふたりがいつまでも変わることなくいらっしゃることを願うばかりである。

 

 ……しかし、だからといって。どうして、すぐに自分にも妻を、と思えるだろう。

 都にいる若い者たちを見ていても思う。所帯を持ちたいと願うのは、ある一定の年齢まで。男なら20を過ぎた頃から、何となく生涯独身を匂わせるような者が増えてくるのだ。女子であっても、この地の者たちは15〜30歳くらいまでが子を身籠もるのが可能な年代になる。従って、いくら仲睦まじい恋人を持っていても、その者と夫婦として生きたいとまで思う年頃はやはり短い。

 元服を待たずに母が死に、その後は都に出て多感な時期をただがむしゃらに生きてしまった。そのためか二十歳を少し出ただけなのに、こんなに落ち着いてしまっている。自分は他の者たちよりも早く年老いていくのではないか、時々多矢はそう思ったりする。

 今更、見ず知らずの女子と所帯を持つなどとは、自分でも想像できなかった。

 

 寝の刻に。

 用意された寝所で、年若い美しい女子とふたりきりになっても、父が期待していたような変化は生まれなかった。今とは異なり、父の時代は親や親戚に言われるがままに夫婦となった。どちらかというとおっとりとして昔気質な多矢も、そんな状況に置かれれば、腹を決めるだろうと思ったのだろう。

 しかし――、多矢はあの瞬間、女子に対する欲望よりも、父に対する怒りの感情の方が上回ってしまっていた。あんなに堂々として素晴らしく見えた父。だが、その温厚な顔の下にある、このように邪悪な心はなんと説明したら良いのか。

 あの娘を拒絶することで、多矢は大きな決意をしていた。……父との決別である。

 何が起ころうともう構わない、もしも一族の長としての将来がなくなろうと、都での官僚としての地位がなくなろうと、知ったことではない。あの人のようには生きたくない。規律を重んじるばかりに、一番大切なものをなくしてどうするのだ。あんな風には自分を終わらせたくない。

 あまりの身の重さに身体が崩れ落ちそうになると、ようやく馬を止めてしばしの休息を取った。もちろん馬にはそれなりに餌や水を与え、気配りしてやる。

 

 決まった宿には休むこともなく、走り続ける。二つ目の夕刻には、早くも都の外れまで辿り着いた。

 

*** *** ***


 静まりかえったその地は、真夏だというのに夕刻の気の流れが涼しげだ。ほんの数日留守にしただけなのに、草原はますます青々として、丈も伸びたように見えた。

 小さな庵にはやはり静かに煙が上がっている。多矢は崩れ落ちそうになる身をかろうじて支え、そこまで急いだ。だが、部屋の中に人影はなかった。

 

「多杖……?」

 振り向くと、ただ気の流れだけが視界を埋め尽くす。わずかな時間を留守にするだけの居住まいなのに、それでも不安になった。

 遠く。草の影にちらちらと見え隠れする人影がある。それが誰なのか、多矢にはすぐに分かった。

「多杖っ……!!」

 気の流れに乗って、伝わっていく我が叫びが、やがてあちらの耳に届く。ハッとして顔を上げた人が、信じられないように大きく目を見開いた。そして、こちらに駆け寄ってくるのと同時に、多矢も走り出していた。今まで地に引きずりながらの歩みだったのに、そこまで出来る自分が信じられなかった。

「多杖っ……、多杖っ、今帰ったよ。ああ、会いたかったっ!」

 別れの日の抱擁は、お互いにたどたどしさを残していたような気がする。だが、今の多矢にはもうためらいなど微塵もなかった。自分に残る全ての力を込めて、か細い身体を強く抱きしめていた。しっとりとした銀糸が指に絡みつく。彼のあまりに荒々しい行為に、頼りないそれは辺り一面に舞い散っていった。

「多杖っ! ああ、多杖っ……!」

 聞こえるのは草原を過ぎていく気の流れのかすかな音。そして自分が愛おしい人を呼ぶ声。言葉を持たないこの人が、想いを返してくれることなどない。それでもしっかりと我が背に回った腕が、その想いを伝えてくれた。

 

