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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 8 …

 

 

 ――自らの中に「鬼」がいるなどと告げる。

 

 確かに他の民とは大きく姿形が異なり、「あやしの者」とすら呼ばれる一族の末裔。ただひとりの生き残り。体温を感じさせない肌や滑らかな輝きを放つ髪に触れれば、そのままどこか遠い世界に飛ばされてしまいそうな気がする……そう囁かれるのも致し方ないかも知れぬ。

 だが、それこそが心ない人々の創り出した事実無根の戯れ言に過ぎない。真の姿を歪められてしまった多杖の一族こそが被害者であったのではないだろうか。他の者たちとかけ離れた姿をしていると言っても、そこに何の違いがあるのか。ずっと世話してきた多矢(タヤ)は知っている。多杖(たえ)の美しすぎる姿のその奥に隠された、真実を。

 しかし、それを周囲の者に、一族の民に、確かなものを持って知らしめることは難しいであろう。

 そんなことは重々承知していた。だが、もはや手放すことなど出来ない。誰がなんと言おうが、多杖の存在しない自分の未来などはないのだ。ようやく保っている精神の安定の全てが、頼りないばかりの姿の娘に委ねられていた。

 もちろん多杖にとっては、今の自分の置かれた境遇は必ずしも最良のものではないのだろう。知る人もない頼れれる者もいない異郷に連れてこられ、そこに住む者たちには忌み嫌われる。姿を見せれば、おぞましい奇異のものを見る視線を投げかけられ、自分にも分かる言葉で罵倒される。さらに自分の知らない場所でもそれが行われていることが容易に想像できる。

 

 こんな暮らしの中で、自らの中に「鬼」を感じ取るまでに思い詰めてしまうのも当然だ。

 ――父が言ったように……あの地にひとり置いてきたほうが、むしろ幸せだったかも知れない。少なくとも誰に疎んじられることもなく、静かに暮らしていくことが出来たのだ。己の身が蔑まれることなど生涯知ることもなく、心穏やかに。瞳には映すことの出来ない大きな袂に護られるはずだったその生き方を無理矢理変えてしまったのは多矢なのだ。

 

 この娘に、己を「鬼」と言わせているのは、もしや……自分。

 

 ひたひたと冷たいものが心に満ちてくる。それはやがて多矢をすっぽり覆い尽くす悲しみの色になった。しっかりと束縛していた多杖の腕が、するりと抜ける。

 ――こうして多杖を求めることが、この痛みを呼び起こすのだとしたら。否、それを持っても諦めきれない。やはり、何があってもこの娘を自分の側に置きたい……多矢の心は大きく波打って乱れた。

 

 澄んだ瞳がこちらを見つめている。まだこの先、話が続くのかと不安に思っているのだろうか。ふたりの間に起こった軋みは、ささやかな空間すらも歪ませていく。こんなところで堂々巡りの話をしていても仕方ないかも知れない。

 ならば。今、自分が求めるべきものは何なのか。

 

「今日は……だいぶ具合がいいようだ。手を貸してくれるか? 外の風に当たりたい」

 ややあって。多矢は今までの話をすっぱりと忘れたように言った。それを聞いた多杖の方も不思議そうな表情になる。もっと強引に話を進められると思っていたのだろうか。明らかに安堵した頬に、一抹の寂しさを感じた。

『だいじょうぶ ですか』

 床に足をつけ、寝台から腰を浮かそうとしたとき、身体がふらつく。多杖は自らの身体を杖にするように多矢の脇に回った。小さな身体が脇の下に入り込む。大柄な多矢であったが、こうして身体を比べると改めて彼女の儚さを知る。

 

*** *** ***


「おお……いい天気だな」

 戸口からゆっくりと出でて、空を仰ぎ見た。東の果てのこの地は、気が薄いためか、天の色が竜王様の御館周辺よりも澄み渡って感じられる。腕を伸ばせば、そのまま水色の中にとっぷりと浸せそうな気がするほどに。透明な色が、それでもいくらか色づいて、夏の盛りを告げていた。

