秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 9 …

 

 

「随分と、大胆なことをしでかしてくれたものだな」

 侍従の控えの間に入った途端、呼び出しを食らった。もしかすると父は立腹して自分と会おうとしないかも知れぬと思ったが、それは杞憂というもの。部屋を訪れて、一瞬伺った表情は驚くほど穏やかだった。半月もの不義理を詫びると、父は多くは語らず、ただぽつりと呟いた。

「多杖は私の妻です。父上の了承が得られずとも、事実は事実でありますので。それを曲げる気は毛頭ございません」

 この件に関しては、計算尽くのことである。毅然とした態度で臨もうと決めていた。父の承諾などよりも、まずは多杖の気持ちもこちらに向いてはいない。だが、こういう場合は標的ばかりを追っていても埒があかないのだ。

 ――この際、人の口を味方に付けよう。

 なかなか乱暴な方法である。多杖と自分とのことが、明らかな事実として都の民たちに浸透していけば、他の縁も付きにくいのではないだろうか。いくら、側女(そばめ)を何人も抱えられる身とはいえ、誰もが忌み嫌う「あやしの者」と並びたいと思う気丈な女子はいないだろう。

「……そうか」
 漆黒の瞳の奥に、何かが光る。霜を置いた眉の下の目を細め、父は多矢をまっすぐに見据えた。

「だが、それはあくまでも表面上のこと。あれとお前との間に誠の夫婦としての契りはないのであろう……?」

 多矢は思わず息を呑んだ。ここまで直接的に話を持ってこられるとは思ってもみなかったから。そんな若者の顔色の変化を、竜王の一の侍従としての父が見逃すわけはない。その口元が、真実を汲み取ってほころんでゆく。

「……何でっ……、そんなことをっ。父上とも思えぬお言葉、こちらには返答する理由がございません」
 自分の中に湧いてくる怒りの感情をそのまま言葉に乗せ、多矢はぷいと顔を背けた。

「お前は、あれを妻になど出来ぬ。……あれは、人ではないのだから」

 いとまを告げる言葉も見つからず、多矢は侍従長の部屋を飛び出していた。

 

*** *** ***


 そのような機会がなかったわけではない。あの狭い庵にふたりきりで過ごしているのだ。余計な寝具もなく、多矢という病人を自分の寝台に寝かせてしまえば、娘は長いすで休むしかなかった。もう少し広さがあれば、寝台を新たに一台運び込んでも良かった。だが、ここでそんな風にしては、それこそ足の踏み場もなくなる。
 若い男女が狭い空間で寝起きを共にする。それで間違いが起こらないほうが不思議なのだ。それにより多杖の気持ちが定まるのなら、と思ってしまう瞬間もあった。守りたい、大切にしたいと思う心が、何故か娘を壊してしまうことにすり替わる。

 だが――かろうじて、多矢はそれに耐えた。多杖が自分の妻になるときちんと心を決めてくれるまでは、直接的な交渉を持つことは避けようと思っていたのである。待つのは辛かった。共に過ごせば過ごすほど、想いは募る。娘の全てを手に入れることで、自分にとっての真の安らぎが手に入る。

 ……多杖だって、私を必要としてくれているのだ。

『わたしに おにが いる。だから だめ』

 そう言いながら、泣きじゃくる娘の真実を多矢はとっくに知っていた。もしも自分が彼女に「鬼などではない」という事実を伝えられたら、その時に受け入れてもらえるのではないだろうか。長い時間は掛かるかも知れない、でも積み重ねていくしかないのだ。ふたりの間の「壁」が取り払われたとき、望むべきものがこの腕に手に入る。

 多杖は心ない者たちの手で、故郷を大切な人たちを失った。幼い少女の身に降りかかった不幸はあまりに大きく残虐なものであった。
 そして、多矢自身も今や一族からは完全に孤立している。彼らの望むべきものと自分の求めるものがあまりに違う。どちらともを汲み取っていたら、永遠に真の安らぎは手に入らない。少し前まではそれでもいいと思っていた。自分の人生なんてそんなものだと。だが、今は違う。多杖と共に過ごす未来こそが何よりも必要だと感じていた。

 ――あれとお前との間に誠の夫婦としての契りはないのであろう……?

