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「これは……」 静かに目の前に広げられたものを見ても、多矢はしばらく言葉をなくしたままであった。それが彼女にとっては意外な反応だったのかも知れない。興味深そうにこちらをのぞき込み、幼子のように微笑んだ。 「今朝、届いたの。とても美しいでしょう……まるで霞の向こうの花園を見るようだわ。淡いのにちゃんとそこにある気がするんですもの、素晴らしいわ」 たっぷりとした巻きの反物は、しかし手に取ると驚くほど軽かった。良質の絹を使って丹念に織り込まれたその仕事ぶりが伺える。暮れゆく空の色を写し取ったような茜の色に、目をこらすとやっと分かるほどの花文様が浮かび上がる。全体に霞を書けたような微妙な色合いは、見たこともないような美しさであった。 手仕事は作り手の心映えが鮮やかに反映される。このような複雑な織り文様になれば、どうかすると気難しい近寄りがたい仕上がりになることも少なくない。どんなに熟練した職人であっても、その緊張感が織り目に表れてしまうのだ。 しかし、今目の前にある品はどうであろう。どこまでも穏やかな凪のような心地、見る者をそのまま優しく包み込む暖かさがあった。あるべきものをあるように受け止める、柔らかい心。 ――多杖、だ。 「きちんと頼んだわけではなかったのだけど、約束を覚えていてくれたのね。あちらに着いて、片づいたらすぐに取りかかってくれたらしいわ。それでも随分時間が掛かったでしょうね、……このような品で作った晴れ着をまとう姫は幸せよ」 言葉に出したわけでもないのに、こちらが思ったことをすぐにお分かりになったらしい。淡々と事実を語っていく口調に、何かを訴える響きが重なった。 「もう……いいんじゃないかしら?」 「は?」 「あなたは……もう十分に頑張ったと思うの。今年の政(まつりごと)が滞りなく済ませられたのも、多矢、あなたのお陰だわ。そりゃ、私も亜樹も、あなたにはずっと傍にいて欲しい。でもね、今のままのあなたじゃ駄目なの。だって……まるで死人のようなのだもの」 沙羅様は反物を多矢の手から静かに取ると、それをするすると丸めた。 「この子も、よ。いいの、このままで。私、出来ることなら皆が幸せであって欲しいの。誰かが沈んだままのは嫌。今まで、あなたのお父上の多岐にも、そしてあなたにも私はたくさんのものを与えて貰ったと思ってるの。だから、今度は私にも役に立たせて?」 「沙羅様……」 一体何を仰りたいのか。それがすぐにでも分かるような気もするし、とてつもなく難解な気もする。 もう自分に出来ることなどは何もない、そう思ったからこそ、こうしてこの地に留まることを選んだのではないか。求められないのに、無理を通すなど出来るわけもない。あの娘にはもう返しきれないほどの想いを与えて貰ってきた。自分の前から去りたいと言うなら、そうさせてやりたい。 ――たとえ、この身が引き裂かれようとも……。 「あのとき。私、本当に帰ってくる気はなかったのよ? 今でも口の悪い方々は、私が亜樹の気を引くために狂言的に陸に逃げたんだろうとか言うけれど……本当に、本当に二度と戻ってくる気はなかったのだから。戻れるわけないって、思っていたんだから」 そこまで仰ると、つうっと視線をそらす。瞳には遙か向こうの山脈が映る。西の方角……初めて、多矢が多杖と出会った地は、あの果てにあるのだろうか。 「あなたが……亜樹を励ましてくれたんでしょう? 全部聞いたわ、出来上がった薬を持って陸に上がる優れた侍従を選んでくれとおばば様から直接申しつかって、それで……誰にも告げる前にこっそりと打ち明けてくれたって。まさか、多岐の息子のあなたがそんなことをするなんて信じられなかったけど、感謝しているわ。今、私がここにいられるのは多矢のお陰なのね」 振り向いた彼女の目に、光るものがあった。
沙羅様は異郷の者である母君を持たれ、そのことだけでも周囲からいわれのない蔑みを受けていた。賢い方だったから、それに面と向かっていくようなことは決してなさらず、いつでも穏やかになさっていたが、やはり心中は相当にお悩みになっていたのだろう。とうとうお輿入れの直前になって、姿を隠されてしまった。陸に上がったと聞いたのは、姪である多奈がそう教えてくれたからだ。 海底の者は陸に上がれば長くは生きられない。陸の外気は自分たちには濃すぎるし、乾燥しすぎている。肌はすぐに水分が蒸発してしまい、体中に斑点が出来る。良くて数日生きながらえたところで、異形の者として捕らえられればそこまでだ。 だが……多矢はそうしなかった。亜樹様にそれを告げればどうなるか誰よりも良く承知していながら、あえて危ない道を選んだ。自分が行ったことは、姪の多奈が沙羅様を陸へ上がることを勧めたよりもずっと罪になることだろう。万が一の時には大変なことになる。西南の集落とは仲の悪い北の集落、それも長の息子の多矢が亜樹様をそそのかしたとなれば、反逆行為と見なされてしまうことは免れない。 もちろん、自分が行くという選択肢もあった。その方が竜王教育しか受けてなかった亜樹様よりは任が軽かっただろう。だが、そう出来なかったのには理由があった。 ――沙羅様は、私がなんと言ってもお戻りにはならない。 もしも、沙羅様が陸での生活を心から受け入れ、お幸せになるのならそれもいいだろう。だが、多矢は知っている、沙羅様のお心が誰に向いているか。どこでなら、この上なくお幸せになれるのか。いつでもお近くに控え、そのお姿もお心も余すことなく汲み取ってきた。沙羅様のことで、多矢に分からぬことなどなかった。 成功する確率がきわめて低いその賭けに出たのは……他の誰でもない、沙羅様のお幸せを一心に願った末のことであった。