 

 さらさらと気の流れに揺れる草原。鳥たちのさえずり。

 ちいちいとひときわ大きく聞こえるのが、いつか多杖が教えてくれた鳥の巣だろう。上の方で、親鳥とおぼしき二羽が大きく旋回している。親と言っても、てのひらに容易く握れるほどの小さな存在。くちばしで、枯れ枝や木の蔓を一本一本くわえてきて巣を作り、また雛にもついばめるだけの少しばかりの餌を幾度となく運ぶ。

 普段はゆっくりと眺めることもない、そんな姿を多矢はとても珍しいもののように見つめた。

「……降りてこないね。私たちがいて、怖いのだろうか?」

 ずっと立ちつくしているには身体が辛い。多杖がすぐに座りやすいように台を用意してくれた。その上に腰を下ろす。視界が低くなると、密集して生えている草の間から、薄茶の固まりがうごめいているのが見え隠れした。

『いいえ まってるだけ』

 気づくと多杖も隣に腰掛けていた。少し緊張が解けたのだろうか。かすかな微笑みを頬に浮かべている。薄紫の瞳が、天を見つめた。

 銀の流れが辿る先は、いつもと変わらぬ装束。巫女の衣装など身につけぬともいいのにと何度も言ってはみたが、とうとう改まる気配もない。こんな目立つようにしているから、尚更人目に付くのは分かっているはずなのに。何故、ここまでこだわるのか。

「待ってる……?」

 いつでも、謎解きのように短い言葉を投げかけてくる。多杖の伝えることを知りたくて聞き返したとき、ひときわ大きな鳴き声が天に響き渡った。

 

 そのとき。

 ばさばさっと、鼓膜に聞こえてきた音があった。最初は小さく、だんだん激しく。何かを願うように、祈るように。ちちち、ちちち、と会話する声。

「あっ……」

 多矢はかすれる声で叫んだ。

 薄茶の羽ばたきが草のつんと伸びた葉先から、ついっと浮かび上がったのだ。ちょうど流れてきた気に乗るように、斜め上に少し浮き上がり、やがて力尽きて緑の海に落ちた。そのすぐあとを、親鳥たちが追っていく。薄茶の固まりがふたつ、草原の中に沈んでいった。耳をすませてみると。手の届かないずっと向こうで、複数のさえずりが絶えず聞こえる。

「飛び立つ練習をしてるのか?」

 多杖の方を向いて、そう訊ねる。彼女も嬉しそうに頷いた。

 

 木の枝に巣を作るものと比べ、天敵の危険の多い草原の鳥たちは巣立ちが早い。ついこの間、孵った雛もあっという間に親鳥と見まがうほど上手に天を行き来するようになると聞いている。自立が早いたとえに使われるほどだ。だが、こうして目で見て確認するとその驚きは大きい。

 柔らかい瞳で草原の向こうを眺める多杖のほうがよほどこんな自然の摂理を心得ているように思える。生まれ故郷で暮らしていた頃はそれでも野遊びなどをして楽しんだが、都に移ってからは大人と書物に埋もれて、あっという間に頭だけの人に成り下がってしまった。

 必死に羽ばたく練習をする雛鳥。それをせっつくこともなく、かといって突き放すこともなく、少し離れたところから見守る親鳥。その姿に忘れかけていた当たり前のやりとりを思い出す。大切なのは、自分の期待を願いをと、押しつけることではない。信頼しあい、慈しみあってこそ、育まれるものがある。

 

 全てが手本通りに行くことなんてあり得ないのだ。何故それを忘れてしまうのだろう。

 

「……突然、難しい話をして驚かせてしまったね」
 視線は目の前に広がる風景に預けたまま。意識して娘の方を見ないようにして、多矢は静かに言った。

 多杖の瞳がこちらに向かうのを頬に感じながら、それでもその顔は覗かなかった。

「心の乱れることばかりが続いて、私もどうかしていたようだ。……お前の気持ちも考えずに、すまなかった」

 

