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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 7 …

 

 

「ご立腹、と言うよりは……たいそうお困りになっているご様子で」

 その日の午後、色々な食材や薬を手にやってきた埜火(ノビ)は多矢(タヤ)にそう説明した。

 

 荒れ狂ったように馬を走らせながら、決別を誓った。あの想いは今も変わらない。だが……やはりすっぱりと全てを切り捨てられないのが、親子の情というものなのか。

 自分の中にかすかな安堵の気持ちがあることに気づいて、多矢は表に出さぬようにため息をついた。

 

「でも、本当に良かった。オレ、多杖さんが伝えに来てくれて、もう嬉しくて嬉しくて……」

 取るもとりあえず、ここに来たと言う感じなのだろう。お務めに出たままの衣装が乱れている。この男が自分のことをとても心配してくれていたのだということを、多杖からも聞いていた。

 

 あの娘は、相手の気持ちを汲むのが上手い。だから、すぐに連絡をしなくてはならない相手なのが誰なのかもきちんと分かっていたのだ。埜火がいる場所まで足を運んだのなら、たくさんの人目に付いたことであろう。東の果ての庵に住む異なる者を見て、御館の者たちがどんな目をしたか、想像に容易い。きっといつも父がそうするような、見る者を凍り付かせる瞳……。

 どんなにか辛い思いをしたであろう。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。多杖がひとつも愚痴をこぼさないと分かっているからこそ、胸が痛んだ。

 

 目の前にいる少年も、こらえても溢れてくる涙を拭いながら無事を喜んでくれていた。

「傷の回復も、ことのほか宜しい様子。この分なら、10日も待たずに御出仕なされるかと……皆様お待ちになっておられますよ」

「ああ……そうか」

 

 ぼんやりと頭を巡らせてみたが、全てが遠い出来事のように思えてならない。あんなに心を砕いていたお務めのあれこれも、思い浮かんでこないのだ。それくらい、大きな衝撃だった。今までの自分が歩んできた道の全てが崩れ去るほどに、父の裏切りは大きかった。

 

「――埜火」
 多矢はいくらかの沈黙のあと、思い切ってそう名を呼んだ。

「はい、何でしょうか?」

 今の彼にとっては、何をもっても嬉しいらしい。受け答えの声も弾んでいた。邪心のない、全てを信じ切っている者……そんな男のことを初めて会ったときからとても羨ましいと思っていた。こんな風に素直に自分を出していけたら、楽だろうに。その方法すら、多矢には思いつきもしない。

 

 しとねを握りしめている指が、痛いほど手のひらに食い込んでいる。血の滲むほどの緊張感が多矢の内側にあった。

 

「お前は……何か私に言わなくてはならないことがあるのではないか……?」

 

 大きく表に切り開かれた窓から、鮮やかな夏草の風景が見える。涼やかな水色の天に、浮かび上がる緑の波。

 その情景を背に、埜火はやがて静かに微笑んだ。

 

「多矢様は……オレたちにとってなくてはならない方です。都の王族の皆様にとっても、……一族の、集落の皆にとっても。とても、大切なお方なんです」

 どこまでも澄んだ綺麗な瞳が、揺れることもなく多矢に向かう。彼の中の真実に気づいて、それ以上は何も言えなくなった。

 

*** *** ***


 期待されているという空気を感じ取ることは容易かった。もしかすると愛されていると思うよりも。たくさんの羨望の眼差し。それだけはいつも多矢の周りにあった。

 いにしえの頃より竜王様にお仕えしてきた一族……主をもって生きることだけを、心ではなく身体を熱く流れる血潮が知っている。北の集落の長たる一族。多の全てをまとめる要のお役目を受け継ぐ。父はそれを自分が生まれ落ちたときにその目を見て決めたのだと聞いた。

 

 ――必ずや、一族の繁栄を導く光となるであろう。

 

 そんな身の覚えのない勝手な憶測をまとい、ここまで生きてきた。一族の長になりたいなどと思ったことは一度もない。そんな畏れ多い身分に就くよりも、心穏やかに暮らしていたかった。

 だが。母の胎内から出でて、初めての光を感じた瞬間に、将来の全てを決められてしまい身動きが取れなくなった。

 幼い頃は、それでも他の者と違う自分を不思議に思ったこともあったが、だんだんそれすらも曖昧になってきた。母を亡くしてしまったことで、最後の支えも消えた。頼る者もなく、ひたすらに残りの長い道のりを歩き通さなくてはならないのだと。


「多杖」――母の残した名を、どうして受け取らせたのだろうか。最初から、望んでいたのか。


 ことり、と音がする。

 ふっと意識が浮かび上がって目覚めると、視線の先に彼女はいた。湯気の立った膳を持ち、部屋に入ってくる。部屋、と言ってもここの庵は全てがひとつのがらんどうだ。多矢の横たわる寝台は一番奥まったところに置かれていた。でもそこから部屋の全てが見渡せ、娘の辿る歩みの全てが感じ取れる。