 父であっても、そんな辱めを受けるいわれはない。やはり「駒」としてしか扱われていないことを改めて悟った。父にとっては自分は一族の首……象徴でしかない。その務めを立派にこなせばそれで満足なんだろう。だったら、そうしてやる。そうしてみせる。だが、一番大切なものだけは譲れない。


 仰ぎ見た空がにわかに色を変えた。

 舞夕花の耕地を抜けると、肌で感じ取れるほど急激に気が薄くなる。それが自らの身体に負担になっているのは知っていた。体調の戻りが悪かったのも、静養する場所が不適切だったのだ。薄すぎる気は普通の人には合わない。薬師にもそれを指摘されたし、居住まいを改めるように再三に渡り忠告された。

 ……だが、耐えなければ。

 無理矢理、我が元に置くために連れてきてしまった娘が、その地でしか生きられぬと言うならば、自分の命を削ってもいい。永遠に続く幸福よりも、一時の安らぎが欲しかった。

 しばらく歩いて、ようやく東の果ての庵が見えたとき、その変化に気づいた。妙な胸騒ぎが湧き上がってくる。多矢は自分でも知らないうちに足を速めていた。

「……多杖っ……?」

 戸口から中を覗いたが、そこにかの人の姿はない。それどころか、いつもならうっすらと煙の上がっている裏のかまども冷え切っていた。

 

*** *** ***


「どうしたのだ、先ほどで話は済んだのではなかったのか……?」
 再びその部屋を訪れたとき、そこの主は意外そうに書物から顔を上げた。

「父上っ……! 多杖をっ、多杖をどこにやったのですっ! 信じられないっ、許せませんっ……どうしてっ!」

 自分が取り乱している。それが分かっていても止まらなかった。

 自分があそこを留守にしたほんの半日の間に、娘が消えていた。頼りない羽毛が風に乗りどこかに吹き飛ばされたように、存在をどこにも残さず。そんなことが出来る人物は一人しかいない。しかも、これが初めてではない。父は以前にも多矢に何の相談もないまま、多杖を遠くの地へ送っていたのだから。

「居場所を聞いて……どうするのかね?」
 父は椅子の向きを変えると、どこまでも穏やかに訊ねてきた。その落ち着きぶりが癇に障る。多矢はぎりりと唇を噛んだ。

「どうするって――、連れ戻しに行くのですっ! 決まってるでしょう? 父上でも許せませんっ、どうして多杖をそうして物のようにっ……、一個の感情を持った存在だと認めてくださらないのですかっ。そりゃ、彼女は言葉に不自由かも知れない、だがそれは本人のせいではない。大切な全てを引き裂かれた結果です――それを……」

 最初はやみくもに探しに出ようかと思った。頼りない娘の足で、数刻の間に歩める距離などたかが知れている。多矢の腕を持って馬を使い、そこら中を回ればどうにかなるかも知れない。

 だが、そんな風にして多杖を見つけても、また同じことを繰り返すだけではないか。いつ何時も離れず監視することなど不可能だ。自分が留守にした間に再びことが起こることも考えられる。だったら……父に自ら思い改めてもらうところから始めなければならないだろう。

 直接にぶつかることなど、出来る相手ではないと思っていた。だが、自分の中には今、強い心がある。父になど、負けない。母ひとり、幸せに出来なかった男に負けるわけはないのだ。守るのだ、何があっても。父よりももっと深い自分の想いを守り通すのだ。

 しかし。どんなに強いものを持って睨み付けたところで、父は少しも変わらなかった。それどころか瞳はこちらを憐れむように、穏やかな色を濃くしている。なんと言うことだろう、どこまで馬鹿にすれば済むのだ。

「あれは……お前の手に負えるものではない。悪いことは言わぬ、諦めるのだ。あれは私が手を下す前に、自らで自分の身の振りを考えていた」

 使いをやるまでもなかった。多矢を南峰の集落へと送り出したあと、多岐は自らの足で東の果ての庵に向かった。……全てを知る者として。今回の自分の策が実を結べば、息子は正妻と共にここに戻ってくることになる。その時に、あの娘がいては不都合なのだ。多岐とて、良心は痛んだ。だが、ここは皆の安泰のためだ。

 だが、そこで多岐が目にしたものは。

「あれは……静かに辺りを片づけていたよ。私に気づくと、静かに微笑んで、荷の運び出しをしたいから人を頼んでくれと伝えてきた。時間がない、と――」

「え……?」

 多矢にとって、それはあまりにも信じがたいことであった。南峰へ旅立ったあとと言ったら、多杖が自分に飾り帯を託してくれた時ではないか。あの瞬間こそ、多矢は彼女の気持ちがしっかり分かったと思った。自分をひとりの男として認めてくれていることを強く感じ取ったのだ。お互いの感情を自らの腕に託して、強く抱き合った熱さ。ひとつになった心。