 思えば、娘がこんな風に戸惑うのも無理のない話なのだ。

 今まで色めいたことなどひとつも告げたことがなく、言うなれば主とそれに仕える者のような関係であった。ものを教えることも多かったから、師と弟子であることもあっただろう。こちらが一段高いところから言葉を述べ、多杖はそれに従うのが常だった。多杖により平穏を得ていたのは事実だったが、それであっても立場は対等ではなかったのだ。

 こんな風に怯えさせてはならないのだ。もっと、内側から湧き立つように……お互いがお互いを必要と出来るようにまでならないと。もう、自分の気持ちははっきりしている。だから、あとは多杖の心を待たなくては。

 

「お前は、……私が嫌いか。こうして傍にいるだけでも厭うか」

 小さな抵抗が、気を通じて伝わってくる。こくり、と息を呑むかすかな音。視線を送らないから、その造作の全ては見えない。だが、誰よりも大切なかけがえのない存在なのだ。揺れ動く微動だけでも、表情までも思い描くことが出来る気がした。

「私は……お前とこうしているときが一番安らぐ。許されることならば、何もかも忘れてあのつがいの鳥のように生きてみたいものだ」

 片手でひねり潰せるほどの心許ない存在に、たくさんのことを教えられた気がする。一度に全てを手に入れなくても良い。お互いにお互いを思いやり、模索してゆけばよい。

 ……急いではならないのだ。

 

「……っ!」

 一瞬、銀の一房が、視界に流れ込んできた気がした。

 ふわりと、にわかに右腕が暖かくなる。小さな震えを伴って、多杖がこちらに寄り添って来たのだ。音になる言葉を持たない娘は、こちらを向いてくれない多矢に対して、どうしていいのか分からなかったのだろう。しっかり巻き付いた細腕から、確かに皮膚の下を流れる血潮のたぎりを感じた。

 俯いたまま大きく震える肩。そっと手を添えて、抱き寄せる。わずかなぬくもり、今はそれだけでいい。

 

 そのまま夕暮れの涼やかな気が満ちてくるまで、ふたりで寄り添ったまま草原に面していた。お互いがお互いの色に染まってしまうほど、それは長い時間だった。

 

*** *** ***


 ふっと、意識が身体に戻った気がした。

 気づかぬうちに、うたた寝をしていたらしい。開いた瞼の向こうに、赤く染まった風景が広がっていた。二度三度と瞬きをしてから、傍らのぬくもりを確かめる。びっちりと生えそろった銀のまつげがしっかりと閉じ、娘は静かに寝息を立てていた。

「……多杖?」

 軽く揺り起こしてみたが、目覚める気配もない。このように無防備な姿を見せられたのは初めてだったので、覚えず胸が高鳴った。これほど心を許してくれたのかと一瞬嬉しくなったが、すぐに思い直す。そうではあるまい、こんなに早く全てが上手くいくはずもないのだから。

 まあ……無理もないことだ。自分がここで倒れてから、ほとんど寝ずの看病をしてくれていたのだから。それほど体力があるわけでもない、ただ心だけを気丈にして来たのだろう。

「すまなかったね……無理ばかり言って。お前には辛いことばかりをさせてしまう」

 

 しっとりとそのぬくもりの全てが自分に寄り添っていることを何度も確認する。出来るだけ、身体を動かさぬように気を付けながら前屈みになり、娘の顔を覗いた。

 目を閉じていれば、ただの西の女子(おなご)に見えるのかと思っていたが、やはりそうではないらしい。どこがどうとは言えないが、やはり違う。触れるのを一瞬、躊躇してしまうほどの完成された美しさが浮かび上がる。

 

 ――神の使いであることを、見る人に知らしめるかのように。

 

 幾筋か顔に掛かっていた銀の髪をそっと払う。そして、ゆったりとかたちを保った桜色の微笑みに静かに口づけた。今は目覚めぬことを祈りながら。

 それが何を変えるものでもないと言うことは知っている。もしも、多杖がなくしたものを呼び覚ますことが出来たならと祈るのは、あまりにも遠く届くはずのない希望であった。

 