「食事が出来たの? ……起きようか」
 手を貸してくれようとしたのを断り、自らの力で起きあがる。徐々に身体に力が戻ってきたのが分かる。それもこれも多杖の献身的な介抱のお陰だ。

 膝の上に膳をしつらえてくれ、そのまま静かに部屋の片隅でこちらを伺っていた娘に訊ねる。

「機織りの……機械がないね。あれ、どこにやったの? ないと困るだろう」

 何気ない言葉のつもりだったのに、彼女は目に見えるくらいさああっと顔色を変えた。

『いらない から』

 静かに頭を振ると、唇の動きで語る。

 こちらの言葉は全て理解しているから、こうやって思いを伝える手段も徐々に身につけていた。ふたりきりの狭い部屋なら、支障がないほどに。そのせいだろうか、不自由としか言いようのない生活の中で、少しも滞りを感じなかった。

「……いらない? どうして。そんなことはないでしょう」

 そう思って見渡すと、以前ここを訪れていたときよりも部屋がさらにすっきりしている。もともともののない場所だったが、さらに閑散として、今ではまるで仮住まいの雰囲気だ。

 

「多杖……?」

 薄紫の瞳に、何かが映った気がした。それが何かを確認するには至らなかったが、突然不安になる。自分ひとりが取り残されるような、置き去りの寂しさが。

 彼女は何かを思いきったように、まっすぐにこちらに歩んできた。そして、静かに多矢の手を取る。ひんやりとしたその感触が、多杖の全てを示していた。

『はやく おげんきに』

 手のひらから離れた指先が震えている。かみしめる、桜色の唇。下を流れる命を感じさせないほどに真っ白に透き通った頬。でも、人はその外見だけが全てではない。この娘の持っているとても大きく深いものを多矢は知っていた。

「――何を聞いた?」

 

 不安だった、そう訊ねずにはいられなかった。あの日、ここを立つときに、確かに自分たちの心はひとつだった。お互いがお互いに大切なことを、確かに認識したと信じられた。

 だが――今は違う。

 こうして、どうしても会いたくて、会いたくて戻ってきた。絶望の淵にあって、このまま儚く逝ってしまうのではないかと思ったときに、一筋の光を求めていた。なのに、数日のうちに彼女だけが変わっている。そこに至るまでの理由は……多分、ひとつしかないだろう。

 案の定、彼女は静かに首を横に振った。何も知らない、と言う代わりに。だが、それがまやかしでしかないことを、多矢は気づいていた。

 

「多杖」

 元のように壁際まで下がろうとした娘を呼び止める。小さな背中がぴくりと反応した。振り向いた瞳に生気はない。

「こちらに、来なさい」

 知らず、命令調になっていた。どうにかして繋ぎ止めたい、そんな必死の思いが彼の言葉をきつくする。

 観念したように舞い戻ってきた白い手のひらを、しっかりと握って自分の方へ引き寄せた。いきなりのことに逃げることさえ忘れ、彼女はただただ震えていた。

「お前は……私の傍にいてくれるのだな? 決して、どこかに消えたりしないな?」

 そこまで言って、娘の顔を覗き込んだ。すでに人のものではないほど、白くなった輪郭はこれ以上の言葉を受け付けない気迫を感じさせた。

 だが、多矢としてもここまで来て引き返すことは出来ない。全てを失おうとしている人間の見せる凄みはこちらも一緒だった。

 

「お前を、私の妻にする。今すぐにとは言わない……だが、お前以外に人生を共にしようとする者はいない。私にはもう、お前しかいないのだ」

 

 父に裏切られた。一族の者も、集落の民も、誰もかもが父と同じ気持ちに違いない。自分は一族の「首」でしかないのだ。首から下は必要ない、ただ「多の一族の長」と言う印として必要なもの。かたちとして生きることを望まれるなら、甘んじようと決めた。それが、母のひとつだけの望みだったから。

 ――でも。

 これ以上、どうやって歩いたらいいのだ。道が見えない。誰かに支えてもらいたい、明るい場所に導いて欲しい。この暗闇の中で、唯一の光は……この娘だけだった。守ることで守られていた。支えることで支えられていた。ふたりでひとつの存在だったではないか。

 

「お前を得れば、私は頑張れる。だから、どうか受け入れておくれ……辛いこともあるだろうが、耐えておくれ」

 

 多杖は。しばし、息をするのも忘れ、多矢の姿に見入っていた。発する言葉を全て受け止め、熱くたぎる想いを感じ取り、やがてしっとりとしみこんでいく。それは確かな手応えだった。