あのころの永遠にも思えるほど長く感じた時間を走馬燈のように思い出したあと、多矢はしかし、静かに頭を振った。 「亜樹様とは違います。……私では、彼女を苦しめるばかりなのです。聞き分けのない幼子のように駄々をこねて、困らせることしか出来ない。あんな風に去っていったのも、私から逃れるためでしょう? ……守りたかったのに、誰よりも幸せにしたかったのにっ……!」 堪えようとしても、口惜しさを押しとどめることなど出来ない。頬を伝う後悔が、自分を責め立てる。もしもあんな風に強く望まなければ、多杖は自分の元を去ることなどなかったのに。選ばれなかったことが、全てだ。これほどまでに強く求めたのに、彼女は最後まで自分を拒んだ。 「申し訳……ございません」 「健やかに……いるのならそれでいいのです。これだけのものがお届けできるなら、この先いくらでも頼む者がありましょう。自分が食うに困らないほどの仕事なら出来るはずですし。もう、私が案じることなどございません」 傍にいて拒まれるなら、離れていて思い出してくれる方がいい。いつか同じ空を見上げながらお互いを懐かしめたなら、それでいいのだ。自分はこの地で朽ちていく、その哀れな姿など見せることもない。 「そうなの? ……本当に、それでいいの?」 ゆっくりと振り向く。長い薄茶のまつげの下にあるこぼれそうな大きな目がしっかりと多矢を見つめる。昼下がりの静かな流れにその髪は流れ、川面のような輝きをきらめかせた。 「ねえ、多矢。駄目よ、目をそらしちゃ。……あの子の声を聞いてみれば分かるわ。ほら、こんなに想いが溢れてる。これを聞いても、まだそんな風に知らんぷりが出来るの? あはたはそんな冷たい人じゃないはずよ」 彼女は反物を持って多矢の前に立つと、だらんと脇に垂らしたままの腕を取った。そして、花色の巻きの上に乗せる。指先から、伝わってくる無言の叫び。 「……ほら、聞こえるでしょう? まだ、そんな風に無表情を装えるのかしら。想い合っているふたりが、どうしてこんな風に離れて嘆きあわないとならないの? そんなのおかしい、間違っているわ」 ぼんやりと霞んでいく視界。震える指先が、聞こえるはずのない叫びを感じ取っていた。
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妻にしたいと言ったとき、彼女はそう言って泣きじゃくった。それまではこちらの言うことには全て大人しく従ってくれた人の最初の拒絶がそれだった。後にも先にもそれだけだった。 だから……もう無理強いはすまいと誓った。彼女を苦しめることなどどうして出来る。離れて暮らすことがお互いの幸せだと言うのなら、それを受け入れるしかない。なのに……どうして。 隙間のない織り目から、途切れ途切れに伝わってくる心。 『あいたい……おそばに いきたい……』 瑠璃色に霞む彼方にいる小さな背中が泣いている。あんなにもはっきりと拒絶しながらどういうことか。離れたから大切さが分かったというのか……いや、それはないだろう。お互いの存在を近くに感じ取れない距離にいたことはこれが最初ではない。長い時間会えない寂しさは、重々に承知していたはずだ。 ――私だって、会いたいのだ。決まっているだろう……! だが、この先、どうすればいいのだ。会えば必ず拒まれる。ふたりの未来などないと、はっきり言われてしまうだろう。かといって、再びこの地に連れてくるのもどうだろう。せっかく落ち着いてひとりの生活を楽しんでいるのに。煩わしい都の生活は彼女の身を削り続けるだけだ。ひとりでいた方がどんなにか気楽か。 調べれば容易いことであった。多杖は、多矢の父・多岐の手を借りて風の待つ地に舞い戻ったのだ。一族の仲間を皆刃に奪われ、たったひとりになって去った地へ、再び望んで戻っていく。 「風詠みがいてくれないと……必ず地が荒れるんですって。近郊の集落も数年来の不作に苦しんでいたらしいわ。始終山が荒れて、作物が実らない。多分、自分たちが滅ぼしたかの民の亡霊の仕業だと慌てて供養してみたけれど収まらないと訴えてきたわ。やはり……守る者がいないと駄目みたいね」 訊ねたわけでもないのに、沙羅様は穏やかな口調でそう告げた。都から出たことなどない姫君は遙か遠くの土地のことなど何も知らないはずだ。だが、察することは出来る。 竜王様が司るこの地には、まだまだ自分たちの知らない隠された事実がたくさんある。そのひとつひとつを受け入れて、共存していくことが将来の希望になる。多分、風詠みがどんなに必要な存在なのかということ――周りの里の民たちも今回身にしみて分かっただろう。多杖は受け入れられないまでも、二度と迫害を受けることはないはずだ。 ――だが、それでも。あの娘は耐えられるのか、ただひとりで人里離れた寂しい地で生きることを。いや、彼女なら大丈夫だ。都であれこれと言われながら身を小さくして生きるのと比べたら、どんなにか幸せなことだろう。あるものをあるがままに受け入れることができる娘だから、容易い。 ……耐えられないのは、むしろ自分の方だ。