*** *** ***


 その朝。

 ここから直接出仕すると告げたとき、多杖の表情はにわかに固くなった。たぶん、具合が良くなれば元のように侍従の独身寮に戻ると思っていたのだろう。表だって追い返すようなことはしなかったが、控えめな仕草からでも望まない状況だと思っていることは分かっていた。

 

 無理を押して、馬を飛ばしたのが身体にことのほか堪えてしまったらしい。さらに薄い東の果ての気は、弱った身体にさわる。傷の治りも遅く、夜な夜なうなされることも多かった。

 ようやく床を上げることが出来たのは、倒れてから8つの夜を数えてからであった。以降も徐々に外気に身体を馴らし、薬師の言葉よりも遅れはしたが、半月ぶりに出仕することが可能になる。だが、そこまでの時間がむしろ短すぎるような気すらしていた。

 道具を手入れしたり、時間を気にすることなく野歩きしたり。時には川の仕掛けに入った魚をさばいたりした。自然と共存している民なら当然の暮らし。それは多矢にとって、知らないうちに過去の中に封印されていたものたちだったのだ。

 お務めなど、しばらく休んでくつろいでいると、なにやら遠いことのように思えてしまう。多杖とふたり、こんな風にずっと暮らしていられればいい、他に欲するものもない。
 目覚めたときに微笑む人がいる生活など、とうの昔に忘れていた。窓を開けるのも、覆い布を上げるのも、すべて自分でやるものだと思っていたのに。自分が思い違いをしているのに気が付かせてくれたのは、多杖だった。

 

 朝靄の向こう、振り向いた人。そのうつろな影が、だんだん実体を現してくる。そう……幸せな頃の記憶が蘇ってくる。ひとつひとつの出来事が積み重ねられ、いつか何かに縛られていた自分を解放していった。

 

 だが、これ以上休んではいられないだろう。埜火(ノビ)が連日ここまで押しかけては、御館の様子を告げてくる。亜樹様の周りを取り仕切る者がいないと、優秀な人材を集めたはずの政(まつりごと)も混乱していく。多矢の父・竜王様の侍従である多岐も今回の事については手出しをしていないらしい。

 それに……多矢にとってはひとつの大きな決心があったのだ。

 

「……今日は病み上がりだし、父上にお目に掛かってお詫び申し上げたら、早めに切り上げてくるから。夕餉の膳を期待しているよ」

 お務め用の装束を身につけるのを、たどたどしい手つきで手伝ってくれる。きちんと教えられた侍女などに比べれば心許ない感じだったが、多矢はそれに苛立つこともなく従った。そうしてくれながらも、娘はまだ浮かない表情をしている。

 まあ、仕方のないことだ。こうしてこの庵から直接出仕すると言うことが何を意味しているか、誰にでも分かるのだから。

 

 正式な婚の儀は三晩続けて男が女の元に通うことにより成立する。

 だが、そのほかにも男女の関係を公にする方法はこの地にいくつかあった。そのひとつが、床を共にした明くる朝、夜がすっかり明けてから女の家を出るというものだ。だから遊女小屋などでは、泊まりの客も世が明け切らぬうちに送り出すようになっている。日の光にさらされて、ふたりの関係が知らしめられると言うのだろう。

 よく言えば分かりやすい、でもあまりにも直接的で趣がないと言えばそこまでだ。庶民ならともかく、しかるべき地位のある者がすることではない。物笑いの種になっても仕方ないのだ。

 

 全てを良く心得ている多杖であったから、この多矢の行為が意図することを知らぬはずもない。まるで新婚の夫のような彼の言葉にも眉をひそめていた。あきらかにそれと分かる非難の色を、見て見ぬ振りするのも心苦しい。しかし、多矢はそれをあえてやり過ごした。

 

 きっちりと身繕いを終えて外に出る。心地よい日和だ。今日から自分は生まれ変わる。誰にも分からぬほどの変化だとしても、明らかに。

 ゆっくりと振り返ると、見慣れた庵が静かに佇んでいた。

続く(040113)

 

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