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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 11 …

 

 

「多矢様……動けますか? もう少し先に庵があります、そこまで……」

 気が付けば、娘はもう目の前まで来ていた。不安げな戸惑いの色をその薄い色の瞳に浮かべながら、多矢の手を取る。しっとりとしたぬくもりがたまらなく懐かしかった。

「言葉が……戻ったのか?」
 しっかりと己が瞳に映るのは、すっかり見違えた姿であった。この他の者を寄せ付けない果ての地で、多杖は今までに見たこともないほど、鮮やかな頬の色とつややかな口元を取り戻していた。懐かしい髪の色も輝きを増している。靄の中でそれは一筋の光を感じ取るように、キラキラした流れになっていた。

 それを、感じ取ったとき。やはり駄目なのかだという絶望が大きなうねりとなり多矢の胸に押し寄せてきた。ここで生きることが、多杖の幸せ。だけど、自分はこの地では命を長らえることは不可能だ。かといって、かの地では多杖が今の自分と同様の苦しみを味わわなければならない。どこまでもどこまでも、重なり合うことのないふたりの道のり。

 ようやくこうして巡り会えたのに、何故喜びよりも上回る悲しみがあるのだ。

 

 ――お前は、あれを妻になど出来ぬ。……あれは、人ではないのだから。

 いつかの父の言葉が脳裏に蘇る。あのときは、頭に血が上っていたせいもあり、素直に聞き入れることなどなかった。だが、今になれば分かる。父は全てを知っていたのだ。多矢が自分の意を貫けば、やがてこのような苦しみと悲しみを味わうことになるのだと言うことを。

 

「元気に……なったな」

 柔らかく抱きかかえられて、ぬくもりの中で腕を伸ばす。だが、届かない。その頬に、肩に触れて、思い切り抱きしめたいと願っても、身体が言うことをきかないのだ。

「いいえ」
 しかし、多杖は静かに首を横に振った。ささやかなうねりが起こり、よどんだ気が揺らめく。銀の髪は流れにあまり遊ばれることもなく、すぐにさらさらと彼女の身体に落ち着いた。

「私はここで暮らしていくだけ、風の声を聞くだけ。……もう、それだけ」

 何かを必死で押しとどめている。心を隠して微笑むことなど容易いことだったはずの娘が、ひたひたと押し寄せる悲しみに包まれていた。

「庵に戻れば、気付けの薬があります。ここに登ってきてくださる近隣の村の方々に、差し上げるために用意してあるものなのですが……あれがあれば、多矢様も山を下りることが出来るはず」

 もう、こちらが起きあがることも出来ないと悟ったのだろう。彼女は多矢を静かに横たえると、身をひいた。

「ただいま、お持ちします」

 彼女が立ち上がろうとしたその刹那、多矢は最後の力を振り絞って、その細い腕を掴んだ。確かに血潮は前よりも豊かに流れているのかも知れない。だが、か細いままの、変わらぬ感触のそれを。

「待て、……待ってくれっ……!」

 ハッとして振り返るその瞳に、必死で訴えた。身体は、このまま地に沈んでいくように重いのに、どうしてもひとつだけ諦めきれないことがある。それを果たすことが出来たなら、もう……このままどうなってもいいのだ。必死で言葉を絞り出そうとする自分の唇がかさかさに乾ききっている。体中の水分が徐々に抜け落ちていくようなおぞましさ。でもそれを上回る安らかさ。

「教えて……欲しいのだ。何故、私を拒む。何故……あんな風に、何も告げずに去ったのだ。言葉の戻った今なら容易く言えるだろう。私のどこが至らなかったのか、教えておくれ?」

 出来ることなら何でもしようと思った。望むことなら、叶えてやろうと。一族の皆が拒んでも、諦めきれないと思った。それなのに、あの東の果ての庵でふたり静かに暮らし続けることがどうして出来なかったのか。きっと何か落ち度があったに違いない。何かが、足りなかったのだ。

「多矢様……」
 その声はぼんやりとしたこの地で、天から届いた一筋の光の帯のように、まっすぐに多矢の胸に落ちてくる。あの日に見せたのと同じ綺麗なしずくが、彼女の頬をあとからあとからこぼれ落ちていった。