 そんな震える姿を、多矢もしっかりと見つめていた。どんなにか恐ろしいであろう、自分を忌み嫌う者の中になど、好きこのんで入りたいと思う者はいない。ましてや、可哀想なくらい人慣れしていない娘なのだ。こんなことを急に言われても戸惑うだけだろう。

 確かに。あまり急ぐことは得策ではないだろう。多矢であっても、自分の中にある想いに気づいたのはつい最近のことなのだ。ゆっくりと育んでいけば、固く閉ざされた扉もやがては開く。だから、待つことも大切な手段なのだ。

 

 ――だが。

 どうして、待てるだろう。父の仕打ちはあまりにひどかった。今回はそれでも逃れることが出来たが、次はそうは行かないだろう。一度しくじれば、今度はもっと準備を整え、周りから固めた方策を講じるに違いない。いくら反旗を翻したとはいっても、父の前では多矢はあまりに非力だ。太刀打ちできる存在ではない。

 

 一族の首にならなろう。期待に応えるだけの働きはしたい。もちろん、次期竜王・亜樹様の側近としても立派にお務めを果たして見せる。だから、ひとつだけ、安息の場所を残して欲しい。

 多杖といる、ささやかな時間が何よりの慰めだった。

 今の状況を考えても、こんなに落ち着いていられるのはおかしいのだ。父に背き、南峰の権力者の顔に泥を塗るような行為をしでかした。何かのお咎めがないとも限らない。それなのに……この一間しかない小さな庵の中で、多杖とふたりだけの安らぎを感じていた。恐れることなどなにもない、ただゆっくりと漂えばよい。

 他の誰でも駄目なのだ。多杖でなければ。多杖だから、支えてくれる。この先、どんな困難が待ち受けていようとも、彼女が造り出す空間が受け入れてくれるなら、乗り越えていけそうな気がする。

 多杖だけが、……多杖こそが、ただひとつ残された砦だった。

 

 あまりにも静かな、沈黙が流れた。

 

 やがて。あまりに強い視線におののいたのか、多杖は静かに俯いた。そして、両の手を多矢に預けたまま、ゆっくりと頭を振った。

「……どうして」

 激しいやりとりの中、いつしか髪が解け、彼女の周りにきらきらと銀の帯が舞い上がった。

「私には、もうお前しかいなんだよっ! 分かっているだろう、父も一族の者も、皆が私の本当など知ろうともしない。所詮は側女(そばめ)の子だなどと陰口を叩かれぬよう、必死で今日までやってきた。だが……もう、無理だ。ひとりでは歩けない、もう一歩も進めないっ……お前がいなければ、私に明日はないのだよ。――それとも、そこまで私を嫌うのか? お前も他の皆と同じだというのか……!?」

 多杖の抵抗がふっと途切れた。もう一度、こちらに顔を上げる。大きく開かれた薄紫の輝きから、あふれ出るものが、堰を切ってやわらかな曲線を流れ落ちた。それは、つい数日前に、多矢のために流してくれたしずくとはまた違う輝きであった。

 

『だめ できない』

 薄い唇がかすかに空を切る。何度も何度もそう繰り返しながら、先ほどよりももっと激しく首を横に振った。

 

「どうしてっ!? お前はっ、私に死ねと言うのかっ! ……共に生きると生きるとは言えないのかっ……私など、お前には必要ないというのかっ、ええいっ、どうなんだっ!!」

 掴んでいた腕を解き、細い肩を両方から掴む。ぐらぐらと壊してしまうほどの勢いで揺らしても、多杖はついに首を縦に振ってはくれなかった。

「……何故……」

 途方に暮れた子供に戻ったように。多矢はなおもすがるような目で、娘を食い入るように見つめた。

「そのように、多の一族が恐いか。私が信じられないのか……私は、私はっ……っ!」

 

 彼女は、ただぽろぽろと涙をこぼしながら、そのほとばしる感情を言葉にする術もなく、小さく否定を繰り返す。多矢の身体は傷のためではない熱で火を噴き、このまま気が触れてしまうのではないかと思うほど混乱していた。

 多杖が抵抗するのは分かっていた。でも……誠意を尽くせば、やがては受け入れてくれると信じていたのに。何故、ここまで突き放すのか。

 

 


 そして、彼女は――やがて静かに戻った呼吸で、多矢を見つめた。何かを決意した、しっかりとした瞳で。

 

『おにが いる』

 

「え……?」

 今までの混乱が嘘のように、ふたりの間に静かな空間が戻っていた。多矢が思わず聞き返すと、彼女はなおも繰り返す。

 

『わたしに おにが いる。だから だめ』

 憐れみすら浮かぶ眼。あどけないばかりだと思っていた面差しが、その瞬間、急に大人びて遠く見える。

 次の言葉が浮かばぬままに――多矢は彼女のたどたどしい唇の動きがもたらした言葉を、自分の中で繰り返していた。

続く(031213)

 

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