「嘘ですっ……そんなっ。そんなはずは――」

 信じたくなかった、父は自分をまた陥れるために偽りを語っているのだと思った。多杖が、自分を捨てるはずなどない。こんなにも必要としているのに、もはや、彼女なしでは生きていく望みもないと言うのに。

 父・多岐はそのままゆっくりと多矢に背を向けた。そして、大きく開かれた窓の向こうを見つめる。夕暮れの紅く染まった輝きが、美しい竜王様の御庭を照らし出していた。

「風が、呼びに来たと言っていた。もうご存じだなんて、さすが多の長でいらっしゃる、と」

「風が……?」

 もちろん、その言葉を口に出来る娘ではない。父に対しては筆談を選んでいたのだろう。手を取って、そこに指で書いたとは思えない。そうしてくれるのは自分に対してだけだと信じたかった。

「何度も申したであろう。あれは人であって、人ではない。ただ人であればどうして一族が滅ぼされるまで迫害を受けるのだ……皆、恐れていたのだ。神に仕える一族を」

 薄く靄の掛かった、冷たい土地。夏が凍り付いてしまったそこは、とても人の住める地ではなかった。死人の群れをかき分けながら、温かなぬくもりの感じ取れないことを恐ろしいとさえ思っていた。多杖の故郷に対する多矢の認識は正直、そんなものであった。

 誰も、生き残ってはいなかった。皆でそのあとも村に入り捜索したが、出てくるのは無惨な最期を遂げた骸だけ。小さな娘の他に生存者は見つからなかった。

「風詠みの一族は……あやしの力を使い、誰にも見えないものを見る……誰にも知られたくない、未来の情景を。おごれる民が自らを省みることなく振る舞った結果に没落していくことも、今は豊かな大地がいずれは干上がってしまうことも。あの娘には全てが見えているのだ」

「人知れぬ……未来……?」

 天の色よりももっと透き通った瞳。人形のように白く、色を乗せなかった肌。穏やかに、感情をあらわにすることのなかった娘。言葉はなくても、ひとりで見るものがあったのだろうか。ならば……どうしてそれを告げてくれなかったのだ。どんなにか全てを辛く、抱え込んでいたのだろう。

 滅ぼされた多杖の一族についての詳しいことは、明らかにはされなかった。刃を向けた者たちを問いつめたところで、もう散った命は戻らない。だったら、無理に掘り起こすことなく、今は静かに弔おうと決着が付いたのだった。罪を問われる立場にあった者たちに異存はない。あのときの多矢たちの遠征はそんな風に終わった。

「私を責めたいなら、責めればよい。こちらにも非があるのは分かっておる。だが、私も人の親だ。お前はどう思おうが、私にとっては大切な息子。お前の母から託されたこの世にふたつとない存在なのだ。何があっても守らねばならない」

「どうして……」

 多矢の心は大きく波打ち、荒れ狂っていた。我が息子の保身のために、幼い少女を置き去りにしようとしたあの日の父。重く持ちきれないほどのものをひた隠し、露わにしようとしなかった娘。そして……彼女の本当を知ることもなく、ただ保護すればいいと思っていた自分。

 多杖は知っていたのか、自分の行く末を。それを知ってしまったから、姿を隠すことを選んだのか。一体、何を見たのだ、何を見て決めたのだ。

 ――自分を、捨てようと思ったのは何故なのだ……?

「お騒がせして……申し訳ございませんでした。また、明朝に上がります」

 身体よりも心が疲れていた。多杖がいなくなってしまった、もう遠く手の届かないところまで去ってしまった。それを思うと、心にくさびを打ち込まれたような重々しい気分になった。それを、多杖自身が選んだのだと知った今、もうすがるものも残ってはいなかった。

 

*** *** ***


 夜が明けるのも、暮れるのも。自分にとっては意味のないものに思われた。それでも辺りが明るくなれば、長年そうしてきたようにひとりで身支度を整え、御館に上がる。少し、時間を早めたのは道のりが長くなったからであった。

 戸口を出ると、そこには少し色を変えた草原が広がっていた。冷え切った地に、早くも秋風が訪れる。今年の夏は長かった。春過ぎから延々と続いた役所のあれこれがようやく全て片づいたとき、暦の上ではもう涼風を乗せる季節になっていた。

「鳥が……」
 言葉を受け止めてくれる人もいないのに、それでも呟いてしまう。あの日、ふたりで見守った空を、すっかり一人前になった雛鳥が飛び交う。巣立ちの時がそこまで来ていた。

 つがいの鳥たちが、ささやかな幸せを育んでいる間、多矢は主をなくした庵で静かに暮らしていた。出仕のある日は南所で亜樹様の元で過ごし、倒れる前と少しも変わらぬ姿でたくさんの侍従たちをまとめ、優れた采配を振るっていた。