「私は、鬼です。多矢様を食い殺してしまいますっ……! それを知っていて、どうしてお心に応えることなど出来ましょう。そんなことは出来ないっ……」
 そこまで告げると、もう自分を抑えることが出来なくなったのだろう。両の手で顔を覆うとその場に泣き崩れてしまった。

「あのまま、ずっとおそばにいたかった、離れたくなかった。……でもいつか、私の中で鬼が暴れ出して、必ずや多矢様を……、そんなのは嫌っ……!」

「そのような……そのような迷いごとを……」

 信じられなかった。鬼などいるわけがない。確かに多杖は他の民とは体のつくりも容姿も異なっているかも知れぬ。だが、その実は心映えの優れた素晴らしい女子ではないか。他の人々がいたずらに恐れ、勝手に作り上げた戯れ言を、どうして疑わないのだ。違うと何度も言ったじゃないか。

「迷いごとなどでは、ございませんっ……! あのときの討伐も、それが諍いの始まりだったのですから。私は、幾度となく見てきました。我が風詠みの民が鬼になるその時を。だから、誰よりも存じております、我が身に鬼が宿っていることなど――」

 悲しみの色が、ひたひたと辺りを染め上げる。山を登り始めたときから、この不思議な心地が漂っているのを感じ取っていた。気が、大地が、天の色が、この地の全てが嘆いている。

「やめろっ、やめるのだっ! もう、話すなっ……!」
 多矢は大きく頭を振ると、急に戻ってきた気力でがばっと起きあがった。事切れる最後に戻ってきたのではないかと思われるほどの力が、全身にみなぎっていた。

「鬼、鬼と申すなっ……! お前の中に鬼などいない。もしも、それをお前が鬼と呼んでも、私はそうは思わない。お前の中に棲むものが鬼であるわけない。もしもそれに食い殺されようとも、何の悔いがあるものか……!」

「多矢……さま?」

 余りの激しさに、娘は嘆きも忘れて面を上げた。ああ、やはり美しいと多矢は思う。希有の異形の者だから、美しいと思うのかと自分に問いかけたこともあった。一族が望むなら、与えられる者を妻に迎え、跡目を残すこともやむ終えないと諦めていた頃もあった。

 ……だけど。

 この娘でなければ駄目なのだ。何故かは分からない。ただ、この小さな銀の髪の娘との時間だけが、多矢を安らかにさせた。どこにも自分を心から受け入れてくれる者などないとヤケになった日々。その中で、ぽっかりと口を開いた空洞を静かに埋めてくれた、またとない存在だった。

「そんな……でも」

 しばらくの間。多杖は何かを告げようとして、でも、すぐに口をつぐむ、そんな行為を繰り返していた。彼女の中に、多矢にどうしても伝えたい言葉があり、でもそれを口にするのが出来ないらしい。言葉とはもどかしいものだ。溢れんばかりに心を満たしていても、まっすぐにそれを伝えるのが難しい。

「お前に食われるなら本望だ。どうなのだ、もしも本当に鬼なら、人を食えばその者の分長生きできるようになるのか? それもいいだろう、もう私には何も残っていない。一族の長の未来もない。ただ、お前への想いだけを手にしてここまで登ってきた。私の心を受け取ってくれるなら、喜んで鬼の餌となろう」

 ここへ辿り着くまでの道すがら、他の全ての感情を払い落としてきた。憎しみも悲しみもいつの間にかなくなって、自分がただ、愛おしい娘の元へひた走る一筋の矢になってしまったような気がしていた。この地に突き刺さり、思いを遂げれば、もう何も残らなくていい。

 都に戻ってくれとは言わない。妻になって欲しいなどとは望まない。ただ、この純粋に想う心だけ受け入れて欲しい。決して拒まないで欲しい。

 ――ひとことでいいのだ。その心に、自分を思う確かな愛情があるのなら、もう隠さないで欲しい。それが、何よりもの望みだ。

「庵まで、行きましょう。……手を貸しますから」

 気づけば辺りはすっかりと闇に包まれていた。日の落ちるのも他よりも早いのか。それだけ天がよどんでいると言うことなのか。裾野の方にチラチラと灯りが瞬いている。麓の村だ。