 ああ、そうなのだ。この人も自分に会いたいと思ってくれていたのだ。

 そう思った瞬間に、最後の糸が切れた。ふうと、目の前がいきなり闇になる。そのまま多矢は大地にずるずると崩れ落ちて行った。

 

*** *** ***


 次に目を覚ましたとき。

 彼の視界に最初に映ったのは、葺(ふ)いた茅が剥き出しになった庵の天井だった。渡された梁から、様々な生活雑貨や染料用の植物、そして加工用の麻糸などが下がっている。

 

 こちらのかすかな気配に気づいて、すぐに小さな足音が近づいてきた。多矢は独り寝のささやかな寝台の上に横たえられている。この部屋が誰のものなのかは、かすかに香る染め粉の匂いですぐに見当が付いた。

「私……は……?」

 ぷっつりと、ある時間からの記憶が途切れていた。あの草原でこの少女を見つけてこの胸にかき抱いたまでは覚えている。だが、その先は何もない闇が広がっていた。

 多杖は心配そうな瞳でこちらを見つめている。その眼が赤く潤んでいることに胸を痛めた。どんなにか心配を掛けたのであろう。いきなり、あんなぼろぼろにやつれきった姿で戻り倒れたら、並の心臓だったら耐えきれないじゃないか。

 彼女は、どうして言葉を伝えたらいいのか、しばし悩んでいた様子だった。やがていつもしているように、ゆっくりと多矢の手を取ると、そこに指で綴った。

『おもどり はやくて おどろきました』

 そこでいったん手を置くと、こちらの顔色をうかがってきた。額に手を当てて、目の色を確かめる。小さな手のひらが滑らかに頬を撫でてくれるだけで、満ち足りた幸せな気分になる。ふと見ると、あの旅先での衣とは別のものを着せられている。不思議に思って問うと、多杖は白い頬を少しだけ赤くした。

『のびさま きていただきました』

 多杖が自ら着替えをしたのかと、一瞬考えた。それが伝わったのだろう、慌てて彼女はそう教えてくれた。

 

 いくつかのやりとりで、自分の意識がない間のことが見えてきた。

 

 あんな草原の真ん中で大の男が倒れてしまっては、小さな身体の多杖にはどうすることも出来なかった。仕方なく、誰かを呼びに行こうと少し歩くと、あちらから人影が見える。厩から知らせを受けて、多矢を探しに来た埜火(ノビ)であった。

 実はこのときまで、ふたりには交流がなかった。それどころか、埜火は御館で聞き及んだ噂を素直に信じ、多杖のことを気味悪がって、決して東の果ての草原には近づかなかった。また、多杖の方も自分を嫌っていると分かっている人間には頑なに心を閉ざしてしまう。だが、この大事にあって、お互いそんなことは言っておれなくなった。

 多矢の姿を一目見た埜火は、青ざめてその場にうずくまってしまったという。呻くような泣き声を上げて、多杖はしばらくの間、声を掛けることもためらってしまった。やがて、これほど憔悴しきっていてはあまり動かさない方がいいだろうと言うことになり、小さなふたりが大男である多矢を必死で運んだらしい。その後、寮に戻った埜火が多矢の着替えを一式整えてくれた。

 

『みっか たちました』

 多杖の表情に、はっきりと安堵の色が伺える。埜火のはからいで薬師(くすし)も来てくれ、大事ないと診断されたがそれでも不安だったのだろう。彼女は七輪から鉄製の土瓶を取ると、器の中に注いだ。そして、それをそのままこちらに差し出してくる。

 湯気の上がったそこから、ぷうんと鼻を突く匂いがする。気付け薬だとすぐに分かった。

 それだけではない。あまりに後先を考えずに進んだので、体中に無数の傷や打ち身が出来ていた。そこのいくつかは十分な手当が出来ないままに化膿して、熱を帯びている。それも彼を床から上がらせてくれない原因だった。

 

「少し……休みたいな」

 そう言って器を差し出すと、多杖はにっこり笑って応じた。いくらかの眠り薬も混入されているのだろう。心地よい眠りが、しばし多矢を覆い尽くしていた。

続く(021203)

 

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