 沙羅様は無事に姫君をご出産され、その肥立ちも健やかでいらっしゃる。今年の人事を無事にやり過ごしたことで、亜樹様にもしっかりとした評価がなされ、次代を担う者としての足がかりをしっかりと築かれた。そして、その御許には時期の侍従長となるであろうと囁かれる多矢が控えている。大仕事を終え、それに相応した貫禄を身に付けたと言われていた。

 ――多杖がいなくなって、三月が過ぎていた。

 あの日、別れの言葉も告げぬまま去っていったことを、彼女の答えにしなくてはならないのであろう。未来を見ることの出来る力を備え持った小さな娘が選んだことだ。それをあれこれ言ったところで始まらない。本当のところは分からない。でも……多杖は、きっとその「眼」で見たのだろう。自分たちの「未来」を。

 どこに流れ着いたのか、それを探すこともしなかった。ここに住み続けるのも、「待つ」という意味は持っていない。二度と戻らない、それは分かっていた。

 今でも思い出す。ここで、誠の夫婦のように過ごしたわずかな日々を。ひとつの鍋で煮込んだ粥をすすり、穏やかに晴れ上がった日には草を摘み、飽くことなく静かに暮れていく空を見ていた。

 透明な気の流れに、ゆっくりとたゆとう銀の髪。優しく招く指先、声もなく告げる言葉。穏やかな微笑み。包み込まれていた優しい風景。

 お務めに上がっているときはそれでも気が紛れる。だが、こうしてひとりで佇んでいるとどうしても物思いに耽ってしまう。あの時間が永遠に続くと信じていた、儚い希望を。

『たやさま……』

 幻が誰もいない草原に浮かび上がり、消えていく。もしも、繋ぎ止めるものがあったなら、彼女はここに留まってくれたのだろうか。自分の存在は、振り払って置き去りにする価値しかなかったのか。

「……多杖っ……!」

 最後にひとつだけ残ったのは、あの日託してくれた飾り帯だけだった。それを肌身離さず身に付け、失った人を想う。びっしりと編み込まれた銀の輝きは彼女の匂いも残さず、ただ届かない想いを知らされるだけだった。

 

*** *** ***


 秋の花が咲き乱れる頃に執り行われる百日の祝いの準備で、御館はまた騒がしくなっていた。一の姫様はお健やかに過ごされ、日を追うごとにしっかりとなさってくる。やわらかな命に守られた南所は満ち足りた幸せに包まれていた。

 

「こんなところにいたの?」

 昼の休憩でぼんやりと御庭に立ちつくしていると、背後から声を掛けられた。その主を間違えるわけもない。振り向けば、沙羅様がにこやかな微笑みを向けられていた。

「これは……、大丈夫ですか? そろそろ涼しくなって参りましたし、風がお体に障られたら……」

 産後は順調だと言っても、沙羅様はもともと半分「陸の人間」の血を引いたお人だ。大事にするに越したことはない。御母上の亡き沙緒様もお産で身体を弱らせたと聞いている。御父上である竜王様からも、重々に申しつかっていたことであった。

「まあ、そんな心配しないで。あまり御館に押し込められていたら、そのほうが気が滅入っちゃうわ……少し、先まで歩きましょうよ」

 明るくそう告げると、先に立って歩き出す。流れゆく薄茶の髪。この御方の周りはいつも温かなものが漂っている。まるで昔から変わらずそうであったように錯覚してしまうが、実は違う。愁いに満ちたいくつもの季節を越えて、再び勝ち取った今であった。
 愛する人の后となられたその落ち着いた装いは、全ての春をたたえているようであった。

 

「あなたの方こそ、身体の具合は如何なの? お顔の色も優れない様子ね」

 なだらかな丘の上に立ち、色づき始めた遠くの山を見る。何年経っても変わらない風景の中に、健やかにお育ちになったかつての姫君がいらっしゃる。お産みになった一の姫様も、沙羅様によく似た優しいお顔をなさっていた。

 沙羅様は少し小首をかしげると、こちらをのぞき見た。心まで見透かすような茶色の瞳。やわらかな曲線を描くまつげがその上で揺れた。

「……多矢に見せたいものがあって。人目に付くと良くないかと……ごめんなさいね、こんなところまで連れ出して」

 袂の下に隠し持っていたものを、ゆっくりとした手つきで取り出す。魔術のようなその仕草が、多矢の眼にはたとえようのない美しい舞の如く映った。

続く(040127)

 

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