「……いいのか?」

 その瞳に、新しいものが浮かんでいるのを、多矢はしっかりと感じ取っていた。いきなりのことに戸惑いながらも、なんの恐れもなかった。そこに行くことで、自分が銀の鬼の餌食となろうが、そんなことはどうでもいい。それくらい、すがすがしい満ち足りた気持ちだった。

 

*** *** ***


 白い風景。だんだん色づいていく光の中。広がる草原を歩いていくひと組の男女があった。どちらも銀の髪をして、男の顔はよく見えない。だが、彼を愛おしそうに見上げる小柄な娘はとても多杖に似ていた。

 ……多杖の、両親? 神のように天からその姿を見つめている多矢はふとそんな風に思った。

 気づけば、彼らの周りに、数人の幼子たちがまとわりついてくる。皆銀の髪、ちらと覗いた瞳も薄紫。皆、風詠みの民だ。楽しそうに何かを語り合いながら、家路を急いでいる。両手いっぱいの染料と木の実。男が釣ってきたのだろうか、川魚。その鱗がきらりと光ったときに、その映像が不意に途切れた。


 ――光?

 うっすらと瞼を開く。ああ、朝が来たのか。だが、あまりに眩しい。こんなにくらむような光が満ちているなんて。まるで百も千もの燭台に包まれたようだ。何度も瞬きをしながら、ようやく目を慣らして辺りを確かめる。そうか、ここは昨日案内された庵。奥の寝台の上に彼はいた。

「多杖……?」
 傍らにいたはずのぬくもりを確かめようにも、その姿はない。慌てて起きあがると、掛けていた上掛けが落ち、何も身に付けてない上半身が朝の冷えた気に晒された。

「あ……、お目覚めになりましたか? 着替えの衣はこちらに」

 向こうの部屋から、一抱えほどの衣類を手に、彼女は入ってきた。すっかりと身支度を整え、髪も後ろでまとめて朝仕事の最中だったらしい。起きあがったままの姿でいる多矢を見ると、ぽっと頬を染めて視線をそらす。初々しいほどのその姿に笑みがこぼれ、更に少しばかりのいたずら心が湧いてきた。

「鬼など、おらぬではないか」

 昨夜、部屋を暗くするまで、多杖はごねていた。こちらがもう我慢ならないと分かっているのだろうに、何度も何度も繰り返す。角など生えていないじゃないか、爪もとがってないだろうと何度告げても、いやいやと首を振る。そうされても、もう自分を止める方法を多矢は知らなかった。

 崩れ落ちる小さな身体を抱き留めると、多杖は震える身体でしっとりと寄り添ってきた。そして消えそうな声で「お会いしたかった、とても」と告げてくれた。祝いの杯も餅もない。だが、その言葉だけで、多矢にはもう十分だった。

「お加減は……如何ですか?」

 娘は多矢の言葉には答えず、昨日と同じ香りのする薬湯の器を運んできた。透明な湯のように見えるが、甘酸っぱい香りがする。不思議なほど、身体が軽いことを感じ取りながら何気なくその水面を覗いたとき、多矢は思わず、あっと声を上げた。器を落としそうになり、かろうじてこらえる。だが、片手にそれを持ちかえると、恐る恐ると言った感じで、髪の一房をつまみ上げ、鼻先に引っ張った。

「これは……!?」

 慌てて顔を上げる。憐れみを含んだ瞳でこちらを不安げに見つめる人。そこに映るのはどこから見ても、風詠みの民の……男だった。

「だから、申し上げたでしょう。……がっかりされましたか?」
 多杖は静かな口調でそう言ったが、言葉の端が震えている。多矢の動揺が辛いらしい。

「風詠みの者と交われば、男も女も皆姿を変えてしまうのです。それが恐ろしいと、忌み嫌われた。果ては食われると言われるように。姿だけではありません……多矢様はもう、私と同じ者に変わってしまったのです。何か見えませんでしたか? 寝覚めは良く見るんですよ」

「……え……」
 何がどうしたんだか。混乱した頭で考えをまとめる。言われてみれば、昨日までの体の不調が嘘のようだ。西の地に入ってから気の薄さにずっと苦しめられてきた。よどんだ気もおどろおどろしく、まるで自分を追い返すように思えたが、今朝は祝福を受けているようにすら感じる。