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記憶にある道を登る足取りは重く、ずるずると引きずる音がとても遠くから聞こえてくる。こんなにも気が薄かったか、以前はもっと豊かな地であったはずなのに。 ――風詠みがいてくれないと……地が荒れるんですって。 そう仰った沙羅様の言葉は本当だったのだ。天の声を聞くというその民の存在が、西の果ての地を平穏に保っていた。均衡が破れたとき、災いは降りてくる。道を尋ねた下の村も飢えに苦しみ、民は皆痩せ衰えていた。 「だけど……もう大丈夫です。あちらに参るなら、祈り子様にこれを」 自分たちが明日食うものもないのに、わずかばかりの穀を差し出してくる。このことからも、どんなにか山の上の人が皆からあがめ奉られているか察することが出来た。そして……そうされながらも、やはり近くで世話をしたいなどと思う者はいないと言うことも。 ……まあ、無理はない。都で、亜樹様を護衛するために鍛え抜かれた多矢ですら、この薄すぎる気には身体をやられる。だとしたら、ただ人はどうにもならない。多分、山に分け入れば半日と保たないであろう。 ――しかし、やはり少し疲れが来ているな。 馬が嫌がって先に進まないので、先ほどの村に置いてきた。人よりも物言えぬ獣の方が、敏感に全てを感じ取る。これ以上先に行けば我が身が危険だと知っているのだ。ぶるぶると身震いがする。更に冷え込んできたようだ。指先や足の先からじんじんと痛みに似た感覚が立ち上ってきた。 どこまで登れば良いのだろう。時間の感覚すらなくなりかけている自分がいた。時折、ふっと気が遠のくことがある。しっかりしなければ、このまま行き倒れてしまう。
――と。 どこからだろう。細く澄んだ音色が聞こえる。鳥の声かと思うほど、それは美しかった。よどんだ気に押し流されるように辺りにたゆとう。……途切れ途切れの鈴の音がそれに重なる。 ……もしや。自分の身はすでに朽ち果て、その魂だけが天に昇ったのか。そう錯覚してしまうほど、幻想的だ。初めて聞くのに胸にしみいるほど懐かしかった。 導かれるままに藪に分け入っていく。疲労と冷えで、もう一歩も動けないと思った足が、羽を生やしたように軽やかに進む。やがて、藪が切れ、山の上の広々とした平原に出た。 今は昼過ぎなのか、夕暮れなのか。それとも夜明けなのか。記憶が混乱するほど、うっすらと白く染まる気の帯が辺りに漂う。細い糸のような草の間から、赤黒い穂が見える。細かい粒の実が固まって棒状に見えているのだ。草原の向こうにたなびく銀糸の流れがあった。 「あっ……!」 どうして、忘れよう。忘れることなど出来ない。銀光りする巫女装束、赤い袴。しゃらりしゃらりと音を立てる髪飾り。自分以外の気配に気づいた人影が、静かに振り向いた。薄い紫の瞳が見開かれ、その口元からこぼれ落ちる声。 「……たや、さま……!」 包み込まれる音色は初めてのもの。だけど、とっくの昔から心で聞いていた。ようやく辿り着いた、そう思ったとき、張りつめていた糸がぷつっと切れ、そのまま彼の身体は草原に沈み込んだ。
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身の回りを全て片づけ、表立たないようにだが、仕事の引き継ぎも全て済ませ、父の部屋を訪れたのは沙羅様とのことから半月後のことであった。 今回もまた、拒まれるのは必然と思っていた。それなのに、多矢の顔を見つめた漆黒の瞳に戸惑いはなく、どこまでも穏やかに揺れていた。 「私からは何も申すことはない。……お前ひとりの力でそれが出来るなら、気の済むようにすればよい。私も一族の長として、今のままの覇気のない息子を跡目に据えることは出来ないからな」 「一族をまとめる者など、他にいくらでもいるのだ。思い上がるのもたいがいにせよ、それはお前の手で処分するが良い」 鼻先に突きつけられたものを受け取り、中を改める。多矢の決心に満ちていた顔色がすっと変わった。 「……父上」 「お前は、やはり母にそっくりだ。一度言い出したら聞かぬ……それが愛おしく、そして口惜しいばかりだった。お前たちには敵わぬ」 それは竜王様から賜った宣旨……北の集落の次期長を多矢とすることを認めた文書であった。 続く(040209) |