「私は、見たんです。多矢様を南峰の地に送り出したその夜に。だから、もう、おそばにはいられないと思いました。だって、あんな風に鮮やかに浮かんできたのは初めてだったのですから。もしや、自分の願いがかたちとなってしまったのではないかと、恐ろしくなって……」

 多矢はハッと気づいた。もしや……それは先ほどの? では、あれは多杖の両親ではなくて自分たちの……。

「多矢様を変えてしまうことなど、私にはとても……異なる者へと望む者などいるはずもない、もしもそんな風になってしまったら、どんなにか後悔されるかと。だから、あれはあくまでも私自身の願いであって、未来を見たわけではないと思いこもうと決心しました。だから……もうあの庵にはいられなかったんです。きっと私はいつか、多矢様のお気持ちにすがってしまうから。苦しむ多矢様を見たくなかった――」

 まだ呆然としている、なりたての風詠みの男。多杖はその身体にそっと腕を回した。

「申し訳ございませんっ……、多矢様、私とこの地で生きて頂けますか? もう……都には戻れませんよ。あそこではきっと……」

 そのとき。胸にあたたかいものを抱きながら、多矢は不思議な感覚を覚えていた。「戻ってきた」と。そんなはずはないのに、こうしてこの小さな娘とここでこれから暮らしていくことが、最初から自分に決められた未来だった気がした。

 

 多杖が風に呼ばれたのなら……自分も呼ばれたのだろうか。風が、ここまで導いてくれたのだろうか。

 

「もっと、早くにこれを知っていたら。そうしたら、迷わなかったのに……どうして」

 多杖は知っていたのだ、そして父も。風詠みの民と関係を持つことでどんな変化が生まれるか、知っていたのだ。どうして教えてくれなかったのだろう、分かっていたら喜んでこの現実を受け入れていたのに。

「だめです、そんなの」
 しかし娘はしっかりした口調でそう言うと、静かに頭を振った。

「多矢様はお優しい方だから、きっと無理をしてでも私を助けようとして下さる。そんなのは嫌、そんな風に多矢様に辛い想いをさせるなど、私には出来ませんでした。……でも、やっぱり、お会いしたくて」

 もう、言葉はいらないと思った。何を言ってもぎこちない。

 たとえようのない気持ちを伝えるために、多矢はこれからずっと一緒に歩いていこうと決めたただひとりの人をしっかりと抱きしめた。

 

 奪うことではなかったのだ、ましてや追い求めるものでも。ただひとりの人を愛するために一番必要だったのは、全てを捨て去ること。そして、ただひとつの想いだけを抱いて、立ち向かうことだけだったのだ。

 守ってやろうと思っていた頃、そして守って欲しいと思っていた頃、心の均衡は乱れていた。

 

「どうして……風詠みが必要なんだろう……?」

 ふと浮かんだ疑問だった。天よりつかわされる神の声、風を聞くことが出来たからと言って、何が出来ることもない。これから訪れる悲しみや喜びが一足早く分かったからと言って、どうなるのだ。手をこまねいて見ているしかない。そんな気の狂いそうになる現実を何故与えられたのか。

 多杖とふたりなら、乗り越えていける。多杖の傍にいられるなら、何でもないことだ。だが、神の創られたこの非条理な立場はどうしたものか。

「そんなの、決まってます」
 そう言って、見上げた頬にもう涙はなかった。現実を現実として受け止める辛さは彼女も同じだったのだろう。淡い笑顔が、自分との未来を受け入れてくれたことを告げている。

「悲しみに暮れるとき、ひとりでは耐えられません。私たちは嘆き悲しむ人たちと一緒になって悲しむために存在するのです。一緒に泣いてくれる人がいれば、必ず救われるはずですから……」

 

 もしかしたら、と思う。風が自分をここに呼んでくれたのは、この先、多杖ひとりでは乗り越えられないような何かが待っているのではないか。――それでもいい、今は静かに、こうしてお互いを感じていれば。

 

 ……いつか、再び風になる日まで。

了(040209)

 

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